仏教解釈:松本氏と袴谷氏の主張について

2000.4.12


(Sさんへ)松本氏と袴谷氏の主張について 投稿者:reverie  投稿日:04月12日(水)04時53分55秒

>半田さんとは離れるのですが、やはり、reverieさんが何度も言及していたので、松本氏と
>袴谷氏の本をそれぞれ1冊読みました。如来蔵と本覚思想が正統仏教ではないという主張は
>解らないのではないのですが、reverieさんは袴谷氏の文章が「知性的」だと思いますか。

(1) 袴谷氏の文章が「知性的」かどうかについて。
袴谷氏の主張の要点そのものはとても知性的だと思います。それらを記述した
生の「文章」そのものはあるいは知性的というより文学的かもしれませんね。
率直にいえばやや冗漫にも思えます。しかし敢えてそのような文章の記述方法
を選び取った気配も感じます。

(2)如来蔵思想批判、本覚思想批判への評価について。
私は如来蔵思想批判、本覚思想批判を高く評価しますが、それは「仏教とは何
か」という問題を原点に立ち帰って深く考えるために役に立つと思うからです。
如来蔵思想批判、本覚思想批判それ自体が完全に正しいと見ているわけではな
いです。解毒剤として効果、弛緩した姿勢に対する冷気、屑を取り除くフィル
ターとして有効だと捉えています。

>私は読み比べても津田眞一氏の主張の方が解りやすいに思えるのですけどね(うちの宗派が
>真言宗だという理由も少しありますけど)。

ええ、津田氏の立場のほうが人間の感性に馴染むというか、深みを感じさせる
というか、そういった点では私も同意いたします。津田氏は知性では捉え切れ
ないものこそを仏教の本質だと捉えているわけですね。

一方、袴谷氏や松本氏は一般の仏教解釈に見られる反知性主義の風潮(つまり
禅定主義、神秘主義の風潮)を批判して逆に知性主義(つまり言葉、知恵の重
視)の立場を仏教の本質だと捉えているわけですね。このあたり、去年の仁さ
んとの議論を思い出します(笑)。

私は仏教の本質は神秘主義的なものであると思いますのでその点では津田氏の
立場の側に立っています。ただ、世に見られる神秘主義的なものの 90% 以上
は屑だと思っており、その屑を選り分けるために知性主義はとても有効だと思
っています。また、どれほど良質の神秘主義であろうとそれ自体に宿命的とも
言えるような陥穽が組み込まれていると思いますので、その意味でも有効だと。

強靭な知性の刃で切り倒されるような神秘主義であれば所詮、まがい物に過ぎ
ないと思いますので遠慮会釈なしに切り倒すべきだと思っています。

reverieさんへ 投稿者:  投稿日:04月12日(水)13時49分11秒

●奇妙な体験について
> Sさん(他の方でもいいのですが)はこの1998,1999年あたりに奇妙な体験、
> 例えば意識が入れ替わるとか、をしていますか? 私はこれも偶然でしょうが、
> そのような体験があるのですよ、困ったことに(笑)。

私において奇妙と思える体験が立て続けに起きたのは1990年でした。ただその奇妙さという
のは、思春期の少女の居る家にラップ現象が起きやすいというのと似たようなものではなかっ
たと自分で思います。当時、精神的に非常に不安定だったので。

99年は奇妙な体験というよりは、環境の変化が大きかったですね。今、普段会う人に、去年
会っていた人はほとんどいません。

「意識が入れ替わる」というのが、いわゆる他人の意識と入れ替わるのか、見ものと見られ
るものにおける反転なのか、判然としませんが、そうしたものは98〜99年にはありませんで
した。
入れ替わりというより無化とでもいうべきことは、96年か97年にありました。
ある日、目が覚めたら、あからさまに〈私〉というものがなかった(笑)。言語矛盾なので
すが、「〈私〉が存在しない」という表現がぴったりくる状態でした。自分自身には奇妙な
体験でしたが、これも「てんかん説」で説明がつくのかもしれません。

●袴谷氏のこと
松本氏と袴谷氏の説に対するreverieさんの立場はよく解りました。ありがとうございます。
私からすると『批判仏教』における袴谷氏の文章は文学的というより、ヘタクソ。教え子に
あたるはずの松本氏の方が、ずっと明晰な文章だと思います。

で、主張の中で奇異というか、不自然に思えるのが、正統仏教=主知主義として釈迦も道元
も主知主義者として括っておきながら、

★部派仏教は「小乗」という呼称の方がふさわしい
★「法華経」が一番正しい「大乗仏教」である(その理由の一つは一番文学的な経典だから)
★道元を祖師と仰ぎながら「日蓮は正しい仏教者であった」という

というのは両立しないように私には思えるのです。
「あれか、これか」を明確に分けたという点では日蓮宗はすさまじいものがあったと思いま
すが、お経の題名を唱えることが主知主義になるとは私には思えないですね。

本覚思想が正統仏教ではないというのは文献批判から言えるでしょうけど、★の主張は、文
献に基づいているとは思えない。つまり、袴谷氏は、主張するほど「主知主義」者とはとて
も思えないというのが私の感想です。

> 私は仏教の本質は神秘主義的なものであると思いますのでその点では津田氏の
> 立場の側に立っています。ただ、世に見られる神秘主義的なものの 90% 以上
> は屑だと思っており、その屑を選り分けるために知性主義はとても有効だと思
> っています。

このreverieさんの説に賛意を表します。

(Sさんへ) RE:袴谷氏について 投稿者:reverie  投稿日:04月14日(金)05時00分12秒

>私からすると『批判仏教』における袴谷氏の文章は文学的というより、ヘタクソ。

そう言われるのもわかるような気はします(笑)。

(1) 袴谷氏が主知主義者かどうかについて。
>で、主張の中で奇異というか、不自然に思えるのが、正統仏教=主知主義として釈迦も道元
>も主知主義者として括っておきながら、
>
>★部派仏教は「小乗」という呼称の方がふさわしい
>★「法華経」が一番正しい「大乗仏教」である(その理由の一つは一番文学的な経典だから)
>★道元を祖師と仰ぎながら「日蓮は正しい仏教者であった」という
>
>というのは両立しないように私には思えるのです。
>「あれか、これか」を明確に分けたという点では日蓮宗はすさまじいものがあったと思いま
>すが、お経の題名を唱えることが主知主義になるとは私には思えないですね。

ええ、それには同意いたします。ただ、袴谷氏の打ち立てた本覚思想批判の決
定的重要性、重みはそういった細部の欠陥(比較すれば細部でしょう、やはり)
とは関わり無く、評価すべきものと考えています。

>本覚思想が正統仏教ではないというのは文献批判から言えるでしょうけど、★の主張は、文
>献に基づいているとは思えない。つまり、袴谷氏は、主張するほど「主知主義」者とはとて
>も思えないというのが私の感想です。

たぶんですが、Sさんはまだ、本覚思想批判の決定的重要性を認めていな
いのだろうと思いますね。本覚思想批判について「まぁ、そういう考え方もあ
りだな」といった程度の認識ではないのでしょうか? 私は本覚思想批判が正
しいにせよ、あるいは間違っていたにせよ、極めて深い問題を抉り出している
と思っています。

本覚思想批判の本質的な意味は単なる文献批判からだけでは到底、言い尽くせ
ないし、そもそもそういった発想をしえないように感じます。きちんと文献に
基づいて説明しうることは最低条件であって十分条件ではないという意味で。

文献に強い学者は沢山いましたが、こういった独創的な視点での決定的な批判
を打ち立てられたのは、文献調査の能力ではなく、やはり仏教思想の本質的な
深みを探求する姿勢によるものだと思います。

その意味で、主知主義者でなくてはあのような本覚思想批判をなしうる筈もな
いと考えます。それは一つの空前絶後の偉大な作品さえあれば、駄作が幾らあ
ろうと偉大な芸術家であるという評価は変わらないというようなものです、私
の見方では。

(2) 法華経、道元、日蓮の件について
これは印象に過ぎませんが、袴谷氏はまだふっ切れていないのだと思いますね。
氏の思想の核となるものをそのまま延長すれば相当程度で法華経の(全てを丸
ごと否定する必要まではないとしても、かなりの部分は)否定が必要になると
私は見ています。何を思想の核と見なすかにも依存しますが。

ただ、そうそうたる高僧、仏教者がこぞって高く評価していた法華経を否定す
ることは、さすがにできないようです。法華経を自信をもって否定できる仏教
者は松本氏を含め、まずいないですね。

(3) 奇妙な体験について
>入れ替わりというより無化とでもいうべきことは、96年か97年にありました。
>ある日、目が覚めたら、あからさまに〈私〉というものがなかった(笑)。言語矛盾なので
>すが、「〈私〉が存在しない」という表現がぴったりくる状態でした。自分自身には奇妙な
>体験でしたが、これも「てんかん説」で説明がつくのかもしれません。

ありがとうございます。半田氏の説にどこまで「具体的なデータで」肯定なり、
否定なりできるのか、興味があったもので。

>「意識が入れ替わる」というのが、いわゆる他人の意識と入れ替わるのか、見ものと見られ
>るものにおける反転なのか、判然としませんが、そうしたものは98〜99年にはありませんで
>した。

私の場合、入れ替わるというか、ある時点で組替えが行われたというようなイ
メージがあります。あるいは、不可触の目に見えない透明な膜を通過するよう
なイメージです。1998年の夏のある昼間の半日がそのピークでした。意識が数
分と正常に保持できず、その間は、いま自分は狂いつつあるのか?とか、強烈
な幻覚剤の類が食物、飲物に混入したのではないか?とか、疑っていました。
その前後の数ヶ月の期間、身体的にも変調が生じましたが、あくまで一時的な
もので恒常的な心身の変化は生じていないようです。

(Sさんへ)RE:珠にキズ 投稿者:reverie  投稿日:04月16日(日)03時16分36秒

>再度、言いますが、私は本覚思想批判の重要性の有無とは基本的に関係なく書いていますの
>で、その点、御理解下さい。

はい。Sさんの先のポストにある異議には反対しません。ただ、あのポス
トだけだと、本覚思想批判までもが同レベルかと誤解されそうに恐れ、つい。

>★ reverieさん:これだけのこと(本覚思想批判)をしたのだから、袴谷氏は十分、主知主
>        義者である。
>
>★私:「仏教は主知主義」だと言っておきながら、言ってることとやっていることが違うじゃ
>   ないか。

これは、主知主義を XX 主義と置き換えれば、わりとよくある相違ですね。
Sさんのおっしゃることは原理としては正しい、と思います。

袴谷氏が主知主義者であるというのは、重み加味して平均を採った時に言える
ことで全ての判断、行為が主知主義者だとまでは私も思いません。また、それ
を人間に要求するのは実際、困難でしょう。

ある特定の事柄、問題についてそれが主知主義的かどうかは言えても、その人
間全体を主知主義的かどうかと判断するのは、重みづけの評価が人ぞれぞれ異
なるので所詮、主観的なものにならざるを得ない気がします。

>私の言っていることは、本覚思想批判という一つの作品の出来の巧拙や重要性とは直接関係
>ないのです。「仏教はかくあるべし」と言っているなら、主張している本人がそのようにし
>てほしい、ということ。「かくあるべし」の内容の是非とは別に。

それはちょっと、微妙かと。Sさんが理解した袴谷氏の「仏教はかくある
べし」からは、法華経や日蓮の件が「かくあるべし」と一致していないと見え
たとしても、袴谷氏の「仏教はかくあるべし」の本意とは一致しているかも知
れないので。

たぶん、袴谷氏の意識では自らの主張(本覚思想批判)と本質的に異なった判
断だとは感じてないのだと思います、私は。だから、吹っ切れた印象を受けな
いとも。袴谷氏が言語化した「仏教はかくあるべし」=本覚思想批判と、まだ
言語化していない氏の仏教への信念の間にまだ微妙な乖離があるように思えま
す。

>非常に美しい作品を残しているのに、作者本人の人間性は極めて疑問と言う人が、作曲家に
>は割と多くいるようですね。「作品が素晴らしいから、作者も素晴らしいに違いない」とい
>う推測はあまり当てにならないというのが私の経験則です。作品が素晴らしくとも。
>逆側から言うなら、作者がひどい人間でも素晴らしい作品なら確かに残ります。

ええ。主知主義という評価基準もそうですが、何か一つの評価基準で人間を丸
ごと計り尽くそうとか、一つの行動原理で統制しようというのが、そもそも無
茶(横着)だと、私も思います。

作者の中の創造しようという意識が作品を作ったのであって、作者のもつ別の
属性である「ひどい人間性」や「すばらしい人間性」が作品を作ったわけでは
ないからまぁ、それも当然でしょうね。