石川誠壱
エキサイティング・バーゲン
焼跡闇市派











今週の課題図書(1998.05.05)(本文改訂 1998.06.20)

近田春夫・著『考えるヒット』
(1998年4月刊、文藝春秋/税別¥1429)



近田春夫を「音楽評論界の小林秀雄」と呼んだのが
1979年当時の週刊文春であったことは、
本書の成立までに各地で何度も繰り返されている。
(本書の中でも、しつこく触れられている)

その頃の週刊文春には、もうひとつ、落ち目になりかけた頃のピンクレディーを追った
ノンフィクション特集が掲載されていて、近田春夫は、その記事に現れた
芸能界の仁義なき栄枯盛衰の非情さにヒントを得て、アルバム『星くず兄弟の伝説』を製作する。(註*1)
(5年後に、手塚眞監督でミュージカル映画化。サントラ盤CD化熱烈希望!!
映画シナリオをノベライズした、小説の文庫本も講談社X文庫から出ていた。北吉洋一・著)

つまり『考えるヒット』は、週刊文春が近田春夫に作らせた、 ふたつめの創作物である、と言える。

(こういう書き方で間違ってないでしょうか、川勝さん)

ちなみに、そのピンクレディー取材の記事を執筆したのが山際淳司。
当時の山際淳司は、アリスの本『帰らざる日々』(飛鳥新社→角川文庫)
柳ジョージ『敗者復活戦』(小学館→集英社文庫『ランナウェイ』)
オフコース・ストーリー『Give Up』(飛鳥新社→角川文庫)などの
構成を手がける、音楽ライターだった。(GOROの音楽記事などで、よく名前を見た)
週刊文春のピンクレディー特集を読んだ、ナンバー岡崎編集長に
そのノンフィクション手法でスポーツを取り扱ってみないか、と勧められて
ナンバー創刊号に発表したのが、御存知『江夏の21球』。
スポーツライター山際淳司の歴史は、ここに始まるわけだから、
そのピンクレディー特集は、ずいぶん多くの人に影響を与えているわけである。
(なぜ、どこの単行本にも入っていないのだろうか?)

ちなみに余談ですが、まあ奇しくも、
ナンバーは最初「ナンバー1」という誌名だった。
創刊号では、例の具志堅用高が指を1本立てた写真に

SPORTS GRAPHIC NUNBER・1」と誌名が打たれていて、
誰もが「ナンバー1」という雑誌なのかと思っていた。
文藝春秋も、そのつもりだった。しかし、創刊号を出した後に、
「ナンバー1」というタイトルが既に登録済みであることがわかったのである。
同じ誌名は使えない。そこで2号目からは、サブのつもりだった
「SPORTS GRAPHIC」を大きく生かして、
「SPORTS GRAPHIC
NUNBER・2
つまり最初から「スポーツ・グラフィック・ナンバー」というタイトルなのですよ、
という顔をしたのである。「NUNBER1」とは「ナンバー」1号である、という意味にして。
で、今日に至る。

ところで『危ない1号』は、どういう事情になっているのだろうか?


週刊文春では「音楽評論界の小林秀雄」と呼ばれていた近田春夫だが、
その歌謡曲評論(「近田春夫のTHE歌謡曲」)を毎号執筆していた、
本来のフランチャイズたるPOPEYEでは「芸能界の水原茂」と称していた。
(他に、歌本の下欄外に一言新譜評を載せていた月刊明星には、そんなコピーなし)

当時、オレは小林秀雄の意味がよくわからず、
「評論をするひと」という喩えなのは理解していたが、
それなら、まだ水原茂のほうがシックリ来る、と思っていたのである。
(いま考えれば、単に「慶応」というだけのことなのかも知れないが)
まあ、オレは「近田春夫を知っているが小林秀雄は知らない」
POPEYEや平凡パンチの読者である高校生で、
(平パンでは近田春夫を、従来のマルチ人間を超えた「音声多重人間」と呼んでいた)
「音楽評論界の小林秀雄」というのが、そもそも「小林秀雄を知っているが近田春夫は知らない」
文春読者のオ父サンに向けた表現なのだから、それでいいのだが。
(近田春夫を知っていれば生涯小林秀雄を知らなくてもいい、ということじゃないが。
今も知らないけど。萬流コピー塾の小林井秀雄なら知ってる。
奇しくも、文春つながり)

POPEYEの「THE歌謡曲」は、連載の一部が『気分は歌謡曲』(雄山閣)に収録されているが、
未収録原稿も数多い。いや、未収録のほうが多い。
79年に『気分は歌謡曲』が出た後も、連載は83年まで続いたんだから。(註*2)
だからオレは、『気分は歌謡曲』の文春文庫入りも願うが、
それ以上に、「THE歌謡曲」の完全収録版を単行本でも文庫でもいいから出してもらいたい。(註*3)
同じ「POPEYEフォーラム」に連載されていた「村松友視のプロレス塾」は、
単行本ではややこしいことになっていたけど、徳間文庫版では「プロレス塾」だけで
スッキリと本になっていたのだから。(註*4)
『プロレス塾』の文庫が出た当時には、それと同じようにして
「THE歌謡曲」の本も出る、という夢を見ていたものだが、結局叶わなかった。
(あと、POPEYEの連載でいうと、
何度も繰り返すけど「スターガーニングインタビュー」は
本になっているのか、いないのか、ならないのか?
78〜80年にひたすら芸人志願の高校生だったオレは、
とにかくあのページに登場することが第一の夢だったのだよ。
バックナンバーを読み返さないとわからないが、
あれのライター、インタビュアーは誰だったのだろう…。)(註*5)

オレが近田春夫のファンでいて、得したことといえば
〈くり万太郎の大入りダイヤルまだ宵の口〉素人ものまね大会に電話で出演して、
近田春夫のものまねで優勝、賞金5000円を獲得したことぐらいで、(註*6)
(79年秋の当時で、ものまねの題材に近田春夫を選んだのはオレが日本初だと思う)
「芸人になりたい、近田春夫を尊敬している」などと常々口走っていれば
軽蔑されることばかりであり、近年も宅八郎に馬鹿にされたのであるが。
オレが、たったひとつ成し遂げた「近田春夫的な業績」というのは、ある。

〈オールナイトニッポン〉を聴いていて、ある時、近田春夫が言うには
「○○ファッションでキメる」などと言う場合の、「キメる」という言葉。
この言葉の使い方は、近田春夫が考えたものであるらしい。
(おそらく、an・an編集部時代に、使い始めた言葉だろう)
それって、いいな。と、オレは思った。
オレも、みんなが普通に使っている言葉、それの発信元は実はオレなんだ。
そういうことを言ってみたい。
そう、心の底で願い続けて20年。やっと夢は叶った。
いま、広く使われている、オナニーのオカズにする、という言葉。
あの「オカズ」という言い方は、オレが使い始めたものです。
84〜85年ごろの、BOMB!かMOMOCOを参照してみてください。

でも、やっぱり自分で言うのはいやらしいな。
下ネタだからいやらしい、という意味じゃなくてな。



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(註*1)この話、オレの記憶にはハッキリあるのだが、
出典がどこなのか、ちょっと思い出せない。
講談社X文庫に載っていたインタビューだったかなあ。
早急に確認しておきます。

    

   (確認しました。少なくともX文庫『映画小説 星くず兄弟の伝説』収録の
    近田春夫特別寄稿「フシギたっぷりのロック・オペラを作りたい……と思った」には
    そういう話は出てこなかった。じゃあ、どこなんだろう?
    小学館の、写真漫画本のほうか??)

(註*2)実際は1984年いっぱいまで連載は続いた。1978年から、約7年間。
(註*3)この後【POPEYE連載「THE歌謡曲」の完全収録本】は実現した。
1998年12月、文藝春秋から『定本 気分は歌謡曲』として刊行。
オレ何もやってねェっすけど。



(註*4)「村松友視のプロレス塾」POPEYE連載は、
1980年9月25日号〜1982年8月25日号までの、丸2年間。全47回。
うち、前半22回分までが、
1981年8月刊『男と女 心やさしきデスマッチ』(現代史出版会/徳間書店)に収録。



連載後半の第23回から第46回まで、24回分が
1982年8月刊『村松友視のプロレス塾』(現代史出版会/徳間書店)に収録された。



そして、1983年5月刊の徳間文庫版『村松友視のプロレス塾』では、
それまで単行本未収録だった最終回も含めて、
全47回分の連載すべてが、完全収録されている。



ああ、ややこしい。
(註*5)赤田祐一『証言構成「ポパイ」の時代』(2002年10月刊、太田出版)によれば、
「スターガーニングインタビュー」はPOPEYEの担当編集者が自ら、取材から記事構成までを手がけていたらしい。
だから「インタビュアーは誰か?」というならば、初代は椎根和、2代目が松尾多一郎。
(註*6)【今月の芸人BOOK】『VIBE RHYME』の巻(熱烈投稿1995年6月号)を参照。





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