リコーオートハーフはこうして開発した

独自の設計を心意気で説得

安宅久憲

 リコーオートハーフの思い出を、との依頼があった時、私としてはいささか困った。それは当時の記録とか、日記など何も残っていないので、日時や数値が記憶に頼るしかなく、不正確なものになってしまうことであった。しかし、少しずつ思い出しながら書いてみよう。

「おふくろでも撮れる」カメラを

 リコーオートハーフは、昭和37(1962)年11月の発売だが、設計に着手したのは昭和36年5月ごろだったと思う。私は昭和32(1957)年に大学を卒業し、カメラの設計がやりたくて、理研光学(現リコー)に入社した。そして望み通りに光学設計部に配属されて4年後に、もうオートハーフの設計に取りかかったわけである。それには当時の会社の事情があった。ここで少し、当時の世間の状況や会社の事情を簡単に記してみたい。

 戦後の世の中も昭和34年頃から明らかに経済は活気を呈し、カメラメーカーは成長著しい花形産業の一つであった。休日にはレジャーも盛んになり出し、カメラはすでにかなり普及していた。とは言っても、「写真機」は依然として男性の持ち物であり、女性には難しい機械であった(そのころはまだ「カメラ店」と言うより、「写真機店」との名称が一般的だったと記憶している)。

 むずかしいというその第一の理由は、カメラの露出の決め方であった。当時は黒白フィルムが中心で、感度もASA50か100だったが、適正な露光を与えるには絞り値とシャッタースピードを決めるのが大仕事。しかし、これが良い写真を撮る第一の要件であった。露出計はむろんあったが、その使い方には経験が必要であった。これは普通の女性が扱えるものではなかった。

 こんなことは、昨今の全自動化されたカメラしか使ったことのない現代の若い人たちには、実感として理解してもらえないことであろう。そんな状況下で、私たち当時の若い設計者は、もっと簡単に撮れるカメラが出来たら、女性にも普及し、もっと多く売れるのではなどと話し合っていた。

 そんな時に私は、カメラを扱う女性のモデルとして、自分の母親を想定してみた。当時50歳前後の母親でも扱えるカメラとなると、被写体を見て、シャッターボタンを押すだけの完全なオートマチック・カメラでなければならないと考えた。そして、自分なりにそんなカメラの仕様を考え、具体化のための資料集めを試みたりしていた。

 一方、当時のリコーの設計部門の中の実際の様子を見ると、レンズの設計担当とボディー部担当に分かれ、私はボディー部に属していた。カメラの開発の進め方は、一人の設計者がレンズを除いて、1機種の全体を受け持ってやるのが普通であった。しかし、開発期間を短縮するために、複数人で分割して設計をやってみようという改善案も出されていた。そこであるカメラでその具体化を図ることになり、係長と私が選ばれてあたることとなった。

 実際に着手してみたところ、いろいろな事情があって、私の方が予定より早く図面が上がり、係長は遅れてしまい、私に時間の余裕が生じてしまった。この空き時間を利用して、日頃練っていた「おふくろでも撮れるカメラ」をより具体的にすべく、仕様固めと図面を描いてみた。

 オートマチックということでフィルムは何か動力源を考えて自動巻き取りにし、ピント合わせを省略するために広角レンズの固定焦点、露光はシャッタースピードを固定し、絞りによる制御を露光計と連動させて自動化する等、徐々に具体化させていった。一番気になったのは全体の大きさである。女性に使ってもらうにはハンドバッグに入らないと持っていってもらえない。男性ならポケットに入る大きさと考えたが、さて、その大きさとはどれほどか?

タバコの空き箱の大きさだ!

 ちょうどそんな時、米国への出張者からおみやげにタバコをもらった。といっても一人2、3本ずつで、"洋モク"が貴重な味の時代である。そのタバコとはブランド名「L&M」で、当時日本ではめずらしいハードボックス入りだった。この箱を見て、私はふと「この大きさだ!」と思った。中身を配った後の空き箱をもらい受け、「この大きさの中にすべてを詰め込もう」と決めたのである(この時のL&Mのボックスの寸法がいくらであったか忘れてしまった)。

 こんな自分自身の勝手な設計をやっているうちにそれが設計課長の目にふれ、しかも商品企画部の目にも止まり、そのカメラは面白そうだから正式に開発計画に乗せようということになった。晴れてとうとう、会社の正規の開発ナンバーをもらうことになったのだ。そのナンバーとはL&Mにちなんで「LM」としてもらった。

 リコーの設計部では、開発略号を35mmフィルム系はライカの"L"をとって頭にし、次に、A,B,……と採っていたが、私は少々無理をいって、LMの略号をもらった。大きさの目標値にこだわったのである。

 このようにリコーオートハーフは、最初の仕様から設計まで私自身で勝手に発案し、企画・設計を行ったものである。さて、正規の開発テーマとなると忙しくなった。残業や休日出勤の連続である。特に大きさにこだわったために、各部材が既成のものや従来の延長線上の改造では全く使えない。その箱に、入らないのである。

 まず、レンズである。これは、レンズ設計に同期入社の気心の知れた仲間がいたので、私の趣旨を話し、出っ張らない小型レンズをみつくろってもらった。レンズは、それほど問題なく決まった。次にシャッターである。当時はリコーでは、すでに精工舎、シチズン、コパル等の専門メーカーから買って使っていた(それ以前は当社内でシャッターも作っていたが)。しかし、購入しているシャッターは高性能ではあるが、円筒形をしており、大型である。今ここで欲しいシャッターは角型でもよいが、薄い(5mmぐらい)ものである。

 私自身はシャッターはバラした(分解)ことはあるが、設計経験はない。でも必要なので「薄く薄く」と唱えながら、図面を引いてみた。何とか格好がついてきた。そのポンチ絵(と称していた)を持って、部長、課長につれられてS社へ出向いた。S社技術者らにその趣旨説明を行うと、なんと軽くあっさりと、「そんなシャッターは出来ませんね」と否定されてしまった。そこでポンチ絵を出して、5mmの可能性について汗をかきかき説明した。しばらく黙って聞き、考えていたS社技術者は、やがて静かに一言、「やりましょう」といってくれた。

 次は露出計である。先に全体の大きさを決めてしまったので、その露出計の入れる場所がない。残っているスペースは、フィルムの巻き取り軸の中だけである。しかしいかにも細い。メーターを入れる余裕は12mmぐらいしかないが、ただ長さはある。

 そこで、メーカーのK電機へ行き、”細くて長い”露出計メーターを作ってくださいと頼んだら、そんな効率の悪い、非常識なメーターは作れないと軽く断られそうになった。ここでまた、懸命の説得である。

 今求めているのは効率ではない。電流が多く必要なら、その分、セレン受光部を大きくして、効率の悪さをカバーしてやれば良いではないか。何とか検討だけでもとネバって、どうにか引き受けてもらった。効率だけではなく、ムービングコイルのバランスの問題、絞りをはさみ込む指針の強度の問題、軸受けの耐久性の問題等数多くの難題があったのだ。しかし、そこは技術者の持ち味で、一度やる気を出してもらえば、あとの山は自発的に乗り越えてくれるものである。

 さらにその次は、フィルム自動巻上げのための動力源である。今日のように小型モーターや電池のない時代なのである。目ざまし時計用のゼンマイスプリングを使用することにしたが、これのメーカーが当時、桐生市にあった。冬の寒い日であった。購買部の人につれられ、車2台で出かけることになった。今では信じられないが、当時はヒーターのついてないライトバンがあったのである。ただ設計者は風邪を引かれては話が出来なくなって困ると言われて、ヒーター付きの車に乗せてもらった。もう1台の車の方はオーバーを着込んで、マフラーを首に巻いてのドライブであった。

 さて、Kスプリング社に到着した。そして求めているゼンマイの性能を話し始めると案の定、説明を全部終えないうちに、「あんたはゼンマイの何も知らないね。ゼンマイには設計の公式があって、この式に当てはまらないものは出来ないよ」となってしまった。そこでまた、説得である。私も、この公式はもちろん知っている。しかし、L&Mの大きさの中にゼンマイを収めるためには、何かを変えて、設計値を「公式」の中へ押し込まねばならない。

 その方法としては断面形状を複雑にするか、材質を変えるか、焼き入れ硬度を変えるか、最も経済的な方法について相談に乗って欲しいと話した。私自身としては焼き入れ硬度を極度に上げる方法をと提案したら、「そんなことをしたら、ゼンマイの寿命が落ちて使いものにならない」と一蹴された。

 なお話し込んでいくと、ゼンマイ屋さんの常識では寿命は繰り返し頻度1万回である。ところが、カメラの使用頻度を見てみると、アマチュアでは、月平均1本のフィルムを使う人は、よく写真を撮る方の人。ましてこのカメラはハーフサイズなので、24枚撮りのフィルム1本で48枚撮れる。10年間、カメラを使ったとしても、せいぜい120本でしかない。仮に安全を見込んで1000本としても、ゼンマイ屋さんの常識の10分の1で、寿命はOKとなる。その分焼きを硬くし、耐久性を落としてもかまわないではないかということで、やっと納得してもらった。

できない、ではこうやったら

 こうして小型で、強力なスプリング動力で、1回のゼンマイ巻き込みで、フィルム1本分を自動送りしたいという当初の目標は残念ながら達成出来なかったが、ゼンマイを1回巻いて20枚以上送ることは実現できた。

 このフィルム巻上げ枚数については開発中に、企画部門ともやり取りがあった。前述のゼンマイ屋さんとは実は何カ月にもおよんで「出来ない」「では、こうやったら」といった何度もの往復があった。 脇で見ていた企画部門の担当者が開発の遅れを気にして、私に「スペックを落とせ。巻上げ枚数は5枚くらいあれば良いではないか」と、助け舟を出してきた。しかし私は、それに乗れなかった。あくまでも、当初の目的を完遂したいと、ネバったのである。

 また、動力関係では、このスプリングの力を調速するためのガバナー機構が重要である。その部品が「小さすぎる。組み立てにくい」と組立課の人たちから文句をさんざんいわれた。ただこれは簡単に説得できた。「このくらいでぶつぶつ言っていたら、時計の組み立てはどうするのだ」と。

 そのほかにも、ファインダーガラスの採光窓の曇りガラスの代替にマイラーシートを使った。裏蓋は取りはずし式として蝶番をなくした。フィルム圧板の弾力は金属の板バネをやめてモルトプレーンにする等々、それまでのカメラ設計ではやっとことのない方式を取り入れて、小型化、薄型化を試みた。

 結果はどうなったか。L&Mのサイズは守れたかというと、残念ながら、ゼンマイスプリングの巻き上げノブの部分と、カメラの厚さが越えてしまった。ノブ部分を除いた外形寸法は横幅90o、高さ63mm、厚さ31mmとなった(このカメラの厚みについては旧型のライカが30mmで、これが世界で一番薄いと記憶している)。

 このようにリコーオートハーフは、いろいろと曲折はあったが、本格的に設計に着手してから1年と少々で、昭和37年6月から量産に入った。今にして思えば、よくもまあ出来たものだと思わずにいられない。それには幾つかの理由があったと思う。その第一は自分一人で勝手にやったということであろう。今日では許されるべくもなく、考えられもしないことだが、企画部門と会議する必要も、上司の承認ももらう必要なく、途中でのスペック変更や諸々の決定も自分で決めれば良いことで、これが何といっても、設計の進行を早められた最大の原因であろう。

 そして途中で、あまり妥協しなかったのが良かったと思う。苦しい時、回りから何かいわれて迷うこともあったが、最初に考えた「L&M」を一つの思想のように守り通したのが、個性的なカメラとして小型化というコンセプトを全うするとの出来た原因と思う。

 後に”オートマチック”という言葉の定義を聞いた。それは1回のアクションで、一連の仕事を全部完了することであった。リコーオートハーフは、シャッターボタンを押すという1アクションで、被写体までの焦点を定め、絞りを決めて露光し、フィルムを巻き上げ、次の動作への準備を完了するという、一連の動きを行うオートマチックの定義通りのものであった。

 とは書いてきたが、実際は設計の回りの方々、特に年齢的に近い先輩方々にアドバイス、ヒントをもらい、一部の設計を分担してもらったりして、応援してもらった。さらに、リコーの工業意匠課の人たちが、それまでのカメラのイメージを全く変えてしまうほどの思いきったデザインで協力してくれた。

 オートハーフのデザインでは本当にもめたものだ。激論の末、「ものすごく売れるか、全く売れないかどっちかだ」となったが、私はこの斬新なスタイルがぜひ、欲しかった。このカメラ全体が持っている機能そのものが、そういった性格を持ったものだった思う。もう一つ考えれば、発売までの漕ぎつけに成功した原動力がある。カメラの開発が一応終了し、製造部門に移ってゆくに際し、製造部技術課の人たちの大いなる協力があったことである。実はこの機種は製造移行に際し、中止になりかけたのである。

 前にも述べたが、営業部門の人たちからみても、売れるか否か意見が割れてしまい、誰も確信が持てなかった。また、本当にこのカメラの製造をやるべきかどうかと議論が蒸し返された。そんなことで時間を食っていた時、製造本部長が大声をあげた。「俺は新しいことが好きだ。このカメラは変わっていて面白い。面白いことをやるんだ」と。そして製造部はどんどん量産化の準備を進めていってくれた。当時の技術課長もこの時、私に「お前の設計はすぐれているとは思わないけれど、新しいことをやっているのが気に入った。やるぞ」と、支援してくれた。この人には本当にお世話になった。

 こうして、大勢は発売まで進めることで流れが出来上がった。いったんやると決まれば、当時、「営業のリコー」と世にいわれていた販売部門の展開はまことに頼もしいものであった。ついに、昭和37年11月に、晴れて発売となったのである。実は、私はその後しばらくして異動があって、光学設計部から研究所に移ることになった。以後、カメラの設計からは離れてしまった。

 従って私は、リコーオートハーフの生みっぱなしの親であって、育ててはいないのである。後を引き継いだのは私の助手を努めてくれていた人たちで、本当にご苦労をかけたと、今改めて、お礼を申したい。

 その後、改造や変更が加えられ、最後のリコーオートハーフ、モデル「EF−U」型が発売された昭和58(1983)年頃まで、種類して12種類ほどが売り続けられた。はっきりした記録が社内にも見当たらないが、広報の資料によれば総販売台数は600万台と記されている。

新婚旅行で1枚も写ってない

 しかし、年代を追って機能が増すにつれ、カメラは大きくなった。「SL」型は横幅95mm、高さ75mm、厚さ53mm、重さ395gとなった。その間、いろいろなことがあった。量産立ち上がり当初、あれほど「組み立てにくい、調整しにくい」との苦情が多かった製造現場も、市場での評判が良く、売れているとなったとたん、「これはすばらしい設計だ」に変わっていった。勝てば官軍、売れれば良い設計になるのである。

 昭和45年の大阪万博の時、リコー館にご来場いただいた裕宮様(現皇太子殿下)などにご愛用いただき、面目をほどこしたものだった。びっくりしたこともあった。それは発売間もなく、ある大阪の方が新婚旅行でハワイへ行くこととなり、持ち物を軽くするために、カメラはいろいろ持っていたが、小さくて簡便ということで、リコーオートハーフを新たに購入して出発した。

 その当時、新婚旅行で海外へ行く人はまだ珍しく、大変ぜいたくなハネムーンであった。ところが帰ってきて、フィルムを現像してみたら、全く写っていない。これは何ごとだと、リコーの大阪営業部にどなり込んできた。当然のことであろう。調べてみると、シャッターが故障していて、羽根が全く開いていなかった。営業部では平あやまりで、フィルム代やカメラ代をお返しすると申し出たが、怒りは収まらない。そして最後には、ハワイへの旅費もと申し出たが、「そんなお金が惜しくて言っているんじゃない。記念の写真がないのが残念なんだ。気持ちが収まらない。カメラの設計者に会わせろ」ということになった。営業部の人たちは必死で、それだけはゴカンベンをとなだめたが、「それなら自分が東京まで行く」という。大阪から設計部に電話がかかってきた。こういう事情なので会ってもらえないか、というのである。しかし、こちらもオッカナイ。

 課長も部長も、「お前会って、あやまれよ」と逃げ腰。こうなったらしょうがない、まさか刃物でブスリでもあるまいと、私一人でお会いすることとなった。当日、その人と付き添いの営業部の人間と私三人であった。会ってみたら大変紳士的な人で、カメラ特にシャッターのメカニズムの話や設計の苦労話などをすると、一言も怒りや文句も言われず、「これで気持ちも収まりました」と、スッと立ち去られた。胸をなでおろすとはこのことかと、つくづく思った次第である。

 今はカメラの設計もすっかり変わってしまった。カメラはエレクトロニクスの塊で、メカニックスの出る幕が少ない。私はそうしたカメラへの思いがたちがたく、十数年前から外国製のアンティークカメラの収集を始めた。主に戦前の大衆機が中心であるが、自分で修理できるところが気に入っている。

 私は今も、開発関連会社に関係している。OA機器が中心であるが、小さくすることには現在でも興味があるし、自信もあるつもりでいる。つもりと言ったのは、自分で直接図面を引いているわけではなく、口だけ出しているからである。今後30年たったら、カメラはどんな形に変化しているのだろうか。想像も出来ないけれど、ずっと見守りたいと思う。