無農薬野菜をめぐって

 私の家では町の農協の斡旋で10メートル四方の家庭菜園を借りて楽しんでいる。春のじゃがいもの植え付けから始まって、秋の里芋の収穫に至るまで、これだけの広さがあると結構楽しめる。そもそも、家庭菜園らしいものを始めたのが昭和50年頃だったから、もうかれこれ20年近くも続けていることになる。それにしては恥ずかしながら、そんなに何時も結果がうまくいっているとは限らない。比較的無難なのはナス、キュウリ、いも類、菜類、大根、豆類などであるが、それでも一昨年の雨ばかりの夏にはナスなど全然ものにならなかったし、殺菌剤を撒き忘れたトマトでは疫病で葉がしおれて収穫皆無に見舞われたことも多々ある。また、豆類のアブラムシには悩まされるし、キャベツやブロッコリー、白菜などはアオムシやヨトウムシなどで葉がいつも穴だらけで、どうしても若干は殺虫剤のお世話にならないわけにはいかない。また、鶏糞や牛糞、油滓や堆肥などをなるべく入れるように心がけているが、それでも作物によっては化学肥料を使わないわけにはいかないのが現状だ。

 最近、有機野菜や無農薬野菜がもてはやされているが、本当に無農薬で葉に穴のあいてないキャベツや白菜が作れるのだろうか。化学肥料なしでナスなどが作れるのだろうか。ここでは以下、北村美遵氏の「地球はほんとに危ないか」というカッパ・サイエンス・シリーズの内容の一部を紹介して、無農薬野菜をめぐる問題点を検証してみよう。 

<消費者意識>

 1991年に農水省が全国の消費者の主婦約1,000名を対象に意識調査を行った。有機栽培 (=無農薬)野菜について関心があると答えた回答者は92%で、約37%が「価格が高くても買う」と答えた。購入する理由としては、「安全性が高い」ためというのが80%を超えてトップであった。つまり十人中九人弱が無農薬野菜は安全と考えていることが示された。この認識は本当に正しいのだろうか。

<有機農業の歴史>

 有機農業の概念はヨーロッパで生まれ、無機化学肥料に多く依存する農業では地力の保全ができないという有機質肥料重視の技術体系を意味していた。当初は農薬は今日ほど重視されていなかったが、有機農業の中で農薬が重要テーマになるのはその主流が合成有機化合物になってからである。DDTなどの有機塩素系農薬の環境残留性やパラチオンなどの有機リン系の人畜に対する強い急性毒性で危機意識が生まれ、有機農業は反化学肥料以上に反農薬に傾斜し、有機農業イコール無農薬という構図が成立した。

 現在、欧米では有機農業とは完全無農薬・無化学肥料を最低の基準とする社会的合意が成立しているという。アメリカでは過去3年以上化学合成物質が使用されていない畑で無農薬・無化学肥料で栽培された農産物にのみ「有機」の表示ができるという基準が90年農業法で打ち出された。それに違反すれば1万ドル以下の罰金である。

 しかし、日本では現在、そのような基準ははっきり確立されてはいない。農水省や農協は有機栽培や有機農法を具体的に定義することには消極的で、無農薬、減農薬、無化学肥料、減化学肥料などの表示方法を提唱しただけである。

 日本では、もともと自然農法という実践があった。一つは世界救生教教祖の岡田茂吉の無農薬・無化学肥料の提唱、他の一つは福岡正信の不耕起・無肥料・無農薬・無除草の自然農法である。1960年代に入り、頻繁な農薬使用で健康を害した篤農家が農法の転換を目指し始め、1971年に一楽照雄が日本有機農業研究会を結成する。そこでは、生産者と消費者の信頼関係を回復し、化学肥料や農薬などを使用せず、地域の資源を活用し、自然が本来持っている生産力を尊重した方法を有機農法と言った。

<無農薬野菜の現状>

 平成元年度に農水省有機農業対策室は実態調査を行い、「有機農業等の現状」という調査結果を発表した。それによると、全国で2万戸強の農家が有機農業に取り組んでおり、そのうち40%弱、約8千戸が無農薬栽培農家と想定された。日本の農家戸数を400万戸と すると、有機農業の農家は0.5%、無農薬栽培農家は0.2%となる。これからも、一般に出回っていると思われる完全無農薬の野菜はほとんどゼロに近いことがわかる。

 80年代半ばから4年間にわたる関西大学での店頭販売野菜の農薬残留調査によると、有機リン系殺虫剤ダイアジノンの残留が検出されたものは、通常栽培野菜159例中72例(45 %)、 無農薬栽培と称する160例中86例(54%)という皮肉な結果であった。ニセの無農 薬野菜を取り扱っていた団体に対して公正取引委員会が文書による指導を行ったこともある。「無農薬」だったら普通より高くても買うという消費者心理を見込んで、ニセの高い無農薬野菜を売りつけようという商魂があるのを忘れてはいけない。なにしろ、見ても区別がつかないのだから。

<天然野菜の中にも存在する農薬様物質>

 カリフォルニア大学バークレー校の生化学・分子生物学のブルース・エイムズという学者は80年代半ばに次のような説を発表して話題を呼んだ。つまり、アメリカ人が通常摂取する食事の中にはある種の「天然農薬用物質」も含まれている。それは植物が菌類や昆虫などの食害生物に対して自己防衛するために自分の生体内で合成する毒性の化学物質のことで、それは一人一日当たり1.5グラムの量に達し、食品に残留している合成農薬の1万 倍もの量になると言うのである。むろん、食事の内容しだいで摂取量は変わり、ベジタリアンでは高くなるであろう。例えば、そのような物質として、キャベツではインドール化合物群、シアナイド群、テルペン群など49種類も発見されており、その一部については、これまでの実験で染色体異常誘発能や発ガン性も認められている。

 もちろん、植物には抗ガン性物質であるビタミンCなども含まれており、人体には各種の解毒作用や生体防御機構も働いているが、発ガンのメカニズムも、抑制のメカニズムも発ガン物質が天然物か人工物かで違うことはない。そのような中で、彼は人工物よりも天然物の方がはるかに危険だと主張したのだから、反響は大きかった。これについての論争はなお続いているようであるが、エームズは消費者をただ脅しているわけではなく、ガン予防のためには農薬の有無を気にするよりも、脂肪の取り過ぎや野菜不足を避け、タバコをやめるように勧めているのだという。

 とにかくここで、いわゆる「自然食品」が直ちに絶対安全であるという証拠は何もないことが示された。

<結構厳格な農薬の安全基準>

 私はかって、薬事審議会の臨時委員をおおせつかって各種農薬類の登録審査のための会議に参加した経験があるが、その審査に使う資料は誠に膨大で、会議の前に段ボール箱で2個も送られて来ることもしばしばであった。農薬の登録申請に際しては、人畜に対する急性毒性試験、慢性毒性試験、神経毒性・発ガン性・生体機能に及ぼす影響試験などの多くの試験が必要とされている。この中で、慢性毒性試験を例に挙げて説明すると、通常、ラットやイヌなどが実験動物とされ、発ガン性も併せて試験される。ラットはほぼ生涯、イヌは1年間、マウスは1年半、群ごとに農薬量を定め、エサに混ぜて毎日与えながら飼育し体重の変化や健康状態を観察し、飼育終了後、解剖して生化学検査などを行う。こうして、動物体になんら影響を与えない薬量(最大無作用量)を決め、ヒトに当てはめる場合には最低100の「安全係数」を掛けて一日摂取許容量(ADI)を体重1キログラム当たりのミリグラムで表し、日本では個体の体重を50キログラムとして、一人一日摂取しても安全な量を計算する。次に、その農薬が用いられる作物を日本人が一日にどれだけ食べるかを想定し、この作物摂取量に残留する農薬の総量がADI×50ミリグラム以下になるように 作物ごとに残留許容量(残留基準)が設定される。他方、農薬が使用される農作物は2カ所以上の圃場で使用濃度、時期、回数を変えて栽培し、収穫物中の残留分析をして、残留量が許容量内に納まるように使用時期と総使用回数を決め、これを安全使用基準としている。検査の全部を詳しく述べる余裕はないが、残留許容量は食品衛生法と農薬取締法の両方にかかわって決められている。人間のやることだから、全く完全を期待することには無理であるが、農薬については少なくともこれだけの安全性検定が行われた結果、登録されているのも事実なので、何が何でも農薬使用は悪だと決め付けるのは科学的とは言えない。

<日本農業と農薬>

 第二次大戦後、導入されたDDTやBHCなどの有機塩素系の殺虫剤が人間の発疹チフスを媒介するシラミの駆除やイネのニカメイチュウの防除等に顕著な効果を発揮したのはあまりにも有名である。次いで、有機リン系殺虫剤のパラチオンがニカメイチュウ防除に、有機水銀剤のセレサンがイネのイモチ病や蚕のカビ病などに著効があるというので大いに使われ、病害虫防除に一時代を画した。しかし、それらが人間の健康を害し、長く残留して環境を汚染することなどがだんだん明らかになり、使用禁止になるとともに、農薬の環境汚染が声高く叫ばれることとなった。1962年にはレーチェル・カーソンの「沈黙の春」が出版され、人々はその大きな警告に耳を傾けた。

 これらを受けて70年代以降、先進国の農薬利用技術は大きな転換を余儀なくされた。人間にとっての低毒性、環境内で分解しやすいこと、対象となる標的生物以外には影響を及ぼさない高い選択性などである。具体的には水、大気、土壌への農薬残留を極力押さえる剤型や施用技術が意欲的に探られており、天敵の導入、性フェロモンの利用、不妊化などの生物的防除、光を用いた物理的防除、耕種技術で被害を回避する方法、作物への抵抗性遺伝子の導入などを組み合わせる防除法へと進んできた。また、完全防除ではなく、経済的に許容できる水準に抑えればいいという総合的管理(IPM)への転換も図られている。
 
<無農薬有機栽培万能の思い込み>

 しかし、他方、農薬に対する極度の恐怖は「農薬はすべて悪」という情緒的な反応が消費者運動の中で正当化されてきたのも事実である。「無農薬信仰」と知的でないいわゆる「賢い主婦」たちが「恐るべき××」とわめき立て、無農薬オタクが氾濫したと北村氏は述べる。

 無農薬信奉者の間では、無農薬有機栽培の方が美味で栄養豊富であるという思い込みもはびこっている。しかし、無農薬とおいしさとは全然別の問題であることはちょっと考えれば分かることである。お米における“コシヒカリ信仰”のように、グルメブームの中でブランド食品への一種の信仰が広がり、無農薬有機農産物もまた、一部の消費者の間でブランドものとして迎え入れられている。有機農産物や自然食品には“本物の”という形容詞が冠せられることも多い。しかし、何が本物かを考えてみれば、これにも意味がないことは明らかである。

 そうは言っても、農薬が環境を汚染する事実も嘘ではなく、それを出来るだけ減らす努力が必要なことは当然である。

<化学肥料の役割>

 いわゆる“無農薬有機栽培”では、化成肥料などの無機質化学肥料の投入も犯人にされている。しかし、植物の生育には窒素、リン酸、カリなどの補充が必要とされている。その補充には肥料が無機物であろうと、有機物であろうと変わりがない。しかし、有機質肥料には土壌改良剤としての役割もあり、それが有機物施用による土つくりが提唱されている所以である。

 しかし、化学肥料の多投で「土が死ぬ」という表現には問題がある。各地の試験場における試験結果でも、化学肥料のみの長年の栽培区でも有機質である堆肥投入区と変わらない収量が得られるという成績はいくらでもある。化学肥料を完全に排除すべきであるという根拠はどこにもない。これは技術の問題ではなく、農生態系での物質循環をなるべく自然に近付けるべきだという「思想」を根拠にしているようである。

 問題は、使い易いために、往々にして化学肥料が必要以上に多用されることである。とくに、多収効果を期待できる窒素にその傾向があり、これが大気圏に放出され(脱窒という)、あるいは水系に流亡して環境を汚染することがある。農生態系に外部から投入される物質の量を制限すべきだという考え方も強くなってきた。アメリカではこれをLISA(低投入持続可能型農業)と呼んでいるが、これも今後追及すべき一つの方向であろう。

<おわりに>

 無農薬や有機栽培の野菜が望ましいことは当然であるが、そうはいかない場合があることも事実である。何が何でも無農薬だとか、化学肥料は止めたほうがいいとかいう盲目的な「信仰」には同意しかねるが、農薬使用を必要最小限度に減らし、人間の健康に影響を与えず、出来る限り環境汚染を伴わないで実り多い野菜の生産が可能になる病害虫防除法研究の将来に大いに期待したいものである。何だか当たり前の分かり切ったことを述べてきたようにも思えるが、これはわが家の小さな家庭菜園からの要望の声でもある。

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