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学童保育のあゆみ (更新2003.07.10)

 学童保育は、今や多くの方々の知るところとなっていますが、周知のこととなるには意外なほどの長い歴史があります。こうした学童保育のあゆみをふり返っていきます。

CUT−木々 学童保育の創生 −−−「大阪の保育史」(遊邑舎注1)より
(遊邑舎注1):昭和六十一年、社団法人大阪市私立保育園連盟により発行(非売品)

・・・・・これより引用(上記書P48-49)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(五)学童保育のはじまり

 児童福祉法第三十九条二項に「保育所は前項の規定にかかわらず、特に必要があるときは日日保護者の委託を受けて保育に欠けるその他の児童を保育することができる」と規定している。又第二十四条では「市町村長は保護者の労働、又は疾病等の事由により、その監護すべき乳児、幼児又は第三十九条第二項に規定する児童の保育に欠けるところがあると認めるときは、それらの児童を保育所に入所させて保育しなければならない」と市町村長の義務として明記している。しかし、学童保育を制度的に取上げられて保育している保育所は、府下に一ケ所もなかった。そこで今川学園長三木達子は、昨日迄保育所で五時六時迄預って働きに出ていた母親が、入学と同時に学校から帰って午後の時間を誰の監督もなく放置されるのに矛盾を感じ、学童保育の必要性を痛感した。そこで地域の小学校低学年一、二、三年の児童について調査を行った結果、二八名中、昼問両親以外の肉親に保護されているもの四十四名、他人に保護されているもの十一名、放置されているもの四十四名、という状態が判明した。その時、たまたま戦災で母親を失い父子家庭の子どもが、或家の引出しから二万円を盗み出し、警察沙汰になった。その子どもを今川学園に入れようとしたが、保護の方法がなく、高鷲学園に入れてもらった。やっと七才になったばかりの幼い子どもが誰一人保護をしてくれる人もなく、全く放任されているということは、どう考えても可愛想な事だ、危険きわまる事だと昭和二十五年四月法的な措置を待たず学童保育を今川学園で発足させた。(遊邑舎注2)その後二十七年四月民生安定所に届け、法的取扱いを受けた。
(遊邑舎注2):正確には昭和二十三年九月の開始となっています。

○今川学園での学童保育

 十二時半ごろからカバンをかけたままで、ぼつぼつ学校からかえってくる。「ただ今」と元気のよい声にまけない大声で「おかえり」と迎えてやる。狭い学童室で学校教諭の資格をもった若い専任の保母さんが、お姉さんやお母さんともなって保育する。まず今日一日の学校でのできごと、ほめられた話や、ドッチボール大会優勝の報告、遠足のたのしい計画から、さては失敗の数々まで一通り話すと勉強にかかる。三時ごろまでかかって、宿題も予習復習もすむとおやつの時間。鉛筆をけずってもらったり、ノートの破れを貼ってもらったりして四時になると庭へでて遊ぷ。雨の日は、紙芝居や輪なげ、ピンポンに興じ、四時半を過ぎるとお掃除や水まき、兎の草やりなど、五時には元気よく帰っていく。現在こうした児童が二十七名、毎日ほとんど休まずきている。楽しい夏休みも、海に山に愉快なプランのたてられる子どもとちがって、いくら暑くても毎日朝早くから保育所へ通ってくる。これらの恵まれぬ子どもを思うとき、どんなに暖かい手で迎えても足らぬ思いがする。
 これらの児童のうち、法措置をうけていて負担能力のない家庭にたいしては、もちろん保護費が支給される。幼児と同額の事務費、半額の事業費で、計一人あたり、四十円〜五十円になった。給食費は支給されないことに なっているが、この子どもたちにとって、おやつは絶対必要だから毎日与えた。ビスケット五つに飴玉二〜三ヶといったように、誠にわずかなものだったが、これがどの位大きなうるおいになり、なぐさめになったことだろう。辛うじて生活している未亡人家庭や病人の家庭から措置費同額の費用を負担させることはできないので、五十円位のおやつ代の足しにする程度をだしてもらっていた。そんなわけで、専任の保母の給料はやっとでるが、設備の点では全く不充分で、幼児用の机や椅子に足をつぎたして使用していた。

・・・・・ここまで引用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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