仏教の真理と空、言葉と神秘体験、禅的な悟り

2000.12.10


「猫は猫ではない、ゆえに猫とよぶ」という論理 投稿者:reverie  投稿日:12月10日(日)03時03分04秒

「A は Aではない、ゆえにA と呼ばれる」という論理について簡単に考えてみ
ます。これは金剛般若経で多用される独特の論理で、鈴木大拙が『日本的霊性』
において「即非の論理」と名づけたものです。

従来、これは排中律(「命題 A が真であるか,または A の否定が真であるか
のいずれかである」という思考の原理)を超えた神秘的な直感的認識であると
か、論理を超えた悟りに基づくものだといったように解釈されてきました。

しかし、「即非の論理」のような、論理を超えた神秘的なものに頼る解釈は不
要なのではなかろうか…このような気がしています。つまりごく普通の論理で
十分に納得ができるのではないか、と。

さて、「A は Aではない、ゆえにA と呼ばれる」が論理的な意味をもつとすれ
ば(=排中律が成立するとすれば)当然、この文の3つの A の意味するものは
同一ではありえません。A を猫とおいた場合を考えてみますと、次のような解
釈が可能となります。

「(個別の猫を抽象した名詞である概念としての)猫は(いま手にじゃれつい
ているこの)猫ではない。ゆえに(名詞としての)猫という言葉を使うことが
できる」

この解釈の最初の文は明らかです。後の文は次のような意味です。
---
普通名詞としての「猫」という言葉は、「個別の猫」そのものを指さず、すべ
ての個別の猫を概念の上で抽象した「猫一般」を指し示す。「猫一般」を示す
がゆえに、「猫」という言葉で「この個別の猫」を呼ぶことができる。
---
この解釈は残念ながら、金剛般若経の文脈には当てはまりません。金剛般若経
の文脈では最初の Aは一般名詞ではなく、個別のものを指し示していますから。

そこで次の解釈に移ります。

「(いま手にじゃれついているこの)猫は、(普通に言われるような意味での)
猫ではない。だからこそ、この猫は、(真の意味での)猫だと言うことができ
る」

この解釈では、
一番目の A:この目の前の猫
二番目の A:一般的な意味、世俗的な意味での猫
三番目の A:真の意味での猫
となっています。これはつまり Aの「通俗的な意味」と「真の意味」の逆転の
強調が金剛般若経で多用される独特の論理の本質であったということです。そ
して、この「真の意味」の実体は「空的発想にもとづいた概念の否定」である
と私は考えます。

「悟り」とか「仏」とはこういうものだという一般的な概念が出来上がってい
る中で、金剛般若経にはそのような一般的な概念を、空をベースとした否定で
破壊しようという意図が込められているようです。

しかし、それは同時に(概念で構成されている)仏教思想の根幹そのものをも
破壊するという副作用も生じている…このように私は思います。そのような意
味での副作用を持つものは金剛般若経だけではなく、禅を含め密教、大乗にも
濃厚に見られるようです。竜樹の『中論』もその端緒となっています。

だとすると、如来蔵思想、本覚思想とは別に、この「空による概念・思想の否
定」という姿勢も批判されるべきかも知れません。体験としての「空の実感」
は認めても、「空にもとづく論理」(たとえば「色即是空」の類)は批判され
るべきだと。

「あいつは嫌な奴だ」という実感がどれほど強くとも「あいつは嫌な奴だ」と
いう論理(=主張)は成立しないように、「空の実感」は「空にもとづく論理」
の根拠とは(それだけでは)なりえませんから。

(reverieさんへ)It is inevitable that The religion is metaphysics. 投稿者:  投稿日:12月10日(日)20時30分42秒

こんばんわ。J@休日です。

>しかし、それは同時に(概念で構成されている)仏教思想の根幹そのものをも
>破壊するという副作用も生じている…このように私は思います。

それは一理あります。「一切は空である(sarva s'n~yataa)」、「(釈迦の説いた)法も一切に含まれる」→釈迦の説いた法も空である、となる。一切(sarva)に法(dharma)が含まれないとすると、「一切」が「すべて」でないことになってしまいますからね。reverieさんも、以前、この<一切>にその文章自体も含むのか?自分自身を部分集合として含むのか?、とそのようにもおっしゃっていましたね。

さらに、仏教思想は実在との対応を要請する、総合判断命題でしょうね。その概念が総合判断命題であるならば、仏教思想=その概念=総合判断命題=形而上学ですから、次の言い換えが可能です。「宗教は形而上学でないことが可能ではない。」(It is impossible that The religion is not metaphysics.)「宗教は形而上学である」をP とすると、「宗教は形而上学でないことが可能ではない。」は〜◇〜Pで、〜◇〜P≡□P である。つまり、「宗教は形而上学でないことが可能ではない。」(It is impossible that The religion is not metaphysics.)は「宗教は形而上学であることが必然である。」(It is inevitable that The religion is metaphysics.)

ここまでを正しいとお考えですか?外国語好きは私の性格なのでお許しください。

(reverieさんへ)Where is "We think that"? 投稿者:  投稿日:12月10日(日)21時22分22秒

こんばんわ

>「あいつは嫌な奴だ」という実感がどれほど強くとも「あいつは嫌な奴だ」と
>いう論理(=主張)は成立しないように、「空の実感」は「空にもとづく論理」
>の根拠とは(それだけでは)なりえませんから。

少し余談ですが、以下の疑問があります。

【疑問点1】We think that He is bad.はHe is bad.なのでしょうか? →We think that は何処へ?(観測問題もどき)
【疑問点2】本当に、We think that He is bad.なんですかね? →I think that We think that He is bad.なのでは?
【疑問点3】@I think that We think that He is bad.がAWe think that He is bad.に、そして、BHe is bad.となる気がする。誰も気にしないけども。

(私の考え)
@では、IにWeが含まれない。なおかつ、そのWeは、IやWeを離れたすべてのもの(?)Allに含まれていない。
Aでは、IがWeに含まれている。なおかつ、そのWeは、IやWeを離れたすべてのもの(?)Allに含まていない。
Bでは、IがWeに含まれている。なおかつ、そのWeは、IやWeを離れたすべてのもの(?)Allに含まれている。

(Jさんへ) re:It is inevitable that The religion is metaphysics. 投稿者:reverie  投稿日:12月13日(水)03時48分51秒

>つまり、「宗教は形而上学でないことが可能ではない。」
>(It is impossible that The religion is not metaphysics.)は「宗教は形而
>上学であることが必然である。」(It is inevitable that The religion is
> metaphysics.)
>
>ここまでを正しいとお考えですか?

まず、字義にそって解釈した場合は、基本的には Yes だと思います。宗教の
定義で原始宗教(アニミズム、トーテミズム、呪物崇拝など)を除外し、
--- 広辞苑(第三・四版)
けいじじょう‐がく【形而上学】‥ジヤウ‥  (metaphysics)
  (2)現象を超越し、またはその背後に在るものの真の本質、存在の根本原
理、絶対存在を純粋思惟により或いは直観によって探究しようとする学問。
神・世界・霊魂などがその主要問題。
---
の(2)の意味が形而上学の定義としたときに Yes だと。さて、字義はともかく、

>さらに、仏教思想は実在との対応を要請する、総合判断命題でしょうね。その
>概念が総合判断命題であるならば、仏教思想=その概念=総合判断命題=形而
>上学ですから、

と仰ることのベースにある「仏教の本質は言葉で明瞭に表現できる」かどうか
ですが、これも Yes だと思います。なぜなら、四諦、縁起がまさに概念的に
構築された主張ですし、「一切は苦である」、「諸行は無常である」という主
張もまたそうですから。

問題は、仏教における究極の真理もまた「言葉で明瞭に記述される」のかどう
かですね。私は Yes だと考えます。ただし、
(a)言葉で明瞭に表現されえないものは真理ではない(真理の資格がない)。
(b)真理は概念的には理解し尽くせない。
という相克のもとで、です。

仏教徒としては、究極の真理が「言葉で明瞭に記述されていない」という立場
はまずいと考えます。それを受け入れると、釈迦の教えは最終的なものではな
い(=究極の真実ではない)という方向へ向かうのはほぼ必然です(例:法華経。
そして密教や禅)。

(私の考える)仏教徒としての立場では、どのような神秘体験よりも釈迦の教え
を優先します。ですから、禅僧なり、修行者が大悟して釈迦の言葉による教え
を超える、より深い真実や釈迦の教えの本意を見出したと主張しても、それは
真に受けません。「仏教を名乗らんで別の看板をだせや、コルァ」です(笑)。

つまり言葉で表現された四諦、縁起を超える真実は、それが仏教である限り(ど
れほどの神秘体験によるものであろうと)ありえないという立場です。この意
味で、(釈迦)仏教原理主義と言えましょう(笑)。極端にいえば、それらは禅と
いう、あるいは法華経という、「仏教に良く似た別の宗教」だと思っています
から。あくまでも極端に言えばのことですが。

さらに、四諦、縁起が言葉で表現されていること=概念的に理解し尽くせる、
とは考えません。言葉によらない真理、言葉で表現されえない真理はそもそも
真理たりえない(例:言語道断の真理はまだ真理とはいえない)、しかし言葉
で表現された真理は概念的には理解されえない…という相克ですね。

(reverieさんへ)明瞭に表現された場合の背景 投稿者:  投稿日:12月17日(日)01時33分00秒

>仏教の本質は言葉で明瞭に表現できる

アミニズムのようなものを除き、宗教は死後の問題に答えるものと信じられていますね。では、仏教の場合はどうなのでしょう?本稿ではそれを問題に致しましょう。

仏典には次のような箇所があります。
「この宇宙の組み立てはどういうものか、この宇宙は永遠のものであるか、やがてなくなるものであるか、この宇宙は限りなく広いものであるか、それとも限りがあるものであるか、社会の組み立てはどういうものであるか、この社会のどういう形が理想的であるか。これらの問題がはっきりきまらないうちは、道を修めることはできないというならば、だれも道を修め得ないうちに死が来るであろう。」
"In the serch for truth there are certain questions that are uniportant. Of what material is the universe constructed? Is the universe eternal? Are there limits or not to the universe? In what way is this human society put together? What is the ideal from of organization for human society? If a man were to postpone his serching and practicing for Enlightment until such questions were solvedhe would die before he found the path."箭喩経

我々は次のように考えていくことにしましょう。この文は仏教の本質を表わしているとします。とすれば、それはどのような文脈なのでしょうか?

それを否定すると、その事物そのものをも否定してしまうもの、それが本質とよばれています。本質を否定すると、そうでないものに成り下がるというわけです。そして、本質を取り違えることは、別の対象に同じ名前をつけて呼ぶことでもあります。

さて、釈迦がアミニズムや呪術への信仰、あるいは大地や太陽に対する賛美を説いていないことは、よく知られています。このことから、釈迦の目的がこの世界における理想境や極楽浄土の建設、あるいは先祖への供養などにはなく、その本質がなにか別のところにあることがわかります。では話を戻させていただきます。この文は仏教の本質を表わしているとします。とするならば、その文脈はどのようなものでしょうか?

その背景となる文脈を、さしあたって、4つ挙げておきます。

(1)是非善悪の判断を中止して、まじめな実践に向かう方が賢明かつ有効であるとして、不可知論的な懐疑説を釈迦は主張した。(水野弘元ら多数)

(2)無我の真理に関する無知をしらないことが、人間の苦悩の源である。自我はいつとはなしに形成された虚構の観念。永遠不変の自我などは妄想にすぎず、進化論のない時代に釈迦は同じような発想で無我の思想に到達した。(定方 晟ら)

(3)禅定そのものは終局の目的ではなく、要するに一切の執着を離れて無礙自由の精神生活を得るのが釈迦仏教の本来であった。(木村泰賢、禅など)

(4)仏教における存在には真理性が内属しており、存在がそのまま法であるという見方が成立する。法はいかにして成立し、いかにして滅するかを知ることが、縁起を知ることになる。(平川彰)

#私の意見は後ほど。

(Jさんへ)re:公理と悟り 投稿者:reverie  投稿日:12月17日(日)03時03分59秒

>現在のところ、私は次のように考え進んでいます。まず、「無常であるゆえ
>に変化がありえる」は、T.「x が無常であることが可能であるゆえに、x
>の変化することが可能である。」と表わせるのか、それとも、U.「x の無
>常であることが可能であるゆえに、x の変化することが必然である。」なの
>か、V.「x の無常であることが必然であるゆえに、x の変化することが可
>能である。」なのか、W.「x の無常であることが必然であるゆえに、x の
>変化することが必然である。」どれなのか?

無常は可能なのか、それとも必然なのか、という分類では W だと思いますね。
無常が可能性に過ぎないのであれば、常住なものがあり得ることも認めねばな
りません。しかしそれは諸行無常(万物は常に変化し続けるということ)の否
定となりますゆえ、仏教思想とは相反します。

無常が必然だったとして、ではそれは何ゆえに必然なのか…という疑問が生じ
ますね。この疑問は既に論証のレベルから逸脱しかけていますが、問うことは
できると思います。そして、その答えは「存在するため」だろうと思います。
なぜならば、変化しつづけることによってのみ存在することが成立しますから。
ちょうど、回転しつづけることによってのみコマが倒れないように。

なんとなく常住のほうが、存在の度合い(のようなもの)が高いように感じま
すが、常住では次のような破綻を生じます。仮に、常住するものの実体がαだ
ったとしますと、そのαは当然ながら、始まりも終わりもなく永遠に不変のま
まありつづけることになります、まるで時間が凍結した世界のように。

そして、αはα以外の一切の影響を受けませんから、αにとってはα以外の世
界は存在しないことと同義となります。さらに、αはα自身にとってさえ、影
響を受けることも、与えることもありません(影響を受けるとは変化すること
とでもありますゆえ)。

さて、このαは実在せず概念上だけの虚構に過ぎません。このαの正体はある
一瞬だけの存在を、概念上の操作で、過去と未来の両方へ無限に引き伸ばした
ものに過ぎないのです。この概念の上の引き伸ばし操作が、なんとなくできそ
うな印象を持ちますが、実際は錯覚といえます。

なぜなら、「一瞬」を引き伸ばしてある時間の幅をもった領域を作り出す操作
が、そもそも矛盾だからです。かつて大森庄蔵が述べたごとく、羊羹の切り口
(=一瞬)をいくら集めても実在の厚みのある羊羹(=幅をもった時間)には
なりえないのと同じです。

もともと「一瞬だけの存在」、つまり羊羹の切り口のような存在、という抽象
概念だったがゆえに、変化しない、という「概念上の特質」がそれに付随しま
した。つまり変化するだけの時間の幅を持たないがゆえに、変化しえない、と
いうだけのことだったのです。この錯覚から「永遠なもの」、「不変なもの」
という実在しえない抽象概念が生まれたのだと考えます。

なお、概念はどこか別の領域(異次元?、高次元?)に――比喩ではなく――
「存在する」という意見もありますが(例:プラトンのイデア論や某掲示板で
の議論)、縁起の立場(=唯名論)から仏教ではこれを否定します。

ここで次のような反論が予想されます。点を移動させることで線が作られるよ
うに、一瞬を引き伸ばすことで幅をもった時間ができる筈だ…と。確かに、点
は移動できますが、その移動した点の後ろに連続するはずの線の軌跡は、想像
上のもので実在しません。羊羹の切り口だけを移動せさて、本物の羊羹を作れ
るのであれば別ですが(笑)。

よって、「常住するものがある」と思想は、この魔法の羊羹と同じ(羊羹の切
り口だけを引き伸ばすことで本物の羊羹を作り出す)思考パターンにもとづく
ものだと結論されます。

さて、切り口(=常住)が実在せず抽象概念に過ぎないことは明らかになりま
したが、次回は実在する羊羹はどのように無常なのか、これを考えてみたいと
思います。ただし、私の混乱した思考にある程度でも整理がつけばですが(笑)

(Jさんへ)re:明瞭に表現された場合の背景 投稿者:reverie  投稿日:12月17日(日)03時30分50秒

>仏典には次のような箇所があります。
>「この宇宙の組み立てはどういうものか、この宇宙は永遠のものであるか、や
>がてなくなるものであるか、この宇宙は限りなく広いものであるか、それとも
>限りがあるものであるか、社会の組み立てはどういうものであるか、この社会
>のどういう形が理想的であるか。これらの問題がはっきりきまらないうちは、
>道を修めることはできないというならば、だれも道を修め得ないうちに死が来
>るであろう。」
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>我々は次のように考えていくことにしましょう。この文は仏教の本質を表わし
>ているとします。とすれば、それはどのような文脈なのでしょうか?

この箭喩経のくだりは、仏教の本質を表してはいないと私は考えています。
もし、これが仏教の本質的な姿勢だとすると、「諸行無常」という断定は成立
しませんから。つまり、既に世界は常住ではない、と釈迦は断定しているので
すから

>(1)是非善悪の判断を中止して、まじめな実践に向かう方が賢明かつ有効であ
>るとして、不可知論的な懐疑説を釈迦は主張した。(水野弘元ら多数)

のように「不可知論的な懐疑説」を説いていないのは明らかでしょう。

なお、(2),(3),(4)にも同意しません、私は。それはJさんのポストの後で(笑)



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