脳内麻薬と快感神経の謎

 私が蚕糸試験場松本支場長として松本に赴任したのは退職4年前の昭和60年の春でした。支場長宿舎の前には広い菜園があり、野菜作りを楽しむことができました。その通りに面した側には色とりどりのヒナゲシが群をなして咲いていました。そこには自分が楽しむだけでなく、周りの人達にも楽しみを与えようという先輩の暖かい心根が感じられました。通りを歩く近所の人達も、つい足を止めて繚乱と咲き乱れるその美しさに見入って私に声をかける人もおりました。「これはケシじゃあないんですか、こんな花を植えていても大丈夫なんですか」という質問も何度かありました。「いや、これはケシはケシでもヒナゲシだから大丈夫なんですよ」と答えたものです。
 ヒナゲシはケシの仲間ですがポピーとも言い、新約聖書にも“野の花"として出てくると言われていますが、これからは麻薬は取れません。その可憐な花たちが群れをなして咲いている美しさは本当にたとえようがないほどです。ついでですが、高山植物の女王と言われ、燕岳をはじめ日本アルプスなどでよく見られるコマクサもケシ科に属していま
す。

<ケシ>

 さて、ここではまずヒナゲシではなく、ケシの話から始めましょう。ケシは学名をパパペル・ソムニフェルムと言い、トルコなどの小アジア原産の一年草で、五月の晩春にヒナゲシに似た紅、白、紫などの美しい一重の花を咲かせると言います。落花後の子房が膨らんだものがケシ坊主で、それに切り傷を入れて出てくる乳汁から麻薬の阿片が取れるのです。阿片にはおよそ10%のモルヒネが含まれています。阿片の歴史は古く、紀元1世紀には阿片をケシ坊主から採取する現在の方法が記録されており、「少量では痛みを和らげ、眠りを誘い、消化を助ける。しかし、飲み過ぎると昏睡状態になり、死に至ることもある」と書かれています。19世紀には阿片の喫煙が盛んになり、それによって陶酔して、さながら桃源郷に遊ぶ快感の魅力がその常用者を急増させたのです。鎮痛だけでなく、快感、恍惚感、浮上感などが麻薬の特徴であり、禁断症状を伴って恐ろしい麻薬中毒となるのはご承知のとおりです。

 このように麻薬は人間の心と体を激しく蝕む恐ろしい薬ですが、その一方で末期ガン患者の耐え難い痛みをたちどころに解消してくれるありがたい薬でもあるのです。

 1874年にはモルヒネと無水酢酸とからより強力な麻薬であるヘロインが合成されました。それは慢性の咳、喘息などの呼吸器病の特効薬として売り出されましたが、その後、その強い依存性が問題になって世界各国で製造販売禁止となりました。

 脳には血液 ─ 脳関門と呼ばれる化学的な関所があって、毒物が脳内に入らないようにきびしく防御されています。モルヒネの場合、注射しても2%程度しか脳内に入りませんが、ヘロインではそれが細胞膜と同じ脂溶性のため、65%が脳内に入り、脳内で分解されてモルヒネとなり、麻薬の効果を存分に発揮するといいます。ヘロインがモルヒネに比べていかに強力な麻薬であるかが分かります。

<脳からも麻薬が>

 さて、人間の脳の中に麻薬を感ずる場所、つまり、麻薬リセプター(受容器)があることがわかってきました。それは細胞膜にあって、たんぱく質分子でできています。脳の中に麻薬リセプターがあるということは、とりもなおさず、外来のものではなく、われわれの脳内にも麻薬作用を持った物質が天然に存在していることを暗示しています。

 この脳内麻薬の初めての発見は1975年のことで、イギリス、スコットランドのアバディーン大学のコスタリッツ教授の下で33才のジョン・ヒューズという研究者がブタの脳から発見したと言われています。この物質はアミノ酸5個で構成されるペプチドと呼ばれるもので、“エンケファリン"と命名されました。その後、アメリカのカリフォルニア大学ホルモン研究所のリーという女性の研究者が脳下垂体から取り出した物質(やはりアミノ酸の連なったぺプチド)が麻薬作用を持っていることを確かめ、エンドルフィンと命名しました。なかでも分子が最も大きい“ベータ・エンドルフィン"という物質は鎮痛作用が一番強く、モルヒネの6.5倍もありました。 このようにして、脳内麻薬は次々と発見され、現在 までに、およそ20種類が知られています。

 その後、麻薬リセプターとそれらに作用する物質、主な生理作用についての研究が進み、麻薬リセプターには5種類あることが分かってきました。脳内麻薬の作用の第一は何といっても、快感作用と鎮痛作用で、その二つの作用は不即不離の関係にあり、エンケファリンは脳全体に広く薄く分布しているが、ベータ・エンドルフィンは脳の内部の根底に密に分布し、脳の活動を根底から強く左右しているというのです。

 この脳内麻薬の働きによって強い痛みやストレスに耐える力が生まれたり、快適になったり、幸福感にひたったりするのです。しかもそれは人間が人間として生きていく上で欠かせない働きをしており、忍耐力や創造力の発揮にも関係を持っていることが分かってきました。

 親しい仲間と一緒にいるような時には最強の脳内麻薬であるエンドルフィンを分泌するように遺伝的にプログラムされており、そのエンドルフィンが不安感の軽減と幸福感の発生を助けています。他方、社会的な孤独感や親近者からの別離感などを感じる時には、脳がエンドルフィンの生産を停止するために、一種の麻薬禁断症状に陥って、不安感に満たされるのであろうと考えられています。

 脳内麻薬が鎮痛作用を現すのはどういう機構によるのでしょうか。このためには、神経伝達の機構を説明しなくてはなりません。例えば、ある筋肉が痛められたとします。するとそこに分布している痛覚神経を伝わって「痛い」という電気信号が電線のように中枢に向かって伝わっていきます。ところが、神経の伝達では、その途中で次の神経細胞との間で信号を受け渡す接続部があります。その部分をシナプスと呼びますが、前の細胞と次の細胞との間には僅かな隙間があって、その間隙を液体のホルモン分子が走ることによって情報伝達が行われるのです。これを神経ホルモンまたは神経伝達物質と言っています。

 麻薬リセプターは痛覚神経のシナプスの部分に存在し、脳内麻薬がこのリセプターに結合すると、痛覚神経を伝わってきた痛みの信号が遮断され、鎮痛効果が生まれるというのです。

<人間の脳の構造>

 脳の構造をごく簡単に分類すると、生命の維持に重要な役目を持ち「生命の脳」とも呼ばれる“脳幹”(視床、視床下部、橋、延髄などからなる)、後部にある運動をつかさどる“小脳”、巨大化した“大脳”、そこには“大脳新皮質”があり、「人間の脳」とも呼ばれています。大脳の周辺にある“大脳辺縁系”では感情の源泉としての情動(喜怒哀楽)が醸成されます。その内部の“大脳基底核”では感情に応じた運動行動を本能的に微調整しています。つまり、表情や態度を表わす時に働くのです。大脳新皮質は前頭葉、頭頂葉、後頭葉、左右の側頭葉に分かれますが、後頭葉、頭頂葉は痛いとか、くすぐったいとかの感覚情報を受容する感覚系で、脊髄から入ってきた感覚神経は頭頂葉へ、目からの視覚は後頭葉に入っています。前頭葉の後部は運動系で、それらはすぐ下の大脳基底核、脳幹から後ろへ突出した小脳と共に、脊髄の腹側から出る運動神経を介して、全身の運動を自由に微調整しています。

 これらの感覚系、運動系に対して、前頭葉の前部、下部と、側面から前へ張り出した側頭葉とは、感覚を過去の記憶と照合し、判断し、さらに運動系に指令して行動を起こさせます。これらの前頭葉と側頭葉を合わせて連合野と呼びます。連合野の中でも、前頭葉の前部三分の二を占める“前頭連合野”こそが人間精神を創出する最重要な脳と言われており、抽象的な思考によくかかわっている部分です。

 以上が脳のおおざっぱな構造ですが、機能面から大別すると、大脳の後部から脊髄の背側部までが感覚系、大脳の中央部から脊髄の腹側部にかけてが運動系、連合野が精神系と言えます。人間精神を知(知能)・情(感情)・意(意欲)に分けると、知能は前頭葉と側頭葉、とくに前頭連合野から、また感情は大脳辺縁系から、そして意欲は視床下部から出てくるというような対応が見られるのです。

<快感神経とドーパミン>

 ところで、脳内の多くの神経の中で、精神系だけを走っているユニークなA10(エイ・テン)と呼ばれている神経があります。そして、それが活性化されると快感を感ずるというのです。この神経の発見は1964年、それが快感神経と分かったのは1978年だと言います。 この神経は脳幹の神経核と呼ばれる場所から出て、性欲や食欲、体温調整の中枢がある視床下部から大脳に入り、恐れ・警戒・探索に関係して攻撃性を生じると言われている扁桃核や記憶の貯蔵庫と言われる海馬、態度や表情を生ずる尾状核、行動力発現の脳と言われる中隔核などがある大脳辺縁系を経て、最も進化した人間精神を生じると言われる前頭連合野と記憶・学習を総合する側頭葉へ入り終わっています。この神経が刺激されるとドーパミンという神経伝達物資が分泌されると共に快感を生じます。大脳辺縁系で生じる喜怒哀楽などの情動の源がこの神経のようです。そこで、これを快感神経または快楽神経とか恍惚神経とか呼ばれています。

 A10神経は人間精神を創出する神経系へだけ進んでいるのです。これは裸電線のような無髄神経で、端的にいって、神経細胞というよりホルモン分泌細胞なのです。そこでこの神経はどこからでも神経伝達物質であるドーパミンを分泌し、それによって、全身的に快感や喜怒哀楽の情動を生ずるのです。

 ドーパミンはアミノ酸の一種、チロシンから作られたアミンの一種ですが、チロシンは脳内麻薬の主成分でもあります。ドーパミンは本来有毒な物質なのです。それが精神系へと拡散的に、満遍なく広く分泌されると、それを受けたそれぞれの脳は覚醒し、快感を生じる仕組みなのです。エフェドリンやコカインのような覚醒剤はドーパミンによく似た薬で、ドーパミンの再吸収を抑えてドーパミンの作用を高めると言われています。

 精神分裂病はこのドーパミンの不足や過剰によって起こると言われます。ドーパミンが減ると思考が乱れ、気分が悪くなったり妄想にとらわれたりします。ドーパミンは前頭連合野で一番よく働いています。

 そもそも、脳の働きとしては、まず、知覚した「世界」を分解し、再構成して短期記憶に蓄えます。それを長期記憶と組み合わせて色々考えて行動プランを作り、運動プログラムを作り、筋肉を動かして「世界」と関係します。一時的に色々な情報を得て、それを組み合わせてひとつの結論を出すという働きをワーキングメモリー、日本語では「作業記憶」と言います。これが「思考」というものですが、前頭連合野こそがこの働きのセンターなのです。

 前頭連合野のドーパミンが不足すると、この思考の基礎であるワーキングメモリーの働きがおかしくなる。それが精神分裂病の主な症状で、適切な発想が出てこない、おかしな言葉を話す、話しがどんどん飛ぶなどの症状が現れます。また、ドーパミンが働かないと記憶が失われると言います。要するにドーパミンは脳の神経細胞そのものの働きを支えているというわけです。

 A10神経は、ひとりで勝手気ままに快感を作り出しているわけではなく、ストレスが過剰になると不快になるようにA10神経は他の神経やホルモンからも強い影響を受けているのです。A10神経の働きに深く関係しているもの三つをあげると第一にA10神経の仲間で、同じように喜怒哀楽の情動を醸成する脳幹の多数の無髄神経(例えば、A6神経)。第二 に、上位にある高級な大脳や小脳の進化した有髄神経。第三に、ホルモン分泌細胞です。第二の大脳辺縁系から出て最も強くA10神経をコントロールしているのは神経伝達物質としてギャバ(ガンマ・アミノ酪酸)を分泌して標的細胞に抑制的に働くギャバ有髄神経です。A10神経がギャバ神経から抑制を受ける一方で、ギャバ神経もまた、介在神経を通してA10神経のコントロールを受けているという「負のフィードバック」の関係を保っています。その機構によって相互に働き過ぎを抑えて一定値が保てるようにしているのです。

<麻薬と快感神経>

 また、これらのうち、抑制性の神経であるA6、ギャバ神経などの 末端部には麻薬リセプターが付いており、麻薬や脳内麻薬はA10神経を抑制するギャバ神経のリセプターに働いて、ギャバの抑制効果を遮断する、つまり、抑制を抑制するので、結果としてA10神経の抑制が効かなくなって、ドーパミンをどっと分泌して強烈な快感を生ぜしめるのだと言います。人間はいつでも強力な脳内麻薬であるベータ・エンドルフィンをほどよく分泌してA10快感神経を駆動しつつ、恋をし、音楽や絵画に陶酔し、創造的な仕事に満足感を得ながら快適に暮らすことを望んでいるのです。その機構があるところへ、ほどよくどころか過度の快感を長時間与えられては、負のフィードバックが狂わされてしまい、麻薬中毒になってしまうというわけです。

<おわりに>

 人間として生きていこうとする意欲や精神力の原動力を生み出すと言われる脳内麻薬の分泌、創造性発動の原動力を生むドーパミンを分泌するA10神経の存在など、脳というのは本当に精巧で不思議な多くの機能に満たされていることをしみじみと感じます。ここでは受け売りながらその一端をご紹介した次第です。

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