昆虫の脳の不思議

 “エッ、昆虫にも脳があるの?”と思われる方がいるかもしれない。脳というと学校の理科室に展示してあった人間の脳が連想され、あの白くブヨブヨしたような皺のよった脳が頭に浮かぶからである。昆虫の小さな頭の中にはあんな脳はあり得るはずがないと感ずるのももっともである。また、“虫けらどもに万物の霊長たる人間様と同じような脳があってたまるか”と言われるかもしれない。

 確かに人間は極度に発達した脳を持ち、それによって、わがもの顔に地球を支配するまでに至っている。それに比べれば昆虫などはとるに足らないものと思うかもしれない。しかし,数の上では地球上の動物種の3分の2を占め、地球は昆虫の王国とも言われる程である昆虫にも小さいながられっきとした脳が存在して

 昆虫の脳は人間の脳と違ってやや堅い感じの殻を被っており、“脳神経節(または球)”とも呼ばれている。もちろん、頭の中にあるが、それから胸部や腹部の方へ“はしご状神経系(または神経索)”と呼ばれる神経節のつながり(胸部や腹部の神経節間のつながり部分は2列にはしご状に並行して走る神経繊維の束)が伸びており、人間の脊髄にも似ている。ただし、人間と違って、脳以外の神経索は体の背側でなく、腹側を通っている。 昆虫の脳にも人間の脳と同じように味や匂いを感じたり、物を見たりする知覚の中枢や、飛んだり餌を食べたり交尾したりするする運動の中枢がある。しかし、昆虫の脳のことだから、そんなに高等な働きはできないだろうとお考えになるかもしれない。ところが、昆虫の中には“記憶”や“学習”さらに“情報伝達”などという高次な機能を備えているものも存在することが分かってきている。昆虫もなかなか利口で隅に置けないのである。
 ここでは、この昆虫の“記憶”の能力と、それが脳のどの場所で行われるのかなどについて紹介してみたい。

<昆虫の記憶の能力>

 1952年にティンバーゲンという人がホソゴシバチというジガバチの一種を使って次のような実験を行った。このハチが巣の中にいる間に、地面の巣の周囲に20個の松かさを輪状に置いた。ジガバチは巣を離れる時に数秒間巣のまわりを飛び回り、所在調べをしてから飛び去った。そのあとティンバーゲンは松かさを取り去り、それを同じ配列で少し離れた他の場所に置いた。やがてジガバチが獲物を捕らえて戻って来ると、本当の巣の入り口ではなく輪状に配置した松かさの中心に着地した。ジガバチは巣の入り口のまわりに松かさのあったことを覚えていたのである。

 このように巣を持つ昆虫のほとんどは巣の周囲の景色をよく覚えている。また、ある種のチョウやトンボなど、なわばりや決まった飛行ルートをもつ昆虫では場所記憶の能力がとくに発達しているという。

 さらに、ミツバチの採餌行動の巧みさには誠に目を見張るものがある。ミツバチは早朝、花蜜を求めて巣を飛び立つ。花蜜を収穫したミツバチは巣に戻って仲間の養育係に渡し、次の採餌飛行へと飛び立って行く。採餌飛行は夕暮れまで続く。有名な昆虫学者フォン・フリッシュの観察によると、この何げない採餌行動が、花の形、匂い、色、花のある場所、開花する時刻、などについての高度な学習能力に支えられていることを見いだした。ミツバチは、その行動圏の中で、いつ、どこで、どのような花を訪問すれば蜜が得られるのかを熟知していることが分かった。そして更に、しばしば2〜3キロも離れた餌場から自分の巣に戻る道筋をすべて覚えており、仲間の他のハチに餌場の方向と距離をミツバチダンスによって伝達するのである。

<場所の記憶は脳のどこで行われるのか>

 北大の水波助教授とアメリカのアリゾナ大学のストラスフェルド教授は、場所の記憶に昆虫の脳のどの領域がかかわっているのかを明らかにするための実験を行った(論文発表は1993年)。実験材料としては、場所記憶が特に発達したミツバチを使いたかったが、それは手術に対して非常に弱く、実験には不適当であることが分かり、仕方なく頑強で脳手術からの回復も早いワモンゴキブリを使うことになった。研究の手法としては、その脳の様々な領域を手術で破壊し、場所の記憶に障害が起こる領域を見つけ出そうとした。

 まず、ワモンゴキブリが場所を記憶できるかどうかを最初の実験で確かめることになった。その実験装置というのは次のようなものであった。直径30センチほどの円形の広場を作り、その周りには高さ10センチ程度の円柱を立てた。その円柱の内壁の東西南北に相当する4カ所には白だけと黒だけ、白と黒との縦縞と横縞といった4種の違う視覚的なパターン(模様)を配し、その位置関係は常に一定とした。広場の床は全体が約50℃の高温としたが、その中に一部円形の熱くない小部分(ゴールと呼ぶ)を設けた。その部分は他の部分と視覚的には区別できない。実験に当たって、 ゴキブリを円形の広場の中央に置くと、ゴキブリは高温から逃れようとして広場を走りまわる。そのうち偶然にゴールにさしかかると以後はその場所にとどまる。床には薄いプラスチックのシートを敷いて頻繁に交換しフェロモン等の匂いの手掛かりは使えないようにした。同じゴキブリを使ってこの実験を数回繰り返すと、ゴキブリは次第に短い時間でこのゴールに到達できるようになり、9回目頃になるとほぼ直線的にこの場所に向かった。壁を回転して模様の位置をずらすと、ゴキブリは誤った方向に向かってしまい、ゴールに到達するまでの時間は長びいた。この結果はゴキブリがゴールの発見に壁の模様を手掛かりとして用いたことを示している。つまり、この実験からゴキブリはゴールのまわりの景色を記憶する能力があるとの結論を得た。 次に脳の手術を行ったゴキブリを使って同じような観察を行い、脳のどの部分がこの場所記憶に関与しているかを確かめる実験を行った。脳の局所破壊は微小な幅0.15〜0.17ミリ、長さ0.35〜0.40ミリのアルミホイルの切片によって脳内の色々な場所を切断し、それをその場所に慢性的に埋め込む方法によった。多くの手術と行動実験の結果、ついに場所記憶に障害の起こる脳領域を特定することができた。“キノコ体”と呼ばれる脳の前中央部に対になって存在するキノコに似た形を持つ領域を左右ともに切断すると、そのゴキブリは何回実験を繰り返してもゴールへの到達時間は短縮せず、場所記憶に障害が起こることが分かった。つまり、このキノコ体が場所記憶に関与していると結論づけられた。

 他方、ドイツのメンゼルらのグループは次のような実験を行った。ミツバチを捕え、羽を挟んで固定し、足や触角に少量の砂糖水をつけると、口吻を伸ばして砂糖水を飲もうとする。砂糖水を与える直前に特定の匂いをかがせる訓練を数回行うと、匂い刺激を与えただけでも口吻を伸ばすようになる。匂いと砂糖水とを関連付けて覚える学習が成立したのであり、これを条件反射と呼ぶ。ミツバチの脳に細い冷却した金属針を刺すと、針の周りの神経細胞が冷やされ、その活動が一時的に抑えられる。この方法でキノコ体の活動を抑制すると、匂いと砂糖水とを連合させて覚える条件反射は成立しなくなった。つまり、この実験の結果、キノコ体が匂いの記憶にもかかわって入ることを見いだしたのである。
 これらの実験から昆虫の脳のキノコ体が記憶の座であることが明らかになった。
 
<昆虫のキノコ体>

 昆虫のキノコ体の発達の程度には種による差異が著しいが、ゴキブリ、ハチ、アリでは特に発達しており脳の全容積の1/3近くを占める。昆虫の脳の諸領域はその機能分担によって、感覚情報処理の場である感覚中枢、胸部の運動回路に指令を送る前運動中枢、そして、キノコ体などの高次中枢の三つに分けられる。視覚、嗅覚、機械感覚などの各中枢から発した出力ニューロン(神経細胞から出た神経繊維)は前運動中枢に投射し、感覚情報を運動回路に伝える直接的な回路を作っている。昆虫の行動の大部分はこの経路の働きで起こると考えられているが、感覚中枢の出力ニューロンの一部はキノコ体にも信号を伝える。キノコ体は感覚と運動を結ぶ経路を統御する高次中枢回路を作っている。

 しかし、キノコ体の行動統御回路のどこに記憶を書き込んだり、蓄えたりまた呼び出したりする領域があるのか、また、記憶した情報に基づく行動指令を形成するしくみはどんなものかなどは現在の時点では全く不明で、今後の研究にまたなければならないという。 私も昔、カイコの感覚器官を中心とした神経生理を研究していた時代もあり、昆虫の中枢神経系の働きについては少なからず関心を持っている。やがては、人間生活への画期的な応用も可能と思われる今後の研究の発展に大きく期待しているところである。

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