空飛ぶ忍者

 

 近代戦の最も華やかな光景は、おそらく空挺作戦だろう。
 藍より青き大空に百千の落下傘が開き、数十機のヘリコプターが轟音ものすごく突進してくる様は壮観の一語に尽きる。
 だが落下傘部隊による空挺作戦(エアボーン)は、実際にはそうそう簡単には行われない。部隊の輸送には何十機という輸送機が必要だし、降下地点の上空の制空権確保は欠かせない。また着陸目標地点にある敵の対空砲は大きな脅威なので、事前に爆撃で叩き潰しておかなくてはならない。
 つまり空挺作戦の成功は、攻撃側が物量で圧倒し、戦略的にも優勢なことが前提となる。ということは、はなから空挺作戦などしなくても勝てる場合が大半なのだ。
 確かに劣勢な側が空挺作戦を半ばやけくそで行った例はあるが、効果はほとんど無かった。負けてる側には輸送機がほとんど無いし、制空権はたいてい敵が握っていて、地上では優勢な敵が手ぐすね引いて待ちかまえている。輸送機が飛来するや否や、爆音を察知した対空砲によってばたばた撃墜されてしまうのがおちである。
 劣勢な側が空挺作戦を成功させるには、輸送機に頼らず敵に気取られない手段が必要になる。これはほとんど無茶な要求だ。
 ところが近代戦史上、こうした理想的な空挺作戦の手段を準備し、遂行寸前までいった、まるで忍者のような部隊があった。帝国陸軍の機動第一旅団である。

帝国陸軍レンジャー部隊

 機動第一旅団の特異な歴史は昭和16年11月21日に発令された「軍令陸甲第九二号」なる命令により、関東軍の隷下に機動第二連隊(通称五〇二部隊、連隊長須藤勇吉中佐)が編成されたことに始まる。
 旧満州の吉林に駐留したこの部隊、連隊とは名づけられていたが実動兵力298名の小部隊に過ぎなかった。連隊の兵士は歩兵・砲兵・工兵などあらゆる兵種から選抜され猛訓練を施された。35キロの装備を担いで一日80キロの強行軍を行い、大興安嶺山脈の原始林の中でのサバイバルなど、その内容は今日のレンジャー部隊に匹敵する内容であった。
 第二連隊の兵士が訓練に習熟すると、彼等を中核に部隊は拡充され、昭和19年8月、機動3個連隊からなる機動第一旅団が誕生する(総兵力6857名、旅団長重住吉固少将、のち木下秀明大佐)。
 この帝国陸軍唯一のレンジャー旅団の任務は対ソ戦だった。ソ連と開戦した際にはシベリアに密かに侵入して鉄道路を爆破遮断、タイガの中で遊撃作戦を行うのである。このため原始林でのサバイバル訓練を積んだのだが、問題はいかにして密林や荒野を乗り越え、敵領土の奥深く密かに侵入するかであった。
 そして機動第一旅団は兵士たちが音も無く、夜空を一人ずつ飛んでいくという忍者めいた技術を遂に実用化したのである!

奇策! ふ号兵器

 その驚異の技術とは関東軍の近藤石象技師(のち航技少佐)の発案した「ふ号兵器」である。それが何かは下図を見れば一目瞭然だろう。

 ……いや、信じられないだろうが嘘じゃないんだって。本当なんだから。
 「ふ号兵器」の実態は、和紙を素材とした水素気球である。おわかりの人もいるだろうが、これは帝国陸軍が同時期に開発した大陸間戦略爆撃兵器「風船爆弾」の気球と同一のものだ。原型となった「ふ号気球」の活用を命じられた近藤少佐が、空挺作戦への利用を思いついたのだという。もっとも近藤少佐はデパートのアドバルーンを見てこのアイデアを思いつき、試作した気球のスペックがたまたま同じであったという説もある。
 親気球は直径5m、容積65立法m、75kgまでの重量物を吊り下げられた。これでは完全装備の兵士を下げるには浮力が足りないので、半分の直径の子気球を兵士が持ち、バラストとして砂袋を腰に下げる。
 計画では下図のように高度3千mまで上昇、偏西風に乗ってフワフワと飛翔する。砂や気球のガスを放出して高度を調整し、目標まで来たら子気球を手から放してふんわり地上に降下するという訳。

 当然ながら気球には水素が詰められており、下から狙い撃たれたらひとたまりもない。敵がそれと気づかぬ深夜、物音を立てずにこっそり飛んでいくというのがコンセプトだった。
 最初のテストでは10名の兵士が高度300mを4kmほど飛翔し、半径50m以内に全員着陸した。調子に乗って今度は機動第二連隊約300人による演習が行われる。いい年した兵隊たちが何百人も風船にぶら下がってフワフワ漂うのだから壮観というには呑気な光景だが、思わぬ事故が発生した。兵士の一人が着陸に失敗、風速5mの風に煽られて演習地外まで漂流してしまったのだ! 部隊は機密保持のため撃墜も検討したが(帝国陸軍史上最も悲惨な死に方かもしれない)、幸いにも1時間ほどで22.5km先の原野に着陸した。旅団司令部はこの漂流距離を知り、空中侵攻作戦の実効性に大いに自信を深めたという(おいおい)。

気抜けの結末

 こうして誕生した世界戦史上唯一のバルーンボーン部隊だが、その存在は対ソ戦の切り札として極秘のうちに温存され、実力を発揮する機会はなかなか来なかった。
 昭和19年にアメリカ軍がサイパン島に上陸すると、反撃部隊として機動第一旅団の投入が検討された。部隊は出動準備に入ったが、対ソ戦のため温存することになり出動は見送られた。もしもこの時に投入されたら、世界戦史上に空前絶後の痛快な作戦になったかもしれない。
 翌昭和20年、ソ連は中立条約を破棄し突如として満州に侵攻した。戦車を前面に立てた電撃戦に対して、戦略のがた落ちしていた関東軍はなす術もなく敗走した。機動第一旅団もこうなっては空中作戦どころではなかったが、前線の各部隊は鉄道線を爆破しながら終戦まで抵抗を続けた。降服した旅団の兵士たちは全員シベリアに抑留された。将校たちは特殊作戦の準備が戦争犯罪にあたると言いがかりをつけられ、軍事裁判にかけられたという。
 こうした経緯もあって隊員たちは戦後も沈黙を守り続けた。機動第一旅団はその実状をほとんど知られぬまま戦史の闇に消えたのである。

参考資料:鈴木敏夫著「関東軍特殊部隊 闇に屠られた対ソ精鋭部隊」光人社(1988)

後日談

 闇に消えたというのは完全には正しくなかった。「ふ号兵器」はなんと形を変えて生き延びていたのである。

 この記事を書いた後、何気なく検索したサイトでジャンピングバルーンというアトラクションを見つけた。あちこちのイベントに展示され、実際に遊ばれているらしい。
 気になって調べてみたら、国会図書館の目録にこんな本があった。

「空で遊ぼう!! ジャンピングバルーン」近藤石象、ラテイス(1967)

 著者は「ふ号兵器」の近藤少佐に間違いない。
 これも軍事技術の平和利用、ということになるんだろうなあ。


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