大乗思想批判:『仏教誕生』、『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実─』(2/4)

2004.8.2 改訂
2004.7.24 作成


次に(3)に移ります。

---{
本来、仏教徒は、釈尊にならい、目覚めた人(ブッダ)になることを目指す。目覚めた人になることは、煩悩と苦しみの渦巻く輪廻の世界から解脱することであり、それによって得られた平安、寂静の境地を涅槃という。従って、仏教は、すくなくとも釈尊の教えはそうなのであるが、第一義的には、厭世を促す教えである。いや、仏教は、第一義的には、現世をよりよく生き抜く智慧を与える教えであり、厭世とは程遠いと主張する仏教徒、仏教学者が今日たくさんいる。しかし、かれらの主張は、大乗仏教、密教、そしてまた、明治以降、キリスト教に対抗しつつ、あるいはそれに学びながら形成されてきた「近代日本仏教」から出たものであり、釈尊の教えに直結しているとはいいがたい。
---}『仏教誕生』(146ページ)宮元啓一著、ちくま新書

この箇所の後、根拠として著者は初期仏典(スッタ・ニパータ)から引用していますが、ここでは省略します。この指摘も正しいと思います。

著者の主張からは若干離れますが、初期仏典の中のテーラガータの記録見ると揺らぎのない厭世の心情が解脱のための条件・トリガーとなっているようです。定型化していますが、いくつかその例を挙げてみます。

---{
そこで、わたしに、正しい道理にかなった思いが起こった。患いであるという念いが現れた。世を厭う気持ちが定まった。次いで、私の心が解脱した。

ナーガサマーラ長老
---}『仏弟子の告白─テーラガータ─』(76ページ)中村元訳、岩波文庫

---{
そこで、わたしに、正しい道理にかなった思いが起こった。患いであるという念いが現れた。世を厭う気持ちが定まった。次いで、私の心が解脱した。

バグ長老
---}『仏弟子の告白─テーラガータ─』(77ページ)中村元訳、岩波文庫

---{
そこで、わたしに、正しい道理にかなった思いが起こった。患いであるという念いが現れた。世を厭う気持ちが定まった。次いで、私の心が解脱した。

チャンダ長老
---}『仏弟子の告白─テーラガータ─』(81ページ)中村元訳、岩波文庫

---{
そこで、わたしに、正しい道理にかなった思いが起こった。患いであるという念いが現れた。世を厭う気持ちが定まった。次いで、私の心が解脱した。

ラージャダッタ長老
---}『仏弟子の告白─テーラガータ─』(84ページ)中村元訳、岩波文庫

---{
そのとき、わたしに、正しい道理にかなった思いが起こった。患いであるという念いが現れた。世を厭う気持ちが定まった。次いで、私の心が解脱した。

サッパダーサ長老
---}『仏弟子の告白─テーラガータ─』(99ページ)中村元訳、岩波文庫

---{
そこで、わたしに、正しい道理にかなった思いが起こった。患いであるという念いが現れた。世を厭う気持ちが定まった。次いで、私の心が解脱した。

スンダラサムッダ長老
---}『仏弟子の告白─テーラガータ─』(107ページ)中村元訳、岩波文庫

このように当時の出家修行者の告白から厭世の気持ちが確実になった直後に解脱するケースが多くあったことがわかります。

これらの告白などから、初期仏教の修行の道筋は

(a) 揺らぐことのない厭世観を確立してゆくことで、
(b) 生存欲の根と種を徐々に枯らし、
(c) 次の再生の条件が断たれた時点で、
(d) 自己の解脱を自覚する(解脱知見=輪廻から脱したことを自覚する)

という歩みになっていることがわかります。この(a)と(b)を著者は次のように「生のニヒリズム」と呼んでおり、これが最初の(4)に相当します。

---{
こうしてみると、仏教が最終の目標とするところは、そして釈尊その人が到達したところは、生存欲を断つことだということになる。これをわたくしは、「生のニヒリズム」と呼ぶことにしたい。生のニヒリズムに到達した者は、当然のことながら、この世に生きることに何の意味も見いださず、したがってまた、なんの価値判断を下すことがない。
---}『仏教誕生』(149ページ)宮元啓一著、ちくま新書

この引用箇所の直後に著者は

---{
釈尊が、世間のものはすべて虚妄であるとか、幻であるとかいっているのは、そこからする当然の帰結である。
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釈尊はここで、いわゆる「存在論的に世界は虚妄である」といっている(存在論的ニヒリズム)のではなく、意味論的、価値論的に虚妄だといっているのである。
---}『仏教誕生』(149ページ)宮元啓一著、ちくま新書

と述べています。著者が釈尊の立場は「意味論的、価値論的に虚妄」であり、「存在論的に世界は虚妄」ではないとしている点については、私は賛成できません。

虚妄性を意味論的側面と存在論的側面に分離するような観点は近代人に特有の思考パターンであり、紀元前に生きた古代人、釈迦はそのような思考パターンを持たなかったと私は考えています。近代人の思考パターンは外部の客観的存在の実在を強固なまでに確信し、既にそこから外れることは不可能な前提となっています。

ですから、この前提に基づかない類の思考パターンにはリアリティを覚えることも、共感することもとても困難になっています。たとえば「全ての存在は無明という精神的な要因の源泉から、行(構成力)という一種のエネルギーによって幻(マーヤ)として展開され、生じている」といった思考パターンに近代人はリアリティを覚えることは困難な筈です。

ですが、近代人にはどれほどリアリティを覚えることが困難であろうと、古代人たる釈迦は次のように存在論的にも虚妄だと説いています。

---{
色は聚沫の如くなり 受は水泡の如くなり
想は陽炎の如くなり 行は芭蕉の如くなり
識は幻事の如しとは 日種の〔尊〕の所説なり。
---}(相応部 22・95)

このように「色、受、想、行、識」の全てが虚妄だと説いています。この中で色は物質的存在それ自体(つまり物質の存在そのもの)を指しますから、明確に存在論的に虚妄だと説いていることがわかります。そして物質的存在に関する評価(=意味論的、価値論的な側面)は想、識の側に含まれ、それらも虚妄だと説いています。

ここで、この相応部からの引用箇所は、物質的存在が無常であることを述べているだけで、虚妄だと述べているのではない…こういった反論は既に近代人の思考パターンに沿って解釈されたものだと私は考えます。

存在論な虚妄性はさらに別の観点からも述べることができます。存在論的な意味で「この世界(の本質)は虚妄であった」とか「この世界(の本質)は無(空)であった」と実感的に了解するという強烈な体験が実際に存在することです。これは世界が無(空)であると意志的に瞑想で観ずる行の事ではなく、世界が無(空)であったということを強い明証性を伴って了解してしまう体験の事です。

また一般論になりますが、存在論的には実在だが、意味論的には虚妄という世界の見え方は精神的なバランスを保持し続けるが難しく、不安定で長続きするとは思えません。なぜなら存在論的に実在するのであれば、それはすでに実在性という「根拠」をもち、意味論的な虚妄性を脅かすからです。実在性というのは既に「意味」に展開してゆくだけの力があります。意味論的な虚妄だけではその力に拮抗しつづけることは困難となります。

逆に、存在論的な虚妄を実感的に了解する体験はそれが同時に意味論的な虚妄の発見となり、持続的、安定的な了解となります。

注意すべきは、この世界が無(空)であるという実感的了解の体験が当人にとってどれほど強固で明証性を伴っていたとしても、この日常の現実世界は無(空)ではないということです。夢の中では空を飛べるからといって日常の現実世界でも空を飛べるわけではないのと全く同じことです。

この意味で「色即是空」がこの現実世界の幽玄な真理であるかのような禅者の主張は完全に間違っています。ある特殊な意識状態(=意識世界)でのみ成立する「色即是空」などの体験を、その特殊な意識状態に至る修行の末に実感的に了解したというだけのことに過ぎず、この日常の現実世界では「色即是空」は全然、成立していません。

ですから日常の現実世界でも「色即是空」が微妙かつ曰く言い難いありようで成立しているが、凡人の意識ではそれが掴めていないのだ…といった類の話は禅者の与太話に過ぎません。


次に(4),(5),(6)に移ります。

著者は禅定と智慧について以下のように述べています。

---{
釈尊が苦行を捨てたのは、それが、苦しみに堪える心を養うのには適していたが、苦しみそのものを発現せしめる心的機構を解体するものではなかった、したがって、苦行によって苦しみを最終的になくすことは不可能だということを痛感したためである。

 苦しみを発現せしめる心的機構を解体するものは、あくまでも知恵である。知恵とは、洞察力という形態をとり、生のニヒリズムをもたらすと同時に生のニヒリズムから発するともいえる、きわめて合理的な思考のことである。ことばをかえていえば、当たり前の事実をまともに当たり前の事実として受容する態度のことである。こうした知恵は、心が濁り、ふらついているかぎり、けっして不動のものとはならない。釈尊は、禅定を、知恵を得るための条件として位置づけた。すなわち、心を澄まし、ふらつきのない安定した状態にするための有効な手段と見なしたのである。

 おそらく釈尊以来のことと見て差し支えないが、仏教の学習体系は、戒定慧の三学とされてきた。今までの考察からも明白なように、瞑想(禅定、定)は智慧(慧)を完成するための前段階として重視されたが、それは、やはりあくまでも前段階のものでしかなかった。禅定の完成をもって智慧の完成というわけにはいかないのである。ところが、大乗仏教は、その神秘主義的な性格のゆえに、禅定の極地である三昧体験を得れば、自動的に智慧が得られると見なす風潮を一挙に助長した。三昧という一種非日常的な神秘体験は、心理的、生理的な現象にすぎず、智慧とは原理的に無関係であるにもかかわらず、救済主義的民衆宗教をもって自任する大乗仏教は、安直な(易行道的な)神秘主義によって、智慧を実質的に空洞化してしまった。つまり、手段にしかすぎないものを、仏教の窮極の目標にすりかえてしまったのである。大乗仏教の「功罪」の「罪」の中心はここにある。
---}『仏教誕生』(189ページ)宮元啓一著、ちくま新書

---{
また、覚りとは、三昧状態のなかで、宇宙の真理(理法)と一体になる体験だというたぐいの解釈が、今日、一部の仏教学者たちだけでなく、かなり一般にも浸透している。しかし、これは、瞑想と智慧の区別がまったくできていない、根本的な誤解に貫かれた神秘主義的解釈だといわざるをえない。
---}『仏教誕生』(184ページ)宮元啓一著、ちくま新書

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たとえば、かくいう著者は、若いころは、いろいろな瞑想法で、数えきれないほど多くの三昧体験をもったものである。しかし、だからといって、筆者は仏んいなったわけでも彼岸に渡ったわけでもない。三昧で仏になれるなどというならば、こんな簡単なことはなく、ワープ思想もいいところである。しかし、筆者のように、いくら数多く三昧体験をもっても、決して仏にはなれない、というところに、三昧ワープ思想の根本的な問題がある。

なにが問題かというと、三昧というのは、たんなる特殊な心理状態なのであって、「智慧」とはまったく無関係だからである。三昧への心理的特性があれば、子供にでも簡単に三昧体験は得られる。古い時代の仏教では、仏教というものは「戒定慧の三学」という体系よりなるものだと主張された。

「定」(瞑想)はあくまでも「慧」(智慧)を得るための手段にほかならないのであって、けっして最終目的ではない。三昧即成仏などというのは、手段と目的とを取りちがえた考えで、本来の仏教とはまったく無関係だといわなければならない。禅定主義は仏教ではないのである。

そういう意味では、密教も禅宗も大いに問題があるわけである。
---}『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実』(61ページ)宮元啓一著 

これらの主張はもっともであり、私も賛成です。ただ、著者は禅定における三昧について否定的に評価していますが、禅定における「禅的な悟り」や密教での悟りについては明確な言及はないようです。

私は、仏教の源泉となった釈迦の悟りと「禅的、密教的な悟り」ではその本質が全く異なるものだと考えています。どちらも禅定によってもたらされますが、基本条件が異なるため、結果として決定的な相違が生じていると考えます。

禅的・密教的な悟り:
・厭世観を確立せず、よって
・生存欲を枯らさず、よって、
・次の再生の条件が断たれず、よって、
・輪廻から脱したという自覚を伴わず、よって、
・非日常的な意識世界における体験、境地にとどまり、よって
・解脱(輪廻の終了)とはならない。

釈迦の悟り:
・厭世観を確立し、よって、
・生存欲を枯らし、よって、
・次の再生の条件が断たれ、よって、
・輪廻から脱したという自覚を伴い、よって
・意識世界全般からの覚醒(離脱)が生じ、よって
・解脱(輪廻の終了)となる。

この差異を譬えると、後者が夢からの覚醒だとすれば、前者は日常的な夢から
非日常的な夢への移行であり、覚醒を伴わないものだと言えます。



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