神道的通念による仏教理解を批判する

以下は掲示板「問いに答えて」へのポストです。
この掲示板に佐々木 寛氏がご自身の論文、
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/sh.thesis.hp-index.html

を紹介されたのでコメントしたものです。氏は釈迦と同じ菩提を得ている述べていました。なお、私がコメントする少し前に佐々木氏はこの掲示板から去っていたため、氏との対話は成立しませんでした。04月23日(金)21時32分57秒 の記事の引用部分が上記論文からのものです。

1999.4.23


佐々木氏の仏教理解を批判する 投稿者:reverie  投稿日:04月23日(金)21時32分57秒

>『仏教哲学の核心は、徹頭徹尾、厳格なる現実認識(如実知見)から得られた、無常
>〈すなわち変化している〉ということと、縁起〈すなわち関係している〉という普遍
>の真理なのです。それらを総合して《空》とも言います。そして、それは単なる真理
>以上のもので、《存在と世界の第一の原理》でもあります。それこそ摩訶毘盧遮那、
>すなわち真言哲学の大日如来の意味なのです。すべてが、「変化し、関係している現
>象」、すなわち、《空》に他ならず、すべての現象は「不変にして比較や関係を絶し
>たもの」に対して絶対なるものとして在り、そして世界は、唯、現象であるが故に、
>千変万化する光り輝くものとして在るのです。』

無常ゆえに「一切は皆、苦である」、と如実知見するのが仏教です。
佐々木氏のように、無常から「現象であるが故に、千変万化する光り
輝くものとして在るのです」などと楽天的な観点を見出すのは仏教で
はありません。

>以上のような、多神教そのものである“神道”に、完璧な理論的根拠を与えたのが
>“仏教”なのです。

それは誤りです。神道に見られるような先祖崇拝、神々崇拝、祈祷の
類を釈迦は否定していますから。堕落した葬式仏教、祈祷仏教が存在
し、それらが神道とどのような関連にあろうとも、理論的根拠などは
成立しません。

>諸々の“もの”に神様が宿って居るという思想が発展すると、すべての“もの”に神
>様が宿って居るという汎神論になります(多くのものから、すべてのものへ。それ
>は、思想の発展的画期の重要なものの一つです)。
>
>その、“もの”と言うのが、何であるかを、仏教は明確に示顕≠オたのです。すな
>わち、“もの”とは『変化し、関係していること』に他ならないと釈尊は言われたの
>です。それを、仏(ほとけ)と言い換えるなら、故に、世界は、汎(すべて)が仏で
>あり、唯、仏のみのものとなります(汎仏すなわち唯仏、唯仏すなわち汎仏。あるい
>は一即一切、一切即一)。
                 
そもそも、「変化し、関係していること」を仏と言い換えることが間
違っています。その言い換えが可能なのはアニミズム、
----広辞苑----
  アニミズム【animism】
宗教の原初的な超自然観の一。自然界のあらゆる事物は、具体的な形
象をもつと同時に、それぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在を有す
るとみなし、諸現象はその意思や働きによるものと見なす信仰。
----
であって、仏教を神道的通念で解釈した外道の見解です。これらは独
断と通念に基づいた仏教解釈であり、批判されるべき本覚思想の典型
的なケースといえます(詳しくは袴谷憲昭氏が「批判仏教」、「本覚
思想批判」(大蔵出版)で綿密に論証されています)。

佐々木さんは、あるいは気付きレベルの体験はなさったかもしれませ
んが、菩提など得ていない、そう判断いたします。

(I さんへ)Re:返信:佐々木氏の仏教理解を批判する 投稿者:reverie  投稿日:04月25日(日)23時43分59秒

>無常ゆえに「一切は皆、苦である」というのは、理解できるように思っていたのですが、千変万
>化云々と続いていく見解については、ある種の神秘的体験を記述しているだけで、それこそ現実
>逃避の願望ではないか、という疑いも私は持っています。

ええ。たしかに、この箇所(無常から苦を見出すか、華厳経的な壮麗
な世界を見出すか)は何をもって仏教とするかに依存し、微妙なもの
も含みます。しかし、シユウさんのご指摘にもありますように「後世
の仏教」の解釈ならいざ知らず、「釈迦の」仏教の解釈としては完全
に間違いと言えます。

>>であって、仏教を神道的通念で解釈した外道の見解です。これらは独
>>断と通念に基づいた仏教解釈であり、批判されるべき本覚思想の典型
>>的なケースといえます(詳しくは袴谷憲昭氏が「批判仏教」、「本覚
>>思想批判」(大蔵出版)で綿密に論証されています)。
>
>同じ論理展開をしている仏教思想が既にあるのですね。仏教の歴史もこれだけ長いのですから、
>仏教の解釈(?)も出尽くしており、誰かが何らかの見解を主張しても、本質的に同じものが
>存在しており、それに対する批判検討も行われているということでしょうか。

いえ、中国、韓国、日本においては本覚思想が古来から現在に至るま
で主流です。その理由はこれらの地域の土着思想にマッチしていたた
めと袴谷氏は述べています。だからこそ、佐々木氏が日本の土着思想
である神道的通念で仏教を安易に解釈できたわけです。つまり、佐々
木氏の仏教理解は間違ってはいますが、実態として主流なわけです。

>>佐々木さんは、あるいは気付きレベルの体験はなさったかもしれませ
>>んが、菩提など得ていない、そう判断いたします。
>
>気付きレベルの体験とは、何でしょうか。菩提とは?  質問ばかりですみません。

禅的な意味での悟りの種別、程度を分類すれば、「気付き」、「小悟」、
「大悟」と順に深まると言われていますよね。この意味の小悟に至る
前の段階の気付きです。菩提とは

--- 広辞苑 ---
ぼだい【菩提】
〔仏〕(梵語 bodhi  道・知・覚と訳す)
 (1)仏の悟り。煩悩を断じ、真理を明らかに知って得られる境地。阿
    耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)。源蛍「―
    と煩悩との隔り」
---
とされています。つまり、究極の悟りであって、禅的な意味での大悟
とは別もの、と私は考えます。

(I さんへ)Re:釈迦の仏教と後世の仏教 投稿者:reverie  投稿日:04月26日(月)22時36分30秒

>ということは、釈迦が間違っており、他の仏教解釈が仏教解釈とし
>ては間違っているとしても「真理」である可能性はあるのでしょうか。

まず、私は「真理」なるものを知ってはおりませんのでその可能性を
云々できる立場ではないことを確認させてください。つまり、ある教
えが本来の仏教であるかどうか、これは議論できます(し、それが佐々
木氏への批判でもありました)。しかし、ある教えが「真理」かどう
かは「真理」が何であるかを知っていないと判断できません。事実の
レベルであれば、ある程度の判断ができます。

従いまして「事実」だと考えている事柄を、その典型的ケースを例に
お答えいたします。

さて、ご質問の趣旨に沿った意味で、釈迦が間違っており、別の特定
の立場の仏教解釈が真理であると主張する仏教?の有力な一派が日本
には存在します。政治的にもパワーを持っていると言えばそれが何で
あるかは既にお判りですね。

この一派の主張によれば、法華経の開経とされる無量義経に「四十余
年未顕真実」という文言があるから、法華経以前の釈迦の教えはこの
末法の時代には通用せず、しかも法華経の中でも本門、さらにその中
でも法華経に文底秘沈されている南妙法蓮華経のみが真理である、と
されています。この彼らの主張は完全に間違っています。根拠は、

(1)無量義経は中国で創作された偽経であるというのが、仏教学会の
   定説です。
(2)釈迦は過去、現在、未来にわたって通用する真理を説いたと、信
   用できうる原始経典の中で自ら述べています。末法の時代には通
   用しないような賞味期限つきの教えを説くことはありえません。
(3)彼らが根拠としている天台第三祖、智覬の(五時八教の)教相判釈
   は現在の仏教学会では史料に基づいて完全に否定されています。

などから。

この一派のことを別して、そもそも釈迦の教えを「本質的な意味で否
定する仏教」、というのがあり得るかどうか、疑問です。それはすで
に仏教ではないのでは?

>「気付き」「小悟」「大悟」「究極の悟り」がそれぞれ何なのか、
>それを知りたいです。これらのことが明らかになれば、すっきりする
>と思います。

私も、同感です(笑)。

(I さんへ)Re: 読み方が浅かったです 投稿者:reverie  投稿日:04月27日(火)01時39分42秒

>とされていますが、佐々木氏の体験が「気付き」であると断定した根
>拠をもう少し詳しくご説明いただけないでしょうか。「気付き」の内
>容が問題になると思うのですが。

頷いて通り過ぎようとしたのですが、残念(笑)。一般論で言えば、小
悟を得ると次のような兆候が見られると私は想像しています。

(1)自己やものごとに関して、必要以上のこだわりが薄れる。
(2)自己や自己の係累、所属共同体についての過度の「プライド」、
   エリート意識、選民意識を持たない。その反対の卑下も。
(3)恨みや怨念といった感情に必要以上に捕らわれない。
(4)自分が「正義」だとは思わない。

つまり、それまでの小我から深層レベルで、ある程度ではあっても解
放されるだろう...これが私の想像です。

で、話題の論文を拝見した限りではそのようには私には判断できなかっ
たということです。もちろん、これが私の偏見であり、私の中の(1)〜
(4)の要素の裏返し、投影にすぎないのかも知れませんが。