In Search of Wonder
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ワイドスクリーン・バロック

Wide-screen Baroque
 
<長編>

Flight into Yesterday  (1949 Startling Stories; exp 1953; vt The Paradox Men)  チャールズ・L・ハーネス

Flight into Yesterday 掲載号 (1949/5)Ace Books 版 The Paradox Men

以下の文章は、偶然にもこれを書いている今(1999/11/3)からピッタリ3年前、NIFTYのFSF2会議室に別ハンドルで書いたものの再録です。木戸英判さん、始終霞さんとのハーネス談義はすごく楽しかったなあ……

ハーネス研究は私のライフワークなので(^^;)、今後もおいおい書き足していきます。単行本未収録のものも含めて、一応ほぼ全作品を持っています(読んでいます、といえないのがつらい(^^ゞ)。


  あちこちでハーネスのことを「面白いおもしろい」と煽り立てるばかりでは、"肝心の中身が分からなければコメントのしようがないよ"とご不満の方もいらっしゃるかも、と心配になりました (^^;;;。  そこで、粗筋をやや詳細に追ってみようと思います。ネタバレに構わず書き込みますので、翻訳されたときまで楽しみを取っておきたい方はご注意ください(ただし、愚考するところ、この"The Paradox Men" は、粗筋どころか一度通して読んだくらいでは面白さが半減することはありません。むしろ、再読三読して巧妙に張られた伏線
を堪能し、登場人物それぞれの立場から読み直したりしたときの方が、さらに大きなセンス・オブ・ワンダーを感じられることは保証します)。なお、私の拙い英語力では読み違いも少なくないと思われますが、その点はご容赦ください。
 

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  ネタバレ注意!ネタバレ注意!ネタバレ注意!ネタバレ注意!ネタバレ注意!
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Charles L.Harness "The Paradox Men(1955, ACE BOOKS)"  ――粗筋

  2177 年、人類はすでに太陽系内への進出を果たし、まもなく史上初の超光速宇宙船を完成するまでに至っていた。しかし、地球では東西二大ブロック、アメリカ帝国と東洋連邦が覇権を競い、核ミサイルによる一触即発の危機が限界まで高まりつつあった。
  アメリカ帝国では、いまは亡き先代皇帝の後、首相ヘイズ=ゴーントが実権を握り、独裁者として君臨していた。噂によれば、皇帝爆殺の首謀者は首相本人だともいわれていた。奴隷制に依存している帝国は、国民の三分の一が奴隷の地位に甘んじ、貴族たちのもとで、また帝国警察の監視下で、日々辛酸を舐めていた。  そんな独裁国家に敢然と挑戦する謎の組織があった。盗賊協会と称するその地下組織は、貴族、富豪の財産を奪い、その金で奴隷を解放することを目的としていた。盗賊には自ら定めた法典があり、他者を殺すことは禁じられていたが、一方で、銃弾が貫通不可能なエネルギー・フィールドを生体に同調させており、事実上、使える武器は双方とも剣やナイフに限定されていた。
  ヘイズ=ゴーントには、政治的緊張とは別に深いコンプレックスがあった。大学時代からのライバルだった、ケニコット・ミュアーのことだ。かつてミュアーのために有罪判決を受けて強制労働を課せられた上、帝国首相を賭けた選挙の前夜には、太陽探査から帰還したミュアーによって、太陽の巨大な引力を克服する画期的な元素ミュアリウム発見が発表され、英雄の座を目の前でさらわれてしまったのだ。さらに、ミュアーはその発見を、奴隷解放のために利用することを提案、奴隷制を支持するヘイズ=ゴーントと再び激しく対立する。ヘイズ=ゴーントはミュアーを私室に呼びつけ射殺するが、ミュアーの死体は消失した。そして、そのときから盗賊の跳梁が始まったのだった。いまから十年前のことである。
 ヘイズ=ゴーントの復讐心は、ミュアーの未亡人キーリスを奴隷として買い上げ、おのれの妻とすることでかろうじて満たされた。ミュアー生存の可能性にすがるキーリスは、いっさいの感情をヘイズ=ゴーントに見せないことで、せいいっぱいの抵抗を示した。
  懸念される東洋連邦との衝突を有利に運ぶため、奇襲攻撃を検討していたヘイズ=ゴーントはその日、マイクロフィルム・マインドのもとを訪れた。元サーカス芸人で抜群の記憶力を見世物にしていたこの男は、ミュアーが行方不明になった頃、心理学者シェイに発見されて政府顧問となり、潜在意識を利用することで常人にはかなわぬ未来予測をやってのける能力を発揮していた。マインドは奇襲の成功を左右するもっとも危険な要素として、エイラーという男の名を挙げた。エイラーは帝国大学の教授だが実は盗賊であり、しかも超人的能力を持つミュータントだというのだ。
 警察長官サーモンド率いる帝国警察は、大学を急襲。エイラーを拘束しようとするが失敗、エイラーは逃走する。警察がヘリを繰り出してエイラーを追い詰めたとき、彼の身に不思議なことが起こった。自分そっくりの男が出現し、ヘリの包囲を破っていずこかへ走り去ったのだ。その間にエイラーは窮地を免れた。
  指名手配となったエイラーは、キーリスの部屋に逃げ込んだ。キーリスは密かに盗賊と通じており、エイラーを仮面舞踏会にまぎれ込ませるが、やがてそこにも包囲の輪が迫り、エイラーは焼却炉から脱出、その隣の工場で完成間近の超光速宇宙船T−22を目撃するが、その瞬間自分が遠い昔この船を見たような記憶に苛まれ、気を失う。同じような既視感はキーリスの髪の香りをかいだときにも起こっていた。エイラーには過去の記憶がなかった。五年前、オハイオ川の土手をさまよっているところをヘイヴンとコリプス、大学教授の仮面をかぶった盗賊二人に保護されたのだ。いったい、自分は何者なのだろうか?
  逮捕され、シェイの拷問を受けたエイラーは、無重力の宇宙空間で人体の断面のような形をした物体に同化したと思った瞬間、意識を取り戻す。ヘイズ=ゴーント夫人キーリスを誘拐したと思わせて解放されたエイラーだが、こんどは盗賊協会に政府のスパイの疑いをかけられ、死刑を宣告された。
  そこで初めて耳にした、エイラーが記憶を失って発見されたときの状況は不可解なものだった。外宇宙からの船がオハイオ川に墜落、メガネザルとエイラーが発見されたというのだ。そのメガネザルは現在ヘイズ=ゴーントのペットになっていた。エイラーが保護されたのはミュアーの指示であり、エイラーこそヘイズ=ゴーントの画策する最終作戦――東洋連邦への奇襲――を防ぐ力を持つ超人類だというのだ。エイラーの心臓は危険を察知するとそれに先立って加速することが確認されていたが、エイラーが超人である可能性を示唆するものはそれだけにすぎなかった。
  警察のヘリに追われたとき出現した男は、自分の目から投影された虚像だったことをエイラーは確信した。視覚のプロセスを逆転させることで、脳に浮かんだイメージを目から投影することがエイラーには可能なのだ!  スパイの疑いを解くことは困難だと感じた彼は、蛍光燈の波長を埋める光波を送って明りを消すと同時に、耳から他者の声を発してその場を脱出し、月面研究所で発見された星図を調べるために月へ向かう。
  六週間後、月で再会したキーリスは、シェイの拷問によって両腕を失っていた。エイラーは自分がキーリスを心から愛していることを知る。
  盗賊協会は、超能力を使って法廷から逃走したエイラーを、その能力ゆえにスパイではないと判断した。そして月を訪れたヘイヴンから、エイラーは自分が四次元を移動する力を備えていることを知らされる。シェイの拷問中に見た人体のようなものは別時間のエイラー自身だったのだ。さらに、五年前発見されたときに持っていたという本を見せられたが、そこにはミュアーの筆跡で来週の日付が記されていた。それはまだ打ち上げられていない超光速船T−22の航宙日誌だった。T-22とは歴史学者トインビーの文明インデックスナンバーによるもので、現在のアメリカ帝国はナンバー21。すなわち、22という数字は、宇宙船が現文明を新たなる文明へと導くことを願って命名されたものだった。月面研究所では二つの発見がなされていた。ひとつは、超高性能の望遠鏡が宇宙の彼方に、外側から眺めたわれわれの銀河系を捉えていたこと。もうひとつは、五年前、巨大な質量を持つ物体がこの太陽系から宇宙空間へ飛び出していくのが観測されていたが、正反対の方角からそれが戻って来つつあることだった。それは果たして、超光速で時を逆行してきたもう一隻のT−22なのか?  いや、エイラーを乗せてきたと思しきものを合わせ、三隻のT-22が存在するのか?
  歴史学者に扮したエイラーは、太陽プロミネンスからミュアリウムを採取しているソラリオンを訪れる。重力ポイントの移動などによって、太陽への落下が頻出している危険な場所だ。ソラリオン到着はT-22の打上げ予定日だった。連絡船には密かにシェイが乗り込んでいた。変装を見破ったシェイにエイラーは催眠術を施し、さらに知覚テストを披露する心理学者に視覚投影によって誤った図形を見せ、発狂させた。
  さらに、行く手に待ち受けていたのは、サーモンドだった。剣による闘いの結果、肺を貫かれたエイラーだったが、筋肉を動かすときに電位差を神経に供給するプロセスを逆転させて放電、サーモンドを倒した。
  キーリスは身元不明の死体を確認するために、地球の死体置場を訪れた。そこにミュアーの姿があるのではとおもったからだ。しかし、オハイオ川で回収、と書かれた死体は女だった。その女には腕がなく、キーリスのものと同じナイフが胸に突き刺さっていた!
  逮捕されたキーリスは、閣僚とともにマインドを囲む審問会に出席した。マインドはシェイ、サーモンドの二人の刺客が返り討ちに遭ったこと、また、エイラーの身体特徴に合致するものはこの世に存在しないが、非アリストテレス用語でいえば生きていると告げる。さらに、ミュアーは非アリストテレス的には時間軸に沿っての可動性を獲得、つまり、同時に二人の人間として存在しており、そのうちひとりはこの部屋に、もうひとりは別のかたちで存在すると返答した。
  ソラリオンは巨大なU字型の渦に巻き込まれ、太陽面へと逆立ち状態で引き込まれつつあった。太陽の27Gの重力を打ち消しているジャイロが、まもなく53Gの重力となってエイラーを襲うはずだ。それは一瞬にして彼の命を奪う力だった。エイラーはミュアリウム貯蔵庫のハッチ開閉スイッチと自分の体をロープで結び、ソラリオンが逆立ちするとミュアリウムのエネルギーが解放され、巨大な推進力となってソラリオンを宇宙の彼方へ吹き飛ばすよう、セットした。爆発の瞬間、エイラーは自分が何者でおのれの運命がどこにあるのか、理解していた。
  その直前、アメリカ帝国では、東洋連邦の核ミサイルが発射されたという報告に閣僚が狼狽していた。マインドの前に残っているのは、ヘイズ=ゴーント、キーリス、それに皇后の三人だけだった。マインドは自分がミュアーであり、盗賊協会を率いて、現政府を倒し、文明を救おうとしたことを認めた。エイラーを窮地に追い込むことで、潜在する超能力を発現させるきっかけを与えたのだった。あと十五分後に発射されるT-22は発射と同時に過去へ飛ぶ。そして巨大な重力屈性によってエイラーに変貌することになる人物が、未知の連れとともにT-22に乗り込み、超光速で時を逆行し、五年前の地球に戻ってくるのだ。誰であれT−22に乗った人間が、エイラーとして出現するのだ!
  ヘイズ=ゴーントはキーリスを抱えてT-22へ向かおうとした。そのとき、肩から飛び降りたメガネザルがヘイズ=ゴーントの足をつかんで、イカナイデと英語でいった。キーリスはヘイズ=ゴーントの手を逃れると、ナイフに向けて心臓をぶつけた。ヘイズ=ゴーントが乗り込んだエレベーターに、エネルギー・スクリーンの反撥力を使ってテレポートしたミュアーのしみのような姿が飛び込んだ。
  一人残された皇后はヘイズ=ゴーントに蹴られて背骨の折れたサル――時空を超える過程であわれな姿に変貌したヘイズ=ゴーント自身――を、皮肉な思いで安楽死させてやった。エイラーに進化するのはミュアーのほうだ。
  そして、核爆発が起こった。
  時を遡ること、数万年。鹿を追いかけてきたネアンデルタール人の群れは、獲物を食べている最古の人類エオアントロプスの小家族を見つけた。武力に優る彼らだったが、リーダーの老ネアンデルタールは槍を捨て、争うつもりのない意思を示した。それでも、エオアントロプスは相手の数に脅えて逃げていった。老首長は鹿の肉を一部残しておいてやった。槍を投げつける代わりに、開いた掌を差し伸べることで、時の彼方のすべての人類の運命が変わったことを、しかし彼は知る由もなかった。(完)
 



 
 

以下の文章は、上記の粗筋よりさらに以前、某所に書いたものです。重複する部分もありますが、とりあえずほぼ原文のまま載せておきます。
 

◆『パラドックス・メン』解説

  チャールズ・L・ハーネスと聞いて、何を思い浮かべるだろうか。
  おお、あのワイドスクリーン・バロックの、と身を乗り出した方は、おそらくかなり年季の入ったヴァン・ヴォークトのファンだろう。
  あんまり聞いたことのない作家だ、という方が大半ではないかと思う。
  それも、当然かもしれない。これまで、ハーネスの作品は長編が一つと短編が三つ訳されているにすぎないからだ。そのうち、長編『ウルフヘッド』はサンリオ文庫から出版されたが、サンリオがSF出版から撤退したため新刊で入手することはできないし、短編のうち二編はSFマガジンに掲載されたのみで単行本には収録されておらず、残る一編が収録されたアンソロジー『時間SFコレクション タイムトラベラー』浅倉久志・伊藤典夫編(新潮文庫、昭和62年1月25日初版)もまた絶版となっている。
  あと、同人誌に長編 "The Ring of Ritornel " が訳されたことがあるが、これもSFマニア以外の目に触れる機会はなかったはずだ。
  つまり、現在書店に並んでいる書物の中に「チャールズ・L・ハーネス」という名前を見つけることはできないわけである。
  しかし、ハーネスはそれほど読まれる価値のない作家なのだろうか?  海外SFが好きな方がこんなことばを耳にしたら、興味をそそられはしないだろうか?
 

「私自身の好みは、ハーネスの『パラドックス・メン』である。この長編は、十億年の宴のクライマックスと見なしうるかもしれない。それは時間と空間を手玉にとり、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛び回る。機知に富み、深遠であると同時に軽薄なこの小説は、模倣者の大軍がとうてい模倣できないほど手ごわい代物であることを実証した。この長編のイギリス版の序文で、私はそれを《ワイドスクリーン・バロック》と呼んだ」――『十億年の宴』ブライアン・W・オールディス  浅倉久志氏訳  東京創元社

「『昨日への飛行(『パラドックス・メン』として再刊)』は、これまでに出版されたチャールズ・L・ハーネスの著作の比類なきピークを示している。1950年に私がハーネスに聞いた話では、この作品を書くのに二年間かかり、その間に浮かんだ小説のアイデアをすべてこの作品につぎ込んだのだそうだ。ハーネスは細心の注意を払って、そのモデルを研究したにちがいない。ここには、凝りに凝ったヴァン・ヴォークト帝国がある。愛と憎しみの緊張が火花を散らすラブ・ストーリー。猛烈に速いプロット、自分の超能力に気づいておらず、敵だけでなく、疑り深い友人たちとも戦わねばならないミュータントのスーパーマン。あらゆるものを支配するまでに高められた哲学(あるいは医学、歴史)体系。いや、それのみならず場違いなひょうきんさや、あり得ないが魅力的な会話、ダブル・テイク、腹立たしくも何の断りもなく舞台を保留することなど、これら典型的な全盛期のヴァン・ヴォークト的要素がすべて、オリジナルよりもずっと緊密に詰め込まれた上、シンメトリカルに配置され、締まりのない結末はきちんとたくし込まれて、プロットの法外なひねりには一つ残らず、科学、論理の両面において、すっかり納得のいく説明が行われるのだ」――"In Search of Wonder" Damon Knight, Advent, 1967 (『驚異を求めて』デーモン・ナイト  拙訳)
 

  オールディスやナイトといえば、評論家としてもいずれ劣らぬうるさがたである。その彼らが口を揃えてのこの絶賛ぶりなのだ。それにしては、ハーネスは日本ではもちろん、海外でも一般的な評価をされてこなかった。はっきりいって、忘れられた過去の作家だったのだ。けれども、オールディスのいう「十億年の宴」とはすなわちSFの歴史そのものであり、そのクライマックスが『パラドックス・メン』だということは、これぞSFのなかのSFということになる!  それは事実上、ヴァン・ヴォークトどころか、クラークもハインラインもアシモフも本書には及ばない、とあのオールディスが保証しているに等しいのだ。
  ちなみに、本書が出版された1953年といえば、アシモフ『銀河帝国の興亡2』、ベスター『分解された男』、ブラッドベリ『華氏451』、クラーク『地球幼年期の終り』、ハインライン『スターマン・ジョーンズ』、ポール&コーンブルース『宇宙商人』など、まさにSF史に残る名作がいっせいに出版された年である。オールディスの言に従えば、『パラドックス・メン』も当然これら以上に読まれるべき傑作であるはずだ。
  一方のナイトだが、こちらも、ヴァン・ヴォークトの影響下に出発しながら本家を遥かに凌いでしまったハーネスの魅力を、これでもかとばかりにこと細かに並べ立てている。これとは対照的に、ナイトは同書の別のところで『非A』シリーズの欠陥を容赦なく暴いているのだから、決して宣伝文句めいたお世辞ではあり得ない。これに関連して、これまた舌鋒の鋭さにかけては右に出るもののないジェイムズ・ブリッシュが、ハーネスについて書いている文章がある。SFマガジン19699月号に掲載された伊藤典夫氏のコラム「SFスキャナー」からの孫引きだが、以下に引用させていただく。
 

40年代後半から50年代前半にかけてのハーネスは、A・E・ヴァン・ヴォクトが、マイナー級の神様からそそっかしい手直しを受けたようで、うすきみわるいほどだった。読者が落着いて消化もできないほど、つぎつぎと投げこまれるアイデア(しかし馬鹿げたものは何もない)、さまざまな科学分野における知識の誇示(そして実際に、それらの分野での造詣が深いのだ)、頭がこんがらがるほど複雑なプロット(しかし破綻はすこしもない)、芸のない語り口(しかし、ときどき詩的な閃きが見える)、誰もかれも同じような登場人物たちの口調(しかし、みんなそれぞれ考えかたや行動のしかたは違う)。もちろん、括弧でかこんだのが、手直しの部分である」(アメージング誌19697 月号  伊藤典夫氏訳)
 

  これらの引用からも推察できるように、ハーネスはヴァン・ヴォークトタイプの、しかもあらゆる面で本家を凌ぐ、まさに究極のワイドスクリーン・バロック作家である。
  ワイドスクリーン・バロックとは何か?  端的にいえば、それは全宇宙の運命を左右する力を持ちながら、自らのアイデンティティを失い、周囲すべてを敵に回しつつ、何者とも知れぬ不思議な存在にチェスの駒のように操られるままに戦い続ける超人の物語である。特徴的な要素としては、超光速飛行と時間旅行の組み合わせによる、幾重にも入り組んだ複雑なプロットがあげられる。
  『パラドックス・メン』は、そのハーネスの第一長編。第二長編"The Ring of Ritornel"も、スケール、密度、いずれを取っても本書に劣らぬ傑作なのだが、時系列的な順序および、後にイギリスで再版された本書の好評によって断筆状態だったハーネスが奮起して後者をものしたという経緯もあるので(詳しくは後述)、まずは本書から先に紹介されるのが妥当だろう。
  以下、内容に触れるが、まだ作品をお読みでない方も、とくに警戒していただく必要はない、とあえて断言してしまおう。たいていの作品ならそんなことはお勧めできないのだが、こと本書に限っては粗筋を知ってしまっても興味が損なわれるとは思えない。それどころか、再読、三読したときのほうがさらに面白いのだ!
  それは、至るところに張り巡らされた伏線の性質によるものだ。ふつう、小説における伏線は、一見本筋と無関係なように見えて、結末に至ってひとつの真理に向かって収斂する。ばらばらだったジグソーパズルのピースが完成され、全貌がはっきりするわけである。ところが、『パラドックス・メン』においてはそうではない。ジグソーパズルは完成しても、そこに見える図形は輪郭はくっきりしているけれども何やら二重三重に重なっていて、ひと目では識別しがたいのだ。なぜか?  タイムループと非アリストテレス的思考体系のしわざである(ヴァン・ヴォークトでおなじみの非A哲学だが、これもまた本書で本家の十八番を奪うあざやかさで使われている)。
  『パラドックス・メン』の舞台は2177年。独裁者が君臨する二大勢力、アメリカ帝国対東洋連邦の覇権争いによって地球は破滅の危機に瀕している。アメリカ帝国首相ヘイズ=ゴーントは奇襲攻撃で相手を殲滅する可能性を探っているが、その重大な障害となる人物エイラーの存在が明らかになる。独裁政府に挑戦し、帝国の奴隷制を真っ向から否定する地下組織「盗賊協会」のメンバーだ。彼は、五年前、いっさいの記憶を失った状態で外宇宙からの難破船で地球に現れた超人類だった。ヘイズ=ゴーントの妻、キーリスはエイラーが行方不明の前夫ミュアーのような気がしてならない。ミュアーはヘイズ=ゴーントに射殺された後、射殺現場から消えうせたのだ。たちまち恋に落ちた二人だったが、帝国顧問の予言者マイクロフィルム・マインドの援助を受けつつ、エイラーは失われた過去を取り戻すために、ソラリオンへ赴く。そこでは超光速駆動を可能にするエネルギー、ミュアリウムを太陽から採取していた。帝国の刺客を倒したエイラーだが、コントロールを失ったソラリオンは太陽へ向かって落下。ミュアリウムの爆発によって外宇宙へ吹き飛ばされたエイラーは、死の瞬間自分が何者であるのかを理解する。同じ頃、地球では史上初の超光速船が打ち上げられようとしていた。マインドは自分がミュアーであり、地球を救うため、エイラーの超能力を発現させる役目を務めていたと告げる。超光速船で時間を遡り、五年前の地球に帰還したエイラーとはすなわち、誰であれこれから打ち上げられる船に乗り込んだ者が変貌した存在だというのだ。ヘイズ=ゴーントとマインドは競って宇宙船を目指すが、ヘイズ=ゴーントのなれの果ては、彼が難破宇宙船から拾ってペットにしていたメガネザルだった。人類史の夜明けの地球では、ネアンデルタールの闘争本能が友愛精神に取って代わられようとしていた。
  ごく荒っぽい要約だが、ストーリーの流れはお分かりいただけよう。読み手はまず、主人公エイラーが何者なのかという謎にひかれて読み進むが、結末に至って明らかになったエイラーの正体はいっそう謎めいたものである。非A哲学では一者の同時存在が可能なため、エイラーは変貌した姿で他にも登場しているわけなのである。それは、ヘイズ=ゴーントも同様であり、さらには、ラストで死体となって宇宙船に乗り込むキーリスまでが複数として存在する可能性があるのだ。
  こうして読み手はあらためて物語の最初から、すみずみにまで目を配って、エイラーや、ヘイズ=ゴーント、キーリスたちの痕跡を捜す楽しみを得ることになる。その結果、思わぬところにさりげなく登場している彼らを発見して驚くわけだ。再読、三読に耐えると先述したのはこうした理由からである。
  本書の魅力は、まず第一にこの複雑なプロットの糸を読み解くところにあるのだが、プロットと緊密に絡み合った登場人物の魅力も忘れてはならない。本書の登場人物は、みないわゆる「チェスの駒」で宇宙的必然に知らず知らず操られている。その避けがたい運命に抗って愛を、憎しみを、使命を貫こうとする彼らの姿は人間的で哀愁を誘う。時空間に引き裂かれたエイラー、キーリス、ミュアーの三角(マインドを含めると四角)関係も興味深い見どころだ。また、各人の台詞の「ト書き」で、必ずその口調を詳細に形容している点に見られるように、心理描写についても入念な注意が払われており、それぞれの思惑を秘めた台詞の奥行きを深めている。文字通りの宿命のライバル、エイラー、キーリス、ミュアー対ヘイズ=ゴーントのかけひきが宇宙的必然とどう拮抗、あるいは折り合ってゆくのかもポイントのひとつだ。ここで注意すべき点は、(アリストテレス的な意味で)エイラーとヘイズ=ゴーントは直接対決しないばかりか、ついに顔を合せることもないという構成である。筆者の読みちがいかもしれないが、これは(非アリストテレス的な意味で)エイラー・イコール・ヘイズ=ゴーントだからではないだろうか。
  さらに、随所に見られるペダントリーも物語にもっともらしさを与えて、要所を引き締めている。なかでもとりわけ印象的なのはやはり、中盤の十二章でエイラーが語る宇宙論の部分だろう。ジャイロ――地球ゴマの二つのフレームをそれぞれ時間軸と空間軸に見立て、双方を半回転させると、元の交差ポイントが時空間サイクルの対極点で再び交差することから、われわれの銀河系が(非ユークリッド宇宙では)同時に二ヵ所に存在することを立証するくだりなど、文系の筆者は呆気にとられてほとんど鵜呑みにするほかなく、いったい眉に唾をつけるべきなのかどうかも分からない始末である(この理論が正しければ、本書にある通りのできごとが起こっているはずなのだから、もちろん、どこかに誤りがあるはずなのだが)。
  本書の魅力はまだある。
  開巻早々のエイラーの侵入&逃走劇は悪漢小説を思わせて小気味よい。その間にも、銃弾を跳ね返す「盗賊アーマー」なるガジェットの導入によってチャンバラがきちんと正当化されているのは「マイナー級の神様から(略)手直しを受けた」といわれる所以だろう。
  また、トインビーの歴史理論を敷衍し、アッシリアからローマまでを引き合いに出して、奴隷制を基盤に持つ文明は必然的に衰退の途をたどるとしているのは、エイラーによる過去改造への必然性を裏書きするものだ。
  ただ一つ残念なのは、ネアンデルタール人に地球の支配者の座を明け渡す役どころで登場する最古の人類「エオアントロプス」のくだりである。これはピルトダウン人に対してのみ与えられた属名なのだが、周知のようにピルトダウン人の化石は贋作であることが判明してしまった。それも、本書が出版されたのと同年の1953年のことだから、なおさら残念なことだ。ハーネスの博識が却って災いしたのだといえようか。
  さて、これらの読みどころとも関連するが、ハーネスの作風を特徴づけるものは彼の小説作法における美学にあるといえるだろう。ヴァン・ヴォークトの影響を受けた、あるいはワイドスクリーン・バロックと世に称される作家といえば、E・E・スミス、フィリップ・K・ディック、アルフレッド・ベスター、ボブ・ショウ、クリス・ボイス、バリントン・J・ベイリー、わが国では未紹介だがイアン・ウォーレスなどが挙げられる(私見では、わが小松左京の『果しなき流れの果に』と「ホムンよ故郷を見よ」も加えたい)。
  いずれも錚々たる面々だが、たとえばボイスやベイリーが奇抜なアイデアを重視しているとすれば、ハーネスの真骨頂は対称性の美学なのである。優に長編数冊分のアイデアをつぎ込んで、哲学、医学、物理学などのペダントリーで武装するということ自体はワイドスクリーン・バロックの定石であるけれども、そういったスケールの壮大さ、密度の濃さに加え、愛と憎しみ、死と生、善と悪などの対立概念をいたるところに鏤めつつ、複雑に絡み合ったプロットを破綻なく収拾させる、というところにハーネスならではの個性が感じられる。それはおそらく弁理士という彼の本職とも関係があるはずだ。論理性こそが、ハーネスを他のワイドスクリーン・バロック作家と峻別するポイントなのだ。
  本書でも対称性へのこだわりは随所に見られるが、"The Ring of Ritornel"では、真ん中に当たる12章を境として、以後再び11、10、9と鏡に写したように章の数字が減じて行くと同時に各章のタイトルも前半のタイトルを反転させたものとなっており、壮観である。このような数学的対称性をワイドスクリーン・バロックに持ち込んだところが、オールディスらから高い評価を受ける理由のひとつだと思われる。おそらく、執筆にはたいへんな労苦が伴ったのではないだろうか。ヴァン・ヴォークトの「短い睡眠をとって、夢で見たアイデアを残らずぶちこむ」といった破天荒な小説作法とは対照的に、ハーネスのそれは極めて論理的で、(オールディスがいうように)模倣は不可能であろうが、きちんとマニュアル化できるような性格のものだという気がする(『ハーネス著: ワイドスクリーン・バロックの書き方』。そんなものがあったとしたら、何を措いても読んでみたい!)。
  ハーネスが本書の原型をスタートリング・ストーリーズに発表したのは、19495月号誌上だった。先述のナイトの記述に「1950年に私がハーネスに聞いた話では、この作品を書くのに二年間かか」ったとあることから、着手したのは1947年頃と思われるが、本書にも使われている「非A」哲学関連で、ヴァン・ヴォークト作品との関係を見ると、「非Aの世界」のアスタウンディング誌連載が19458月号〜10月号、単行本化が1948年であり、その続編「非Aの傀儡」のアスタウンディング誌連載が194810月号〜19491月号であり、後者連載時点では本書の大半は書き上げられていたようだ。ゆえに、本書執筆の契機となったのは直接には「非Aの世界」のみだと考えられそうだ。それにしても、二人の作家によって相前後して発表された「非A」哲学ものを当時のSF界ではどのように比較、評価したのだろうか?  筆者の手元にはそれを推測する資料がないけれども、ヴァン・ヴォークト作品の人気、知名度に比べ、ハーネスのそれは内容と裏腹にあまりにも低く、残念でならない。

  チャールズ・L・ハーネスは1915年生まれのアメリカ作家。1948年、先述の「時間の罠」でアスタウンディング誌にデビュー。1949年、本書の原型となった"Flight into Yesterday"をスタートリング・ストーリーズ誌に発表。1953年加筆して単行本化。他に十数編の短編を書くが、揮身の力作"The Rose"がアメリカでは売れず、ようやくイギリスのオーセンティック誌に掲載されるに留まったことに落胆し、一時SF界を離れ、本職の弁理業に専念する。しかし、1960年代に入って、マイクル・ムアコックがニュー・ワールズ誌にデビュー作「時間の罠」を再録したり、オールディスの序文を得て本書が再版されるなどイギリスでの再評価が起こると、ハーネスも刺激を受けて創作を再開、第二期がはじまる。1968年、「プロットは、この作家の作品の中で最もこみいっている。つまり、これを凌ぐものはもはや存在しないということだ(先述、アメージング19697月号のブリッシュによる書評、伊藤典夫訳)」と評された"The Ring of Ritornel"発表。この時期の収穫には他に、'An Ornament to His Profession'、'Summar Solstice''Archemist'などのヒューゴー候補作や、ネビュラ候補となった'Probable Cause'などがある。その後また休眠期に入ったハーネスが二度目のカムバックを果たすのは1977年、邦訳された『ウルフヘッド』を引っ提げての復帰である。1981年、弁理業を引退したハーネスは以後、次々と長編を発表する。"Firebird (1981)"、"Krono (1988)"は、初期のワイドスクリーン・バロックの流れを汲んでいる。
 

〔蛇足〕
  私事で恐縮だが、筆者が初めて読んだSFは、ヴァン・ヴォークトの『宇宙船ビーグル号の冒険』のジュブナイル版だった。だから、ジュブナイルでないSFを読みはじめたときもまずヴァン・ヴォークトから入った。そしてSFマガジンの存在を知り、バックナンバーを集めるようになってまもなく目に止まったのが、先述した伊藤典夫氏のSFスキャナーであり、そこに紹介されていたハーネスの『リタネルの輪』だったのである。『非A』シリーズや『武器店』シリーズの目の眩むような複雑なプロットと壮大なスケールの虜になっていた筆者には、それ以来、ヴァン・ヴォークトを凌ぐというハーネスの名は伝説的なものとなった。けれども、ハーネスはそれからも長らく幻であり続けた。翻訳のあった「現実創造」も「時の娘」も面白かったが、ワイドスクリーン・バロックとはいえなかった。やがて、訳出された『ウルフヘッド』も楽しめたが、何といっても『パラドックス・メン』と『リタネルの輪』が読みたかった。一向に訳される気配のないのをいぶかりつつ、とうとう原書をぽつぽつ読むようになり、海外から古本を取り寄せることも覚えて、ようやくハーネスの長編を手にしたのだった。
  伊藤氏のスキャナーからすでに30年、筆者がそれをバックナンバーで読んでからでも四半世紀が過ぎている。いまだ、伝説的な存在であるハーネスの『パラドックス・メン』が近いうちに訳出され、多くのワイドスクリーン・バロック・ファンに読まれることを願ってやまない。
 

〔蛇足の蛇足〕
クラシック音楽でハーネスに相当するであろう位置に、レオポルト・ゴドフスキーという人物がいる。1870年にリトアニアに生まれ、1936年にアメリカで亡くなったピアニスト兼作曲家だが、あの演奏至難なショパンの練習曲を二曲同時に演奏できるようなパラフレーズをはじめ、旋律が四つも五つも重なる、対位法を限界まで駆使した超技巧的なピアノ曲を数多く作曲した。演奏の肉体的困難さに加え、それらの旋律をすべてフォローするのは人間の耳では不可能だと評されるほどの精神力を要するため、あのホロヴィッツもレパートリーに取り入れようと練習を開始したが途中で断念したといわれる。けれども、曲そのものはたいへんドラマティックで美しい。その複雑華麗な旋律線が絡み合い、またほぐれて行くさまは、まさにハーネスのワイドスクリーン・バロックを思わせてスリリングだ。最近、腕に覚えのある若手ピアニストの間でゴドフスキーの評価が高まりつつあるが、作曲家の孫弟子に当たるキューバ出身のピアニスト、数年前に亡くなったホルヘ・ボレットの前世紀の余韻を伝える演奏が、ひときわ見事である。
 



The Ring of Ritornel (1968) チャールズ・L・ハーネス

The Ring of Ritornel 初版

以下も以前にNIFTYに書き込んだ文章の再録です。手抜きで申しわけありません。しかし、ハーネスに関しては今後もまだまだ書く機会があると思います。
 



 

ワイドスクリーン・バロックの決定版とされる、ハーネスの長編です。

  永劫回帰、すなわち決定論を説くリタネルと偶然論を唱えるエイリア。
  この二つの宗教が拮抗するところに危ういバランスを保っている中央集権国家、<十二の銀河系>が舞台。
  支配者であるデルフィエリ家最後の王位継承者オベロンは、戴冠式を間近に控えたある日、<十二の銀河系>の中心に位置し、宙震が頻発する、反物質生成の場<結節点>でエネルギー生物クリスを狩る途中、瀕死の重傷を負う……
  こんな魅力的な導入部から、物語は始まります。

  主人公は、物語開始時点で十歳の孤児ジミー・アンドレク。
  前半では、ジミーが成年に達して弁護士となるまでの学生生活とともに、謎の失踪を遂げた桂冠詩人である兄オーメルの行方を追う様子が描かれていますが、読者には序盤でオーメル失踪の経緯が分かっているので、むしろ、ハーネスお得意のさまざまなガジェットのほうへ興味が向きます。----舞台である<十二の銀河系>を表象する正十二面体のさいころ(エイリア教徒のシンボル)、メビウスの環状の指環(リタネル教徒のシンボル)、メビウス=クライン回路(反物質製造機)……

  登場人物の方もハーネス好みの役者が顔を揃えています。
  メビウス=クライン回路の発明者で天才的な知能を備えたペガサスのケドリス、体内からブルーの光を発し、顔面に髭を密生させた異貌の巡礼、エイリア教徒でことあるごとにジミーと対立するクラスメイトのヴァング……

  やがて宮廷弁護士となったジミーは、オベロンの娘アマターと愛しあうようになるのですが、オベロンの逆鱗に触れ、刺客とともに宙震間近と予測される<結節点>行きの船に乗せられます。そこには、かつて<十二の銀河系>の大半を荒廃させた戦争を引き起こした罪で銀河法廷により有罪を宣告され、宙震とともに現れる<深淵>の彼方へ追放される運命となった星テラーが牽引されてきていました。ジミーはテラー破壊の儀式に参列せよという名目で、死出の旅へと送り出されたのでした……

  やはり本書も"The Paradox Men"同様に「愛と復讐の物語」の結構を取っていますが、登場人物の書き込みが若干弱く、"The Paradox Men"ほどにはカタルシスを感じませんでした。ペーパーバックで191ページ(もっとも、活字はかなり細かい)というのは60年代当時としては標準的な長さですが、これだけのネタをメロドラマ仕立てで語るにはちょっと短いかもしれません。ただし、"The Paradox Men"も長さではほぼ同じなのに、伏線の込み入り具合、登場人物の心理描写等はもっと緊密だった印象があります。

  本来のテーマである「決定論」vs.「偶然論」については、章立ても「1」から「12」まで進んだ後、折り返して「11」「10」……「2」「X(注: 終章)」となる構成を取っていて、しかも章タイトルも対応する二つの章が鏡像のように前後の単語を逆転させたようになっており、さすがスタイリストのハーネス!と膝を打ちたくなります(いわずもがなですが、この12というのは<十二の銀河系>の12に由来している筈。しかし、その<十二の銀河系>の12も元を辿れば、次に述べる時計の十二時間制がモチーフなのでは?  時間テーマの作品だけに、その可能性が高いと邪推しています)。
  また、作中で正十二面体のさいころを振って、出た目に対応する時計の文字盤上の数字の方向へ線を引き、十二回分を繋いでいって、最後に原点に回帰すればリタネルの正当性が証明され、拡散すればエイリアが真実とする占いなど、毎度おなじみのハーネスの面目躍如たるギミックで、思わず自分でもやってみたくなります。マジで正十二面体のさいころが欲しいです(^_^;)。

  ネタバレになるので書けませんが、本書には"The Paradox Men"を彷彿させるシチュエーションもあれば、「現実創造」や"The Rose"のテーマも変奏されており、当時のハーネスの集大成ということもできそうです。

  今回は久しぶりの再読で、GWを楽しく過ごせました。細かい部分は忘れていたので改めて物語を楽しめましたが、初読時の印象ほどにはプロットは錯綜していませんでした。"The Paradox Men"の方が完成度は高いような気がします。

  1968年作というとヒューゴー賞は"Stand on Zanzibar"、ネビュラ賞は「成長の儀式」ですが、後者よりは本書の方が断然優れていると思います(ネビュラは作家による投票だし、発表当時は大時代な作風が敬遠され、社会性、文学性が評価される風潮があったのでしょうが、30年後の目で見れば、ハーネスのパワーが圧倒しているのでは)。ブラナーの方はもう20年も前から原書を持ってはいるのですが、読んでないので(あの厚さじゃ^^;)なんとも言えません。


 
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Last Updated: Nov 3 1999