
虐待について実際に
親になって思うこと
虐待についてのこのページ個人が作った物としては評価されているようです。
今もコレを作った時の気持とかわりはないのだけど、
一方で実際に親になったら
なんて世の中って親に冷たい世の中なんだ〜と
あるいは子どもにまつわる一般論の誤解と偏見と
それって違うんじゃない・・とで
いのままで、虐待が知識としてだけ一般論に加わるだけだったら
ただでさえ親に冷たいのに
さらに虐待してるんじゃない?チェツクが加わるだけにも感じてます。
現在子どもと関わる専門家あるいはこれから目指す学生さんにいいたいのは
虐待とはどういうことかの知識より
夜泣きして大変な子どもの泣きやませ方のコツを試せる限り
沢山思い付く知識を増やすことだったり
疲れてる親の肩代りして
休養出来るシステム支援づくりだったり
そのほうがよっぽど、
親が暖かい気持で子どもと向き合う環境づくりになり
被虐待児の支援にもなっていきます。
実際、被虐待支援というのは
沢山の段階があって
勿論命に直結してるような重度危機の場合も
あるけれど
そういうケースであるほど
熟練した介入のプロにならないと難しいわけで
それは向き不向きも含め誰でもできるわけではないわけで・・・
ほんのわずかな支援でしなくて済む
親の支援もだいじな被虐待支援なんだと思います。
なお、虐待の支援の現実の流れやすべきことは
http://www.i-kosodate.net/search/child_abuse/abuse_index.html
のマニュアルが参考になると思います。
膨大な資料ですが
実際の虐待支援の難しさを理解するのにも
役に立つと思うので是非見てみてください。
現在虐待とはなにか?ということで
親自身も悩んでいます。
何が虐待で何が虐待じゃなうのかということは
相対的な事も多くて
あるいは親だってひとなのでやっちやいけないとはおもうけど
怒鳴ったり手が出たりもまったくしなくて良いこともあるけど
たまにはやっちゃった〜と後悔してしまうけど
あったり。
それについてこれやったらもう1人ではどうにもならない
限界かもと思うのは
これは親になって子ども育てての私見だけど
ひとつは乳児のうちの虐待は
産後で体が不調であるいは夜泣き等々
物理的な付加のストレスで判断麻痺
これはとにかく子どもから離れて熟睡する支援一度
半日それだけで相当違う。
または自分の身の回り家事の支援を誰かにもとめる。
それが出来ないうゆえの虐待って場合が多いと思う。
それで1年2年乗りきって
今度は子どもが反抗期あるいは自我が芽生え、
はっきりいってこの時期の子どもの頭の悪さときたら
子犬以下かもしれない。
今言ったことも覚えていない。
痛い思いしても平気で繰り返す。
人と動物の違いは子どもの時期の長さ
それだけ沢山ゆっくり育てて初めて脳も完成して大人になって
ヒトしての活動ができるわけだけど
大人は忍耐と発想転換と根気良さを延々求められる。
あるいは結局自分の育てられたなりで
実は足りてなかった事に沢山直面するからと惑う。
子ども相手を忘れて本気に
腹が立って意地悪だなぁと感じてもしてしまうこと
手が出ること。
ないほうがいいにしても時には
あるのが人かもしれないけど
これをやったらまずいと自覚した方がいいという境界はあるとおもう。
それが蹴りが出る
あるいは手を出したあとどうなってもいいと切れてる
やりだしたら止まらない。
蹴るというのはね〜腹立ち紛れで手が出る
より一段階すすんで
憎しみが向いてないと出来ないわけで・・・・
あと肉体的な暴力ではないけど
言っても言ってもきかない〜と
イライラする場合でしょうか。
子どもは今言われたこと
覚えるのはある程度年齢がいかないと無理だし
今言われたことを一般化して
次ぎに同じ場面に応用するのもこれも
成長の早い子でも幼稚園年長近くないと無理かもしれず、
あるいは叱られるのを避けるというのは
叱る予告の表情や雰囲気を読むのが不得意なら通じない。
思い切り叱られて初めて叱られたことが解るわけで・・
子どもの中には軽発達障害抱えている場合など
叱られて躾けられるという躾け手段が
向いてない子たちもいるわけで・・・
あるいは
「叩いたり無理に教えるのではなく
説得あるいはわかって自主的に行動を求める」
これもね。。一見は正しいけど
結局子どもがわかるわからないが
年齢以上のこと求めていたり
自主性も何も結局親の一方的言い分を
納得するまで延々小言
または理詰め・・・
3才4才以降少しは
わかるようになったらまた
話は別だけど
延々言葉で説得されてる子どもみると
胸が痛みます。
叱るとか諭すという行動って
実はかなり感情表現重視なので
自分に何が求められてどうして欲しいのか
わかりにくいんですよ。
ただ責められてる感覚
自分が間違っているというのは
伝わるんだけど
どこがどういけなくて
何がして欲しいのかは抽象的。
大人が一生懸命になるほど
ボタンの掛け違いをず〜っと続けてるみたいで
子どもにとっては
屈折しか残らない場合結構あると思う。
でというか結論として
直接暴力で蹴りがでる、つねってる
(乳児に関しては
叩いてる時点で
かなりまずいです。
それで赤ちゃんが何か解るなんてありえないわけで・・)
そして
何度言っても解らない〜とイライラし続けてる時
それが極端で結果暴力がでたりするなら
周囲に助けを求めて
とりあえず自分が落ちつく必要があると思う。
死んでも良いとか思って殴りつづれるなんて
してはいけないよ。
その時は感覚麻痺してそう思っても
本当になってしまったら
一生苦しむわけで、
そうなってしまってからでは取り返しつかない
ほんと眠いのにぎゃあぎゃあなく
娘見ていたら私も疲れ切って
赤ちゃんのときは
踏みつぶしたら静かになるぞと
一瞬思ったりもしたけど
どう考えてもそれは現実的解決じゃない
その判断出来るだけの感覚はなくなりませんでした。
子どもは天使とか宝とか言うけど
実際のところ自分が世界の中心で
自分の感覚が全部の
怪獣状態が何年も続くわけで
親の愛は無償とかそんな
無尽蔵な博愛求められてもね
やってられるかそんなの・・・と思いますね。
で、それでもやり続けるのは
周囲の支えがあって初めて続く話で
更に言えば
動物園で群れ生活知らずに育った猿は
出産そのものに驚いて
踏みつぶしたり育児拒否。
あるいは馬だってサラブレッドとして競走用に
それだけ求められて気性がきつい馬だと
子どもは拒絶して母乳も与えない。
羊とかでも出産に
うかつに人が近づいて子羊に人の匂いがついたら
育てないし。
そんななので
動物の親の子育て本能でもそれって
ほんとか?なので
人だけが親としての本能の愛を持っているかは
相当胡散臭いし
あるいは本能の愛って所詮本能
客観的に子どものために正しい親の役割果たせる愛情と
イコールなのかというのはまた話は違います。
今って虐待とは何?より
正しい子育てって何?
親の愛情って何?そこから問われてる時代なんだと思います。
これを書いてる私について
これを書いてる私って誰なのか。
自分のこと書かない方が
個人の話にならないからいいのかなと
書かないつもりでいたけど
書いた方がいいのかなと
突然思いました
私は自分のこと虐待受けて育って
今もその影響で生きる上で
大事ななにかがかけてしまって困っている
そう思っているんですが・・・
どんな虐待受けたのか
となると暴力振るわれた記憶ないし
虐待としてイメージされにくい
過干渉受けて育って
生きる自立能力がほとんど
実際身についてないことを
20代後半に入って一人暮らし初めて
気がついて愕然としました。
世間的に甘やかす親というのは
子どもの年齢が上がってましてや
思春期以降になってしまうと
子どもの方の問題でしか世間は思いません。
でも、実際思春期まで
私の頭の中って常に知らない他人が会議していて
私どうしたらいいの〜みたいなかんじで
自分というのが分解状態でした。
さすがに思春期以降親のひどい過干渉から離れる隙間が
増えるにつれて
他人の声は消えたんですけど
結局今もしょっちゅう頭の中止まるみたいに
思考停止を
何かしようと思うと緊張とともにそうなってみたり
あるいは今はいないし
昔の無力だった子どものときとは違うのに
幻の親たちの声とでもいうのか
ああでもないこうでもないと集中を中断させる声がします。
そこまで過干渉うけたら十分虐待よと今だから思うけど
なんでいつも知らない他人の声しかしないのか
それだって今だから
どうしてだったのかわかったわけで
虐待されたこととか
どうして今更なのとかいわれても
今だから語れるようになったから
話せるわけで
話すことが私には意義がある
そういうことです。
で、別に親を今更非難しようと思うわけでも
謝罪求めようともわかってもらおうとも思ってないし。
今更いいか・・と
私の親に関してはそれ以上のことは
してもらったと思ってるし。
それでも私の頭の中の幻のというのか
常に私が悪者で無能なんだと決めつける
刷り込みの声とは闘う必要が
一生ありそうです。
無駄なことに気をとられエネルギー費やして
ほんとはもっと簡単なことなのにと思うことが
上手くできないことだらけです。
過干渉というのは子どもにどんな負担なのかというのが
いまいちわかってもらえなくて
実際これこの話していて言われたけど
「そんなの言われないように頑張ればよかったんじゃん」
これを子どもに求めるのはかなり残酷です
大体実際には親も同じこと言いながら過干渉するわけで・・
かりに1人でやるんだ〜と親を止めて
口はまあどうぞとはいうけど
視線は延々注がれるあるいは
やっぱりあれはこれこれはあれと口は出る
とてもとても気が散って集中どころではない。
それに一度ならそうやって頑張れるけど
日常茶飯事のあれこれと闘って
自主的に生きる意欲を子どもに求められてもそれは無理。
そして過干渉の親は二タイプいて
私の親の様に自分が見ているのが耐えられない
思うようになることが全部のタイプの過干渉は
生きる意欲とか自立能力が低くなるけど
逆に子どもに能力身につけさせて結果までが過干渉の親と言うタイプは
子どもの能力は一見身につき
社会人になっても能力は評価され表向きは
有能な人になる
ところがその子ども達の内面は常になにかにおい立てられるように
どんなに評価されても満たされなくて苦しみ続けている
そんな大人になった人を沢山知ってます。
子どもで自分を埋める親というのは
やっぱり虐待親です。
「あなたのためを思うのよ」
これを口癖にしている場合は
本当にそうなのか考えてみてください。
虐待について。隣のこととしてやっと関心が持たれるようになってきました。
だけど一方で相変わらず自分とは関係ない
非情非道な心を持つ人が行う別な世界の話として
センセーショナルに取り扱われている。
虐待ってなに?ときかれて
正しい知識もない闇の世界のまま。
虐待の認識のところにも触れているけど
虐待が存在すると認められたのは
世界的にも1960年代。しかも援助活動は
それより遅れて動物愛護より後だった。
人類の歴史の中で続いてきた子ども虐待が
闇から表で認められるようになってからわずか40年足らず。
日本語に虐待をされた側のこっちから語る言葉すらない現実。
だって「虐待する」の主語は加害者で被害者ではない。
被害者が能動で語られ
どこまでが躾でどこからが虐待かなんて話になってしまう。
こうしてサイトつくったり子ども虐待防止援助に関心持ったりしていると
「子どものいないあなたがどうして子どもの虐待に関心があるの?」
目の前の私が被虐待体験者だとはイメージもできないらしい。
「誰でも体験する家族との軋轢じゃない」と
被虐待体験を語る前にいきなり否定される。
でも、本当にあったことだから沈黙しない。
沈黙を強いられ続けなくても良い時代に産まれた私は幸せに思う。
虐待とはなにかは本当は闇の中です。
とりあえず、
加害者が成人で被害者が子どもの場合が子ども虐待、
夫が加害者妻が被害者の場合はDV(ドメスティックバイオレンス)として
とりあえず救いがでるようになっただけで、
子ども同士の虐待関係は虐待の概念からもれているし
加害者が身内兄弟親類や教師など他人の場合は
親が攻めれるだけで社会からの支援は薄いし、
あるいは被害者が成人に達してしまうと
親の虐待すら「家族のもめ事」。
金銭搾取も親類からだと法の保護すら対象外。
あるいは高齢者への虐待は福祉の先進国といわれている北米でも、
福祉のサービスが薄い低所得層にだけ起きていると嘘だろうなを
ホントに今もいっているらしいし。
(つい10年前までは日本の虐待は北米に比べて
深刻じゃないと堂々という精神科医が一杯居たのと同じだろうと思う)
100年300ねんくらいかけて、
虐待ってなに?に光が入って闇で苦しんでる加害者の人に希望がででくることを願います。
子ども虐待の認識し始めたのは1960年代初め、つまりごく最近なってからのことだそうです。アメリカの小児科医ケンプらが「殴打された子どもにみられる症候群」(バタード・チャイルド・シンドローム)の報告が有名で、レントゲンから何度も繰り返されている骨折跡を持つ子供たちを発見し、その中には親の故意によるものもも含まれていることを主張しました。(注1)
しかし簡単に受け入れられず現実にはイギリスで1884年子ども保護協会が出来たのが
子ども虐待援助の始まりで、子どもの保護の主力は動物愛護協会がになっていた、つまり子どもの人権は動物愛護より遅れて認識された歴史があります。
本当にごく最近認識されだしたばかりの問題のようです。
日本での子ども虐待への認識は諸外国に比べるとまだまだ社会的に虐待に対して認識も、虐待への援助介入のため制度も遅れているそうです(注2)。
(注1)
60年代なんて私の生まれた頃の話でつまり私の親の世代には、虐待の概念はなかったことになります。虐待がなかったって事はないはずなのに概念がないのでみえていなかったから、自分たちのことは棚上げで平気で他人事のように今の親の育児を批判するのはそのせいでしょう。
(注2)
本からの知識なので伝聞表現しています。
子ども虐待の定義と種類
子ども虐待の定義については様々あって一致していないのですが虐待の種類は、
の4種類に分類されるのが一般的です。
以下は厚生省児童家庭局企画課監修の「子ども虐待防止の手引き」から引用です
身体的虐待・・・・・殴る、蹴る、投げ落とす、首を絞める、溺れさせる、逆さ吊りにする、タバコの火を押しつける、毒物を飲ませるなど、子どもに対する身体的な暴力。
性的虐待・・・・・・子どもに性交したり性的行為を行うこと。父親(実父、継父)が娘を対象にすることが多い。兄が妹にというようにきょうだいの間におきることもあります。家庭外で知人や見知らぬ人から性的暴力を受けることを性的虐待とみることもできます。
心理的虐待・・・・・「おまえなんかどうして産んだんだろうね」などといったり(ことばによる脅かし)、子どもからのはたらきかけに応えなかったり(無視)拒否的な態度を示すことで、子どもの心を傷つける(心理的外傷を与える)こと。
ネグレット(放置、保護の怠慢)・・・・健康な状態を損なうほどの不適切な養育、あるいは子どもの危険についての重大な不注意。例えば家に監禁する、重大な病気になっても医者に連れていかない、十分な栄養を与えない、ひどく不潔なままにする、などです。親がパチンコをする間、乳幼児を自動車の中に放置し、熱中症で子どもが死亡したり、誘拐されたりする事件も、ネグレットの結果といえます。
虐待の現状
最新の資料がないのですが、平成7年で、児童相談所での虐待の取り扱いケースが2722件。これはあくまで児童相談所が報告を受けた数だけです。保健所、病院、保育所、学校などの子どもに関わっている専門機関で、相談はあっても、通報されていないケースや、発見されていないケースは入っていません。
虐待された側からみた虐待
虐待の公式定義を引用してみましたが、
更に、たいていが虐待の要因。つまりなぜ虐待するかが
親の要因、(貧困、生育背景などとか)子どもの要因(育てにくい、障害児、未熟児)
がならんですます。
だけど、どうも、しっくりきません。
虐待イコール暴力のバリエーションの一つと捉える前提が欠けています。
だから「要因」の形で被害者像、加害写像分析が意識化言語化されいる。
「被害者に落ち度がある」
「加害者にも言い分がある」
はっきりいって、加害者擁護の隠れプログラムなので、今後は消えるべき標記だと思います。
少なくてもサポートのための定義なんだからいれるべきではない。
だいたいなぜ虐待するかは虐待してる本人に聞いて個別に聞く姿勢がないと
対応できる筈がない。聞く前からの分析分類は邪魔なだけに思う。
そして、
の分類定義。これは虐待行為を一つずつバラバラにしてジグソーパズルのピースとして、
並べたに過ぎず、
虐待とは?の概念定義ではないと思ってます。
そのため、この定義からは、虐待されて影響がでること、困ることが浮かび上がりません。
虐待されると失うこと、
それは健全に自立して生きていく心の基盤なのです。
もともとの「Abuse」で定義されていた筈の概念。
虐待することで自己を満たす親の加害姿勢。
虐待されたことで起きる被害者へのその後の弊害
ちょうど一時期、アダルトチルドレンの言葉で説明しようとして上手くいかなかったようなこと。
殴られること、罵倒されること、
行為そのものを、どれが虐待でどれが虐待ではないかと、線引きしていても
みえてはきません。
「虐待は暴力であり、健全な自立の阻害行為である」
が。虐待の概念でそれからどんなことかの分類が
である。なんだと思います。あるいは
「子ども虐待は
暴力(心理的性的含む)とネグレットによって健全な自立を阻害する行為である」
とかね。
どう変わるかは絶対これと↑は思わないですがでも、
15年かからずに今の定義は修正される気がします。実状にあわないから。
「虐待」の言葉がその瞬間の行為だけしか含まないので、今「私が虐待されて育った」と表現しても、今現在の私は含まれず、「今更こだわってどうするの忘れたら。」「親のせいにばかりしてはいけない」その他。今、私が抱えていて問題になっている話したいことがなかなか伝わらない。
虐待されたらどうなるか。まず一つ目の問題は、家族が教えた社会スキルが歪んでいるからそれがどう違うか点検して必要だけど学んでいないスキルは学び直し間違っていたことは修正しないと通用しない。
次に問題は虐待されたら、ほとんどが未処理のまま困って勢いで記憶の情報の押入にどんどん放り込むので、いざ大人になって必要な情報として取り出そうとしたときに、連想ゲームのようにごちゃごちゃと押入から開けたらあふれてくる問題が起きます。
記憶の情報管理メカニズムはちょうど井戸に次々色々放り込むのに似ていて、その時の問題だけでなく、のちに汲み上げるときの水の質を決定するわけです。
記憶のメカニズム自体がほとんど解明されていないけれど、考えられているよりはるかに意志だけでどうにか出来る部分は
少ないのです。虐待によるストレス、消化しきれない感情、思いのため
認知の軸を正しく構成する学習する体験がない。または歪んでしまったからこそ、問題が起きるし、
過去を今と切り離しては問題が正しく見えてもこないのです。
あるいは、親の中には子どもを自分のために濫用ということを生涯つづける困った人たちも本当に存在する。そんな人まで親なんだと社会は言う。
法的に児童である間はかろうじて援助もされる可能性はあるが成人になったあとの問題は「家族の軋轢」扱いだったり、
だれも助けてはくれないしそれどころか扶助の義務を当たり前のように押しつけてくる。
虐待の影響はエンドレスに生涯続きます。
「甦る魂」で穂積純さんが「虐待のむこうとこっち」と表現しているけど、それほんとにあると私も思う。
昔はあまり虐待がなかった、聞かなかったという話をよく聞くけれど、これは、ただ、同じ事に「躾が行き過ぎただけ」とか、「やりすぎてしまった」とか、極端には思うけど乳幼児の病死も今よりありふれていたから重篤な虐待も
埋もれてるだけでしょう。
別な名前を付けとみようとしてこなかっただけの話で、社会環境が変わって親にストレスがたまりやすくなって増えたとか、そんなんじゃない。圧力かけて、なかったことにされない時代になっただけ今はまし、そう思います。
被虐待体験はきちんと語れる、今だから言える状況になってから表にででくることがまだまだ多いのですが、
沈黙を破って語る人はたいていが人生が被虐待のせいで破綻した、しそうになったときだけであって、
語らなくても人生が終われる人、または沈黙を糧に生き抜く人は語らないし。
実際には被虐待体験者の多くはそうしてひっそり生きています。
虐待されまくったすべての子どもが仕返しに暴れるわけではなく、
むしろ親のエンドレスな虐待の中で頑張ってよい子をやってる人のほうが多いのだと思う。
例えば金銭等々も近親者からの略奪は法的な保護対象外なのです。
今は虐待にさらされて危機にある子どもの援助が精一杯で被虐待後成人のケアはなかなか理解されないし
手が回らないという。
虐待の定義がとてもせまい。「虐待連鎖」というけれど、祖父母が虐待を直接間接で続けていて起きることだってあり
「連鎖」?とも思う。
虐待についての概念はまだまだ掘り下げて考えてほしいことだらけです。
性虐待について
虐待のなかの性虐待について。とてもここには書ききれず、
セクシュアリティのほうに項目があります
よかったら見てみてね。無縁な人は信じがたいのかもしれないけど
なんでもありでできる人がほんとにいるんだよ。
例えば幼児に性器の直接挿入とかね。
子ども虐待について、「そんなことをするのは許せない」
一方的に親を責める人がいます。
「親も苦しいなんて言い訳だ」といわれると確かにその通りです。
正しい言い分だと思うし。
「虐待は許せない」
確かにそうです。
でも、正直にいえば、
たかっち。さん的には
「だから?」
です。
だって、今困っている当事者に
外野第三者が自分を主語で自分の気持ち
語ってるだけですから。
自分のための発言なのです。
許す許さないと自分の感情を述べているだけ
当事者にはわかちあいではありません。
分かち合いを欠いてただ感想述べられても
困ります。
現実に起きている虐待を考えたら、
あなたの許す許さないではなく、
次に続く背後の
あなたの言動の方が問題です。
「子ども虐待」は親子の当事者がいるトラブルです。
当事者じゃない第三者。傍観者が
ただ自分の正義を述べる事って
例えば、よくいるでしょう。
喧嘩に介入してよけいもめさせる
迷惑な人。それにあたります。
正論で虐待してる人をせめても
追いつめてもっと悪い状況を作ることはあっても、
虐待はなくなりません。
虐待されて苦しむ子どものためには
虐待が止まることを考えないといけないわけで
自分の感情や正義観だけを押しつけて
もっと苦しめるのも
虐待に手を貸しているのと同じじゃないでしょうか。
虐待を肯定するのじゃなくて
虐待をしてしまうほど追いつめられていることを
受け入れることが
自分の力で状況かえていくことに
つながっていくなら
正義が棚上げでも間違ってないと思ってます。
。
追記
自分が親になって少し、なんで〜虐待を・・・と思う気持ちが分かりました。
自分の子どもに重なるからです。
でも、おもうけれど
虐待、被虐待は当事者同士の深刻な危機です。
善意の余計な第三者って事態を更にこじらせる事が多いし、
間に立つなら本当に覚悟が必要で。
「そんなつもりではなかった」は許されないような更な
虐待を招くこともありえるし、
「ひとのことならなんでもいえる」
ワイドショーリポーターはやっぱりひどいと思う。
虐待加害者の自助サイトは
何人もの本当の必要な人に役に立ち虐待の軽減に繋がっているのに
第三者の誹謗、嫌がらせなどで
(かつての被害者からもあるらしいけど)
移転閉鎖を繰り返しています。
それでも継続させているのは
虐待が減ることを願う善意と意志なんだと思いませんか。
許す許さないなどの正義観より
とても大事なこと、
沈黙で何人もの被虐待児が救えます。
現実に、加害者自助サイトに繋がって
書き込みすることで、
今日1回、明日1日、暴力と罵声、虐待されない子どもが
いるわけで、それより大事なことってあるんでしょうか。
自己の正義感なんて
優先させて誹謗なんてしないでほしい。
虐待の援助をしたいと思ったときにまず
考えて欲しいこと
某精力的な虐待援助の取り組みをしている団体には
びっくりするのですが、
医療職、カウンセラー等々専門職の方のなかには
私にも手伝わせてくださいとアクセスしてきて、援助するといっているのに
なぜ手伝わせないのかみたいな方がいるそうです。
この話聞いてから何年も経っているので少し援助の難しさの実態が
伝わっているだろうから、かわっているといいなと思うのですが、
ネットで心系などの被虐待当事者サイトでは相変わらず
秋になると「卒論で虐待を扱いますお話聞かせてください」がを掲示板で
よくみるし、心理学を学んでますって方のお節介好きは相変わらず
いろんなところでみかけるし。
そんなわけで、たかっちさん。が思う被虐待援助をしたいと思った方に
最低ライン望むことを述べてみます。
★★
一番最初はまず虐待とはなにかということを知ることがスタートに思います。
当たり前だろうと思うけど、現実は
虐待の事実を知って何かしないといけないと思った。
お話を聞いて上げたい。それくらいなら自分にも出来る筈と思う人が
いるんですよね。1冊も本すらよまないままに。
これも前述の団体の方から聞いたこと。
被虐待されたことを語るのは、再体験の苦しみ痛みなのです。
誰にでももっとも屈辱だったこと
恥ずかしさで赤面した記憶ってあると思うけど
それを思い出して語ろうとすると胸苦しくなったりしませんか。
そういうのがトラウマなのです。
被虐待の時の感情を表現するとしたら
屈辱と恐怖。の連続。
簡単に話せば楽になるようなことじゃないのをわかってほしい。
人によっては乖離のため淡々とあるいは明るく話すだろうけど、
心の奥は悲鳴をあげていると思った方が良いです。
外側しかわからない人は被虐待援助は難しいでしょう。
たいていの被虐待体験者は語ろうとして
再虐待受けた経験だらけでもあるし。
聞いてしまったら相手の苦悩を
一緒に分担出来る覚悟が出来てるでしょうか。
被虐待体験者は鬱を伴ってる事も多く、安易な励ましは
厳禁だと知ってますか。
1日も早く忘れて前向きになりましょうとか、
あなただけがつらいわけじゃないとか、頑張ってとか
日常的な無意識な感覚として人に言ってませんか。簡単に使っているとしたら
まず、その思考の癖を直すことが援助者へのスタートにしてほしい。
もう一つ、簡単によく頑張ってきたねつらかったねと
オーバーリアクションで共感したつもりってのも被虐待体験者には困惑して
ひいてしまう行為です。
共感って、相手への勝手な自己投影と紙一重なのです。
被虐待体験からの生き方として、フルパワーで才能を発揮させて
形としては立派な人生を築く人もいますが。単なる虐待からの逃走のための
火事場の馬鹿力状態みたいなもので、
どんなに成功しても苦しいし、誉められても、感覚的には共感ではないのです。
保護者に首を絞められたこと想像してください。
どんな感情が沸きます?おそらくはどんなに想像したとしても、
想像は想像だと思いますよ。
リアルに痛みに共鳴したら誉める言葉なんて
出てくるはずはないと思います。
人間、親に首絞められようと強姦されようと生きなきゃいけないので
突っ走るのであって、それを誉められたり偉いとか言われても
「私には出来ない」、自己と切り離し突き放した裏の本音が透けてるようなもので。
「私に出来ない」といわれたってどうしろと言うんでしょう
ただ壊れるか、死ねばいいのかな?
(これ震災被害者の方たちもいっていました)
それに、被虐待をどんなに語ったとしても。
語ってるのは一場面だけのことで、背後のことは他人には
全部はわからないのです。
私の体験ですが、心療内科へもいったことがあるけれど、
早くに父が他界したことから
「苦労したでしょう」といいだした。片親で育つ家庭環境は
それがあたりまえで、苦労したも何も、なんていうのかな、
片親ってのがひどく当たり前で、両親がいないからどうこうって
父母が健在の人が片親がいないことを想像する喪失はぴんとこないんです。
そういう違いからいちいちわかってもらわらいとだめなのかと思うと
めんどうになってそのクリニックはそれっきり。
家族の多様を、虐待されないことに比べて同情してるならそれは
共感でも何でもないんですよね。一方的な自己投影。
もし私だったら・・・はセカンド虐待に近いものだと思った方が良いです。
(ちなみにとある虐待援助スタッフ研修受けていてで
しんどいときに頼れる人、姑より実母だ〜と力説した方がいて愕然とした記憶が・・・
家族意識の多様性はほんとに当事者によりけりだというのも頭に入れてください)
虐待のエピソードを語っていても
それは虐待のピースを話しているだけなんだというのを理解して欲しい。
「おまえなんかいらなかった」といわれたエピソードを語っていたとしても、
結局のところ、セットでその言葉は本気だろうと思わせる日頃の積み重ねが
あるから虐待なのであって、
語られた場面のことだけで何かを簡単に分析して言えるとしたら、
それも、不適当。
「本気で言うはずがない。」「親だって人間だ」等々いきなり口にするのも
二次再虐待をしてるようなものにおもいますね。
たいていの被虐体験者は自分が悪いのだろうと延々考えます。
だけど、一時にせよ一生にせよ、親への怒りをむき出して戦わないと
「いらない私」自己価値を下げる呪いからは解き放たれ、
自分を大事に考えるようになれないのです。
怒りの吐き出しはえぐいことが多くて、
生々しい人間関係受け入れる準備が虐待援助の大前提です。
想像できない人は
どんなことかってのではたかっち。さんのおすすめは「シーラと呼ばれたこ」
その続編の「タイガーと呼ばれたこ」(早川書房)と
「甦る魂」穂積純 高文研です。
読んでみてください。「シーラと呼ばれたこ」は大ベストセラーの小説ですが、
感想文も本になってます。が、あのよい子コンクールのような感想に
共感してるひとが虐待援助を志したら怖いとおもうたかっちさんでした・・
親になってまず思うのは、
私たち大人のすることは、
虐待とはなにか以前に親の役割はなにか
子どもの健全な成長プロセスとはにか
それすら全く答えがないわけで、
虐待とはよりそれを構築する方が先だし、
大事なことなんだ思う。
例えば、育児マニュアルも
なんだこれが多いけど
(まるで旧世紀の裕福層の子供の世話かがりだけやっている
乳母向け想像させ
やってられるかこんなのという感じが・・・・)
それでも、
とりあえず乳幼児の分は沢山あるけど
今時はそれより学童、思春期の親の方が
よほど難しいのに、
学童向けの親へのマニュアルとして
あるのはせいぜい
問題のある子にしないためというタイトルのマニュアルだ。
でもよく考えると、私たちの世代だって、学童以降は
学校の成績以外で関心示してもらったことがない気がするけど、
それって、もう一つ上の親の世代は戦争のせいもあるけど、
10才で丁稚奉公とか農村の働き手だったり、
それより少し裕福な子が学校へいっていたわけで、
そんな時代劇世界みたいな子どもを過ごしてる彼らに
今のように20年も親の役割が大事なんて親をやるのは
難しかったろうと思う。
全然世界が違うのだから、学童、思春期の
親のあり方は親からは伝承されてるわけがないし、
かろうじて親の役割のモデルは
旧世紀の金持ち世界のゆとりがあった階層かもしれず、
だからそう、実は20世紀後半から
21世紀は、
現代の親の役割とは何かを子どもと向き合って
人体実験しつつ構築する世紀なんだろうな・・・
というわけで、子育ては
まあ他人は色々いっても結局
親としての直感勝負で気楽に?
が一番無難じゃないでしょうかね。
人に振り回されてもろくなことないと思う。
まじに。
ちなみに、色々子どもについての本はあるけど、
3才頃と思春期の二回の反抗期までを一貫して
子どもが大人になる健全なプロセスを
説明してるのは1970年代に平井義信が書いたもの
以外ではみたことがない。
平井さんは古い世代の精神科医で
お母さんの役割をめいっぱい強調していて
読むのがつらいけど、
実はこれを読んだのは10年も前で
子ども側から読めたので
そっか今の自分は遅い反抗期ってことかと
すくわれました。
今時の親向けに
誰か是非書いてくださいああいう本・・・。
少なくても、子どもは突然大人になりません。
世界を見る感覚そのものが違うし、
誕生後ゆっくり10年以上
じっくり色んな体験通して
大人になっていくものなのです。
そう言うことが全くわからないまま
親になってる人が多すぎます。
親になって変だと思うこと色々あるので思い付いたら
以下は、時々更新します。
子どもの発達を偏差値にしていいのかな
娘は30週936グラムの超未熟児ちゃん産まれなので
母子手帳に載ってる発達グラフも横目でしかみることなかったけど、
母子手帳に乗っていて発達の指針になってるあのグラフ
偏差値グラフだったんですね。
90スタイのラインというのはつまり100人の同じ誕生月の子のうち
このラインより
上と下に5人ずついますってことなのです。
そりゃ気になりますよね。あのグラフ
普通に産まれたらもっと絶対気にしていたと思う。
でも、そんな子どもの発達を偏差値にしていいわけないと思う。
現実に、あのグラフの浸透で、よその子と比べあってしまい。
1才過ぎても1才○ヶ月。
そんなのよその子見ても絶対解らないのに・・。
でもそんな比べあいなにかおかしくないですか。
そしてまた、保健所での
集団検診は早期問題発見の姿勢をとっていて
○ヶ月でコレが出来ていないと心配。
○才★ヶ月としては遅れている。要観察。
と子どもの成長を引き算で換算します。
親もつられてそうおもっちゃいがちですが、
でもそれはないんじゃない?
子どもの成長を一緒に喜ぶのは毎日その子なりのペースで
出来るようになるなにかを喜びたいです。
娘は未熟児ちゃんだったから追跡で入院していた小児科でも
発達検診を追跡で受けてるけど、
そっちでは。行くたびに大きくなったね〜といわれ、
★ヶ月でできない色々も
今出来なくても
誕生日ではなく予定日から数えた予定日から☆ヶ月で出来たら全然心配ないと言われ続け
ああそうなの・・とおもうわけで、
発達ってそうやって今出来ることをプラスに受け止めるのが大事な筈なのに。
確かに成長の遅は問題あるかもしれないときもあると思うし、
そのボーダーはあるけど
それって
例えば6ヶ月でこの体重以下と以上は成長の問題代抱えてる可能性あるから
専門家に相談しましょうとか
5ヶ月で首がすわってなかったら専門家に相談しましょうとか
あるいはリハビリがいるかもしれないとか
それで十分な筈で
あのグラフはおかしいと思う。
早いから遅いからなんだというわけって感じがします。
成長の問題は実際にはまず相当の要観察以後に
色々な事をトータルでなければ
わからないし、次々色々
あの可能性この可能性って変です。
はっきり確定もしないうちから
引き算されて発達遅れてるかもしれない
とかいわれても困ります。
どうも集検診うけると野菜の検品受けた気分で
なんだかなぁです。
ちなみに2ヶ月も早く産まれたら集団検診でも
遅れてるとかはいわれないけど
10ヶ月検診でまだつかまり立ちもできてなかったんだけど
その頃おすわりもまだくらくらしていて
ちょっと遅いかなぁと思っていたところへ
体を膝の上に載せて揺らして飛行機ごっこをすると発達がよくなってどうとか
一方的にいわれてあら娘ってやっぱり発達遅いわけ?とちょっと凹んだ
10ヶ月(修正だと7ヶ月半)で支えないと座れないのってだめなんでしょうか。
そりやあ、確かに早く歩けた方が良いに決まってますが、
現状のこちらの話も聞かず
勿論あくまで好意だったんたと思いますけど
あんな一瞬のように娘に触って動かしてみただけで
あれをしたらいいこれをしたらいいって
現状の否定みたいに思えてしまいました。
その遊びもあともう一つ筋力付けるらしい引き起し運動も
見せてくれたけそんなん突然1回見せられたってよくわからなかったし、
まるで成長遅れてるから早くとせき立てるみたいに
とにかく一方的な話をぼんぼんされたから
巻き込まれて聞き返したすら出来なかった。
とりあえず試しに娘にやってみたけど
嫌がるしこつがわかなんいしまあいいやと
嫌な気分だけがずっと残っただけでした。
ちなみに座れるようになった娘はそこからは
それなりにあっという間のように立てるところへは来てます。
親っていうのは、実際立って歩けて
そして言葉が話せるまで
大丈夫か・・・と不安と抱き合わせなのです。
専門家の言う一言はとにかく重いので
もっと配慮してください。
大体予定日そのものも
胎児の大きさからの推定だから
大きい小さいは個性だから前後に相当幅もあるし
集団生活をするような3才または6才までで
生活年齢が1才以上遅かったら
色々さわりがあるかもしれないけど、
数ヶ月の微妙な遅れはね。乳児のうちからなんて
そんな先まではわかるわけないしその早い遅いの幅が
それぞれの個性なのに。
グラフで並べるなんて人権侵害?とマジに思う。
娘は1才6ヶ月の今も8キロと小さいので
やたら小さいね・・・といわれ、半年違う
愛子様とおんなじくらい?と聞かれ、
まあいちいち気にしてられないけど・・
でも、ふと思うけど、
母手帳の程発達指針が月単位じゃなかったら
同じといわれたらそうなんですよね。ほとんどかわりない。
せめて半年単位に作り替えたら
私だけでなく乳児の親が
どれだけイライラしなくなるか・・・・・
発達グラフ指針表から娘がはみだしたから思うのことで
普通に大きくなったらああ普通だとグラフを見て
安心したと思うけど、
だからなんなんでしょうね。
よその子と比べちゃうベースになっちやうだけで
害の方が多いんですよあのグラフ。
せめて母子手帳からは外すと良いのにと思います。