書評:『魂の幽霊界行脚−死後の世界の体験記』竹内満朋著

2004.8.9 作成


既に故人ですが、日本の現代人で体外離脱体験を報告した竹内満朋の著作
『魂の幽霊界行脚−死の世界の体験記』竹内満朋著、霞ヶ関書房(1971年)
を入手したので読後感をメモしておきます。この本は

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本書はわたくしのありのままの体験記である。わたくしは1940年代のある期間、床についてから20分くらい経過すると、かならずわたくしの霊魂が肉体からぬけだし、わたくしの主護霊の案内によって霊界・幽界を旅行するようになった。
---} 7ページ

とあるとおり、体外離脱体験を語った内容になっています。

結論から述べると、竹内満朋の体験は彼の素朴で単調な宗教的信念の反映であり同時にそれがそのまま体験内容の制約や限界にもなっているように思えます。日常の意識状態の人格が凡庸でも深層意識の影響を強く反映した人格が著しい宗教性や深みを顕し、とても同一人物とは思えないようなケースも多々あります。しかし竹内満朋の場合は日常意識も深層意識もともに宗教性、人格、教養の面では単調で素朴なようです。

竹内満朋の体験の大半は彼自身が意識せずに作り出したマーヤ(幻)やある種の夢だと判断できそうです。竹内満朋の体験の多くが幻であると判断した根拠を以下でいくつか具体例を挙げて説明します。引用はすべて『魂の幽霊界行脚−死後の世界の体験記』からです。

「幽界のチベットともいうべきところ」を訪れた時の記述が 22ページにあります。ヤクの毛皮をまとった若いチベット人が行く先を塞いでいる場面で通せ、いや通さないの押し問答のあと、竹内満朋が「あなたの国の神さまを拝みにまいったのです」と説明する場面がでてきてます。このとき、幽界の若いチベット人は次のように言います。

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ウーン、そうかそうだったのか。お前はそんな心掛けできたのか。それならそうとはじめからそう云えばよかったんだ。いったい他国にやってきて、その国の土を踏むと同時に、まづその国の神さまにお詣りもしないような心がけのやつは、全くおはなしにならん。しかしお前は感心な奴ぢゃ。これを機会に今後は、どんな土地にいっても、必ずその国の神さまにお詣りするようにしろよ。ここが一ばんかんじんかなめなところぢゃ」
---} 25ページ

これではまるで一昔前の素朴な日本の老人です。こんなことを言うチベット人がいるとは思えません。チベットでは「その国の神さま」(=氏神)に相当する概念はない筈ですし、別のエリアに出向いた際に「その地方の神さまにお詣り」するなどいう風習もまずありえません。

続いて竹内満朋はこの幽界の「ヒマラヤ山の頂上」を越えた先の「ラマの大寺院」で次のような光景を見たとあります。

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二人がこの大伽藍の階段をのぼっていくと、次第に周囲の人数がふえていったが、その中には赤・黄・青・土色あるいは金色や銀色と、さまざまの色彩を身につけた僧侶のような霊人たちもすくなくなかった。
---} 33ページ

これもチベットではありえないことです。最高位のダライ・ラマでさえ釈迦の定めた色である黄褐色の僧衣をまとっています。僧にとってこの黄褐色の色は誇りです(仏典にこの色が誇りだという記述があります)。幽界とはいえ、伽藍で修行を続けている僧侶がそのような色彩の僧衣を纏うことはまず考えられません。

さらにその大伽藍の中で霊たちが並んで座り合掌している場面では
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その方向に目をやるとそこに大きな神鏡があり、そのまわりから例のまばゆい光がかがいていた。「あれがここに鎮まられる大霊なのぢゃ」と、私は守護霊におしえられたので、さっそく土下座してその神霊を拝し奉った。
---} 34ページ

この鏡は明らかに神道のイメージに基づいたものでしょう。チベットでは仏にや仏の描かれたマンダラに礼拝することはあっても鏡に礼拝することはありえませんから。

次に、ブルガリアの野原で軍隊に焼け野原にされたタンポポやバラの妖精に出会い次のような話を聞いたとあります。

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天から一人の天使が私たちの野に天下ってこられました。そしてこの野原を支配している白バラに向かって次のようなお話をされたんです。

これからはそのよい香りを惜しみなく放って人間のためにつくすのですよ。それが今までの罪亡ぼしでもあるのです。
---} 46ページ

野原の花の色彩と香りは昆虫を招きよせて受粉を行うためにあるのに、焼け野原にした人間のために香りを放って尽くせ、と命ずる天使もまた竹内満朋のイメージの生み出した幻だといえます。

「ピラミッドの謎と鍵」と題された章では霊界のピラミッドまで飛行しスフィンクスに至る場面が次のように記述されています。

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やむを得ずつっ立ったままぼんやりとその像(スフィンクスのこと)をながめているうち、このままではしょうがないという気になり、一歩スヒンクス(ママ)に近付いたところ、小石につまづいてスヒンクスの指先につきあたった。
---} 100ページ

竹内満朋はスフィンクスのサイズを完全に誤解しています。スフィンクスの指先がどれほど巨大か理解していなのが明らかです。このスフィンクスは竹内満朋の作り出した幻であることがこの箇所の記述からも明らかです。

なお、霊界のスフィンクスはサイズが小さくなっているとか、そこでは竹内満朋のサイズが大きくなっているという解釈は成立しません。この後、彼は開かれた台座から内部に入り、各部のサイズを1〜2間とか2丈とか記述しているし、そこに29個も並んだの祈祷用の膝台にも座ろうとしているからです。

続いてさらにこの地下の奥で、

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私が番人に「王はここにどれ位居られるのですか」とたづねたところ、「一号は一年、二号は二年、七号は七年といった期間ですな」との返事だった。

一人の霊人が螺旋形の階段を上ってくる姿がみえる。「この人もいよいよ昇天の時期が近付いたのだな!」と思い会釈をしてその行き先を注視していると、この霊人は三号室に姿を消した。これは昇天まであと三年ということにほかならない。ピラミッドが何のためにあるのか? この疑問はこれで氷解した。それは修行がおわった王たちが昇天するための跳躍台としてつくられたのだ。
---} 106ページ

という体験をしたと記述しています。エジプトの死者の書などから過去のエジプトの王が死後にたどる世界をどう考えていたか、我々には相当程度が明らかになっていますが、そこにはピラミッドが跳躍台になるというような発想は全くありません。従って跳躍台としての機能がピラミッドに求められることもありえません。ですからこれもまた竹内満朋の生み出した幻でしょう。

さらにこの本の全体に渡って竹内満朋の守護霊が述べる教えや教訓の内容は、竹内満朋が理想として思い描く人格ならこう言いそうだ、という内容から一歩も踏み出していません。ですから守護霊は竹内満朋が意識せずに理想化した自己のイメージの投影だと判断できます。

カスタネダやロバート・A・モンローの著作に見られるような思想性や精神の深み、常識や日常の枠組みの破壊・超越、こういったものが、竹内満朋にはほとんど見られませんのでその面では物足りなさを覚えます。

竹内満朋の体験は風変わりではあってもおおむね単調・平板です。深淵を覗き込んで身が震えるような感覚、存在が無限に展開しゆくさまへの驚愕、真の恐怖、神の如き圧倒的な存在を前にして茫然となること、自己に関する深刻な疑念・反省、こういった諸相が竹内満朋にはほとんど見られません。


最後に体外離脱体験を報告した現代人の中からロバート・モンローのケースと比較してみます。ロバート・モンローには

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『魂の体外旅行』ロバート・A・モンロー著、日本教文社
『究極の旅』ロバート・A・モンロー著、日本教文社
『体外への旅』ロバート・A・モンロー著、学研
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が残されていますのでこれらに基づいて比較します。

まず竹内満朋とロバート・A・モンローの両者に共通していると思われるものをあげてみます。なお、光の存在とか、ガイドの存在といった、すでに一般に流布したものは除外します。

(A)ロートという高次の認識方法:
一瞬にして膨大な情報の塊(圧縮データ。解凍できない場合もあるようです(笑))を受け取るものです。モンローの場合は明確ですが、竹内満朋にもわずかにその痕跡がみられるようです。

もっとも薬物による幻覚や精神異常でもロートに類似した形の(しかし内容は誤謬だらけの)認識が見受けられるので、認識内容の正しさは保証されず、慎重な吟味が必要です。またある種の悟りはロートの一種と見なすことも可能かもしれません。

(B)特有の運動、移動:
体外離脱して異なった世界に至った時に可能となる独特の感覚で体外離脱時の単に空を飛行するといった体験とは別種のもののようです。竹内満朋のいう「光動」「空行」とモンローの言う「スキップ」や「クリック」などの間にある種の関連性があるかもしれません。


総じて一部で希有の霊媒と言われた竹内満朋に比べても、モンローの資質や体験内容の際だった豊かさは明らかです。モンローは竹内満朋に比べ次のような面で優れています。

(1)死後の人格的存在(魂)に対する具体的救済活動に関する記述
(2)現実世界と死後の世界の両方にまたがる体験
(3)輪廻の体験に関する具体的な記述
(4)体外離脱体験(OBE)に特有の現象に関する記述の詳細さ、深み
(5)客観性、哲学性、体験に関する思索のレベル

このうち、(1)は実質的にモンローとその関連プロジェクトのみが詳細に記録している重要なデータといえます(仏典を含め、主要な宗教の教典においてもほとんど記述されていません。スウェーデンボルグも言及はないようです)。(3)についても犬から人間へ、非地球人から地球人への転生の記録があるのは興味深いものといえます。

なお、自己の生み出した幻をリアルな別世界だと誤解することはモンローの場合にもありそうです。たとえば、モンロー研究所で提供している体験中に「太陽系を掌の上に載せて眺める」というものがあるようです(『臨死体験」を超える死後体験』坂本政道著)。

しかし、太陽系と太陽のサイズの比率を考えると太陽系を眺めること自体が不可能だとわかります。仮に太陽から土星までを太陽系だとして、これを掌のサイズ(約10cm)に縮小した場合、太陽は50ミクロンの眩しく光る点(球とは認識できません)になります。最も大きな惑星である木星は5ミクロン(可視光の波長の10倍)ですから球として認識することも不可能ですし、太陽光の木星での反射も全く見えなくなります。夜道で車のヘッドライトの近くの蛍が見えないのと同じことです。

なお、「掌の上で太陽系を眺める」体験は単なるイメージの訓練に過ぎず、リアルな別世界体験ではない…このような言い訳がなされたとするとそれは致命的です。他の検証されていないすべてのモンロー関連の体験もまたイメージの訓練(およびその著しい発展形)と区別ができなくなるからです。


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