
◇はじめに
このページではひふみ神示を批判的に検討しています。
ひふみ神示(ひつく神示、日月神示などとも言われることがあります)とは岡本天明が自動書記によって記述した神からの啓示文書だとされています。それを批判的に検討しています。
ここで行っている批判は主に
また「と学会」のような手法での批判は行っていません。私は「と学会」で多用される批判手法は下品だと考えていますので。
なお、ひふみ神示の内容それ自体の説明はここではいたしておりません。本ページではひふみ神示についてその内容の概略を既にご承知で、関心をお持ちの方を対象にしています。ひふみ神示の内容それ自体をお知りになりたい方はここのリンク先のURLや関連書籍を参照してください。
ではお楽しみください。
目次
自動書記によって記述された数字、カタカナなどの原文の解釈・翻訳が信頼に足るものではないと判断します。それは解釈・翻訳の特定の箇所が正しくない、誤っているというレベルではなく解釈・翻訳作業全体が、信用できないと考えます。
その明白な根拠を「ひふみ神示」の解釈・翻訳者でもある岡本三典氏の近著「日月神示はなぜ岡本天明に降りたか」徳間書店刊に掲載された岡本三典氏の小論文「命は九十八」(288ページから)に基づいて説明します。
その小論文はこの本の単なる付録ではなく岡本三典氏が「総ての宗教の極意と思われるところの、『命は九十八』についての宇宙論をやっと展開することができました」(347ページの後書き)と自負するものです。
| 「...省略...さらに 2 と 7 を足して一桁にした 9 という数字も神に対応する。...省略...これと同様にアルファベットを、AからはじめてA、B、C、... に対して1,2,3...と対応させていくと、数字の 9 は対応するアルファベット はIになる。 9 は神であるからそれに対応するIも神となり、Iの音が『愛』 に通ずることから神は愛であるといえる。」290ページ。 |
| 「『フ』の音の極意を表す文字は『父』である」(291ページ) 「さらに『父』 を分解するならばそれは『ハ』と『×』(かけ)るとなる。『ハ』は『波』に通じ、『カケル』は掛け算となる、波長を掛けるということは、波長がいくつもつながった状態、つまり振動を表し波となる。」297ページ。 |
| 「次に『言葉』を『言語』と言いかえて、『語』の字を分析してみると、『言』と『吾』に分解できる。これは更に、『吾は五〇だ』と解釈でき、言葉の基本は、五〇音だということになる。」297ページ。 |
| 「『ア』は『空』(あ)き、『空』(くう)に通じ、空間を意味する。この『空』を分析すれば『ウ』と『ル』と『エ』に分かれ、それを一文字ずつ 見ることによって空間の性質がでてくる。『ウ』は字の形より立って流れているの意。『立つ』の英語、stand も『建つ』と同じく、『存在する』 である。つまり宇宙の存在の在り方は、『流れにおいて存在する』。...省略...次に『エ』であるが、これは『二』のI(愛)がこの運動状態の中で、 絶えず出会っていることを示す。つまりこの宇宙空間は、宇宙波の形式において存在し、この言葉の波(言波)の充満する空間こそが神の実体である。そしてそのような宇宙空間において、愛は出会いを繰り返しているのである。」 |
岡本三典氏の「翻訳」に何かを期待できるとすればそれは「妄想的論理展開と愚劣な語呂合わせ」だと考えます。「ひふみ神示」はこういっ た妄想家によって解釈・翻訳されているようです。岡本三典氏はそうかもしれないが、天明は違うだろう....と期待されるかもしれません が、それも外れのようです。同著に掲載されている天明の遺稿(例 213、221ページ)を見る限り妄想論理の展開に関しては似たもの夫婦といえます。
例えば、天明による 213
ページの図4の説明は数に関する無知と言えます。「一つの数を取り上げて、その前後の数を合わせると、その任意数の倍数となる」のは当り前ですが、0 の前後の数として
1 と 9 を持って来てそ こから 「その前後数は、9 と 1 であるから 10 となり、0 の中には 5
が存在するわけであります。」というのはこじつけに過ぎません。 0 の前後の数は -1 と 1 であり 9 がでて来る理由は全くありません。 もちろん、 -1 +
1 = (0 * 2) が正しいわけです。
当然、これに古事記の「天は五なり」をこじつけるのも誤りです。
「ひふみ神示」についてよく引用される次の言明
| 「釈迦、キリスト、老子、孔子、マホメット、黒住、天理、金光、大本の次に来る十番目のとどめの啓示である」(出典箇所不明) |
の主張は矛盾しています。理由は次の通りです。
| 「日月大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、.... 省略...孔子大神、すべての十柱の大神は、光の大神として斎き祭り結構致しくれよ」(ソラの巻き第一四帖) |
| 「釈迦祭れ、キリスト祭れ、マホメット祭れ」(松の巻第一七帖) |
はアブラハム、イエス、ムハンマドの信奉した神の啓示の言葉に反しています。たとえば、クルアーンの次の言明、
| 「すべての礼拝堂はもともとアッラーのもの。されば(礼拝堂の中で) アッラーと一緒に他の(神)をあがめてはならぬ。」(メッカ啓示妖霊 18) |
と矛盾します。偶像崇拝がどれほどしつこく徹底して否定されているか神示では理解していないようです。たとえ預言者といえど祭ることなどこれらの教えでは許されません。また釈迦滅後もしばらくの間は釈迦の教えにしたがって釈迦の像すら造られませんでした。
| 「七重はキリストじゃ、八重は仏教じゃ、今の神道じゃ、いままでの教えはつぶれると申してあろうがな」(五葉の巻第十帖) |
は意味を理解せずに通俗的無理解に基づくものと思えます。これを単に言葉の使い方に過ぎないなどとは、イエスの神の系列にある限り言えません。なぜなら、
| 「言葉は神であった」(ヨハネ伝 1.1) |
のですから。
| 「歓喜に裁きのない如く、神には裁きなし」(星座の巻第二五帖) |
はハブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマド、釈迦の教えと一致しません。例えば、クルアーンの次の言明
| 「不義をなす輩には、苦しい罰を用意していらっしゃる」(メッカ啓示人間30) |
| 「裁きの日には丸焼きとなり、抜けだそうとてもそうはいかぬ」(メッカ啓示 15) |
神示の意味が8通りに読めるという次の言明
| 「この神示、8通りによめるのざぞ」(出典箇所不明) |
が問題だと考えます。
このような「8通りに読める」などという神の発言などユダヤ教、キリスト教、イスラムではまずありえないと考えます。
人間と神とは(一切の妥協ぬきの神からの一方的な)契約によって結ばれた関係ですからその契約が一意に解釈できないものであるという発言を神が自らするなど、まさに「ありえない」ことです。それを守るか否かで最後の審判で救われるか救われないかが決まるわけですから曖昧な筈はありえません。
有名なユダヤ教の教えに「汝の隣人を愛せよ」というのがあります。日本人ならごもっともですむ話ですが、彼らは「隣人とは何か?」だけで延々議論が続きます(その延長線上にイエスの「良きサマリア人の喩え」があります)。
このように隣人という言葉一つをとってもその曖昧さを排除して明確に定義しようという姿勢があります。セム族の啓示とひふみ神示では啓示の本質においてこれほど基本となる発想が違います。同じ源泉から発したものとは思えません。
つまり神示は「登り道は違っても頂点はどの宗教も同じ」的な日本人的な馴れ合いの宗教観----たとえば「神も仏もキリストも元は一つぞよ」
(天つ巻第四帖)に顕著な発想です----をベースにしているようです。
8通りに読めることに関して別の問題もあります。
「ひふみ神示」の次の言明
| 「仏教もキリスト教も回数(ママ)もみな方便でないか、教はみな方便じゃ」 (月光の巻第43帖) |
| 「九分九厘でリンドマリぞ、神道も仏教もキリスト教もそうであろうがな、卍も十もすっかり助けると申してあろうがな」(至恩の巻第一六帖) |
| 「神は一時は仏とも現れたと申してありたが仏では、もう治まらん、岩戸が開けたのであるから、蓮華ではならん」(紫金の巻第七帖) |
沈黙で承諾を表した(これは予期せぬ事情で実行できなくなるかもしれない約束をしないためだと言われています。嘘言をしないという戎を守るために)釈迦もそのような意味の方便など使うとは考えられません。
例えば、クルアーンでは次のような言明がなされています。
| 「アッラーの御目からすれば真の宗教はただ一つイスラームあるのみ」 (メディナ啓示イムラーン一家 17) |
| 「アッラー、その他には絶対に神はない。必ず汝らを復活の日に呼び集め給うであろう。ゆめ疑うまいぞ。アッラーの御言より確かな言葉を誰が言おう」(メディナ啓示四女 89) |
ひふみ神示の内容は本質的に天皇制とつながりやすく極めて危険です。神示には世界を治めることになる「てんし」の言及が何度もあります。 一部の「ひふみ神示」関連の普及本の著者は明確に昭和天皇を賛美しています。日本を特別視して選民扱いしているのも気になります。国家神道 (右翼系の神道も)の恐ろしさはの大戦で明らかになりましたが、またぞろ復活されてはたまりません。
かつての国家神道が「神道」をまつりあげて利用したようなものにつながる気配を感じるわけです。これに関してあえて神示の基盤となっている「神道」に難癖をつけるとすれば、そういったふうに「無惨に利用さ
れ迎合するがまま」でなんら自ら反抗/主張できなかった体質が問題、とは思いますが(それを言えば、当時の仏教、キリスト教もごく一部を除いて程度の差はあれ同質ですが....)。
「ひふみ神示」には仏教、老荘思想にはない最後の審判思想が色濃くありますが、同様の終末思想をもつユダヤ教、キリスト教、イスラムの場合は1000年単位で待って未だ実現していません
(ヨハネの黙示録や
パウロの書簡では明日にでもくるように書かれていますが)」。系列が同じで、これが「とどめ」だとすると逆にその預言が信用できません。
神示の内容に既成概念や古神道系発想の無反省な焼き直しが多いことが気になります。神示はユダヤ教、キリスト教、イスラム、仏教に関して無知をベースとした典型的な日本人の通俗的誤認/既成概念を持っているように思います。ひふみ神示はその内容を一読すると清濁合わせ呑むような器量や善悪を超えた絶対の境地を予感しますがこれは落し穴で、日本的な理想の宗教に関する既成概念/通念に迎合しているだけのようにも思えます。
どのような偉大な思想、宗教も始めは異端とされるだけの革命的なものを持っていました。「ひふみ神示」には逆に通念に迎合しているようにすら感じます。預言のシーンの衝撃はあっても深く精神を揺さぶるような思想の深みは感じません(受け取る側の問題かもしれませんが)。それだからこそ未だに主要な宗教程の関心を持たれることも、知られることも少ないのではないかと思えます。
数字や仮名しか使えないということは重大な事を意味している可能性もあると考えます。つまりこの神は文字をきちんと扱えないというレベルなのも知れないという可能性です。アラビア語で表現可能な最高のレベルがクルアーンの韻律だと言われます。それほどの表現のレベルを「ひふみ神示」がもっているとは言えないようです。まだ鳩摩羅什の
(サンスクリットからの)翻訳の文章や空海の文章のほうが表現/思想内容が高度のように感じます。つまり人間の表現のレベルを超えていないと。ちなみに、ムハンマドの言語表現能力は普通(にもかからわらずクルアーンの表現レベルは極端に高いの)ですから、預言者側の受け取り能力の制約で(ひふみ神示の表現レベルが高くないことを)説明するのは苦しいと考えます。「言葉は神であった」(ヨハネ伝
1.1) のを認めるのであれば簡単な問題ではないと思います。
まさに神の視点でなくてはこういう指摘はできない....と感じさせる程の凄み、驚きがないと感じます。神示のあの部分はあるいは極めて高度なものかもしれない....といった程度では私には「神」の啓示とは認められません。逆に言うとそれほど「神」は凄くなくてはならない....というのが私の立場です。例えば仏教に比べて言えば少なくとも中観、空、般若、唯識の各思想を凌駕するレベルでないと私は神とは言えないと考えます。
神であれば過去の宗教家の行動、発言のより深い意味、本当の意味あいをいくらでも指摘出来る筈です。なるほど、そうだったのか....と言わせるだけのものを。さらに主要な宗教の見解の相違や立場の違いを見事に整理、統合することなど容易な筈です。それができていないように感じます。
ひふみ神示に
| 「心して怪しと思ふことは、たとへ神の言葉と申しても一応は考えよ」 (黄金の巻 第二九帖) |
とありますので以上のように「一応は考え」ました。
岡本三典氏や典明が前述のような妄想家であるとすれば、ひふみ神示も同様だと考えるべきでしょう。読むことによって身魂が研かれると主張するひふみ神示をもっとも読んでいる筈の岡本三典氏がこのような状態なのですから、ひふみ神示のいう「研かれた身魂」のレベルは、私は御免です。
「ひふみ神示」を全てが虚偽であるとまるごと否定するつもりは私もありません。「ひふみ神示」はそれ自身が主張しているほどの内容ではないというだけです。ただ、神示の性格上、内容に本質的な偽りがあれば精神的/宗教的指針として絶対視することは危険だと考えます。意義深い内容も含まれていますのでぜひ参考にするべきだとも考えます。
で、問題はひふみ神示の内容に「本質的な偽り」があるかどうかです。私は(繰り返しになりますが)次のような点が「本質的な偽り」だと考えます。
ひふみ神示に将来、土が食べられるようなるという旨の記述が数箇所でなされています。これに共通する資料を発見しました。OBE(体外離脱体験)のエキスパートであったロバート・A・モンローの著作「魂の体外旅行」(日本教文社)の357ページから以下に引用します。
| 私は揺らいだ。(ということはあなた方はもう食べ物を味わうということをしないのですか?本物の食物を摂らないのです?)
(ああ、そういうこと?もちろん味わうこともするさ。)またBBが話に割り込んで、かがみこみ、草の根から赤土を掬い取った。(何が食べたいかい?野生米の御飯?僕の好物なんだ。)......中略...... (私にさせて。)女性は右の手をお椀のかわりにしてBBから土のかたまりを受け取り、手の土をじっと見つめた。すると土くれは泡立ち煮たち始め、色が変わると実がびっしりつまった熟れた白いトウモロコシに変貌した。 |
この箇所はモンローが遥か未来の地上へ移動した際の体験描写です。この土を食べるという驚くべき発想の奇妙な一致が気になります。