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D・ブリンの作品は、いつものめり込むように読むことを誘う力 がある。この『グローリー・シーズン』も、そのような作品として の力を感じることができた。しかし、公私ともの多忙さのなかで、 電車通勤の時間帯しか、この作品を読み通すことに費やすことがで きず、ひと月近い時間をかけてしまった。それでも、私は主人公の マイアと共に惑星ストラトスを徐々に理解し、受け入れ、堪能する ことができた、と思う。ブリンの筆力は侮れない、と再確認した。 さて、この物語は90年代の作品に多く見られる「未来に建設さ れる中世のような、または牧歌的なユートピア社会の挫折」といっ た作品群に一見すると重なりあって見えてしまう。しかし、作家の 関心は「クローニング」「性差」「暴力や戦争の克服」といった主 題を底敷にしている、と言っても良い。この作品の背景には、宇宙 空間へ進出した人類が、愚かな歴史への悔悟から、それぞれに特異 な世界を形成しようとし、独立し遍在するが、やがてヒューマンフ ァイラムとして連合しようとする大きな人類宇宙史が背景にある。 このあたりは巡回者レナを通じて語られるのみで、本作では主軸に はなっていないので、霧の向こうにうっすらと垣間見えるのみ。 そして、作家の関心に連れられた主題をベースに、それら人類連 合から隠れるようにして、独自の世界を形成している惑星ストラト スが、この作品の舞台である、というわけなのだ。 作家の関心は、バイオ・テクノロジーのひとつであるクローニン グを基軸としている。しかも、試験管ベビー的なクローン技術では なく、自然界にも存在する「自家クローニング」を人類が得たら、 という前提である。この発想は面白いのだが、そうした自家クロー ニングを人類が獲得するためには、より高度なバイオ・テクノロジ ーの洗礼を受けねばならないことも自明である。おそらく、そのよ うな技術的な関心は、作家にとっては二義的でしかないのだろう。 人類の過誤に充ちた歴史、とりわけ戦争と暴力へ向かう「狂熱の 力」の由来が<男性的なるもの>にあると仮定した場合に、それを 否定する「温和な世界」を構築する<実験場>として、惑星ストラ トスは、自家クローニングによる女性クローンを主体とした世界と して産みだされた。このような実験世界を考察するための仕掛けと して「物語」は編まれているのだ。読者もそのように読めばいい。 このような<異質な文明>への関心は、実際には現実に営まれて いる私たちの文明や世界への<異和>として語られているのだ、と 言ってもいい。どのような規範にも永遠など、ありはしない。 この作品においても、サイエンスやテクノロジーの進化が猛烈な スピードで加速している現実に対し、実は未だに人類が未来の人類 社会への新たな理念も思想も産み出していないことへの非信と葛藤 が底にある、と思う。サイエンスやテクノロジーというものは、ど うしてもそれ自体への関心に収斂し、視野を狭くする。その進化が 私たち人類の営む共同体をどのように変容させるのか、そうした視 点はいつも後追いをしている、といった感想は否めない。そうした 考察はけっして無駄ではないだろう。私たちの関心もそこにある。 |