私達の学校

                  

 「スイスからのメッセージ」の中の私の文章はもう5年も前に書いたものなので、HP用に手を加えた「改訂 子供達の学校」と、本とは別に「スイスからのメッセージ」後のことを書いた子供達の学校「あれ以後」、学校、教育について書きためていく予定の「親の学校」が入っています。

■ 子供達の学校 これは1997年に書かれたものです。これからあとのことは「あれ以後」と「親の学校」の方に書いていきます。)

( 「スイスからのメッセージ」が増刷されることになりました。ここに載っているのは本の一部です)

● 学校生活

 学校での宗教

 生徒の国籍、言葉はいろいろ

 学校での言葉に対する関心と処置

● 「いじめは?」:次男の学校生活

 クラスと教師、いじめの環境

 足の怪我

 プールでの意地悪

 立ち直り

 代理教師

 

■ 子供達の学校「あれ以後」  

次男の歩んで来た道は平らではありませんでした。泣いたり、考えたり、喜んだりしながら今日まで来ました。責任感のない小学校の教師のその後、中学での問題、高校進学などをここに書きとめていくことが次男の苦労に報える一手段と考えています。

● 小学校

責任感の無い教師(1)

責任感の無い教師(2)

立ちあがった親達

●  中学校

中学の透過性と柔軟性

山村からの生徒たち

次男のクラス

■ 親の学校 工事中

「親になることは簡単だが、親であることは難しい」と言います。4人の子供の親としていろいろなことが学べたと思っています。ドイツからスイスフランス語圏の北東の端っこへ引っ越してきたことで言葉、バイリンガルと深い係わり合いを持ちました。「スイスからのメッセージ」に文章を書いてからもう5年経ち、5年×4人分の経験が増えました。フライブルクの教育制度も変わってきています。これらのことをだんだんに書き溜めていきたいと思います。

 

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子供達の学校

           

● 学校生活

学校での宗教

学校の授業の中に、聖書と宗教の時間があります。

聖書の時間は担任が担当し、その内容は道徳に相当します。宗教の時間は教会が受け持ち、教会から人が来て授業をします。

子どもたちの行っている公立の学校では、宗教の時間はカトリックだけです。カトリック以外の子どもたちは、この時間は自由時間となるので、だいたい午後の最後の時間がこの宗教の時間になっています。 ここでは、聖書の内容が教えられ、教会で歌う歌を覚え、カトリックの子どもたちが祝う最初の受賢の式や、コムニオンの準備もします。教会での日曜学校の授業が、学校の時間割の中に入っているようなものです。

我が家は無宗教ですが、ヨーロッパの文化の土台を築いているキリスト教を知ること、宗教を持つなら一番身近な宗教をとるのが自然なので、おそらく子どもたちにとってはキリスト教になるだろうという理由で、この宗教の時間に参加させています。このことは教会から来る担当の人にも伝えてあるし、教区の神父さんも知っています。それで、カトリックの子どもたちが小学校の年代にする行事の準備も一緒にやらせてもらっています。懺悔に行く時も一緒に行って、懺悔はしませんが教会の人と話をして来ます。最初の受賢の式は、ここでは小学校の3年生の春に白い衣を着て十字架を下げて、女の子は花の冠を被って行われます。下の三人はこの時期をここで過ごしていますが、教会側の扱いは担当になった人によっていろいろで、ミサの手伝いをして行事に参加させてくれた人もいるし 、準備は一緒にやったけれどミサにはかかわらず、普通の参列者として教会へ行っただけのこともありました。

6年生の時のコムニオンは、一人前の信者として教会に参加することを祝う行事です。我が家の子どもたちには、これで宗教では一人前のところまで来たのだから、これ以後の宗教の時間への参加は好きなようにさせています。年上の子どもたちは、日本に行って、お寺や神社を見たり、お盆を経験したりしていて、ほかの宗教文化を見ているので、キリスト教もいろいろある宗教の一つと見ています。中学になってからは宗教の時間には誰も参加していません。高校では、教会が担当する宗教の時間はありませんが、小学校から高校まで一年に二度くらい学校のミサがあります。この時はカトリック以外の人の参加は自由です。家の子どもたちは小学校のうちは参加していましたが、中学以後は参加していないようです。

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生徒の国籍、言葉はいろいろ

通学圏に住んでいるドイツ語系の子どもは、家の子どもたちの行っている学校へ入ります。 ここフライブルクは、ドイツ語圏とフランス語圏の境なので、学校の生徒の言葉も変化に富んでいます。それに加えて、イタリア語系の人もいるし、ユーゴスラビア等の東欧圏からの人もいるし、国際結婚もあるしで、生徒の使う言葉はいろいろです。

次女のクラスをとってみれば、スイスドイツ語が母国語の子どもでも、住んでいるところはたいていフランス語を話す人が多いので、ほとんどがフランス語を少しは話せます。孤立した農家に住んでいる男の子と、ドイツから引っ越して来た子、孤立した農業学校の住宅に住んでいる女の子の三人が、あまり話せないだけです。

私たちは、フランス語を話す人が多数の地域に住んでいます。言葉以前に、近くの子どもたちと知り合うようにと、次男と次女は我が家のすぐ前にあるフランス語の幼稚園に一年間行かせました。クラスの中で両方を話せる子が、わからない時は教えてくれたようです。私と先生の間の会話も、ドイツ語のできるお母さんに手伝ってもらって、何とかこなしました。小学校からはドイツ語の学校に替わりました。

フライブルク市内は、フランス語を使う人が七割、ドイツ語を話す人が三割。市内を流れる川を境に、その北側からスイスドイツ語圏が広がります。市の北部のドイツ語を話す人たちが多い地域の小学校の子どもたちは、普段あまりフランス語と接触する機会がありません。

こういう状況下で、学校の教科として4年生からフランス語の学校はドイツ語が、ドイツ語の学校はフランス語が入って来ます。
学校では、標準ドイツ語を使うことになっていますが、低学年ではわからない子もいるので、スイスドイツ語が多く使われます。そうすると、それがわからない子がまたいるのです。父母会でも、スイス人以外の人はスイスドイツ語がわかりにくいので、「どのドイツ語で話しましょうか」とか、「標準ドイツ語で言ってください」、との会話が交わされます。 スイス人同士の会話になるとスイスドイツ語になりがちで、そうなると私など半分もわかりません。フランス語が母国語の親たちは、フランス語で個人の意見を交わしています。学校でも、フランス語を家で使っている子どもたちは、休み時間にはフランス語でおしゃべりをします。ほかの子どもたちがそれを聞いてドイツ語で口を入れたり、という言葉の環境です。

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学校での言葉に対する関心と処置

フライブルク市内の日常語はフランス語です。駅の名前も、フランス語でフリブール、としか書いてありません。フリブールの方がスイス内でも知られていて、フライブルクというと「ドイツのですか?」等と聞かれてしまいます。

こんな環境の中で、どの言葉の学校へ行くかの判断もいろいろです。

 <小学校>  家ではドイツ語を使って、村のフランス語の小学校へ子どもが行っている家では、村に中学がないので、フライブルクの中学へ行く時点でドイツ語の学校にしようか、と考えています。ドイツ語圏から引っ越して来た、父親がドイツ語で母親がフランス語だけの家庭では、最初の内はドイツ語の小学校へかよっていましたが、父親が留守になりがちの仕事をしているため、おかあさんがドイツ語では勉強をみてあげられないという理由で、3年生からフランス語の方に変わりました。

 <中学>  中学、高校では二か国語を使うことに対する関心を高める努力がなされ、それ相応の組織もできています。長女は中学の時一週間フランス語の中学へかよいました。ドイツ語とフランス語の中学の校長が話し合って、それぞれのクラス(進学クラスのみでしたが)から、毎週二人ずつ交換することにしたのです。家で二か国語を使っている子もいれば、よくわからない子もいます。わかる子が交換で来た子を助けたり、交換で行った時には、既に交換で来た子がクラスにいるのですぐに馴染めたりで、言葉がうまくなったというより、双方の理解に役立ったようです。また、中学を九年で卒業したのち、十年目を別の言葉の中学3年生へ行くこともできます。  

 <高校>  高校では他の言葉を勉強するのにいろいろな道があります。中学から高校へ入る時に、ドイツ語からフランス語の部門に変わった人もいます。高校の四年間のうちの、2年生か3年生の時に、一年間外国の学校へ行って言葉を勉強することがよくありますが、外国へ行く代わりに別の言葉の部門へ行くこともできます。高校四年間のうちの最後の二年を、フランス語からドイツ語に変えた人がいます。数年前からは、市内にある高校の一校に二か国語のクラスができました。ここでは、いくつかの学科はフランス語、別の学科はドイツ語を使います。今のところフライブルク州内でのみ有効ですが、高校卒業資格に二か国語、という付加をとることができます。

 <大学>  フライブルクの大学では、フランス語とドイツ語が使われます。法学部と経済学部では、ドイツ語だけで卒業することができます。フランス語だけでも勉強できます。教授も、フランス語の経済の席が空いたのがだれ某によって埋められた、などという記事が載り、言葉別の教授がいます。法学部では、定められた講義をとれば、卒業証明に二か国という付加がつきます。医学部は、最初の二年分がフライブルクにありますが、講義では両方が入り混ざって使われています。フランス語でされる講義もあるし、ドイツ語でされる講義もあるわけです。実習のグループ担当の人の言葉も入り混ざっています。三年目からはフランス語圏の大学か、ドイツ語圏の大学へ行くことになります。主人は、「十年も習っているのだからできなくては可笑しい」と言ってドイツ語だけで通しています。スタッフは、一応両方の言葉が解るのですが、母国語がフランス語だったりドイツ語だったり、それ以外の言葉だったりと変化に富んでいます。
 また大学では、言葉の「タンデム」と名づけられたシステムが有り、希望すればパートナーを探してくれます。二人が一緒に勉強してそれぞれの言葉をパートナーに教えるのです。

スイスには、少数派の保護という法律があって、ドイツ語圏の中で生活しているフランス語を母国語としている人が、母国語で教育が受けられることを確保するのに適応されたりします。イタリア語、ロマンシュ語への適用等についてはよく知りませんが、言語文化を維持するためのものといえます。その逆に、連邦やいくつかの州では二か国語を使えることを推進する努力をしています。ドイツ語とフランス語文化圏の溝を埋めよう、という動きです。

私たちの住んでいる町では7割がフランス語なのですが、一部の人がこの少数派の保護を立てて、フランス語の文化を守るためにと、ドイツ語の人もこの町に住んでいればここのフランス語の学校にかよわせることを義務づける運動をしたことがあります。時の動きに逆らったその試みは結局実りませんでした。最近は二か国語のクラスを作ろうという動きがありますが、フランス語の学校の教師は一致して反対しています。フランス語の学校でも、ドイツ語の学校と同じだけ二つ目の言葉を習っているのですが、先生でも全体のドイツ語能力は低く、ドイツ語で用事が足せない人が多くいます。フランス語の中学でのドイツ語放送のインタビーに、ドイツ語担当の先生が英語で応じていましたし、他の先生は、「ドイツ語?駄目です」と逃げてしまうのが現状です。ドイツ語の学校だと、先生はだいたい皆フランス語が解るのですが。

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● 「いじめは?」:次男の学校生活

我が家の次男は、秋から中学の1年生になりました。長女、長男はほとんど問題なく義務教育を終え、いまは大学、高校へ通っていますが、次男の学校生活は沢山の問題に突き当たり、親子で苦労しています。スイスの教育事情に触れながら、ここ数年の生活を綴りました。

 

クラスと教師、いじめの環境
子どもたちの行っている小学校は、二学年で一クラス、1年から6年までで三クラスしかありません。一学年の生徒数は10人前後なので、一クラスの生徒数は20人位です。先生が一つの学年に説明をしている間は、別の学年は自習だったり、ほかの科目の為に、一学年分は別の教室で授業をしたりしています。理科、社会、音楽、体育は、二学年同じ教材を習います。

次男の学年は男子が多く、男子6人、女子3人のところへ、2年の終わりにガキ大将が入って来ました。家庭の事情で施設にいたとかで、一年遅れているので1才年上、学校にピストルを持ってきて見せびらかすような子でした。この子が入って来てから悪口、けんかが増えたような気がします。

次男が3年生になると4年生にもいじめられ、お節介をされたり、物を取られたり、邪魔をされたりの毎日でした。3,4年の担任は50代半ばの女性教師で、「仲よくしなさい」というのが精一杯。クラスをまとめることができませんでした。

この先生は「このクラスはひどくて、とても外につれていくことはできない」、と生徒に向けて言っていました。「 あなたたちがおとなしくして、けんかをしなければ、外へ出かけることを考えてもいい」と条件をつけておいて、子どもたちがそれなりの努力をしたのに「やっぱり行かない」と約束を実行しなかったり、子どもたちに知らせずにいたずらの数を数えていて、「J君、もう三回もバツがついているわよ!」と告げたり、知人の別の学校の先生に、「あのクラスは酷いクラスなの」と話した、という噂が伝わって来たりで、あまり信頼のおける先生とはいえませんでした。

定規で背中を突っつく等、隠れてされる意地悪に次男が声を上げると、叱られるのは次男。それに対して文句を言えば外に出されてしまう、ということが続きました。どうせ聞いてくれないと、次男は何かがあると教室から出て行ってしまうか、そうでなければ涙をこぼして、また泣いたと言われました。休み時間に行ったら、クラスの女の子が「もういやだ!もう行かない!」と泣きながら歩いてくるのに、出会ったこともあります。

このころは、学校では上履きに履替えた後の運動靴がトイレの中に入れられてしまったり、隠されたり、靴の中に水を入れられて履替えようとしたらビシャビシャだったり、高いブランドの靴がなくなってしまったり、裁縫室のミシンの部品がなくなったりしました。次男の机から、ノートや文房具がなくなってしまったり、取られてしまったり、壊されてしまったりということもしょっちゅうでした。ノ―トを隠されて、授業の時に持っていないので先生に怒られました。定規を持っていくと、いくらもたたない内に「折られた」、と言って帰ってくることは一度ならずです。こんな時も、「弁償しろ」「僕知らないよ」と言うやり取りが交わされ、気がついた先生に、壊されたので文句を言う次男が怒られることが頻繁でした。

4年生の終わりごろには「もう学校に行きたくない」、とよく言っていました。 学校でいやなことがあると電話をかけてきました。「もうあんな学校はいやだ。おばあさんのいるドイツへ行く」。「ドイツだって同じ。スイスよりも酷いかもしれないよ。すれ違った子どもが、 チンチャンチョン(中国語の真似で、人をからかう言葉)って言って行くんだから。ここまで我慢して来たし、周りのことを承知しているんだからここにいて、5年からの先生になったらよくなる事を期待したら」、と言う調子の会話を交わしました。

5,6年の担任は30才台の男の先生で、我が家の上の二人が習ったことがあり、良い先生なので「5年生になればよくなるだろうから」、と慰めていました。ただ、5,6年は二人の先生が受け持っていて、もう一人は先生になって二年目、という人でした。

しかし、2年生の終わりから二年以上に渡ったこのクラスの荒れは、そう簡単には直せるものではなく、小学校の5年の時は一番クラスが荒れていて、いろいろなことがありました。

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足の怪我
次男が怒ってドタドタと洗面所へ向かった時、次女が床に投げ出しておいた鋏が次男にぶつかって、足を切ってしまいました。足の親指の付け根のところに、3センチくらいの深い切り傷ができていました。

痛いのでびっこを引いているのに、教室で通りがかりに、見えないところで痛いところを蹴っていく子がいました。放課後、靴を履替えている時に、その子ともう一人で次男の足を蹴りに来ました。 他の子どもたちは周りに立って、「やれ!やれ!」と囃したそうです。やった本人に、電話でなぜそんなことをするのか、やらないで欲しい、と言ったところ、「そんなことしてないよ」と呆けました。担任にも話しました。その次の日、担任は「そういうことをするのはいけない」、とクラスで話をしましたが、その後、やった子は「仕返しをする」と意気込んだそうです。

二日後、靴が石鹸水を入れられてびしょびしょにされていたので、次男は上履きで帰って来ました。次男は、「あの子がやったんだと思うよ」と言っていました。

それに、担任がクラスで話をした日に、別の子が足を蹴りに来たそうです。「一回目はやられたけど、二回目の時はうまく足を引いて避けたよ」、と次男は言っていました。

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プールでの意地悪
5年生になったばかりのころです。

学校から三週間に一回、室内プールへ行って水泳の授業があります。

終わった後、着替えをしにキャビンに入ったら、戸の下の空き間から服を取られてしまいました。パンツは履いていたのですが、あとは裸で、キャビンから出て取られた服を取り戻しに行きました。

その後、着替えを終えて女の子と一緒になったら、服を取ってしまった男の子が、女の子に、「Mは真っ裸で出歩いた」と吹聴し、大笑いしました。次男は、「パンツは履いていた」と言ったのですが、聞いてはくれませんでした。

その二日後の放課後、卓球に行く次男と同級生を迎えに行くと、その男の子も卓球に申し込んだとかで、一緒に待っていました。

「あんた、水泳の時、次男の服を盗んだんだって?その上に、次男が裸で出て来たって、嘘を言って皆を笑わせたんだって?」

「僕、盗んだんじゃないよ。後で返したよ。それに、M真っ裸じゃーなかったよ」。

人の物を取って、その上に嘘をついて、人を笑い者にする人と関わりたくないわ。一緒に乗せていく気はないわよ。あなた一人で行って」。

結局、彼はこのコースに参加しませんでした。

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立ち直り
知人から借りた「暮らしの手帳」に、小児科のお医者さんの、チックについての記事がありました。 その治療法が、三種類上げられていました。少しちがっているかもしれませんが、その概要は次のようなものでした。

一つは、薬でチックの症状を押さえる方法。二つ目は、精神的な面から治療する方法。三つ目は、子どものSOS信号なのだから、母親が子どもをそのまま受け入れて、いつもあなたの側についていてあげる、心配することはないと、安心感を与える努力をする、というものでした。

これを読んで、ハッとしました。次男は学校でいじめられ行き場がない上に、家へ帰ってきても、「相手にしなければいいのよ」とか、「先生に言いなさい」とか言われるだけ。先生だっていつも見ているわけではないし、いちいち相手もしていられない事情を考えていなかったから、私に向けて「聞いてくれないよ」、の返事。大人だってなかなか平気でいられないのに、これでは次男が、ホッとできるところがなかったのでは、と気がついたのです。

それからは、泣いて帰ってくれば、まず両手で次男を抱えました。それから、どうしたのか話を聞きました。まずは次男の話に沿って、「ふうん酷いね」等と相づちを打ちます。話してしまって少し落ち着いてから、「あなたの方からも何かしなかった?」と切り出して、だいたいの状況を知ります。それから、「こうすることもできたし、こうしても良かった、こうしてしまったけれど、この後どうしたら良いのかな」などと話を進めました。「先生も時間がないものね」、とも。

それからは電話をかけてきても、話をしてしまい、私と「こうもできたし」、とやった後は、「うん、僕戻る」と言って教室へ戻って行き、家へ返って来て聞けば、「うん、何とかなった」という返事をすることが多くなりました。

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代理教師
5,6年の担任の若い方の先生が、軍事訓練に行くので、二週間代理の女の先生が来ました。ドイツ語の時間に、人物を描写するゲームをしました。

最初の名前を書く時に、クラスメートの名前は使ってはいけない、という約束でした。ところがいじの悪いのが、 次男の日本名を使い、その隣の子が、太っている、中国人の目、と続けました。それをちらっと見た次男は、先生に抗議しました。ところが、この紙は先生の目に触れなかったのです。代理なので、子どもたちはやりたい放題に振る舞ったようです。次男の抗議は聞き入れられず、執拗に抵抗する次男に先生は癇癪を起こし、次男の持ち物を投げつけ、教室から追い出しました。

その日に電話がかかって来て、「何という態度ですか。こんなことは初めてです」と言って来ました。

「理由がなくて次男が怒るとは思えません。名前を使わない約束を守らなかったと言っています」

「私は、そのような物は見ませんでした」

「それに、次男の物を投げたそうですね」

「返しただけです。今後、このようなことがないようにして下さい」

次男は、「約束をしたのに守らせない先生なんて」、と言っていましたが、「代理だから、みんなやりたい放題をやったのでしょう。二週間だけ来る人の手におえるクラスではないでしょう。もうすぐ終わるから、まあ学校へは行きなさい」と行かせました。

学校では、次男が先生を殴った、と言うことになっていました。そのすぐ後、次男が問題の紙を持っていた女の子から借りて来たので、コピーして「次男が、嘘をついたわけではないようですね」、というコメントを付けて先生に渡しました。

次男に、「ごめんなさい」と言うこともなく、その先生は、期日が過ぎて学校には来なくなりました。担任に「もうこのクラスの代理は絶対にしません」、と言うコメントを残して行ったそうです。

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子供達の学校「あれ以後」

          

 小学校

責任感の無い小学校の担任(1)
次男が6年生になった時は、教師になって3年目と言う人だけが担任となりました。道徳の時間に「信頼」をテーマにして二人組みでひとりが目隠しをして、もうひとりがその子を案内して歩くことをしました。

担任は3階建ての建物の中を自由に歩くことを認めました。壁の所へつれて行って、壁があることを言わなかったりと男の子の多くはこれ幸いといろいろやりました。次男は下の幼稚園のクラスまでつれられていった時に、幼稚園児のひとりで、お兄さんが次男のクラスにいる子に飛びつかれました。見えないところへ予想していなかったのでもろにひっくり返って胴を椅子の角にぶつけてしまいました。

痛いと言いながら家へ帰ってきたのでその理由を聞きました。それから担任に電話をしました。こういうことが起こるのはクラスの雰囲気から予想されることなのに、ひとりでは監督の目の届かない所まで出歩かせたことと、「信頼」と言うテーマだったのだから「信頼」を悪用することが良くない事をはっきり子供に言うべきだと言ったのですが、そういうことを言うつもりは無いとの返事でした。数日後に、飛び乗った子のお母さんは「家の子が飛び乗ったのでひっくり返ったそうですが、どうですか」と問い合わせの電話をしてくれたのですが。

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責任感の無い小学校の担任(2)
6年生の春に中学で行くクラスを決める試験があります。父母会のときに担任は「準備はします」と言っていたのですがそれはまったく不充分なものだった事が後で判りました。

1日掛けてドイツ語は書取り、作文、読み取り、それに算数の試験を受けます。次男は我が家の3人目ですから上の2人の担任がどんな風に準備をしたかはだいたい判っていました。過去の問題をクラスで解いたり、一科目分を試験と同じ時間で生徒にやらせ、だいたい試験の前の週くらいには前年度の試験問題で丸1日掛けて予行をしたりしていました。ところが次男の担任は今までの試験問題をばらばらにして棚に置き、「やる時間のある者はそれを一つずつ取ってきて勝手にやりなさい。」と言っただけだったのです。次男のクラスは各科目の1回分の試験を授業中にやってみることも、1日分の試験全体を一度も見る事も無く試験に臨むことになったのです。

その結果は今までのこの学校からの生徒の成績を下回るものでした。また普段の授業がいい加減だったのは、訂正されて返ってきた作文、親への連絡のしかたを見れば直ぐ分かりました。しかしこの教師へ直接行っても無駄なことは判っていたし、他の親と不満や批判をかわしても動き出すところまでにまとまることはありませんでした。クラスにはお母さんが別の学校で5年生の担任をしている子がいました。彼女も教師のやり方が良くないことは判っていたようですが、同僚ということで何もしませんでした。ただ自分の子供の勉強は見ていたようです。このクラスにいる子供が一番上である場合は親も比較し様が無いし、教師と言う地位を持つ人を批判することを躊躇する人もいました。これでは教師の質の問題で一人で教育鑑査員のところへ持っていっても何もしてもらえないでしょう。

次男のクラスの良く出来る男の子もこんな中で試験の結果は彼の能力に相応しないものでした。中学で新任の先生に「なんでお前がこのクラスにいるのか不思議だ」と言われたくらいですが、教材をこなしていなかったため、中学一年生を終わった所ではじめて能力相応のクラスへ移れました。

子供達の行った学校は当時は二学年が一つのクラスを構成していました。次男の次の期は5年、6年とこの教師が担任をした訳です。この期の中学への試験の結果は次男の時よりももっと悪いものとなりました。州全体の成績でだいたい毎年よい方の20%くらいが進学クラス、下から20%くらいが実業クラス、真ん中が普通クラスへ行くことになります。この年度の結果は進学クラスに1人、普通クラスへ7人、実業クラスへ7人という結果でした。親の不満の声がぼつぼつ耳に入って来るようになりました。

このころ、この教師がツーリスト業務従事者養成学校を受験するために小学校教師養成課程では欠けていた科目の講座に参加していた事が伝わってきました。そしてこの年度の入学試験を受けていたのです。「試験の結果を待って辞職届を出す」と言っていたらしいのですが、この学校への入学試験の結果が出る前に辞めることを明らかにしました。そして彼はこの試験に受かり、東スイスへ引っ越していきました。

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立ちあがった親達
この試験の結果が知れ渡って少し経って、次の年に試験を受けることになる学年に子供を持つ実行力のある母親を中心に親たちが動き出しました。この学校の水準が低いのではないか、ここの教育に問題があるのではないかと言うことについて州の教育監査員に説明会を開いて欲しいという署名を集め始めました。また前年までのこの学校の生徒の行ったクラスの統計を集め出したのは夏休みの少し前でした。市の教育課は事務を行い、教育に関することを決めるのは教育委員会、教師や教育の質を担当するのは教育監査員(Schulinspektor)が担当します。

この説明会が開催されたのは新年度になって2ヶ月経ってからでした。責任感の無い教師は既に退職し、新任の先生が担任をしていました。

会には教師、親に加えて、中学の校長、教育鑑査員、教育委員会から1人が参加しました。中学の校長は今までの統計を示し、試験の結果は年によってバラつきがあると説明し、今回のようなことがあり得なくも無いという口調でした。教育鑑査員は新任教師に注意はするが(教師側の問題)100人以上の教師を担当しているのでとても手が廻りきらないと説明しました。ここでは今の水準が低いということ、教師の質が悪かったことを前提とした発言と受け取れたのですが、はっきり言葉で表現されることはありませんでした。

教師の行為に問題があったり、親が納得できないときの窓口がこの教育鑑査員なのです。しかしこの州では一度教師になってしまうと勤務評定もなく、その質を定期的に監督する機関がありません。大学では学生も講師の質を評価するのですが。

「この学校ではどこか上手くいかなかったことが明らかですが、これに対して何か対策を取ってくれるのでしょうか。」と言う質問に対しては「何も出来ません。」というのが教育鑑査員の返事でした。新しい5.6年生のクラスは人数が多いので新任の教師は援助の教師の申請をしたのですが認められませんでした。「少なくとも援助の教師を認めてください。」と言うのに対して「努めて見ます。」という教育委員会のメンバーの返事でした。それからまもなく援助の教師が着任しました。

新任の教師に替わってこれ以後は水準も通常に戻り、いまこのことは忘れ去られようとしています。

しかし一番被害を蒙った前年と前々年の子供達に対しては何の対策も取られませんでした。

6年生での試験の結果と言う形で教師の質の悪さが表に出たために親が一致できたのですが、責任感の無い教師は辞めてしまっていてあまり大事になりませんでした。低学年であれば不満の声や、教師の行為に批判が上がっても何も起きないでしょう。年を取った女教師が子供の髪や耳を引っ張ったりすることは市の教育課の女性事務員まで耳にしていたようで、他の用事でこの先生の名前が出たときに「またなにか」という口調でしたが、この教師は定年まで教師を続けました。

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●  中学校

中学での透過性と柔軟性
ここフライブルクの中学には、上級学校進学クラス、普通クラス、実業クラスと作業クラスとがあります。

進学クラスは、成績の良い生徒のクラスで、普通にやっていれば終了後試験なしでギムナジウム(高校)に進めます。普通クラスは、良い成績で終了すればそのままギムナジウムへ進めるし、成績が条件を満たしていない時でも、試験に受かれば行けます。実業クラスは、卒業後、職業訓練に入るのが普通です。

この制度には、作業クラスを除いて、透過性というシステムがあります。学校での成績によって、下のクラスに移る、または留年と並んで、程度の高いクラスに移れる可能性があるシステムです。

ここ、フライブルク州のドイツ語系の中学の主教科は、ドイツ語、数学、フランス語です。この三教科の成績が良くて、そしてほかの科目の成績が悪くなければ、程度の高いクラスに移れるのです。移れる時期は、1年の前期が終わった時点、つまり、振り分け試験で失敗したけれど、学校でその実力が出せたら、それを認めて、力に合ったクラスに行かせてくれるわけです。あとは、1年と2年の学年度末です。また、実業クラスの生徒は、1年の終わりに、成果がありそうならば、もう一度振り分け試験を受けることができ、受かれば、普通クラスの1年から始めることができます。

我が家の子供達の中学の正式な名前は「Deutschsprachige Orientierungsschul Freiburg」と言います。訳すと「フライブルクドイツ語方向付け学校」くらいになります。方向付けと言うのは、ここで将来の路を見極めるという意味です。名前のとおり方向付けが出来るようにと、学校内での柔軟性があります。

中学で通算9年間の義務教育を終了したあとに、10年目を続ける事が出来ます。この10年目をどう言う風に過ごすかはいろいろです。

途中で落第したり、再度振り分け試験を受けて一年生を繰り返した場合通算9年間では卒業できないので義務教育10年目をして中学卒業資格を取ることが出来ます。9年間で中学卒業資格を取った場合、10年目を1段階能力の上のクラスの3年生を繰り返すことに当てる事も出来ます。普通クラスで成績が良ければそのままギムナジウム(高校)へ進めるのでここの生徒が進学クラスを繰り返す事はまれです。実業クラスの生徒が普通課程を修了するため、また卒業後の就職先が見つからなかったという理由で10年目をすることは良くあります。フランス語の学校の生徒がドイツ語の学校で10年目をするという事もあります。又その逆でドイツ語の学校からフランス語の学校へ変わることも出来ます。今年の例では、フランス語の実業クラスから来た10年目をする男の子が3年生ではなく2年生のクラスへ入りました。

この10年目は義務教育を越えているので生徒から「学校の規則を守り、勉強します。これを守らなかった場合は学校から除籍される事を承知します。」という誓約書を取ります。しかし実業クラスで就職先が見つからなかった為に10年目をすると言う生徒が普通クラスの雰囲気にあまり良い影響を与えない事も時々あります。

 

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山村からの生徒達
 フライブルク州はドイツ語圏とフランス語圏にまたがっていますが、その境は入組んでいます。ドイツ語圏から山道で峠を越えた山の中にドイツ語を話す村が2つありますが、そこからバスで山を降りるとフランス語圏の真ん中へ出ます。この村には小学校はありますが中学はありませんから、直通バスで片道1時間以上もかけてフライブルク市のドイツ語の中学まで通ってきます。300軒くらいの村で、主に農業(牛や山羊の酪農)か林業、木工と農業機械の小企業があるだけです。この村から来るバスが我が家の前を通るので、朝この村からの中学生と乗り合わせたことがあります。15人くらいが半分寝そべった形で座ったりしながら座席をまとめて占領し、勝手なことを大きな声で話していました。

 兄弟が10人いたり、家へ帰れば農業の手伝い、トラクターを運転、冬はスキー、夏は軽二輪車で村の中を走ることが楽しみとなどと、山地の村の形態が保持されています。スキー場があるので、おじさんや兄弟がスキーの選手という男の子などは全国レベルを目指しています。上級学校へ進学する子供もいますが、中学校を卒業したら農業を継ぐ、村のパン屋であるいはおじさんの所で職業訓練に入ると言った進路を希望する子供が随分います。

 極端な例でしたが、中学でフランス語に加えて英語が自由科目として入って来た時、ソンな物は要らないから取らないという家庭がありました。結局担任が説得して授業に参加しましたが、授業に対する意気込みは見られませんでした。 フランス語とドイツ語に入り混じった町に住んでいる子供達と違って、日常がほとんどドイツ語(しかも独特の方言)なのでフランス語の発音にも問題が多い子供が多く、学校でも村の子供達だけでまとまっています。

 この村からの生徒達は昼休みにうちへ帰るわけには行かないので、学校から歩いて5分の所にある大学の食堂へ教師が付き添って食べに行きます。時間割の関係で家へ戻れない生徒も一緒に行きます。彼等は1箇所でグループで食事をするのですが、随分騒がしく、マナーも悪いそうです。次男が一緒に行くと、クラスメートが来て次男のお皿から彼らの食べたいものを持って行くと言っていました。

午前10時ころ15分の休憩があって、この時間は全員建物の外へ出ます。この時持参したおやつを食べても良いし、学校内でパンの販売もします。朝6時頃家を出てくるので授業中に食べてしまったりします。次男はこの時間に何度か取り上げられていました。

 

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次男のクラス
次男が普通クラスの一年生になった時には普通クラスが2クラスありました。学校側では、長い通学路やバスの時間を考慮した時間割、クラスの行事などが作りやすいのでしょうか、この村からの生徒を一つのクラスに入れてしまいました。

15、6人のクラスの半分近くがこの村からの生徒でした。この中にはノルディックの選手、スキーの選手がいて、スポーツがまず第一、卒業したら村の中で職業についてスポーツに専念するので卒業できれば良いと考えている子達や、家の農業の手伝いをすることになっている子など、勉強自体に余り関心が無く教室でも勝手なことをしていました。人数が多いのでお互いにかばって、このクラスは学校でもやりにくいクラスという評判でした。2クラスあるのでこの村からの生徒を半分半分にすればクラス全体への影響は弱かったでしょうが、学校側はそこまで配慮しませんでした。

 

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