異形のイカロス

 まともな技術史家は何も言わないが、色モノメカニストにとって1908年は重要な年である。
 ライト兄弟が初飛行から5年後、ヨーロッパを訪問して欧州の飛行家に衝撃を与えたのがこの年だった。ライト兄弟は欧州勢をよせつけぬ操縦性と安定性を示し、飛行機の実用性を立証してみせた。このショックは大きかった。ライトに追いつき追い越せとばかり熱狂的な航空ブームが起こり、1909年から1910年にかけて、雨後のタケノコさながらに飛行機が次々と作られた。もちろんまともな機体も多かったが、同時に珍妙極まる機体が多数生み出されたのも事実である。
 飛行家たちは豊かなイマジネーションと溢れる情熱、負けず嫌いの根性で大空を目指した。時代は世界大戦の直前、空を飛ぶことがストレートに人類の夢たりえた至福の時代である。
 夢の翼さえあれば、人は多分どこへでも飛んでいけるのだろう。だがイカロスが高く飛びすぎて翼が溶けたように、彼らの翼はあまりにも想像の空を高く舞い上がり、現実の前に溶けてしまった。
 これはそうした未成のイカロスたちのカーニバルである。

注:本記事はモンティパイソンのテーマでもハミングしながらお読みください。

蜂の巣飛行機

 まずはいきなり偉人にご登場願おう。電話の発明者として知られるアメリカのアレクサンダー・グラハム・ベルが主宰した「飛行実験協会(A.E.A)」の「シグネット」である。
 この機体、極めて野心的な理論に基づいていた。多数の小さな四面体を機体に取り付けた、蜂の巣状の構造により揚力を生み出すというのがその原理だ。多分、四角い凧あたりから思いついたんじゃないかと思うが、まあ理論だけなら何とでも説明はつく。
 だがその結果、3,610個もの四面体を貼り付けたのが下図の機体だ。

A.E.A.シグネット2
全長4m
全幅16m
重量431kg
主機カーチス水冷8気筒 50HP

 ライト兄弟のライバルとして知られた飛行機開発者グレン・カーチスも一枚噛んだこの「シグネット」は1909年の冬にニューヨーク近郊の氷結した湖面で実験が行われた。結果は言うまでもない。見事なまでに飛ばなかった。
 まったく、何をどう考えたらこれが飛ぶと考えたのであろうか? 考えてみれば、電話の発明者が飛行機を作ろうというのだから妙な話で、よくもカーチスがこんな怪しげな機体に協力したものである。
 それに元を正せばベル先生、技術者でも工学者でもなかった。そもそもは人間の発声器官を研究する生理学者だったのだ。だから電話を発明したのはわかるが、飛行機にまで手をつけたのだからかなり変である。
 立派な科学者と思われてるベルだが、その正体はただのマッド・サイエンティストだったんじゃなかろうか?

空飛ぶ円盤

 だがこの時期の野心的(?)な機体の本場はイギリスであった。この頃のイギリスは欧州航空界でも半歩遅れていたらしく、ライト兄弟のデモ飛行もその航空力学的な意味がよく理解されていなかったようだ。
 この頃、イギリスにはモーティマーとボーンという飛行マニアのコンビがいた。彼らはさながら色モノ飛行家の中の王様で、変テコな飛行機を作る端から壊していたらしい。その中でも代表的なのが「セイフティー」である。

セイフティー
全長?m
全幅?m
重量?kg
主機不明

 はい、ご覧の通りの空飛ぶ円盤である。といってもグルグル旋回して垂直上昇するわけではなく、前方と後方左右にある合計3基のプロペラで普通に滑走離陸するはずだった。名前の由来は不明だが、ふんわりと離着陸できると期待したんじゃないだろうか。
 それにしてもプロペラとか車輪とか、ライト機がエッフェル塔を周回してみせた後だというのに、このデザインはないだろう。正確なスペックが記録に残されていないことも合わせて、いかにも日曜大工めいた代物である。なんだか町の変なおじさん二人が、ドツキ漫才しながらガレージでトンカン組み上げてる様が目に浮ぶではないか。
 モーティマーとボーンは1910年にこの機体を試験したが、やっぱり離陸もせずに壊れている。墜落しなかったのだから、名前通りセーフティーな機体なことは確かである。

翼持つ前衛美術

 それでもセーフティはまだましであった。英国軍人セドン中尉が開発した機体になると、ご覧の通り夢というより妄想の世界に足を踏み入れたかの感がある。
 基本的な構造は、前後に二組の主翼を持つタンデム複葉機である。タンデム式はこの時期にしばしば試作されたので、それ自体は驚くことではない。異様なのは胴体の構造である。

セドンの実験機
全長?m
全幅?m
重量1,178kg
主機N.E.C水冷 65HP 2基

 一体何を考えたのか、セドン中尉の機体は長さ600mもの鋼管をグルグル巻いて胴体を作ってあるのだ。確かに前衛彫刻みたいで美しいが、さて何のねらいがあったかと言うと頭を抱えたくなる。木骨布張り構造が中心のこの時代としては、画期的に頑丈なことは間違いない。だがおかげで重量は1tを越した。しかもエンジンはたった65馬力な上、パイロットと乗客合わせて6人を載せる計画だったというのだから、もう勝手にやってくれと言いたくなる。
 セドン中尉は意気揚々とこの機体を飛行場に持ち込んだ。結果は言うまでもない。一度も飛びたたずに壊れてしまった。それにしてもこんな鋼管の塊を壊したんだから、どういう滑走をしたのか、その方が興味深いところである。

空飛ぶクサビ

 セドン中尉が鋼管をせっせと曲げてる頃、ファンボローの気球工場でデューンという軍人がやっぱり変なアイデアに取りつかれていた。尾翼の無い矢のような機体なら、安定性がいいんじゃないかと思いついたのだ。デューンは水上飛行機の設計者として知られるショート兄弟をまんまと抱き込み、尾翼の無い機体を作り始めた。

デューン D.5
全長6.21m
全幅14.02m
重量70kg
主機グリーン水冷 60HP

 これが史上初の全翼機である。モーティマー&ボーン組も変だが、デューン&ショート組も相当変である。それでもショート兄弟はまともな技術者だけあって、一応は何を考えてるかわかる機体になっているのはあり難い。だがこのまともな形にたどりつくまで、デューンとショートはモメたんじゃなかろうか?
 1910年3月11日、試行錯誤の上に完成したD5号機がイーストチャーチの飛行場に引き出され、試験を行った。そして案の定……飛んだのだこの機体は!! D5は十分な安定性を示し、3.22kmの飛行を達成したのである。
 その後D5号は事故で損壊したが、デューンたちは開発を続け、第一次世界大戦突入後の1915年、D8号機はイーストチャーチからパリまで飛行したという。このD8が飛んでいる写真が残っているが、見た時は空いた口が塞がらなかった。
 私見だがデューンの成功は、初期の飛行機特有の木骨布張りというプリミティブな構造のせいではないかと思われる。柔構造の機体がたわむことでフラップと同じ効果を生み出す、ライト兄弟の「たわみ翼」効果が機能したのではなかろうか?
 もっとも尾翼のない全翼機は、この時代の技術では完全な実用化には難があったようだ。既に第一次世界大戦が始まっていた。全翼機であることにメリットがなければ、それ以上の発達は望めなかっただろう。この後もいくつかの機体が実験されたが、実用的な全翼機はアメリカのB2爆撃機まで70年余りを待たねばならなかった。

 まあこういうお祭り騒ぎのような飛行機開発は、世界大戦の突入により大きく変化した。試行錯誤の上に確立された航空力学により、より早く、より高く、より破壊的な威力を持つ飛行機が次々と生まれていった。確かに飛行機は驚異的に発達させたが、世界大戦がなければ、この手のファンタスティックな機体の研究開発がのんびりと続いたかもしれない。
 それは飛行機だけに限らない。二〇世紀最初の十年は、現実が夢の延長線上でありえた、夢想家たちの最後の黄金期なのである。


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