大乗思想批判:『仏教誕生』、『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実─』(4/4)

2004.8.28 更新
2004.8.25 作成


ついでに大乗仏教に特有の本覚思想と如来蔵思想が重大な欠陥を持っていることも指摘しておきます。本覚思想と如来蔵思想もまた仏教の根幹である「縁起」を破壊しているのです。その証明は単純です。

(v1) 本覚思想と如来蔵思想は我々の存在の根元に悟りや仏性をおきます。

(v2) 仏教では、我々の存在のあり方を縁起によって説明しています。

(v3) その縁起の教えによれば、我々の存在のありようの根元は(支の数が十二でもそれ以下のの場合でも)無明、つまり根元的な迷妄いとされます。

(v4) 無明は仏性や悟りとは対極に位置するものです。

(v5) したがって本覚思想と如来蔵思想は縁起の思想に真っ向から矛盾し、破壊するものです。

補足すると本覚思想や如来蔵思想では、悟りや仏性という善なる核(本質)がまず存在し、その周りを無明という汚れ(付属的要素)が覆っていると捉えています。これに対して、縁起の思想ではその核それ自体を無明と捉えています。とらえ方が全く逆になっているわけです。

汚れを取り去ることで善なる本質(より良き存在)が顕わになると捉えるのが前者で、無明という核を枯らすことで輪廻として現れてくる存在の根元を滅するのが後者となります。大乗仏教では存在の本性、本源を良きものと捉え、その持続を望む方向(つまり輪廻の継続の方向)に作用します。初期仏教とは全く逆になっています。

さらに本覚思想と如来蔵思想は(大乗的な)空の概念とも矛盾しています。

(y1) 空の思想では全てのものに自性や実体がないと捉えます。
(y2) 本覚思想と如来蔵思想では悟りや仏性をあたかも実体や自性のように捉えています。

つまり大乗思想では本覚や如来蔵が本源的な意味で「ある」と誤解しています。縁起説のどの支にも悟り、仏性に相当するもがないことからも明らかですが、悟りや仏性は無明が滅すること、「なくなること」を意味するのであって、覆われていた善なるものが顕現するわけでも、新たに出現するものでもありません。

釈迦の成道直後のウダーナにある「ダルマの顕現」も、本覚や如来蔵を指しているのではありません。ダルマの顕現とは縁起、四諦という法を智慧によって実感的に了解したという意味であって、本覚や如来蔵とは関わりがありません。

このように本覚思想と如来蔵思想は存在の本源となるもの(無明)の本性を良きものと誤認しているため、結果的に無明を助長させ、縁起を破壊する方向に機能しています。


次に(10)の話題、

(10) 部派仏教では、阿羅漢になって涅槃にいたったという人はおびただしくい
  るのに比べ、大乗仏教で仏になった、涅槃に入ったという人物はひとりも
  いない。

に移ります。

この具体例となるものを仏典から引用します。

ある村を訪れたとき、アーナンダがその村で死んだかつての比丘や在家信者がどうなったかを釈迦に尋ねた時の記録があります。この時の釈迦の答えは(大乗仏教の信者にとっては)驚愕すべきものです。

---{
アーナンダよ。修行僧サールハは諸々の汚れが消滅したが故に、すでに現世において汚れの無い<心の解脱><知慧による解脱>をみずから知り、体得し、具現していました。アーナンダよ。尼僧ナンダーは、ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので、ひとりでに生まれて、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはや(この世に)還って来ることが無い。

アーナンダよ。在俗信者であるスダッタは三つの束縛を滅ぼしつくしたから、欲情と怒りと迷いが漸次に薄弱となるが故に、<一度だけ帰る人>であり、一度だけこの(欲界の)生存に還って来て、苦しみを滅ぼしつくすであろう。
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アーナンダよ。カクダという在俗信者は、ひとを下界(欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたのでひとりでに生まれて、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはや(この世に)還って来ることが無い。アーナンダよ。カーリンガという在俗信者は……、ニカタという在俗信者は……、カティッサバという在俗信者は……、トゥッタという在俗信者は……、サントゥッタという在俗信者は……、バッダという在俗信者は……、スバッダという在俗信者は……、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたのでひとりでに生まれて、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはや(この世に)還って来ることが無い。

さらに、アーナンダよ。ナーディカで死んだ五十人以上の在俗信者たちは、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたのでひとりでに生まれて、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはや(この世に)還って来ることが無い。

アーナンダよ。ナーディカで死んだ九十人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、欲情と怒りと迷いが漸次に薄弱となるが故に、<一度だけ帰る人>であり、一度だけこの世に還って来て、苦しみを滅ぼしつくすであろう。

アーナンダよ。ナーディカで死んだ五百人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、<聖者の流れに踏み入った人>であり、悪いところに堕することの無いきまりであって、必ずさとりを達成するはずである。
---}『ブッダ最後の旅』(47ページ)中村元訳、岩波文庫

これによれば、死んだ比丘、比丘尼のみならず、死んだ在家信者のうち

・50人近くがニルヴァーナに至り(不還)、
・90人以上は一来(一度だけ帰る人)、
・500人以上は預流(聖者の流れに踏み入った人)

だと釈迦が答えた事になっています。たった1つの村の在家信者のうち、50人もの人が死後、ニルヴァーナに至ったとされます。

著者の指摘のように、初期仏教の経典を見ると出家して数日間で、ほとんど修行らしき修行も経ずに悟りを得たという例がたくさん記録されています。中には釈迦の教えを受けて出家した当日、太陽が沈む前に悟りを得ている例さえあります。

逆にアーナンダのように25年間の間、釈迦の身の回りに付き添っていても(釈迦の存命中は)悟れなかった例もありますから、ばらつきはあるにせよ、初期仏教は多くの人にとって確実にその目的(解脱)を達成できるものでした。

それに対して大乗仏教では禅的な悟りや各種の神秘体験、一定の境地を得ることまではできても本来の目的である解脱は(記録を見る限り)ほとんど全く達成できていません。

大乗仏教徒には(あからさまに言うことは少ないにせよ)四諦が低級な教えであるという思いこみがあります。その上、即の論理や不二の論理、即非の論理、(大乗的な)空の思想の類を四諦を超える高度な真理だと誤解しています。

そういった思いこみが、維摩経や法華経に見られるようなサーリープッタをはじめとしたアラカンを貶める記述を生みました。

初期経典には釈迦が
・マハーカッサパを貶めた比丘が500生の間、猿となるだろう
・サーリープッタを誹謗した比丘が死後、地獄で永く苦しむだろう
と述べたと経典にはあります。

理念としての菩薩を称えるために、実在したアラカンを貶めたこれらの大乗仏典による罪がどれほどのものになるのか、計り知れません。

四諦を実質的に軽んじ、縁起を破壊し、アラカンを貶めたという意味で既に正統的な仏教思想を著しく逸脱し破壊したため、その当然の帰結として大乗仏教では仏にもなれず、涅槃の果も生じなくなったということでしょう。


この意味で著者の四諦を重視した
---{
わが国の仏教はさまざまな宗派に分かれているが、みな大乗仏教と密教の流れを汲んだものである。そして、いうまでもないことであるが、どの宗派の中心教義のなかにも、四聖諦説など、微塵もといってよいほど姿を現さない。少々荒っぽいいいかたをさせてもらえば、四聖諦説抜きに智慧は生まれないのであり、わが国で智慧の生まれないところにわずかに生き残ったのが祈祷仏教(生を謳歌する仏教)と葬式仏教だけというのも、当然といえば当然の成り行きだったのである。
---}『仏教誕生』(184ページ)宮元啓一著、ちくま新書

という意見には強く共感します。



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