EO 関連
2001年6月23日作成

◇はじめに

以下ではある掲示板に投稿した私の記事です。


◇投稿記事の目次

No.タイトル作成日時
1Re: 壊れ方 10月20日(水)06時23分50秒
2EO 師の論理 10月18日(月)02時22分
3EO 師を評価する理由(1) 10月29日(金)08時02分07秒
4RE:Re:EO 師を評価する理由(1) 10月31日(日)16時18分30秒
5EO 師を評価する理由(2) 10月31日(日)16時20分40秒
6RE: エイリアン 11月09日(火)01時26分03秒


(○○○さんへ)Re: 壊れ方

>ある師が次のように言っていました――。 > >好きなことをやれるだけやり尽くして、しかる後に「完璧に失敗する」。 > >私はこの括り方が好きです。 それは最高の贅沢ですね。おっしゃる意味で完璧に失敗するには完全なる成 功を成し遂げて、その栄華に対する欲望を後腐れないほど味わい尽くし、さ らにそれに幻滅しなくてはなりませんから。ビル・ゲイツのような成功を得 たとしても幻滅するどころか、更なる栄光の獲得、継続を願うでしょう、普 通は。 この「好きなことをやれるだけやり尽く」せるというのはそれだけで希有の 資質であって、さらにそれに二度と振り返らないほど幻滅しうる(=完璧に 失敗しうる)というのは奇跡的な贅沢ですね。実態は好きでやっているのか、 もうそれ以外選択の余地のない内的必然性に導かれるように、憑き動かされ いるのかを区別しがたい場合があるとは思います。いずれにせよ、それは EO 師のような資質の方にのみ許された贅沢のように私には思えます。 凡人の場合は酸っぱい葡萄式に未練がましく欲望を押え込むのが精一杯だと 思います。そして、その未練がましい押え込みの方が凡人(つまり、私)に とっては分相応で「正しい」と思っています。 >本当にやり尽くしたら、「完璧に失敗する」しかないんだよ。 ですが、そう言われても、やり尽くせないからこそ、凡人なわけで。 #凡人は必死に足掻くことが役割ですから、それはそれでいいのかも(笑)。

(○○○○さん、○○さん、○○○さんへ)EO 師の論理

05秒 >悟りだの解脱だのにはほとんど興味が無く単に過激な論説が読みたくてEO氏の本を >読み始めたのになぜか思考地獄に指先突っ込み始めている私(「熱いっ」と指を引っ >込めてしまいますが)。 私は EO 師を高く評価しています、と断った上で… 端的に言いますと、EO 師の著作に見られる論理は哲学的な意味では独創 的なものは乏しいと思います。つまり、深くもなく、凄くもないです。 哲学的なセンスにも乏しいように思います(センスのある独創的な哲学者 と比較すれば、ですが)。 この「哲学的な意味」、「哲学的なセンス」とは永井均の著作「<子供> のための哲学」や中島義道の著作「哲学の教科書」で言われるような意味 で、です。 ただ、 [1]その対象としていた哲学的問題が的の中心を射抜いていた。 [2]その哲学的な問題への執着、執念は凄まじいものだった。 のだろうと思います。 いわば、EO 師は根元となる哲学的な問題に哲学的な問題意識で立ち向か ったが、禅の公案、大疑団に対するようにそれに透ってしまったケース かと思います。 しかし、このやり方は EO 師が自ら著作で述べているように誰にでもで きるようなものではなく、ごく限られた資質のある人間にしか向かない、 そして大半の人(つまり我々)にとっては危険であると思います。並み の作曲家がモーツアルトのやり方を真似ることが危険であるように。 モーツアルトに師事したところでモーツアルトレベルになれるわけでも ないでしょうし(モーツアルトの悪癖や生活習慣は習ったとしても)。 別の観点から見てみますと… 釈迦はこのEO 師のような哲学的探求の方法を無益であるとして否定して いるようです(毒矢の喩として有名ですね)。 またここの一連の砂塵氏関連のスレッドについては、釈迦は禅的な手法 や対話の流儀を採用した形跡がなく、むしろそれらを避けたように思え ます。EO 師のごとき資質を持たない私はこの釈迦の姿勢を尊重したいと 思います。

(○○さんへ)EO 師を評価する理由(1)

遅くなりましたが、○○さんのお尋ねの >reverie さんが、EO師を高く評価されているのは、どのような点でしょうか? にお答えいたします。少し長くなりそうですし最後まで説明ができるかどうか 疑問ですが、とりあえず、手をつけてみます。 前準備として、全人格的でかつ神秘主義的な直覚的了解、つまり悟り一般につ いて私のイメージするところを比喩的に(それも極めて大雑把な)説明いたし ます。私は悟りとは、比喩的な意味で以前はやったステレオグラフ(左右の目 で別々に描かれた写真・図形を見て立体図形を浮かび上がらせるアレ)であろ うと、勝手に憶測しています。それは次のような意味で、です。 [1]ぼんやりと曖昧なのではなく明瞭なこと。 立体図形が見えたような気がするとか、ぼんやりとではあるが若干は見えてい る…などということはないこと。悟りの場合も悟ったような気がするとか、ぼ んやりとではあるが、悟っている、などということがないのと似ています。 少しでも精神世界に関われば、特有の言い回しや表現に馴染んできて、悟りに ついても、なんとなく分かったような気になってくるものですが、実際はまっ たく分かってなどいません。ステレオグラフの場合も、知人がそこに文字が浮 かび上がって見える、といえば自分もそんなものがなんとなく、チラリと垣間 見たような気がしてくるものです。しかし本当に見えた時はそのような曖昧さ はありません。 [2]じわじわとではなく、瞬時に、完全な形で見えること。 立体図形はどの瞬間をとっても完全に見えるか、まったく見えないかのどちら かしかないこと。半分だけ立体が見えたとか、端のほうから部分的に立体に見 えてきた、などということがないのと似ています。立体図形は一気にその全体 が浮かび上がって見えます。時間をかけてじわじわと悟るようなことはないと いう点で似ています。一瞬にしてその全体が疑いの余地などないほど明瞭かつ 鮮明に見えます。 [3]それが、無意味でデタラメにしか見えないこと。 見えていない人にはそれがまったくのデタラメ、混沌、無意味に見えますが、 一度それが見えると、まったく見逃すことなど考えられないほど、あからさま にくっきりと見えること…これが似ています。 [4]根気とコツがいること 立体が浮かびあがって見えるためには根気と独特のコツがあること。そのコ ツを言葉では説明しがたいことも似ています。 [5]他のモノにも通用すること。 一度、ステレオグラフの立体図形が見えると以後、似たようなステレオグラ フは簡単になること。ある公案に透れば似たような公案も簡単に透れるのと似 ています。 [6]片方の眼では駄目で、左右の両眼が必要なこと。 我々は通常、右眼の表層意識だけでしか観ていません。左眼の深層意識は右眼 が観る対象とは無関係、無自覚にほかのものを観ています。左眼の深層意識と 右眼の表層意識が同時に対象を見つめ、それを独特のコツをもって統合したと きに悟りが浮かび上がってくるのが似ています。 なお、断定した表現をしていますが、すべて私の憶測に過ぎません。 -- 続くかも知れない(笑) --

(○○さんへ)RE:Re:EO 師を評価する理由(1)

>返信は、どうかご自分のペースでゆっくりとお願いします。 はい。この先、破綻しそうですし(笑)。 ここで、表題の「EO 師を評価する理由」をくどくどと述べることほ ど、野暮で矛盾した行為もありません。眼のある人なら著作を一読す れば凄さが感じられる筈ですし、評価する理由を説明しえるほどの矮 小な存在ではありません。ですが、私は愚かですからそれをやってみ たいと思います(笑)。 >私の方は『闇のタオイズム』を読み始めたところです。EO師の語る宇宙像(正確には宇宙と >無を合わせた世界像?)は、SFじみてウソっぽいと同時に本当ではないか、と思わせる部分 >があります。 EO 師にとっては真実でしょうね。でも我々はその問題そのものと、 ほぼ無縁だ、と思っています。つまり、その宇宙像が真実か虚偽かと いう問題の土俵それ自体が我々には見えない故に。 喩えば、猿に高額紙幣を与えたとしましょう。で、その高額紙幣が本 物か、偽物かという問題が猿には無縁だ、とでも言えましょうか。問 題どころか、本物の意味すら猿には無縁です。我々がこの猿です。な ぜなら、「無」がなんであるか、「宇宙」がなんであるか、「私」が なんであるか、を知らない(実感したことがない)のですから。

(○○さんへ)EO 師を評価する理由(2)

同じように悟ったと言っても、その悟りの体験が [1]ぼんやりと曖昧なのではなく明瞭なこと。 [2]じわじわとではなく、瞬時に、完全な形で見えること。 であるかどうかで不徹底なもの、まがいものをある程度は排除するこ とができます。悟りの内容が言語で明瞭に記述可能かどうかではなく、 その体験自体が明瞭かどうかという意味です。この判断基準を EO 師 は当然クリアしていると判断できます。 さて、悟りを精神的、存在論的な登山と見なすことがありますね。 低い山(小悟)を制覇し、次に高い山(大悟)を制覇する。すると更に高 い頂が見えて来る。その頂にたどり着くと彼方に更なる高峰が眼に見 えて来る。そのように果てしなく修行は続き、悟りはどこまでも限り なく深化する…というな戯言が。こういった見方は唯識や禅の一部、 神智学、西海岸流のニューエイジ思想にまで共通して見られるもので すね。 大悟はどこまでも果てしなく続く山登りのようなものというよりは、 断崖からの墜落死のようなもので、深化も繰り返しも、本来ありえま せん。深化や繰り返しがあり得るのは山の海のように同質の連続した 世界を単に上下しているからでしょう。このような意味で、大悟を何 度も繰り返すようなタイプは信用できません。つまり「大悟三度、 小悟その数を知らず」などという場合の大悟などたかが知れています。 いわば、自殺未遂を繰り返しているだけで本当に死にきれていないわ けですから。これも EO 師はクリアしていると判断できます。 輪廻を語れるかどうか。輪廻を実感として体験していない者は輪廻を 否定するか、曖昧な態度をとるか、概念的な言及に終始するかしかあ りません。そもそも実感すらできていないものが、それを超えること などありえない故に輪廻を語れるかどうかは重要だと思っています。 この判断基準では高名な禅者を含む既成宗教に所属している宗教関係 者のほぼ全てが不合格となります。これも EO 師はクリアしていると 判断できます。 例によって断定口調ですが、根拠はありません。憶測です。 -- 続くかも知れない(笑) --

(○○○さんへ)RE: エイリアン

>私は、EO師が「宇宙の最外角には幽閉された生物がいる」と >言っているのは、実際の宇宙空間の話しではなくて、大悟直前 >にEO師の置かれていた、心理的・精神的な状況の一つのたと >えだと捉えています。 なるほど、そういう見方もありますね。私は EO 師の言葉どおり に受け取りました、喩えとしてではなく(幽閉が事実だと言う意 味ではなく、あくまで EO 師の認識として)。その理由は、 >生きることも死ぬこともできない、ギリギリの状況 というのが、まさにその宇宙の最外殻の幽閉という認識によって もたらされたものだ(と思える)からです。人間を家畜として扱 う存在もなく、幽閉も実在ではないと EO 師が考えていたのであ ればこの「ギリギリの状況」は生じないか、著しく危機感が低下 してであろうように思います。そういった認識における EO 師と 我々におけるギャップを猛獣の檻の中に入って噛まれるか、檻の 前で噛まれる痛さを想像するかの違いだと譬えた文章もありまし たよね。 我々と同様の世界認識、つまり我々の見ることを見、聞くことを 聞くだけではEO 師の存在は無かったと思います。イエスは悪魔、 釈迦はマーラ、という根源的悪の存在に直面しています。その悪 に敗れ支配された覚者も多数いたことでしょう。幸いにして(不 幸にして?)我々程度ではそういった存在に直面することがない としても、 EO 師が世界の根源の悪の存在に対面し、そしてその ような悪の実在が我々には信じがたいのは不思議とは思えないの です、私には。

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