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SFとは「現代の寓話」でもある。レズニックは、よくこのこと を熟知した作家であるに違いない。そして、この寓話は20世紀末 に生きる私達をこそ、突き動かすものであるに違いない。 私はマイク・レズニックの作品は殆ど読んでこなかった。稀代の ストーリーテラーであるという風評も、たくさんの賞を受賞してい ることも、私を揺り動かしはしなかった。この5月は、書店に出か けても読みたいと思わせるものが並んでおらず、以前読んだ作品を 再読することばかりに費やしていた。クラークやディックを味わい 直すことで、SF生活を食いつないできたとも言える。少々、欲求 不満という気分でもあった。だから、綴れ織りも休止状態だった。 正直に言って、そんな気分でいたものだから、たいして期待など してはいなかった。もともと<ユートピア>などという概念は死滅 したものだ、と思っている人なので、テラフォームされた小惑星に <ユートピア>を構築する物語なんて、嘘臭いとすら感じていたか らだ。読み始めると、レズニックは<語り上手>であることに納得 した。たしかに、近未来の東アフリカの一部族<キクユ族>の人々 が出会うであろう「部族の伝承や伝統的生活」に対する<喪失感> を見事に描きだしている。しかし、それでもテラフォーム世界にミ ニチュアの<ユートピア>を形成するなんて、土台無理な話しだ、 と懐疑的な気分で読み進んでいく。レズニックの見事さは、実はこ こからなのだ。この作品は、読み手が想定するであろう<疑念>を ひとつひとつテーマとしたオムニバス構成となっている。 進化した科学やテクノロジーを拒否した、先祖がえりを志向する <楽園>の構築。それ自体が進化した科学やテクノロジーによって 建設されたテラフォーム世界である、という矛盾。そのユートピア である小世界を領導する祈祷師・ムンドゥムグ。部族の伝承・伝統 と、部族の神<ンガイ>への信仰を伝える知恵袋。物語りのなかで キクユ族が拒否すべき<ヨーロッパ文明>と語られるものは、実は 進化した科学やテクノロジーを持つ全ての文化文明の総称である。 ひとつでもそのようなテクノロジーを受け入れるならば、雪崩の ように<楽園>は崩壊していくに違いない、と熟知している祈祷師 であるムンドゥムグ/コリバの葛藤が軸となって、物語りは綴れ織 られる。見事である。作者自身がいちばんのお気に入りと語ってい る「空にふれた少女」などは、まるで宮澤賢治の世界のようだ。 微かな痛みが胸を刺し、いつまでも胸に残る。<知>への渇望を 抑圧する社会が、楽園である筈がない。無知が栄えたためしはない のだ。少女カマリは普遍的な渇望する少年期そのものの表象として 見事に描かれた。少女カマリは、その短い生命の最後に、”籠の鳥 が死ぬわけを知っています−−鳥たちと同じように、あたしも空に ふれたから”という二行連句を残す。少し青臭いだろうか。そう思 わせないレズニックの筆力を誉めるべきだろうか。寓話なのだ。 エピローグで、ムンドゥムグ/コリバは悲嘆のうちに語る。 『ある社会がユートピアでいられるのはほんの一瞬なのだ。いった ん完璧な状態になったあとは、どんな変化があってもそれはユート ピアではなくなってしまうのだが、社会というのはそもそも成長し して進歩するものなのだ。』 この結末は、予め読み手が想定した疑念そのものである。私たち は<戦争と革命>の時代と言われた20世紀の体験を通じて、社会 とは生成・変化し続けるものであることを知っているからこそ、ユ ートピアという<概念>としてしか定着する筈もない主題に疑念を 抱いた。これが結論ならば、あまりにも平明すぎるではないか。 しかし、冷戦の崩壊以降、<宗教>と<民族>という紛争を世界 全体が超克できないままでいる、この20世紀末にふさわしいテー マであるとも言えるだろう。なにも終わってはいないからだ。 作品のあらゆるところに詩情にあふれた寓話が鏤められている。 いや、この作品<キリンヤガ>自体が現代の寓話そのものなのだ。 |