大乗思想批判:『仏教誕生』、『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実─』(1/4)

2004.7.19 更新
2004.7.17 作成


とても優れた仏教解説書を2冊、紹介します。

・『仏教誕生』宮元啓一著、ちくま新書、1995年刊
・『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実』宮元啓一著、光文社文庫、1998年刊

ともに故中村元門下のインド宗教学者である宮元啓一氏の著作です。内容は両者で共通する部分もあります。はじめにどちらか片方だけを読むのであれば、後者の著作をお勧めします(後者の方が著者の思想がダイレクトに述べられているようですので)。

どちらも一般向けの仏教入門書・解説書ですが、良い意味で非常識、言い換えると常識的仏教観、釈迦像を撃ち破る内容となっています。

どこが非常識なのかを具体的に挙げると次のようになります。一般的、常識的な仏教理解をこの本の著者は以下のように大胆に覆します。


(1) 釈迦とほぼ同時代に有名だった六師外道の教えは釈迦の教えの本質と同じ。

(2) 涅槃は真理(あるいは真理の世界)ではない。人間の認識と言語表現を超越した真理がある、という一般的な見解は釈迦の教えと無関係である。

(3) 仏教は(少なくとも釈迦の教えは)第一義的には厭世を促す教えである。

(4) 仏教の最終の目的は、そして釈迦その人が到達したところは、生存欲を断つこと(=生のニヒリズム)である。そこに到達すればこの世に生きることに何の意味も見いださず、何の価値判断を下すこともない。

(5) 禅定による三昧(瞑想の極致)は単なる生理的、心理的な現象にすぎず、智慧とは無関係。

(6) 大乗仏教は三昧体験によって自動的に智慧が全面的に得られると見風潮を一挙に助長し、智慧を実質的に空洞化してしまった。智慧を得る手段でしかない三昧体験を仏教の窮極の目標にすりかえてしまった。

(7) 道元の仏教は戒定慧の三学をその体系とするもともとの仏教とは、縁もゆかりもないものである。

(8) 大乗仏教は困難な修行を嫌い、修行なしに瞬時に彼岸に渡れるという、SF 的に言えば「ワープ」思想を説いてしまっている。さらにそのワープすらも不要とする本覚思想をも持つにいたった。

(9) 大乗仏教は釈迦の教えの「スピリット」を忠実に引き継いだ仏教なのだという一部の学者の主張は事実に反した「神学」であり、アカデミズムからの逸脱である。

(10)部派仏教では、阿羅漢になって涅槃にいたったという人はおびただしくいるのに比べ、大乗仏教で仏になった、涅槃に入ったという人物はひとりもいない。


これら(1)〜(10)を見てわかるとおり、この著者の主張とその論旨展開には曖昧なところ、婉曲なところが見あたらず、実に明快です。そしてそれらは筋の通った論理と仏教学的史料の裏付けに基づいて上記の主張がなされています。

この2冊はラジカルな「大乗思想批判」の書だともいえます。これほど明確な形で、妥協や曖昧さなしに、しかも(内輪の研究者向けの専門書としてではなく)素人向けの解説本として「大乗思想批判」の書が出版された、ということに私は感銘しました。


さて、最初に(1)から具体的に内容を見ていきます。なお、この(1)だけは「大乗思想批判」を含んでいません。

本書の指摘によって私は合点がいきました。六師外道の教えの本質が他の仏教解説書にあるような類であれば、人々の「師」として広く尊敬されていたのが不可解になるからです。このような鋭い観点の指摘は他の仏教解説書では見られないものでした。具体的には次のような指摘です。

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 プーラナ・カッサパ
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かれが唱えたところによれば、人間などの生き物の体を切ったり、苦しめたり、命を奪ったり、他人の家に押し入って略奪したり、姦通したり、嘘八百をならべたてても、何の悪事をなしたことにもならない。
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悪事とされること、善事とされることをなしても、善悪の業が生ずることはなく、したがってまた、その報いもないというのである。

 近現代の学者たちは、この説を道徳否定論と呼ぶ。ただしかし、ここでけっして誤解してはならないのは、かれやかれの弟子たちが、善悪をかえりみぬ、やりたい放題し放題無頼漢で、世間の人びとの顰蹙を買ったというわけではないということである。かれは出家の修行者、それも苦行に専心していた禁欲の人だったはずである。したがって、かれの説は、修行の目標、つまり解脱の境地を述べたものだと考えられる。つまり、世俗の価値観である善悪を超えることこそが、修行の目標として立てられるべきだと主張したものであると思われる。ずいぶんと乱暴な表現になっているのは、そこまでいい切らないと、善悪の彼岸とは何かを、弟子たちに直観させられないと考えた末のことであろう。
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現に、現存最古の仏典の一つと目される『スッタ・ニパータ』をひもとけば、おだやかな表現ながら、釈尊がいかに「善をも悪をもかえりみず」といったことを強調していたかがすぐにわかる。いいかえれば、道徳否定論者プーラナ・カッサパの説自体は、釈尊の説と何の変わるところもないということである。
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七仏通戒偈を、至上の仏教道徳ととらえてはならない。しつこいようだが、これは、道徳を超えるための道徳的教訓なのであって、道徳の確立こそが仏教の目標だなどとは誤解してはならない。
---}『仏教誕生』(61ページ)宮元啓一著、ちくま新書

プーラナ・カッサパ以外の他の六師の教えについても、それが釈迦の教えの本質と同じであることの根拠も同書で詳しく説明されていますので、ここでは過度の引用は避けます。

いずれにせよ、当時いかに自由思想家がもてはやされたからといってプラーナ・カッサパが文字通りの道徳否定論者として、アジタ・ケーサカンバリンが単なる唯物論者、快楽論者として、マッカリ・ゴーサーラが単なる運命論者として、人々から広く尊敬されていたとするのは、「考えてみれば」かなりの無理があります。

しかし、本書で具体的に指摘されるまではなかなか思い至らず、「考えてみれば」とはならないようです(少なくとも私の場合は)。


次に(2)を見てみます。

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 なお、涅槃を真理あるいは真理の世界と解釈する学者もかなりいるが、これは、人間の認識と言語表現を超越した真理がある、あるいはそうした意味での真理よりなる、あたかもプラトンのいうイデア界のような世界があるとする、後代の大乗仏教、密教の解釈にあまりにも傾斜したもので、古い時代の仏教がいう涅槃の解釈としては肯定できかねる。
---} 『仏教誕生』(140ページ)宮元啓一著、ちくま新書

私は著者のこの主張に同意します。法(ダルマ)とイデア的、哲学的な真理とを混同することによって、涅槃や悟りを真理と見なす誤解が生じるのだと私は考えています。

これを私流の解釈で詳しく説明してみます。

(a) 涅槃は「境地、体験」です。

(b) 涅槃、悟りの境地において、法(ダルマ)と抽象的に表現されてきたような類の実感的了解が生じます。ここでいう法とは玉城康四郎氏のダンマ、竹村牧男氏のいう覚体験を指します。

(c) 法(ダルマ)はその核・本質がダルマの体験それ自体です。その一面が言語で表現されうるにしても、その本質は実感的了解、全人格的な納得という体験です。

(d)「真理」は言葉で表現された命題に関する成立・非成立の判断です。

(e) 体験は真理とは別のカテゴリーに属します。よって体験と真理を関係づけることは無意味です。

この(d)から言葉を超越した真理とか、言葉で表現されえない真理、というものは自己矛盾であり、無意味なもの、あり得ないものであることがわかります。

あり得るのは言葉を超越した体験、言葉で表現されえない体験だけですが、これは言語表現が体験の全領域をカバーしていないという、当たり前のことに過ぎません。そこに何ら神秘主義的なものは含まれません。

体験それ自体は常に成立したもの、生じている事実であり、虚偽や非成立の体験(=偽の体験)は存在しえません。体験の「解釈が偽」という意味での錯覚はあり得ても体験それ自体に偽はあり得ません。従って体験と真理は範疇、カテゴリーが異なります。これが(e)の意味です。

さらに(c),(d),(e)から法(ダルマ)は体験であり、真理ではないことが明らかとなります。当然、涅槃や悟りも真理ではありません。

仏教的な真理もそれが真理である限り、言葉で明確に表現されうるものです。そしてそれが四諦、縁起に相当します。禅や中観、華厳、密教などであたかも真理のようなニュアンスで語られるものは普遍的真理とは無関係の、ある種の「意識体験」、境地です。

つまり、大乗仏教で「真如」や「空」などと表現されているものはこの世界の真理などではなく、ある固有の意識状態における「境地・体験」なのです。これらが境地、体験だからこそ、概念的な表現、つまり言葉による描写には本質的な無理があり、そのため一即多、色即是空、梵我一如といった一見、神秘主義的な色合いを帯びてしまうわけです。

ですから、「空」を合理的、論理的に説明しようという試みは必然的に失敗します。それは空が言語道断の、言葉を超越した真理だから失敗するのではなく、楽器の音色が言葉では表現できないのと同じ、ごく当然のことに過ぎません。

もちろん、中論における空に関する言及も本質的な意味で失敗しています。その証拠に中論を読むことで空を理解した者など、仏教学者を含め、誰一人いません。中論の言葉による「論理の手品」の巧みな技量には感心しますが、所詮は手品ですから、中論で空を本当に実感することはあり得ません。

中論の説に従えば、空を理解することは解脱することにもなります。しかし中論を読んで解脱した、という記録は何一つありません。空は知的理解ではなく、1つの意識体験なのですからそれもまた当然です。

夢を見ている時の意識、日常意識、悟りの意識、発狂時の意識、幻覚性薬物の影響を受けている時の意識、シャーマンの意識など、これら異なった種別の意識状態はそれぞれ固有の意識世界での体験です。

そして全ての体験、境地はその体験中の意識世界から見ればどれも等しく事実であり、別種の意識世界から見れば同時に等しく、虚妄、幻となります。どれか1つのみが真実であり、他は幻というものではありません。

なお、この(a)〜(e)のような私の考え方が著者のそれと、どの程度まで共通しているのかは不明です。



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