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死後の世界は存在する!?・ほか




死後の世界は存在する!?

現在はなぜ私の誕生以前の長い過去に、死後の長い未来にないのだろう。現在はなぜ束の間の私の生涯と重なっているのだろう。確率的にあり得ないことではないか(生が一回限りであるならば)!?よって死後の世界は存在する!?

私が十七歳であったある日のこと、脳裏に上記の疑問が浮かんだ。間をおかず永遠回帰のイメージが疑問にとって代わった。まずは受け入れられまいとして口外もせず、思い出すのもまれであったが、量子論の奇々怪々なるを目にして世に問うてみようと思い立った。十指に満たないながら外国の学者などから好意的な(驚きの表明された)返書を貰えた。インドの哲学の雑誌 (Vishva Jyoti ; Aug 1991) にはメールがそのまま掲載された。九一年のこ とである。既に書かれていることだとの指摘はなかった(パスカルの「パンセ」一九四節に近いことが記されている。「ルバイヤート」にも)。

メールには永遠回帰のほかに輪廻など解釈の候補を七つほど記した。また冒頭の文言とともに形を変えた文言を併記した(後述)。それには「私にとって私は特別な存在である」との一項がある。頼りなげな一項だが、九〇年代になされた哲学におけるハードプロブレム(「意識のハードプロブレム」「意識の難しい問題」とも。英語では "Hard problem of consciousness")、ハーダープロブレムといった問題提起はこの上のない支えとなろう。死後の世界の存在する蓋然性は十%から九十%の間と私はしたいが、かかることは人々の当惑や拒絶反応を誘うかも知れない。日常生活を営む上では無意味としておくべきか。しかしながら「なにごとも皆偽りの世の中に死するばかりぞまことなりける」和泉流狂言「鉢叩 ; はちたたき」と。「死後の世界があると考えるとしたら、どんなに気持ちが楽だろうと思うほどである」「死の準備」洋泉社 2001。これはがんを病み亡くなられた宗教学者、岸本英夫氏の言葉である(ほかの人たちの言葉の引用もできるが)。相性がよければ自らの死が具現化した時の昏迷、葛藤を和らげる阿片(相応に強力な)とできよう。

死後は無だと断ずる人も多いが(多分量子論の観測問題を知らぬままに)、この世界は思いの及び難い奇怪な成り立ちをしているのであろう。なにをもって奇怪とするかはともかく(一回限りの生は奇怪でない?本当に?)。
 *  冒頭の数行が分からない、日本語ではないとの評があった。薄明の平原に伸びる果ての知れない線路、線路の途中のたった一つの駅、線路上を定速(かつ低速)で一方向へ走行する列車の屋根の上の赤色灯(これまたたった一つの)をイメージされては(赤色灯のあり方は駅を通過前、通過中、通過後のいずれか)。時間、現在、私についての常識的にも素直な喩えとできよう。哲学も科学も時間、現在の本性、正体については確かなことは言い得ていない。常識或いは喩え(アナロジー)にも発言権があろう。「私」についても似た状況か。この問題提起は生きているすべての個々(主体。英語ではセルフか)にとっての不思議(個々が個々の立場に立ったときの不思議と念を押したほうがいいのか)ではあるまいか(外国の学者から死んだ人についてはどうなのかという手紙を貰った。へ理屈?は二・三浮かぶがまずは生きている個々に限っておきたい。問いは成り立つだろう)。
 *  ある人に問うてみた。「死んだらそれっきり」と「いま現に生きている」、この二つは両立すると思えます?相応の反応があった。
 *  箇条書きにするならば以下のとおり。
  1 時間(長い線分)のなかで現在は(移ろい続ける)特別な一点である。
  2 私にとって、私は特別な存在である。
  3 私にとって、私の生涯の時間は特別な時間である(長い時間のなかで)。
  4 私にとって、1 と 3の二つの特別が重なることは確率上あり得ない(生が一回限り、或いは有限回であるならば)。
  5 ゆえに私の生には限りがない(あり得ないことが現実であるので)。私以外のすべての生にとっても同様であろう。
 *  「何故に一般に存在者があってむしろ無ではないのか」ハイデッガー。
 *  無我説も唯物論も死後の世界の完全否定はできまい。幻であれ、難攻不落。
 *  あるウェブサイトに、「この世界が死後の世界だったりして」と。
 *  「哲学的仮説の誤りを証明するのは不可能に近い」 R.モリス 「 ビッグ・クエスチョンズ 」はまの出版 2002
 *  英国の哲学者エイヤーは、永遠回帰があるとしても次の世界のエイヤーと自分とはなんらの係わりもないと。私、中山は同じものは同じものと呟く。ほかのことはともかくこの同語反復は何人たりと否定できまい(エイヤーが正しくないのでいまのこの自分が存在している!?)。世界が無限であるならば、実際上自分と同じ存在もまた無限であろう。このサイトの問題提起が成立するか否かにかかわらずして個々は永続するのであろう。<追記> 我思う、ゆえに我あり、無限に !?
 *  日経サイエンス、03年8月号に「並行宇宙は実在する」という記事が。思うに無限だけが存在を支え得るのか!?かかる記事が科学雑誌に載るとあっては、個々の不滅を取り上げ論じるまでの隔たりはただの一歩では(ちなみに、数学では無限にあっては部分と全体の大小の比較はできないと)。いや、04年3月に出た「奇想、宇宙をゆく」(M・チャウン著)という本にまさしく「多世界解釈と不死」なる章があった。また、06年3月刊行の「無限の話」(J・D・バロウ著)には、「永遠に生きる」という章。
 *  無限の一部分?虚無に浮かぶただ一つの泡?ともあれ、我々の誰もが来世を選べないことに疑いの余地はあるまい。
 *  冒頭に記した疑問(ごくごく素朴単純な)が何びとの脳裏にも浮ばなかったとは思えないが。キケロは「どんな不合理なことも哲学者に言われなかったためしはない」と。ちなみに前出のパスカルの「パンセ」一九四節には「なぜわたしが生きるために与えられたこのわずかな時間が、わたしの先にあった全永遠とわたしの後につづく全永遠のどこにも指定されないで、この点に指定されたのかを知らない」(由木康訳)と。「ルバイヤート」には「永遠の絵師はなぜにこのわたしを、時の花園に飾ったのかわからない」(黒柳恒男訳)と。 あるウェブサイトには次のような英訳が。"Yet it's not clear why, in the garden of Time The eternal painter has thus drawn me" (By Majid Naficy ; 2009)。<追記> ルバイヤートの多くの版にこの詩はない。 
 *  「いかなるものも無に帰することはなく」ルクレティウス。
 *  ナーガルジュナは「輪廻とニルヴァーナとにはいかなる区別もない」と。インド人の多くは古来輪廻を信じて来たというが、輪廻に関しての名言集のような本があれば読んでみたい(温和とされるインド人だがかかる世界観のためでもあるのか)。
 *  しかしながら死に臨んでの生理的なプロセスは厭わしい。ただただ大変で報われないプロセスでもあり。人それぞれの双六。安楽死の六つだかの条件はすなわち実質禁止なのだそう。死ぬときの成り行き任せ(医学上の対処・ケアの標準的なマニュアルはないそうだ。JAMA日本語版にそのような記事が)が嫌だと言っても誰も耳を傾けてはくれまい(爬虫類の切断された頭部は30分を経ても噛み付くとも。ほんと?人間の脳の中枢部は爬虫類の脳とカール・セーガンはいう)。コップの中のハルマゲドン。無力なるかな人間!いろいろなメニューを揃えてのサービスの競い合いがあったらなあ。亡友とはダイナマイトが一番と言ったものだ(付加価値のつけようが難しい?)。すみません、脱線。
 *  関連のあろう書物にはある程度は目を通したが、17歳のその日その瞬間に訪れたイメージを改めるべきに出会っていない。確たる否定も確たる肯定もできまいというその時の直感も覆っていない。発展性もあるまい。深入りされぬように(大学は法科だった無学の私の言うことではないけれど)。「この問題は中立的に考えるべきだと結論した。というのも人の生まれつきの理性は魂の不死性を証明したり反駁したりするほど強くないからである」P・ポンポナッティ。「またいつもくよくよ死のことを思案しているのは少なくとも無視するのと同じく害がある。何かの題目についてあまりそればかり考えることは間違っている」B・ラッセル。
 *  以上はとくに自らの死が具現化した人のために(どれほどに慰めとなるかは判らないが)。対して以下は若い人たちのために。
 *  その他のキーワード ; 平行宇宙、多重宇宙、マルチバース、サイクリック宇宙論、永久インフレーション、あの世。quantum immortality  


病の予防のすべて

不幸のカタログはない。不幸学、不幸回避学といった学問はない。社会学はあっても個人学はない。個々人にとっての危険を列挙、分類、格付け、コメントした書物はない(ようだ)。予防の対象となろう病(予防策の有効さ実効性の程は病の如何などでさまざまだが)を俯瞰したとできる書物は日本にはない。

堀秀彦氏は「古代ローマの哲人たちは人を不幸にさせるものを次々と列挙した。そしてそれから逃れることを工夫した」と。完璧なことはもとより望めない。自分なりに危険を学び品定めし見出しを付して記憶の引き出しのどこかへ留めておく。また日頃の行動、習慣を吟味、見直す。かかるがなし得る最善。自らの判断で切捨てるにしてもひとたびは目を通して。芭蕉は「深きに入って浅きに出ずる」と。ファジーに吸収。かくしてバージョンアップ(重ねて言う、とにもかくにもまずまずの手引書がなければ。自己責任もなにもかもそれから)。
 *  パナケイア(治療の女神)の信者は多い。意気軒昂。病気は治る、治してみせる(他人はいざ知らずこの自分に限っては。あまたの立派な病院はあるし)という自力本願他力本願ないまぜの信仰(善哉、善哉の声あり ?)。信者たちは知るまい、「医療上の悲観主義 (Therapeutic Pessimism)」という言葉を。医療の力量についてインゲルフィンガーの言ったことを。信心は蟷螂の斧、いずれは泥にまみれのたうつこととなる。
 *  パラケルススは「その敵を知らずして誰が損傷や災害から身を守ることができよう。誰もいない。だから敵を知ることが必要だ。多種多様な敵がいるから善を知るのと同様に悪を知ることが肝要なのだ」と。 敵を知ること、それはすなわち敵を記述することから。予防の観点から見える敵の個々を的確、簡潔に記述することから。各個撃破。有益であろうならば、推測の領域にも積極的な言及を(推測の領域をどうすくい上げどう提示するか、腕の振るいどころ)。そして予防のためのレトリックの逆転。
 *  身体に気をつけて、身体を大切にというが、その先(なににどう気をつけるのか。なにゆえに)の必要にして十分とできるを新書一冊の書物に(予防の対象とできる病(まれな病は省く)はせいぜい60。新書一冊で足りよう)。老婆心を全開させて。病の分類は予防の観点から(重大さと頻度との組み合わせで三つに分類)。病の恐ろしさは隠されることなく率直・簡潔に(医学の専門書、雑誌が公共図書館の棚に並んでいる時代である。強調も許されよう)。昔は書物の虫のうちのつもりだったので私は書物にこだわってしまう(知のワクチン。文字を精選・調合した予防薬。この上のない霊薬と、無上呪となり得る。はたまた、ヒュギエイア(予防の女神)の化身とも)。
 *  また、保護者の責務としても。
 *  豊かな教養?驚くべき博識?特別なスキル?こだわり?オタク?身辺に徘徊、潜伏する危険を知らず、無頓着とあってはとりどりの装いも上半身だけ !!
 *  新聞記事の見出しに「楽天家は死亡率高い?」と。さもありなん。
 *  人間(ことに日本人)の言うこと書くことのいかに多くが怪しいか、若い人には思いが及び難くもあろうけれど。百鬼夜行、いや白昼堂々。知人の看護婦は医学には驚かされることはいくらでもあると。
 *  日本は先進国で唯一HIV感染者が増加している国という。いやいや、この国は先進国ではないのだ。重要な情報が発信されない、伝わらない、広まらないことでもまた徹底して横並び。学校教師たちはノーテンキか無関心か。どんなシュール・レアリズムも不条理文学も真っ青(「なにも教えない教師や親」東京新聞 06・4・19 朝刊)。
 *  「教育が悪くて、若者が悪くて、ジャーナリズム、医療行政、政治が悪くて、医者も悪い」 雑誌、医学のあゆみ 05/6/4。念を押しておくがこれは日本のこと。
 *  「若者の自殺の1/3は性病が原因だ!?」。これは1985年8月発行のある雑誌の記事タイトルの一部です。医師、病院が取材源。
 *  「大いなる苦悩は沈黙する」セネカ。
 *  雑誌、医学のあゆみ 04.4.3 の記事は米国腎臓財団による02年の報告(ウェブサイト(英文)は http://www.kidney.org/。トップページの kidney disease をクリック)を紹介。報告が正しいならば、腎機能が低下した患者が日本でもおそらく1千万人(瞠目すべき数字。従前は数十万人とされていたはず)存在する可能性と(予備軍がさらに1千万人)。雑誌、JAMA日本語版 02.4、04.2 にも記事。後者の記事のタイトルは「大規模調査 患者急増の慢性腎疾患、予備軍に危機感なし」。米国心臓学会のサイト(AHA Statement 10/28/2003)には、慢性腎疾患の患者の死亡原因は腎不全の悪化よりも慢性腎疾患に起因する循環器の問題であることが多いようだ、などなど。英文で2ページ。私の知る限り、日本の新聞にはこれらに関する記事は出ていない(追記 ; 07年5月またその前後に至って毎日、朝日、中日、東京、日経、産経などの新聞に。読売は同年10月?)。なお、心臓から拍出された血液の量の四分の一が腎臓を通る。「心・腎相関」と。
 *  米国腎臓財団による上記報告は慢性腎臓病(Chronic Kidney Disease ; CKD)という病態概念を提唱、欧米で急速に受け入れられつつあると。雑誌、綜合臨牀 06・4。「世界的にみてもCKDの実態調査は始まったばかりである」「CKD、ESRDの自然歴は不明な点が多い」 (ESRDは end-stage renal disease)同誌 06・5。
 *  慢性腎臓病(ある雑誌によれば、本病では腎臓の機能は六割以下。筆者註、これは本病の定義の一つ)の日本における患者数は約2000万人とする雑誌もかなり(07年半ば以降刊行の)。また、人口の3割とも成人人口の20%とも1300万人とも。
 *  「CKDの患者は末期腎不全に到達する前に多くが心血管系疾患で死亡する」雑誌、成人病と生活習慣病 07/1。NHKのウェブサイト、「ためしてガッテン ; 過去の放送 ; まさか突然死!腎臓病の真実2」参照。
 *  「患者 4000万人の国民病高血圧徹底対策」NHK教育テレビ 09/4/18。「循環器疾患の予防「肥満より血圧重要」」神奈川新聞 09/4/19。「高血圧の原因には腎臓が深くかかわっており、腎臓は血圧レベルを決める決定的な臓器だ」「腎臓を大切にすることが長生きの秘訣です」産経新聞 09/3/22。「米国で末期腎不全が再び増加傾向」雑誌、MMJ 09/1。
 *  三大死因、三大死因と日本では鸚鵡がうるさい。WHOの統計書ではがんと並んで「循環器病」と記されている。米国政府刊行の統計書には Major Cardiovascular Diseases(「心臓血管系疾患」とも訳される。脳血管疾患を含む)と。しかして百層倍にも姿を巨大化させたのは(CKDゆえに)循環器病への腎臓病の関わりである(目に見えない世界はホラーで満ち満ちている)。が、大きな問題であった腎臓病と尿路感染症との関連にはいつの頃からか緘口令 ?
 *  腎の感染(Infection of Kidney)という病気がある(あった)。国際疾病分類からは95年の改正で項目が消えてしまったが、米国政府刊行の統計書には三十余の主要死因の一つとしていまなお項目が残っている(追記 ; これもまた 2004年を最後として消えてしまった)。記されている死亡数は僅かだが、70年頃には腎臓病の死亡者の半数(60年頃には五分の四!)を占めていた(なにが真実なのか??思えば医学書には疑わしいさまざまが。素人目にも強引、乱暴と映る記述がしばしば。いや、しかし広範、多岐、輻輳、難解、目くるめき医学書。医師、看護婦の方々のご苦労には真実頭が下がる)。腎盂腎炎は腎の感染の代表的なもの。
 *  「腎盂腎炎という用語は、腎実質の細菌感染を意味するものであり、感染が実証されない限り、尿細管間質性腎症について述べる場合に使用すべきではない」「メルクマニュアル」 18版 2006(尿細管間質性腎症は国際疾病分類では一つ上位の概念とされている)。かくて診察室から腎盂腎炎は姿を消す。啓蒙の対象からも(言うまでもなく)。代わって言われるのは根拠確かならぬことごとなのでは。
 *  国会図書館のウェブサイト中の雑誌記事索引(日本の雑誌)で、腎盂腎炎という単語が論題に含まれる記事の件数を出してみた。1970年から83年までは161件、1984年から01年までは16件であった。ちなみに尿路感染症では1215件と79件。
 *  R・アーリック著「怪しい科学の見抜きかた」 2007 という本に「エピローグ「医学の常識が頻繁に逆転するのはなぜか」」なる章。
 *  人工透析研究会による「新規導入患者の原疾患」では腎盂腎炎の患者は1%ほど(わが国の04年)。「透析患者の原因疾患の検索はあまり熱心にされないことが多いが(... 中略)尿路感染症に関連した死亡率を出すことは非常にむずかしいが」 A.W.Asscher、D.B.Moffat 著「腎・泌尿器病学」1986。
 *  「慢性腎不全の11〜25%は慢性腎盂腎炎に起因する」(これは93年刊行の英文の書物からの引用)上田善彦編集「腎臓・尿路系の病理アトラス」1998。この数字を私は10%から90%としたい(ひとつの仮説として)。60年代の米国の統計(腎臓病による死者の8割が「腎の感染」とされていた。既述)ならびに慢性腎盂腎炎の診断が至難であること(後述)、さらにはまた、分母の大きさがまったく変わってしまった(CKDゆえに)ことなどなどからして90%はあり得ない数字ではあるまい。「腎臓病の原因については、いまだ不明な部分が多くあり」。全国腎臓病協議会のウェブサイトから引用させて頂いた。
 *  「本当のところ、なぜ人は病気になるのか」(08年刊)という翻訳書のタイトルが目に留まった。まったく。誘われて私もつぶやく、「本当のところ、なぜ人はCKDになるのか」と。「現時点でいくつかの仮説が可能である」(これはある病気についてのこと)雑誌、綜合臨牀 08/11。 「間質の炎症は原因がわからなくとも、根底となる原因があるはずであり」 H.E.de Wardener 著「腎臓」1970。
 *  腎盂腎炎の頻度を述べた文献は少ない(ただし、剖検例における頻度のデータはかなり存在する。本サイトでは引用しなかったが)。「腎盂腎炎の疫学を論ずることは今日なお容易ではない」本田西男編「新・腎炎のすべて」1983 。「慢性腎盂腎炎は確定診断が難しく、疫学調査結果に乏しい」下条文武編「メディカルノート腎臓がわかる」2008。
 *  「若干の研究では、下部UTI症状を有する患者の30〜50%が無症候性腎感染も有していることが明らかになっている」「メルクマニュアル」 17版 1999。UTIは尿路感染症。「尿中から細菌の検出されない腎臓感染症が多数存在する実態」垣添忠生監「泌尿器科」 2000 。ある薬局の主人は腎盂腎炎はポピュラーと。百瀬俊郎ほか著「尿路感染症の臨床」 1965 には、このような考え方もあるとして「むしろ尿路すべてが感染し、時により各部分の症状が強く現れると考えたほうが妥当である」と。腎臓は尿路の一部。腎尿路感染症という用語がある(英語では kidney and urinary tract infection)。
 *  インゲルフィンガーの述べたことが泌尿器科にも言えるならば、泌尿器科の医師が治したという実感がもてるのは、病院(泌尿器科)に来る患者のうちの11〜12%(尿路感染症の患者に限ればこれより高いことはあり得ないだろう)。「尿路感染症は抗生物質を投与すれば治るなどと考えることは改めなければならない」雑誌、小児科診療 05/12。
 *  「したがって、腎臓を守るためには、膀胱炎を予防することがとても大切なのです」飯野靖彦著「腎臓病」2007。膀胱炎すなわち尿路感染症(予防の観点から見れば)。「はじめからかからないようにする、社会に広げないようにする、つまり公衆衛生から見た一次予防をどうするかの議論があまりにも少ない」井上栄著「感染症」中公新書 2006。
 *  大島研三ほか編「腎臓病学」1972 には腎盂腎炎について「剖検例の男女差がほとんどないのに臨床例では女性が圧倒的に多いということである。これには種々の説明がなされているが、まだ十分に納得できないものが多い」と。腎盂腎炎の予防には希有な啓蒙書とできよう次の書物も女性向けの書物である。しかし、死亡統計の腎不全の数字においても剖検での腎盂腎炎でもまたCKDにおいても男女差はほとんどないのだが。

「新版 ウーマンズボディー」ダイヤグラム・グループ編 1992
「からだ・私たち自身」ボストン女の健康の本集団著 1988
さらに一冊をあげるならば
「近代医学の壁」B・ディクソン著 1981
 *  以上、予防できる病の大物の一つであろう腎盂腎炎などについて若干を引用させて頂いた(順不同のままで)。脅威の強調が過ぎたか。腎臓への病原性のマイルドな病原体も多いのか(病原性の相違に言及した書物はないに等しいが、相違があって不思議はあるまい)。分からぬことの多い腎盂腎炎。病者は過度の悲観をしないよう。ケインズは「悲観の誤謬」と。
 *  「書物の本質と多様性によって(... 中略)懐疑の面にも磨きがかかる」M・ディルダ。
 *  JAMA(1986-4) に 「Death due to sexually transmitted diseases. The forgotten component of reproductive mortality.」 という記事。この記事は日本語版には載っていないようだ。日本人は愚か、どんどん死ね?三大死因などなんとでもラベリングされて? ニューズウィーク、02年12月9日号のトップ記事も日本版に載らなかった。
 *  「色欲に腎の臓を破り短命となる」肥後候訓誡書 1776 ?。
 *  心腎症候群(心腎相関、心腎連関とも)という言葉がある。その拡がりはどれほど?
 *  「初期の予想に反して、われわれが知識をもてばもつほど、われわれの環境は不吉の様相を呈するものになっている」A・クラインマン著「病いの語り」1996。日本人は口が裂けてもこのようなことは言わない。
 *  感染症による死亡が米国で第三位に浮上(ごく控え目な集計で)との記事が雑誌、JAMA日本語版(96年8月号)に。
 *  透析療法を受けている人は500人に1人とされる。これは公衆衛生学常套のまやかし。透析療法を受けることとなる人はおよそ30人に1人なのだ(ある期間中に透析を受けることとなった人と死んだ人との比較で)。
 *  中国語(繁字)の前立腺炎(中国語では前列腺炎)のあるサイトに「精神壓力很大、深感悲傷和絶望、他們工作上失去進取心、生活上失去樂趣、有的甚至家庭破裂、事業失敗、企圖自殺」と(深刻な例?)。この「病の予防のすべて」から私は一般人の認識とは隔たると思われる引用の多く(2ページ弱)を削除してしまったが、上記の一文を復活させておく。間質性膀胱炎のサイト(複数)もストレート。かたやこの異境、日本では重大なことには口をつぐむのが暗黙のルール。蛮族、東夷。
 *  「恐怖心があなたを救う」ニューズウィーク誌記事タイトル。「生命を維持し、健康を守るための思慮は恐怖の念によって呼び覚まされる」モンテーニュ。でも日本人はなにを見聞きしても無反応。「聞いて驚く人もなし」長唄、京鹿子娘道成寺。
 *  ヴィーナスの名はあまねく知られているがクロトー、ラケシス、アトロポス、アナンケ、テュケーは広辞苑にもない。ノーテンキな幸福論、人生論はあまた。我々日本人は未だエデンの園にいるのであろう。日本人向け仕様の(リンゴは酸っぱい)。
 *  この「病の予防のすべて」をどう読まれたであろうか。自問自答、自画自賛して曰く。ここには一字一句余計な字句はない。而してこれらは尿路感染症、性感染症の予防のために有益であろうもろもろ(私のフロッピーには能う限り漁ったその全てが他の数十の病のそれと共に。しかしながら、このサイトへのアクセスは微々たるまま。若い人たちに喫緊との思いに揺るぎはないが、これ以上のなし様は私にはない) の一部である。
 *  「小さなことに対する人間の敏感と大きなことに対する無感覚とは、奇怪な転倒のしるしである」「パンセ」パスカル著。まったく !!
 *  スーザン・ソンダクは、情報は「本質的に部分的で不完全で、断片的なもの」と。最良の情報にして。
 *  もう一度セネカの言葉、「大いなる苦悩は沈黙する」を。この原理、現象は人びとにとって不都合なことではあるまい。なにかと。
 *  不幸学はない。不幸学の学究、泰斗はいない。講座も学会も学会誌も学派もない。古典も基本書もない。死亡統計もおざなりなおざりのまま。死亡統計は研究の対象にはならないようだ。泥沼なので誰も近寄らない?(とは言え、限られた少数の人には分かっているのであろう。少なくとも問題の所在は)。
 *  2016年のある TV 番組で「日本人の死因トップ3は腎臓が原因だった」と。それ以上のことは知らないが。
 *  この地上は目も綾な絢爛たる隠し絵。そこここに死神も潜んでいる。一期一会、死神との。「私はこの得体の知れない地で」レンヌ司教区用聖歌(J・ドリュモー著「罪と恐れ」から)。「魔界如即是佛界如、魔界如佛界如不二不別」首楞巖経(しゅりょうごんきょう)。ファンタジーはファンタジーではない。平均寿命は保証されていない。数十億年の幸運の連なりは早晩尽きる。

    補 遺(腎盂腎炎に関しての)
 *  「英国の感染症の化学療法の権威者である Brumfitt は1969年に「尿路感染症はその罹病率および死亡率の点からいって、広く世界的に重要である」と述べているが(... 中略)この事実は現在においても少しも変わっていない」大越正秋編「尿性器感染症」1982。
 *  「Allen, McManus 等も、腎盂腎炎は剖検で最も普通にみられる腎疾患で、殆どすべての成人は慢性腎盂腎炎の病巣を示していると述べているが、この様な驚くべき見解は、近年幾分反省の傾向にあるときく」日本内科学会雑誌 64/3。「病理解剖の台上でさえも慢性腎盂腎炎の診断は明快なものでないことは強調されなければならない」「ハリソン内科書」 第6版 1973。「これが剖検時の腎感染症の発生率の種々の検索で、おかしな相違(10〜80%)をきたす原因となっている 」 H.E.de Wardener 著「腎臓」1970。
 *  「腎機能不全で死亡する者の多くは慢性腎盂腎炎か腎血管の疾患によるものである。慢性血液透析や腎移植のプログラムに入る患者の大部分もまたこれらの疾患をもつ患者である」 C.M Kunin 著「尿路感染症の早期発見と予防、治療」1975。「血管病変は慢性腎盂腎炎の一特徴であり、高血圧症併発の重要な因子をなすと考えられ」富川梁次編「泌尿器科学」1963。「Weiss & Parker の報告以来欧米では慢性腎盂腎炎は病理診断から慢性腎疾患中で最も多いものとなっている」「しかしわが国では従来より腎盂腎炎は軽視され」雑誌、臨床内科小児科 1961/9 
 *  ある病院(日本の)の内科における退院患者の表(03年の)がウェブにあった。<腎>の区分での全67名の内訳は腎不全21、腎盂腎炎18、尿路感染症7、糖尿病性腎症5、腎機能障害3、膀胱炎2、その他11。
 *  「慢性腎盂腎炎には、何ら特徴的臨床所見、検査所見、またはそれを同定するための病理学的基準もない。そしてこの病態の発生率や流行についての信頼できる成績はない」「ハリソン内科書」 第12版 1994。「腎盂腎炎に関する欧米の文献の多いのには驚くが、これは本症がなお発病病理、病像、予後、治療などに関して不明な点が多いためと考える」雑誌、治療 1961/10。「慢性腎盂腎炎という疾病概念については未だに多くの議論がある」黒川清ほか編「EBM現代内科学」1997。「腎盂腎炎の定義についても今日なお定説はない」雑誌、診断と臨床 1964/10。
 *  慢性腎盂腎炎について、遠山豪著「腎臓病」1958 には「従来、慢性腎炎や高血圧症の末期と思われていた患者の中で、解剖して見ると実は腎盂腎炎が原因であったという例が非常に多い(他の二者と同率あるいはそれ以上)ことがわかってきた」と。「現在のところ、慢性腎盂腎炎の診断は腎臓病全体を通じて最も難しいものに数えられている」 G.M Berlyne 著「腎臓病学入門」1977。
 *  「尿路感染のある人の大多数は、その感染の存在に気づいていない(... 中略)これらの患者はしばしば無症候性細菌尿をもっているとされる」「それらは全くありふれたものでありながら、治療にはきわめて抵抗性であり、再発しやすい。またそれらは重大な腎疾患(腎盂腎炎)を起こしたり」(それらとは尿路の細菌感染)「ハリソン内科書」 第6版 1973。「罹患したほとんどの女性は明らかな尿路の機能的欠陥や、解剖学的欠陥を全く持っていない」(これは急性腎盂腎炎についての記述)「メルクマニュアル」第17版 1999。この二つの見解は正しいのであろう。急性腎盂腎炎の多くは尿路のこれら欠陥の存否にかかわりなく慢性腎盂腎炎に移行するのであろう(男性にあっても同じであろう)。多くの書物は尿路のこれら欠陥をひたすらに強調するが、欠陥が正されても腎盂腎炎が治癒することはあるまい。敢えて私見(古い書物、雑誌の記述からすればなされてしかるべき異議申し立て)を記しておく。
 *  「慢性腎盂腎炎が何故このように難治性であるかということについては(... 中略)現在のところいずれも推測の域を出ない段階である」「しかし活動性腎盂腎炎の 80〜90%は臨床的に発見されておらず」雑誌、日本臨牀 63/9
 *  尿路感染の第一原因の多くは大腸菌とされる。すなわち乳児、年少者の尿路感染の危険は身近に。衛生観念の乏しい家庭ではリスクは大であろう。
 *  「非クラミジア性非淋菌性尿道炎の起炎菌として Mycoplasma genitalium が認知されているが、それでも非クラミジア性非淋菌性尿道炎の約20〜30%で検出されるのみである。それ以外の起炎菌については、表1に示す細菌について検討されてはいるが、いまだ結論は出ておらず」雑誌、小児科診療 08/8。参考までに。<追記> 私の推測だが尿路感染、腎臓感染は細菌の違いで病のあり様が違うのか。症状のない多くのひともいると(無害の細菌?)。
 *  「PIDの診断に信頼のおける単独または複合の指標はなかった」(PIDは女性の内性器感染症)雑誌、JAMA日本語版 1992/7。参考までに。
 *  ネコは腎臓病を病むことの多い動物という。ウェブでは腎盂腎炎(ネコの)なる文字をよく見る。参考までに。


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