東日流外三郡誌





  昭和二十三年(1948年)、 青森県五所川原市に住む和田喜八郎氏の自宅で事件が起こった。 自宅改装で天井の張替えを行なった夜、張ったばかりの天井板を突き破り、大きな箱が落ちて来たのだ。 二つに割れたその箱の中からは、大量の古い本が出て来た。
これが【東日流外三郡誌(ツガルソトサングンシ)】を始めとする門外不出の書『和田家文書』である。
その「原本」は、1789年から1822年までの三十四年間にわたり、陸奥国三春城主の義理の子にあたる秋田孝季という人物と、和田氏の先祖である和田吉次の二人が、日本全国に足を運び情報を収集し編纂したものらしく、その後、明治三年(1870年)から明治四十三年(1910年)の期間に、損傷の激しかった全巻の「書写」を、和田家の子孫であり和田喜八郎氏の曽祖父にあたる和田末吉が行なったとされる。  発見されたのは、 そういういわくの「写本」だったのだ。 その数、なんと、全600巻以上にも及ぶ膨大な資料だった。
 【東日流外三郡誌】の内容を簡単に説明すると、中世津軽地方の豪族、安東一族の歴史と伝承を中心にまとめられた史書で、畿内大和の地にあった「邪馬台国」の王、長髄彦(ナガスネヒコ)が、神武天皇に追われて、兄の安日彦(アビヒコ)と共に東北地方に逃れ、新王朝を築いたというような驚くべき伝承が記されている。 そして、その王朝は長い間、大和朝廷と対立していたというのだ。 【古事記】【日本書紀】にはまったく出てこない話だが、勝者である大和朝廷によって、敗者となった東北王朝の歴史は抹殺されてしまったわけだ。
これら『和田家文書』を、和田喜八郎氏が制作した「偽書」だとする者もいるが、これだけ膨大な量の偽書を一人の人間が作れるものだろうか? 本物である事を裏付けるような遺跡も発見されているのだ。



<「和田家文書」の一部> 

   
  東日流外三郡誌を初めとし 
  て、他に例を見ないほど膨 
  大な量の「古文書」が和田 
  家から発見されている。 
  


 【東日流外三郡誌】は、発見者とされる和田喜八郎氏が制作した偽書である!  その他の『和田家文書』も、すべて、彼が一人で制作したものと考えて間違いない。
【東日流外三郡誌】は、はじめ、青森県北津軽郡市浦村から、【市浦村史資料編(上巻)東日流外三郡誌】として、1975年に刊行された。 以後、歴史関係の雑誌やテレビなどのマスコミでも何度も取り上げられ、これに基づいて名所・記念碑まで作られている。
さらには、昭和薬科大学教授・古田武彦氏をはじめ、一部の大学教授たちが、これを本物であると主張し、ついには、公共機関の出版物にも、これに基づく記述が見られるようになった。
多くの学者が無視を決め込んで沈黙していたが、これに対して、産能大学の安本美典教授は、「偽書は文化の発展を阻害する!」として、自身が編集長を務める『季刊 邪馬台国』誌上において、何号にも渡る一大キャンペーンを行なった。 多くの学者/研究者がこれに参加、 徹底的な「偽書の証明」が行なわれた。
安本教授は、週間誌やテレビなどで、これを本物とする古田教授とも対決し、凄まじい論争を繰り広げたが、勝負は完全についたと言っていいだろう。
 偽書の研究史上、ここまで徹底的に、偽書である事が暴かれた例は他に類を見ない。本当に、 顕微鏡的なまでに調査され、分析されている。 学者/研究者たちが、真剣になって、同時に一つの事に取り組めば、この程度の「偽造物」や「妄説」が、いかにたやすく消し飛んでしまうものか、あらためて思い知らされる。
【東日流外三郡誌】及び『和田家文書』が「偽書」であり、和田喜八郎氏が制作した物だとする証拠は、数え上げたら切りがないが、以下に、いくつかピックアップしてみよう。

和田喜八郎氏は、発見された【東日流外三郡誌】の原本を、あれこれ理由を付けて学者には提出していないが、出版された写真版の「古文書」の文字と和田喜八郎氏の筆跡は完全に一致する。
先祖代々が何百年も暮らした家という主張に反し、和田喜八郎氏の家は、昭和十五年か昭和十六年ごろに、古い家を取り壊し、サラ地にしてから新築された家だという事が判明している。  天井裏から「古文書」が落ちてくるわけがない。
『和田家文書』は、和田喜八郎氏の曽祖父の和田末吉によって書写された物とされているが、和田氏の縁戚者によれば、和田末吉は文盲だった。
そもそも、【東日流外三郡誌】を作成したとされる秋田孝季と和田吉次という人物が存在していなかった。 また、和田氏が提出した「和田家系図」と和田家の戸籍謄本を照合してみると、祖先の生年、没年、名前、兄弟関係など、ほとんどすべてが合わない。 つまり、創作なのである。
【東日流外三郡誌】は、文章、文法、ともに誤りだらけで、とても江戸時代に書かれた古文書だとは考えられない。 明治、昭和、あるいは戦後になってからでないと出てこないような単語が、次々に出てくる。(風魔族とか騎馬民族とか犯科帳とか・・(^^) )
『和田家文書』の一つである【東日流六郡誌絵巻】の挿絵35枚が、昭和十年に発行された【國史画帖大和桜】という画集の絵にそっくりである事が判明!  一枚二枚ならいざ知らず、これほど大量の似た絵が、一つの絵巻に集中するというのは、偶然では考えられない。 明らかにパクっているのだ。
【東日流外三郡誌】の内容を裏付けるような遺跡が、いくつか発見されているかのように紹介される事もあるが、実は何でもない。 すべて、遺跡が発見された「後」で、古文書が制作されているのだ。

 以上、【東日流外三郡誌】が偽書である事の証拠をいくつか紹介してみたが、実は、これらは証拠のほんの一部であって、実際には、数えあげたら切りがないほどの根拠/証拠が存在する。
発明されてもいない時代に「望遠鏡」の話が出てきたり、「進化論」やら「銀河系」やら、果ては「ビッグバン」の話まで登場してくるのだ。
ついでに紹介しておくと、「ダーウイン一世」という人物名が登場してくるが、何それ?って感じである。 二世、 三世ならまだわかるが、一世って・・? しかも、ダーウィンって「姓」だろう? 「ルパン三世」じゃないっつぅ〜の!

 要するに、「稚拙」なのである。 しかも、呆れるほどの「ウソ」と「デタラメ」だらけの「偽書」なのだ。 これを「本物」と考えるのは、普通、不可能だと思われるが、これだけの証拠を突き付けられても、なお、古田教授は、これを「本物」だと主張し続けた。  つまり、あとに引けなくなったのだ。(トホホ・・・ )
「偽書だ!」と説明する人々に対し、古田教授は、あれこれ苦しい反論を行なっているが、「偽書説」の立場に立つ人々が、具体的な根拠を示しているのに、古田教授は、具体的な根拠を伴わない言葉だけの「言いわけ」に終始している。
おかしかったのは、偽書説の人々が提出する根拠に対し、
古田教授が「言いわけ」を思いつくと、その主張を裏付けるかのような新たな資料が、和田家の「魔法の箱」から発見されてしまうという現象だ。 そして、そうした事例が、この「偽書事件」全体を通しての一つのパターンとまでなってしまっている。 (もちろん、それらの資料も、偽書説の論者たちによって、ただちにインチキが暴かれている。)
ここで、誤解のないように言っておくが、古田教授は、これらの証拠を前にして、本気でこれを信じ続けているほど知力の低い人物ではない。 内心では、偽書である事など、とっくの昔にわかっているはずなのだ。 しかし、こんな稚拙な偽書に、まんまと騙されてしまった自分を認めたくなかったのだろう。 学問的な真実よりも、自身の面子を守る道を選んだというわけだ。  その結果、泥沼に陥ってしまったものと思われるが、あげくの果てには、姑息なトリックを使ってまで、『和田家文書』を本物だと見せかけようと試みている。 それらのトリックも、安本教授によって、すべて暴かれてしまっているが、ここでは、その内容は紹介しないでおこう。
ただ、ここで言っておきたいのは、これほどの証拠や根拠を積まれても、まだ、【東日流外三郡誌】が、「完全に偽書」だという事を理解できない人々がいるという事だ。
例えば、この「偽書騒動」で、さすがに古田教授の熱心な信奉者たちも、そのほとんどが、彼の元から離れて行ってしまったが、それでもなお、一部の信者たちは、古田教授の説明を鵜呑みにしてしまっているらしい。  彼らにとって、「教祖様」の言う事は絶対なのだろう。
また、この手のいかがわしい話には簡単に取り込まれてしまうようなオカルト信奉者に通常多いパターンだが、これを和田喜八郎氏の制作した偽書だと、一応、認めながらも、「ひょっとしたら、何か元になった古文書が存在するのではないか・・?」などと、理解不能の発言をする者までいる。
やれやれ・・である。 いったい、そうまでして信じなければいけないほどの偽書なのだろうか? いや、彼らにとっては、きっとそうなのだろう。 出来の良し悪しは別として、「いかがわしい」という点では、満点の本である事は間違いない。
 さて、最後に、「これほど膨大な資料を一人の人間が作れるものだろうか?」という疑問について解説しておきたい。
和田喜八郎氏は、先祖伝来の「古文書」を発見したのは、昭和二十三年(1948年)の事だと主張しているが(ある時は昭和二十二年、またある時は昭和三十二年とも言っているけれど)、【東日流外三郡誌】が、初めて世間に登場したのは、昭和五十年(1975年)の事である。
だが、実は、和田氏はまだ若かった頃の昭和二十四年(1949年)に、修験道(シュゲンドウ)の祖・『役小角(エンノオヅノ)』の墓を発見したなどという、【東日流外三郡誌】事件と、とてもよく似た事件を起こしているのだ。
つまり、この種の「サギ行為」に関しては、ある意味、プロとだったと言っても良い。
安本教授が、和田氏の親戚の人に、「一人であんなにたくさんの量の文書は書けないという人もいますが?」という質問をしたら、こういう答えが返ってきたそうだ。
「できるのではないですか? 若い時から、あんな事ばかり、ずっとやっているのですから・・。」
<End>