大乗思想批判:『仏教誕生』、『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実─』(3/4)

2004.8.2 作成


次に(9)に移ります。

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日本仏教は完全に大乗仏教の流れを引き継いだものなので、今でも教典に説かれている教えはゴータマ・ブッダの教えだと広く信じられているが、これは事実に反する。事実はまさに、まさに「大乗非仏説」なのである。

僧侶で仏教学研究にたずさわっている学者たちは、そこで、宗門の立場とアカデミズムの立場との間のギャップに悩まされる。そこで一部の学者たちは、「解釈学」などと称して、初期仏教教典を大乗仏教的に解釈し、大乗仏教は、ゴータマ・ブッダの教えの「スピリット」を忠実に引き継いだ仏教なのだと主張する。しかし、これはもはや「神学」であって、やはりアカデミズムからの逸脱でしかないと思う。
---} 『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実』(43ページ)宮元啓一著

大乗仏教が仏説かどうかという問題は、大乗の仏典を創作した人間たちの中に釈迦のような実在の仏(ブッダ)がいたかどうかというという問題に帰着します。いたのであれば、大乗は仏説ですし、いなければ非仏説です。たとえば、仏教学者の三枝充悳氏や竹村牧男氏などは前者の立場であり、宮元啓一氏は後者の立場です。

ここで、瞑想体験において仏から大乗の教えを受け、それを元に大乗仏教が説かれた…といった類の体験偏重の解釈に頼ることは智慧を重視する仏教としては当然、許されません。それを許す事は、チベット仏教のテルマ(埋蔵教典)や神懸かりによるお告げの類を信じるのと同レベルですから。

ですから、大乗の菩薩を自認する人がどんな体験をし、何を説こうがそれだけでは菩薩の説(自分を菩薩だと自称した人の言説)であり、仏説とはなりません。実在の仏が説いたものだけが仏説でなくてはなりません。


さて実在の仏(ブッダ)が釈迦以後に存在し、大乗の教えを説いたとすると次のような矛盾が生じます。

(a)その大乗仏教を説く仏も仏である以上、解脱している筈です。
(b)解脱しているのなら、輪廻から脱している筈です。
(c)自分は輪廻から脱しておりながら、輪廻に留まり衆生を救うことを教えるというのは教えと行いが一致せず、仏の教えとはみなせません。

このため、大乗仏教が仏説であるためには「輪廻から脱することのない仏」、もしくは「輪廻を自由にコントロールできる仏」という存在を受け入れる必要が生じます。当然、このような存在は輪廻からの解放を説く釈迦の教えの根本を逸脱したものですが、この逸脱を受け入れないと大乗仏教は成立しません。しかし大乗仏教は「輪廻即涅槃」というフレーズで強引に導入してしまいました。

実在した釈迦は輪廻を自由にコントロールすることはおろか、王による親族(釈迦族)の虐殺を止めることも、最後の別れに訪れた瀕死のモッガラーナを救うことも、自らの体調(下痢)を直すことさえもできず死亡しました。体の痛みに堪える当たり前の人間のままでブッダという偉大な存在でありました。

それに対して大乗の仏は無限の慈悲と寿命、万能のパワー、完全な智慧を備えいるとされていますが、そのような仏の記録はどこにも残っていません、文学作品や創作された大乗仏典の中を除けば。

従って私は宮元啓一氏の立場に賛成します。大乗仏教には菩薩という理念を信じる人と大乗的な悟りを得たという意味での覚者はいましたが、解脱した(=輪廻から脱した)という意味でのブッダは実在しえないからです。

大乗的な覚りの本質が「体験、境地」であり「智慧」でも解脱でもないことは大乗が縁起を実質的に無視し、(大乗的な)空、即の論理(輪廻即涅槃、一即多)、不二の論理、即非の論理などのような(体験を真理と誤解した)神秘主義に惑わされていることからわかります。

これら即の論理、不二の論理、即非の論理などと呼ばれるものは実は、非日常的意識世界での「体験、境地」を言葉で表現したものに過ぎず、論理ではありません。ましてや真理などではありません。

さらに、この大乗仏教が新たに創出した菩薩という理念には

(a) 菩薩が自分の積んだ功徳を他人に与える廻向や他人の罪業を引き受ける代受苦という行為が成立しない。
(b) 自ら願って苦しみの世界(地獄など)に生まれてその世界の衆生を救済すするという行為が成立しない。

という致命的な欠陥が含まれています。なぜこの(a),(b)が成立しないのでしょうか? それは仏教思想の根幹である縁起と矛盾するからです。善悪の行為がカルマという因となり、諸縁と作用しあって結果が生じるという縁起の法則は引力の法則と同様、人間の意志によって変えることはできません。

人間の意志で隕石の落下をとめることができないように、悪業の結実である苦果は縁起の法ですから、菩薩の善意がどれほど大きかろうと、本人以外が引き受けることはできないのです(廻向の否定と自業自得は初期仏典で明確に説かれています)。

良い行いをすれば苦しみの少ない世界に生まれ、悪い行いをすれば苦しみの多い世界に生まれるというのも縁起によって成立しています。ですから、縁起の法を破らない限り他人とカルマの交換をすることや、地獄の衆生の救済をするために地獄に意図して生まれることは不可能なのです。このように大乗仏教の菩薩という理念、目標は初期仏教(原始仏教)の核である縁起をその根幹部分で否定することで成立しています。

以上で、

・大乗の仏という存在が成立しない。
・ 大乗の菩薩という存在が成立しない。
・ 大乗の菩薩という理念が釈迦の教えの根幹(縁起)を破壊している。

という大乗仏教の致命的な欠陥が明らかになりました。大乗仏教は初期仏教(原始仏教)の基本思想に沿った発展形態というよりも、解脱という目標を実質的に捨てさり、その替わりに菩薩というそれまでになかった、崇高にして空虚な目標を導入したことで実質的に別の宗教にすり替わってしまったと見るべきだと考えます。


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