長田区鷹取東部大国公園



 神戸復興塾/震災復興の神戸を歩く (1997/ 4/26-27)
 1997年4月26・27日と、神戸で震災復興活動を進めている神戸復興塾のみなさんにお世話になり、震災後2年が経った神戸の街を歩いてきました。またその前には、NIFTY FCITYで知り合ったNAPIさんにお会いし、芦屋西部や神戸森南を案内いただきました。神戸復興塾のみなさん、NAPIさん、そして関係者のみなさん、本当にありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。以下はその状況報告と感想・意見です。
 なお、神戸復興塾について詳しくお知りになりたい方は、次のホームページをごらんください。 神戸復興塾

目次と行程
4月26日
被災者復興とまちづくりは別
 NAPIさんに会う
  ・芦屋駅から芦屋西部・神戸森南の区画整理地区を歩き、新駅へ

くらしとすまい
 神戸復興塾に参加(森栗さん、大津さんの案内)
  ・神戸復興館見学
  ・JR鷹取駅から鷹取地区/新長田駅南再開発地区を経て、久保町の仮設市場
   パサール/久二塚地区の再開発/震災で残ってしまった丸五市場

なぜ真野地区なの?
  ・真野地区(コレクティブふれあい住宅・真野小学校・地域型仮設住宅・真野まちづくり協議会)

八百屋さんだってNPO!?
 ドイツまちづくりNPO講演会に参加

4月27日
コレクティブハウスとシルバーハウジング
 神戸復興塾(三谷さんの案内)
  ・県営片山コレクティブ見学(上田さん説明)

自立型マンション
  ・長田中央小売市場/新湊川沿い・御蔵通り沿いを歩き、昼食後、
   大道通り自立型環境調和共同再建マンションを見学

神戸に学ぶこと
 解散後、自由見学
  ・御菅地区の区画整理地/菅原市場
  ・JR元町駅から大丸/トアロード/北野異人館を経て新神戸へ



被災者復興とまちづくりは別
 まず最初に芦屋の駅でNAPIさんにお会いしたんですが、長身のダンディーな男性。とりあえず喫茶店で初対面の挨拶の後、航空写真や芦屋西部地区の計画図(当初案・近畿大学1案・2案)などを見ながらお話を伺いました。私自身、確か2月頃に震災後の神戸調査ということで出張した際、芦屋駅から代行バスに乗った記憶があるのですが、バス停までの間歩いたあたりは、10軒に3軒くらい倒壊という印象でしたが、写真を見せてもらうとNAPIさんの家の周辺はほとんどと言っていいくらいベージュの土の色が見えています。それでも地区によってかなり差があり、特に西部の神戸に近い方がひどい。またNAPIさんのお住まいのある国道2号線から南の地区は戦災復興の区画整理をやられたそうで、5〜6m位の道路がけっこうしっかり入っているのに対し、北側は原っぱ状態。また南側の地区の東側芦屋川沿いの地区は区画整理の区域からはずされている、といった恣意的な扱いの状況なども聞きました。
 さて話を30分ほど聞いた後、外に出て地区に向かいます。
 芦屋駅の北側はベデストリアンデッキがあり、再開発ビルが囲んでいますが、これらも修復された由。しかし幹線道路沿いを歩いている分にはいくつか工事中の建物もあるものの、ほとんどは復興しており、多分地震前と変わらない様子。と思いきや、全面に青い網がかけられた建物が出現。「芦屋グルメ」と名付けられたこの建物は1・2階が飲食店、3階以上が公団などが入り、上の方は住宅の再開発ビルですが、タイルが所々剥離し、入居者もなく、当時のままになっているようです。こうしたビルもある。
 芦屋川沿いに出て南に向かいますが、橋の両岸の高さの変化など、地震による地形の変化なども伺われるようです。しばらく行くと昭和初期位でしょうか古い洋館が見えてきました。仏教会館と言われましたが、しかしこれなどは全く無傷。またルナホールや市民会館もしっかり残っていましたが、一部倒壊した部分はまさに工事の最後の仕上げ中でした。
 さて2号線を渡ってまず東進します。北側には地震後ジャッキアップなどをしつつ修復したマンションがこれも最後の仕上げ工事中でしたが、こうして再建されたマンションもある。
少し歩き、芦屋保健所のあたりを南に向かうと、突然空き地とプレハブ仮設店舗が入り交じる芦屋中央地区に入る。このあたりは震災前から再開発の計画が進められていた商店街地区だそうで、「再開発準備組合」という立て看板が「こんな物だけが残った」そうです。今は仮設の店舗が点在していますが、震災後2年以上を経てなおこの状態、かつ周辺では営業されている新しい商店街がいくつかある状況では、この地域の将来はどうなるのか、特に区画整理の計画のために時間がかかっていることが生活再建を送らせ、致命的な影響をもたらさないか、不安です。
 さてフクロウが入り口軒先についた芦屋警察署(これも古い建物です)を横に通り、川を渡っていよいよNAPIさん達の地区に入っていきます。大きな戸建てがいくつか並ぶそれぞれは修理されたもの、再建されたもの、様々です。しかし川を渡ったすぐのエリアは比較的良く元に戻っている。5mはあろうかという擁壁が動いた後などを見つつ西に向かい、次第に空き地が目立つ地区に入っていきます。しかしこのあたりは道路はほぼ生活に困らない程度には入っており、プレハブやら在来やら、だいたい5割から7割程度は建ち上がってきているのではないでしょうか。
 さらに北上して広い道路を渡り、北側の従来から道路がなかった地区(芦屋西部第1地区)に入っていきます。こちらの方はやはり接道が取れないのか、再建状況はかんばしくない。それでもえっここに、といった路地奥に建物が建ったりしている。こうして空き地と新築住宅の入り交じる中を神戸市域に入り、森南地区を歩き、JR沿いの地区で議論を呼んでいるという計画道路沿いなどを歩きつつ、新駅南側(といっても駅の影も形もありませんが)の大型店舗まで歩いて、再度コーヒーを飲みつつ、お話を伺いました。
 こうして歩いてみて改めて感じたことは、住宅再建は資金さえなんとかなればすぐにでも復興されているということ。もちろん土地が狭い、道路がないなど、どうしようもない地区もあるかもしれないが、少なくとも生活道路程度があれば必ずしもまちづくりとか区画整理とか云わなくとも、従前の状態への再建は十分可能と思いました。いや、基盤未整備な地区であっても、まず従前の状態への復興の道を指し示す、具体的には住宅再建への資金援助といったことかもしれませんが、従前の状態までは戻れるということを明らかにした上で、そこから先のまちづくりとを切り離して示す必要があったのではないでしょうか。
 「おとうちゃん、私達以外、みんないなくなっちゃった」と言った方がみえたそうですが、聴覚の一時的な障害なのか、異常に静かに感じたという地震直後。そんな精神状態の中へ、将来の土地利用構想、それも詳細に検討すると不必要なものも入っている、そんなものを示されたら、反発へ向かうか、まちを捨てるしかなくなってしまうのではないか。
 まずは元の状態に戻ることができる、という安心を与えることが必要。
 これは例え基盤未整備な地区であっても。
 反省はその後。
 被災者復興とまちづくりは別。
 例え都市計画的にまずい状態の地区であっても、そこまでは行き着けるという、被災者復興の道と可能性を示し、その上で2度とこうしたことの起こらないような地区再建を考え、理想的なまちづくりはさらにその先、というまちづくりにおける段階的な被災者対応が必要だったのではないか、と思いました。
 これに関係しては、災害に対応した社会補償のシステムの必要も感じたところですが、これについてはあまり知識がないので、これだけでとどめて、次はいよいよ神戸市街に入っていきます。

くらしとすまい
 お昼頃、三ノ宮に着いてホームから眺めた神戸の街は、連休の初日故か、すごい人人人。まず神戸復興館フェニックスプラザに向かいましたが、その前の空地も人待ちの人だかり。しかし神戸復興館の中はぽつりぽつりとしか人がいなく、コンパニオンの女性の視線が恥ずかしいくらいでした。展示は映像、ジオラマ、パソコンゲームと趣向を凝らし、住まい、復興計画、活断層、防災の心得と様々な視点から展示がしてあります。また2階のカウンターでは相談も受け付けていましたが、何分利用者がいない。結局、震災記念館にすぎなかった。住宅情報もタッチ画面で検索できるようになっていましたが、本当に切実な人はこんな遊びはしないだろうなと。
 案内をしていただいた森栗さん(大阪外大助教授・都市民俗学)は、髪を後ろにひっつめた精力的な方。年は私より少しだけ上のはずですが、早く歩き、良くしゃべり、心を掻き立て、笑わせ、考えさせる。彼に遅れまいと、また聞き逃すまいと、カメラを片手に右往左往していました。
 まずはJRで鷹取駅へ。途中、兵庫駅南側の公団のキャナルタウンの話(地震後、災害住宅として家賃6,000円で供給とのこと)、鷹取工場の話(死体安置場になっていたとか、職員通路を使って行き来したとか)などをききながら、駅前に立ちます。駅前は広く普通の地方の町の駅という感じでした。少し歩いて、まずは大国公園(扉の画像)に向かいました。ここへはやはり震災後に自転車で来たことがあります。そのときはそこから東は焼け野原で、黒く焦げてなおかつ営業していた病院と遠くに見えたアパート、そして「何処そこにいる ○○」といった張り紙や献花が記憶にありますが、今日は4月の青空に鯉のぼりが何尾も元気に泳いでいました。またちょうど、公園内にある記念碑の前では、震災後記録映画を撮り続けている青池監督がまさにカメラを回しているところでした。その記念碑に埋め込められたタイル画が設置後わずか2〜3日で何者かの手で壊されたそうで、森栗さんも相当嘆いていましたが、ひょっとすると被災者自身の手かもしれない、そう思うと余計悲しくなりますね。
 さて鷹取といえば鷹取教会だそうで、ボランティアの拠点になったそうですが、一応訪問し、紙パイプでできたホールなども見せてもらいました。鷹取東部の区画整理はいち早く事業認可され、道路築造なども進んできています。もともとこの地区は前に訪れたときも感じましたが、道路は碁盤目状に比較的しっかり入っており、区画整理といっても、裏筋に1本道路を入れる、といった程度で済んだのではないでしょうか。今はまだ仮設店舗なども残っていましたが、周辺、特に西側の地区がしっかり残っていることからも復帰は早いと感じましたが、甘いかな。森栗さんが声を潜めて「あの××屋のおじさんは反対派やったんやけど・・」と説明をしてくれましたけど、もちろん今の状態になるまでの苦労というのは、住民共々大変だったと思います。
 続いてその東側、鷹取駅南再開発の区域に入っていきます。ここは火災は大丈夫だったけど壊れた家はかなりあった模様。市営住宅の裏手などに市が買収した空き地が真新しいフェンスに囲まれて数多く点在しています。これらはこの地区を出ていった人の土地、一方、プレハブや仮設で再建された家もいくつかあり、市の再開発の構想と地元の状況との食い違いが今後どういう展開を見せるのか、心配です。森栗さんが紹介してくれたのは、震災で亡くなった7人のおばあちゃんが守っていたという小さな祠。名前の書かれた白い紙が悲しい。
 さてその横には震災後、今も残る古い高層のRC造。下は店舗、上は住宅で、今は住む人も管理する人もいないまま放置。こういうのが一番困る。
 新長田駅前のアーケード街を南進して久保町・大正筋商店街へ。この地区も前に来たときはアーケードがつぶれ、家々も壁のない1階部分で潰れたり、隣にもたれかかったりし、さらに裏手は火災で何もなくなって、悲惨な状況でしたが、今は復興仮設市場パラールが再建され、元気を取り戻していました。仮設テント張りの市場内にはダイエーを始め100近い小売店舗が入り、少し前のショッピングセンターのイメージでそこそこ賑わっていました。
 この市場を抜けて、久二塚まちづくり協議会の事務所内で森栗さんから今後の構想などを聞きました。この地区では、久二塚5(ファイブ)バザールマーケット構想なるものを元に再開発計画を進めているとのこと。パラールの中を通りながら「これで十分やんか」とつぶやき、「これを実現するのもしんどいけど、できた後、周りの商店街がどうなるか、ということも問題やねん」とも言っていた森栗さん。その次には、その震災後、壊れずに残ってしまった市場というのを見に行きます。
 それが丸五市場。言われるとおり、昔のまんま、錆かけたトタンの看板が垂れる中をいくつかの小さな商店が軒を連ねます。全部で20位はあるでしょうか。狭い中ではそれなりに活気のあるように見えましたが、その中の1店。韓国料理の素材などを売る店でチゲ(韓国風お好み焼き)を買ったところビールを出してくれてみんなで飲みながら食べましたが、独特のたれをつけて食べるチゲのおいしかったこと。しかし出してくれたビールの方が高いよ。「俺が行くといつも酒を出すんねん。困るねん。」と言っていた森栗さん。韓国人のこの女性にも震災前、そして震災後の人言えぬ苦労があったのでしょうね。
 丸五市場を出たところの広い幅員のアーケード街。ここはかつて長田区が人口25万人を誇ったときの市民の胃袋を支えたメイン商店街(六間道商店街)。しかし地場の産業が衰弱する中で同様に商店街としても衰退し、震災後には周辺の住民は仮設住宅や近郊都市へ去り、しかし復興再開発という展望も開けぬまま、行政からも忘れられ、シャッターを閉めたままの店舗が並んでいます。こうした商店街はどうすればいいのでしょうか。
 「くらし」があり「すまい」がある。「すまい」があるからこそ成り立っていた「くらし」があって、震災が「すまい」を奪い去った後、そうした「くらし」をしていた人たちはどうすればいいのでしょうか。
 やはり被災者対策というのは、まずその場で生活を再建する、というのが基本だというのが如実に表れているように感じました。何もなくなってしまったまちを5年かけてきれいにしても、そのまちに頼って生活していたまちの5年間はどうなってしまうのか。都市計画はその地域だけを見るのでなく、連関する全てのまちがうまく動くように計画されなければなりません。
 橋を渡って、次は真野地区に入ります。

なぜ真野地区なの?
真野地区といえば、都市計画・まちづくりを勉強している人なら知らない人はない、というほどの地区ですが、私は今回初めてこの地区に足を踏み入れました。
 震災後、三ツ星ベルト工場との連携もあって、火事を無事食い止めた、ということでもって、その名声はますます上がりました。真野小学校での被災者テントでの運営も比較的うまくいったように聞いています。
 この地区の真ん中、三ツ星ベルト工場の北側、鉄工場との間で建設中の真野ふれあい住宅「コレクティブハウジング浜添」の隣の空き地に一旦集まって、コレクティブの概要や真野地区の概要などを聞いた後、「あとは自由見学」と突然突き放されました。
 といってもどこいったらいいの。
 と言いつつ森栗さんは一つの路地にある地蔵祠に案内してくれました。こうした路地がやはり真野の一番の特徴なのでしょう。狭い路地に面した家々から植木鉢やらプランターやら所狭しと表出し、自転車が止められ、そしてなんと物干し竿が両側に並ぶ。この物干し竿、鉄製のもあれば木製のもありましたが、しっかり地面に植わりアスファルトに食い込んでいます。これが一番びっくりしました。しかしそうした路地はちゃんとそこそこの広さの生活道路につながり、道路はきちんと碁盤目状に整備され、そこにはマンションや商店や、工場や普通の住宅が並ぶ。このあたりの風景は全国どこにでもある景観です。
 まずは真野小学校へ行きました。震災後、元々建替計画があったこともあり、アーチ型屋根の3階建ての校舎に建て替わっていました。そこで本当に森栗さんと別れ、次は地域型仮設住宅を見学。地域型仮設住宅とは言ってみればコレクティブ型住宅。すなわち共同炊事共同トイレとなった仮設住宅のことで、この真野地区だけでも3ヶ所作られています。各住戸は2間4間の8坪で多分2部屋あると思うので取りあえずはなんとか生活できる規模でしょうか。問題はここからどこへ行くか、ですよね。コレクティブ住宅や災害公営の評価については別の稿で。
 ついで「真野まちづくり会館」を訪問。突然おじゃましましたがちょうど留守番をしてみえたおじさん(中藤さん?失礼、名前失念)に色々とお話を伺いました。会長の林さんや宮西さんの活動の状況(なんでも名古屋へ行っているとか)、延藤先生のこと。震災時のこと。コレクティブへの好意的な評価。まちづくり協議会自体は今でも月3回住民が集まり、打ち合わせをしているとか。トンプーさんの段ボール棚もしっかり活躍していました。私達が夕食の場所を探しているというと、これだけ入れる店はあそこしかないと自転車で案内してくれ、その途中で近所のおじさんに「ちょっと留守を頼む」と言い置いていくところなど、この地域で根付き育っているコミュニティの力をかいま見せていただきとても参考になりました。
 真野という町は工場とともに暮らす職工の町として生まれ、路地で象徴される共生的な生活習慣を生かしつつ、地区改善を進めてきた町と理解していますが、神戸の中でこうしたまちづくりはなぜ真野で代表的に繰り広げられたのでしょうか。他の地区ではこうしたまちづくりはなぜできなかったのでしょうか。またはあったのでしょうか。このあたりの評価を教えてもらえればうれしく思いますが、取りあえず私としては、初めて真野の町を見、町の人と触れ合って、けっして真野が特別な町ではない。どこにでもある町だし、こうしたまちづくりはどこでも展開することができる。そんな感想と安心感を持って帰ってきました。

八百屋さんだってNPO!?
 26日夜のメニューは、神戸復興塾の人たちと一緒に「ドイツOTTENSENのまちづくりNPO」について、ウーリッヒ・トールマンさんの講演を聴きます。トールマンさんは建築家。ドイツ・ハンブルク市のオッテンゼン地区で、不法占拠住宅の改修活動や低所得者向けの住宅供給(この中にはコレクティブ住宅や借家型コーポラティブ住宅も含む)、そしてそれらに関連する調査・研究・コンサルティング等の業務を行う有限会社STATTBAU(シュタットバウ)を経営しています。
 NPOと云っていますが、ドイツには日本と同様、NPOに関する法律はないので、組織としては有限会社の形態を取っています。しかし、政府のプログラムとして、前述の住宅改修等に対し補助を行うABBという制度があり、この事業をオッテンゼン地区において専門に行う組織としてこのシュタッタバウがあり、その補助金収入が会社収入の60%を占めているそうです。
 さて講演後の質問は、シュタットバウが供給しているコレクティブ住宅についてと、もう一つはNPOについての2つに集中しました。前者については、ドイツのコレクティブでは若年・母子家庭が中心であること。後者については基本的に有限会社であることが繰り返されたかと思います。また同席していた神戸大の室崎さんからは行政・市民・NPOに加えて企業の役割が重要であるという指摘があり、また震災神戸に対する提言をという質問に対しての「新しい都市型居住の模索を」という回答に対し、思わず私から「欧米のようなシェアする文化や明確な都市型文化がない日本とは同一視できないのではないか」という趣旨の質問をしてしまいましたが、ちょっと筋違いだったようです。
 さて、講演後、愛知県から参加したメンバーで夜の街に繰り出し、また部屋に戻ってからと、色々と議論をしたんですが、その中心が、神戸復興塾は何をしようとしているのか、NPOとは何か、我々は(一応建築士会の会員ですぅ違う人もいるけど)何をしたらいいのか、といったことだったと思います(問題意識として)。神戸の人たちもNPOとして何をしたらいいのか、どうすれば成立するのか等々、非常に気にしているように見受けられた。しかしドイツでは、例えその収入のかなりの部分が補助金とはいえ、有限会社をNPOと自称している。組織形態が問題じゃないんじゃないか。アメリカの株式会社というのは利潤を出し株式投資した人に配当をすることが目的とされているが、日本の中小の会社では、出資者兼経営者は利潤は配当ではなく会社へ還元し、自らは月々給与をもらって生活している。利潤が目的ではなく、会社運営が目的で、金銭的には給与に頼っている。これはまさに非営利じゃないか、NPOじゃないのか。「そうだ、設計事務所だってNPOだ!?」と。こんな理解はちょっと強引すぎますかね。
 ちなみにボランティアについて。私はボランティアは字義どおり、やりたい人が自発的に(その意味で自分のために)行う行為と思っています。だからボランティアとNPOとは直接には何の関係もない。NPOに必要なのはニッチを埋めようとする起業家精神であり、資金収集も含めて如何に組織を経営的に成り立たせるか、そのことがNPOにとって最大の課題であると思っています。行政の支援もそうした観点からの支援が必要に思いますがいかがでしょうか。ちなみにボランティアも同様、自分がやりたくてやっている行為をより有効に働くよう、如何に支援しコントロールするかが行政として求められることで、でもそれは浮気だし、いつ辞めたというかもしれないのだから、機能の一つとしてはめ込み期待するというのは(例えば応急危険度判定士とか)、何か違っていると思えてなりません。

コレクティブハウスとシルバーハウジング
 27日は神戸高速鉄道花隈駅から長田駅へ向かいます。今日も朝案内をしてくれた森栗さんには、車中で専門の都市民俗学のこと、神戸復興塾の今後のことなど、色々と話を聞かせてもらいましたが、なかなか面白かった。ただし遅刻気味で焦っていた森栗さんには迷惑でした。
 最初に訪れたのは、県営片山コレクティブハウジングです。神戸で唯一最初に完成した公営コレクティブハウスですが、残念ながら入居希望者がなく、現在は空き家。この住宅の前に、今日の道案内役の三谷さんと、神戸協同病院の上田院長が待っていてくれて、上田先生の方からコレクティブ住宅及びシルバー住宅について説明をいただきました(ちなみに上田先生は私と同年くらいの若い?でした)。
 片山コレクティブは長田区の中では山の手の戸建て住宅地の中にある戸数6戸の木造2階建てのしゃれた建物ですが、高齢単身者向け住戸6戸をグループ募集したということで、応募がなかった原因として、一にその立地、つまり現に仮設住宅に居住している人たちにとってはなじみのないところにあったこと、二つ目には単身者6人のグループ募集ということで、なかなか単身者だけでは6人というグループは難しかったこと、をあげておられました。しかし真野のコレクティブ住宅では、1DKから3DKまで住戸タイプを3種類取りそろえ、またシルバー住宅は21戸一般向けを8戸としたことから、高齢者だけでなく母子家庭等の応募もあり、もちろんその立地がかなりの要因とは思いますが、結果として2倍の応募があったそうです。それにしても災害公営が一般的には10倍程度の倍率がつく、ということですから、今回の実験的な取り組みに対する一般の理解度というのはまだまだという感がします。
 上田さんの説明の中で、従来のシルバーハウジングではLSAの対応が「見守り」が中心で、住民相互のふれあいを促す仕掛けがされず、かえって「閉じこもり」を生んでいる状況もある。しかし今後の高齢社会に向けてはケア付き住宅として期待するところは大きく、LSAの役割の見直し、ソフトづくりが必要だ、ということでした。一方、コレクティブについては、「ふれあい」と「住民自治」という面で期待するところが大、という評価でした。
 私としてはどうしても愛知県に照らして考えてしまうんですが、愛知県の場合はLSAはもう少し「ふれあい」に向けた業務をしている、と思います。このあたりはLSA一人あたり受け持つ戸数の違いということがあるかもしれません。また今回のコレクティブの場合、仮設住宅に居住している人が中心で、グループで入居をしてくるわけですが、愛知県のシルバーの場合、ほとんど建替で計画されている。すなわち仮設住宅と同様、顔見知りどおしがそのまま建替後のシルバー住宅に入居するという点で同様の構造にあります。コレクティブの特性としては、ハード面での協同スペースの存在とソフト面で協同生活、といってよいかと思いますが、日本のこれまでの生活の中で、例えば真野の生活を思い浮かべても、ある程度はプライベートを尊重しつつ、ある部分は協同生活をする、その頃合いというのが暗黙の中で営まれている。空間もその頃合いに応じて計画されるべきではないか。その意味では、建替前の顔見知りどおしをそのままシルバー住宅に移し、協同生活の場と機会として生活団らん室をうまく活用すれば、必ずしも共同炊事とかにこだわらなくてもいいのではないか、という印象を持ちました。
 このあたりは、神戸の震災後の特に精神的なダメージが残る高齢者、また地域型仮設やその前の避難生活の中での助け合い経験、といった特殊性を考慮すれば、一概にコレクティブを否定すべきとは思いませんが、しかし真野のまちづくり協議会のおじさんが言われたような、「今後、日本中に広まると思いますな。」というほど、楽観的にも思えない。日本人の協同生活に対する根本的な生活態度をよく検証し、気持ちよく参加できるようなハードと仕組みを考える必要があるように思います。個人的にはコレクティブは若中年単身や母子家庭向けを中心にし、高齢者向けにはシルバー住宅にケア・システムと団らん室等の共有空間の充実で対応し、コレクティブ的な生活は必ずしも求めない、といった方向の方がスムーズではないかと思いましたがいかがでしょうか。

自立型マンション
 上田先生には片山住宅で失礼をし、後は三谷さんの案内で歩きます。三谷さんは関西大学の商業論を専門とする先生。森栗さんと打って変わって物静かに、しかしポイントを押さえた案内をしていただきました。
 片山住宅からの急坂を下って(これも高齢者に優しくないと不評でした。私はいつまでも元気な高齢者を育てる、と冗談を言っていましたが)、長田神社の参道を通り、長田中央小売り市場に向かいました。ここは新湊川沿いの市有地に戦後の闇市が発端でできた市場で、震災により建物は全壊したものの、幸い焼失は免れたことから、震災直後に炊き出しを行い、さらに1ヶ月後には共同仕入れ、共同販売という形で仮設市場を再開したところです。その後、仮設住宅への行商など、地域と密着した商売を続けてきたということですが、それでも住民がいなくなった、というのは商売にとっては決定的に辛いことだったようです。当日は残念ながら市場は休みでしたが、衣料部とか日用雑貨部、精肉・かしわ部といった看板が共同経営を示していました。なお今年の12月には近くの市有地へ移転・新築が決まっているということで、これからの更なるがんばりが期待されます。
 続いて、新湊川沿いの長田区役所跡や新区役所、消防署等を見つつ南進し、御蔵5丁目のボランティア基地跡などを眺めながら、昼食としました。
 昼食後、午後のメインイベント、大道通りの自立型環境調和協同再建マンションに向かいました。このマンションは、大道通り沿いの阪神高速道路の建設に伴い建設を計画していたところを、震災後、受け皿住宅として建設されたものです。
 この住宅の特徴は、太陽熱発電と蓄電池で電気を確保し、また雨水の貯水槽も設置して、震災等の災害時にも最低3日間程度は自立して生活ができるよう設計がされている、という点です。これは非常時のことですが、常時も太陽熱発電は共用部分の照明やエレベーター、また貯水槽の水をトイレ用水として利用するためのポンプの電源に使われていますし、売電も可能とのことでした。その他、オール電化とか、電気温水器の非常用コック、外から蹴破れるドア等、様々な工夫がされています。またこうした設備を持つ住宅であることを地域に積極的にアピールし、地域にとっても安心できるマンションでありたい、と言われていました。
 なお住宅市街地総合整備事業の補助を受け、市で借り上げて、約70m2で当初家賃が63,000円で20年の傾斜となっているそうです。公営住宅なども積極的に取り入れるべきだ、との設計者で居住者でもある林さんの言葉は、素直には賛成できませんが、公共施設についてライフラインが途絶した後も機能するためには、参考にすべき部分が多いと感じました。
設計者の林さんがこのマンションについて書かれた「自立建築のあるまちづくり」という本が出ています。

神戸に学ぶこと
 大道通りを東に歩き、地下鉄の駅まで行ったところで解散となりました。復興塾のみなさん、どうもありがとうございました。
さて私はその後、南下し、御菅の区画整理地区に向かいました。このあたりもそうですが、神戸の街全体に、表通りに面する部分は、かなり建物の再建も進んでおり、ほとんど他の街と見分けがつかないような状況ですが、1歩奥に入ると、途端に仮設プレハブが並んでいます。御菅地区も同様で、飛び飛びに美容院等の仮設の店舗が並んでいますが、その間には、まだ基礎が剥き出しのままの土地が点在しています。その地割りを見ると相当狭い。この地区の震災前が想像されます。まちづくり協議会の建物の中では、ちょうど住民の集まりが開催されており、共同建替らしいパースを手に懸命に説明し、また議論している姿が見えました。50名位でしょうか。おおぜい集まっている、という印象です。
 瓦礫と仮設店舗と花壇に花が咲く中を菅原市場に入りました。あいにくここも休日でしたが、今回いくつか回った仮設市場の中では、エアコンなども完備し、相当に水準の高い整備がされていました。
 その後は兵庫駅まで、ふらふらと町中をさまよい、ようやく電車に乗って、元町で降りました。実は友人の奥さんの実家が経営するパン屋がトアロード沿いにあり、震災直後、その建物を見に行ったことがあったので、その後どうしたのか確認をしたかったのです。その時の状況は、1階部分の柱のコンクリートが剥がれ落ち主筋がやや曲がって見えていて、ジャッキアップして鉄板巻き等の補強をした上でもう一度コンクリートを充填すればなんとかなるかどうか、という話をしたのですが、老いた両親だけで切り盛りしているパン屋で、建て替えるだけの気力はない、と話していたものでした。行ってみると、確かこのあたり、という所にそのパン屋はない。代わりにデリカテッセンの店だかが入っていましたが、建物は新しそう。いや、お化粧だけし直した可能性もある。このあたり、本当にきちんと補修されているのか、きれいになった神戸の街のお化粧の下の状況が大いに気になりました。
 それにしても元町といい、トアロードといい、すごい人混み。我々はさらに北野町の異人館を巡って新神戸駅まで歩いたのですが、異人館はすっかり修復され、以前以上に賑わっている、という印象でした。逆に昨日、今日と見てきた街はなんだったのか、と思わせます。しかし、実際はあちらが現実。この事実をもっと我々は知り、噛みしめる必要があると思います。
 こうして神戸での2日間が終わりました。通じて感じたことは、神戸に起きたことは確かに異常なことであり天災であった、しかしその後の状況は人が作り出してきたことである。特にまちづくりという局面では(被災者復興を第一にすべきだったのではないか、という感想はあるものの)、人と人というぶつかり合いの中で模索してきたこの2年半の出来事をきちんと検証する中で得ることは、非常に多くあるということ。また神戸及びその近辺の人たちにとっては、否応なくまちづくりという局面に巻き込まれたということは本当に大きな経験だろうということ。そしてこうした人が動いたダイナミックな軌跡を前に、冷静に個人としての自分を省みて、今何を考え、何をすべきかを改めて問い直すよい機会となったと思っています。それにしても人の力、そこから全てが始まる、それが一番の感想です。

 久しぶりの神戸 (1999/ 1/19)
 4周年が過ぎた数日後の先週、一昨年以来、実に2年ぶりに神戸を歩いてきました。
 歩いたのは、JR新長田駅から鷹取駅まで。前は鷹取から真野まで歩きましたが、真野を除いて、だいたい反対に歩いた感じです。

 新長田駅南は、たしか、震災後、広大な防災公園を含む再開発計画が計画決定され、話題となったところですが、既に20数階はあろうかという超高層が建築中で完成も間近の様子でした。その足下にプレハブの再開発事業の仮設住宅が立ち並んでいます。結局、ここまで動いているんだと思いつつ南下し、国道2号線を渡っ
て、大正筋に入ります。

 ここの左右、2号線沿いの腕塚5丁目と6丁目の再開発事業も、既に相当な規模の商業ビルが建築中でした。この筋は震災直後に入ったときはアーケードが落ちて相当に悲惨だった所。また2年前には仮設復興市場「パラール」が建築され、復興への足取りに感動したところですが、今もまだ結構な客で賑わっています。これら
の店舗は幹線沿いの再開発ビルに入居するのでしょうか。パラールを抜け、前にこの地域の再開発計画をリードしていた久二塚まちづくり協議会の事務所がこのあたりにあったはずと足を進めると、今も相変わらずプレハブの建物が建っています。できれば声をかけて現状など伺いたかったのですが、時間がなく足早に通り過ぎ、
再開発仮設住宅が並ぶ中を大正筋に戻りました。
 2年前はまだ雑然とした感じが残っていましたが、道路が広く整備され、大正筋などはカラー舗装工事がされているなど、雰囲気は大分明るいものとなっています。しかし問題はかつてのような商業が再び成り立つのか、又はどういう街として再生されるのか、ということでしょう。また2年後を見てみたい思いがします。

 さて、大正筋から北へ戻って、鷹取方面、若松地区へ向かいました。この地域は、一面焼け野原となり、その中で救急活動を続けた病院やカトリック鷹取教会、そして焼け止まった大黒公園などで一躍有名になったところですが、道路が拡幅整備され、その間にかなりの数、住宅や店舗が建ち並び、復興しつつあると言っていいでしょう。しかしそれらの多くは、プレハブやサイディングの張られた3階建ての住宅で、緑が少なく、街並みとしては寂しい。店舗も震災直後のプレハブに描かれていたサイケなイラストを思い起こすようなキッチュなデザインのものもあり、全体として品格といった印象からは遠いように感じました。隣接する焼け残った地区に植木や緑の多い伝統工法の木造住宅があるのを見ると、やや哀しい気持ちもします。カトリック鷹取教会は、塀に描かれた絵共々この地区において依然異彩を放っていましたが、地元の人はこれをどう見ているのでしょう。

 夕闇が迫る中を足早に小1時間余り歩き回っただけで感想を述べるのは間違っているとは思いますが、やはり震災により一旦は街が壊滅状態となった影響は計り知れないし、その地区に意識や心の継続を(街の景観の中に)求めるのは難しいと感じました。良い文化が再建されることを祈りたいと思います。