
パラリンピック私観
〜パラリンピックって本当に必要?〜
日本人選手の活躍に沸いた長野オリンピックの興奮が冷めない時期に開かれ、予想以上の反響を呼んだパラリンピック、かつてこれほどメディアで取り上げられ、人々の話題にのぼったパラリンピックがあったでしょうか。
パラリンピックでの選手の活躍は、私たち、同じように障害を持つ者に勇気と自信を与えてくれ、そしてそれ以外の多くの人に素直に「すごい!」と言える感動を与えてくれました。
でも、私はあえて言いたいと思います。
パラリンピックって本当に必要なんでしょうか?
パラリンピックは元々脊髄損傷を負った人のためのスポーツ大会として始まりました。そして今も「障害者のための」オリンピック、と考えられ、日本でも、オリンピックが文部省管轄であるのに対して、厚生省の管轄であることからも、障害者の「リハビリテーションの延長」と考えられています。
でも、本当にそうでしょうか。今大会で、何人もの選手が
「見てもらえば、これがリハビリでなく競技であることが分かってもらえるはず」「私たちはアスリート」と言っています。
わたしは、実際に選手に会い、競技を見て、その言葉が真実であることを感じました。
そこにはリハビリを超えた、オリンピック選手と何ら遜色のない、パワーと技術を感じさせられるのです。
ただ単に「足が悪いから車椅子(チェアスキー)に乗っている」、ただ単に「目が悪いからガイドが付いている」というだけなのです。それを、「リハビリの延長」とか「障害があるのに偉いね」といって片づけることなんては出来ないと思います。障害があること、手足が不自由なこと、目が悪いこと、耳が悪いことetc…それらがなんで特殊なのでしょうか。
また、パラリンピックがあることで、「障害者はパラリンピックに出ればいい」と、障害者を健常者と分ける考え方も出てきてしまうと思います。「障害のある人もない人も共に暮らす社会」と訴えつつ、健常者の大会、障害者の大会、と分けるのはおかしいと思うのです。
だから私は思うのです、「障害者のための」パラリンピックなんて必要ないのでは?…と。
オリンピックがその競技の最頂点であり、目標とされる大会であるなら、障害を持っている人にとっても同じように目標となるべきだと思うのです。
もちろん、障害のある人とない人がまったく同じ線上で戦うのには無理なところもあると思います。でも身体的なハンディキャップに対しての配慮さえきちんとなされれば、健常者と障害を持つ人が同じ大会で一緒に戦ってもいいと思うんです。(この、ハンデに対しての配慮、というのが一番難しいから、分けてやれば簡単、と思われるのでしょうが…)つまり、例えばパラリンピックでのクラス分けをオリンピック競技でも取り入れ、障害のある人でも実力があれば健常者と競ったり、健常者がスレッジに乗ってホッケーをしてもいいのではないでしょうか?
パラリンピック競技は、競技人口が少ないため、認知されにくく、用具の普及や開発、環境整備も遅れていると言われます。でも、「アイススレッジ」はオランダで凍った水路を走る「アイスピッキング」を発祥とし、元々、障害者に限ったスポーツではなかったように、健常者だってアイススレッジを楽しんでいいと思うのです。そうすればもっともっと普及していくのではないでしょうか。
今回のパラリンピックが、人々の心の中の、「障害者はかわいそうな人」「障害者にはいたわりを…」という、ちょっと見下すような気持ちを吹き飛ばし、障害のありなしは関係なく、「その人」を見つめることが出来るきっかけになれば…と思います。会場で小学生が、スレッジホッケーの選手にサインを求め、一緒に写真を撮ってもらっていた…あの子達の心の中で選手は単に車椅子に乗っているだけで、プロ野球やJリーグの選手と何ら変わりのない「かっこいい人」「憧れちゃう人」なんだ、ということ…今まで、障害を持つ人に憧れる、なんてこと、考えられなかったのでは?
障害があるということが特別でもなんでもない、障害はその人のオリジナリティー…そんな気持ちになった人が一人でも多いことを、そして、その気持ちがいつまでも続くことを、障害を持つ一人として願ってやみません。
初めて見るパラリンピックに、ちょっと思い入れが強くなりすぎたかもしれません。
心からお待ちしております。 |
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