絵画批評:世界は光の宝石箱

2004.9.14更新
2004.8.28作成


野暮な但し書き:

このページでは他者が作成したいくつかの絵画の画面イメージを 批評を目的として引用しています。 これは完全に合法な行為であり著作権の侵害にはあたりません。こういった批評目的の引用では著作権者からの許諾は不要であることが著作権法によって保証されています。

社団法人著作権情報センターの次の文言も参考になります。

自分の著作物に、引用の目的上正当な範囲内で他人の著作物を引用して利用することができる。ただし法の認める「引用」というのは、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものであって、また引用される部分が「従」で自ら作成する著作物が「主」であるというような、内容的な主従関係がなければならない。さらにかぎ括弧を付けるなどして引用部分を明示し、かつ著作者名、題名などを明らかにする出所の明示をしなければならない。
著作物が自由に使える場合は?のページより引用)


このページでは『井上直久のイバラードの世界』にある絵の批評を行います。

以下、引用するのはとても印象に残る素晴らしい絵ですが、いわゆるアートとしての批評はできません。批評のための絵画の知識も芸術的センスも持ち合わせておりませんので、それは無理なのです。絵の作者の意図とは無関係の私の勝手な読み込みであり、絵画芸術とは無縁の素人の戯言でしかありません。それでよろしければ、続きをご覧下さい。

さて、地平線の彼方まで広がる地表の升目に宝がびっしりと詰まっている下の絵『世界は私のコレクション』をご覧下さい。この絵の作者、井上直久氏はこのテーマがお気に入りのようで最近も殆ど同じ構図の『世界は私のコレクション2004』を描いています(上のリンク先のサイトでその美しさを堪能して下さい)。

この絵は一見すると女性の宝石に対する願望のダイレクトな反映のようにも見えます。絵の中央に背筋を伸ばして立つ人物(この人物はこの絵を眺めている我々の身代わりであり、投影ですが…)に仮託されたたわいのない願望であると。

しかし井上氏がこの絵につけたタイトル、『世界は私のコレクション』を考えてみるとそういう願望とはやや違うように思えます。

この絵は

ということを描いたものであるように私には思えます。たぶん地平線の彼方に見える巨大な惑星の表面も宝石で覆われているようです。これらの大惑星自体、そして宙に浮かぶ小さな惑星自体も宝石のようなものとして描かれているようです。

世界が宝石で満ちているとか、その宝石の中に私がいると言うと、あまりにイメージが奔放すぎているよう感じるかもしれません。ですがそういったイメージはある種の意識体験に共通したテーマとなっています。


井上直久氏の「世界は私のコレクション」(CD-ROM版)よりサイズ縮小して引用

たとえば大乗仏教の経典、華厳経には事事無礙法界の譬えとして「インドラの網」というイメージが使われています。天界の神の宮殿に掛かっている無数の宝石が編み込まれた網のイメージです。そういえばこの絵を含め井上氏のイバラードの絵はどれも天界をイメージさせます。汚れのなさ、光の情景、空中浮遊のイメージなどがそういった連想につながるようです。

華厳経の比喩にある絢爛と光り輝く無数の宝石のイメージは仏教修行者の瞑想中の体験がベースになっていると私は想像しています。


さて…。ここから先は知人が創作した「いかにもありそうなヨタ話」ですので決して本気にせず、あくまで寓話としてお読み下さい。

瞑想体験やある種の薬物による意識体験、臨死体験などの特殊な意識モードでこういった「無数の宝石の輝き」のイメージが生じる場合があります。それは「宝石のような輝きを見る体験」というよりも「色と光である私」とでもいうような体験です。インドラの網の譬えも、チベット仏教の色鮮やかなマンダラも、この光と色を瞑想中に実際に体験し、言葉で表現したものでしょう。

こういった意識体験の最中に観る「光や色」は今の日常意識状態で見るような光や色とは別物といってよいほど違います。日常の光や色がまがいものに見えるほど、純粋な色、純粋な光です。

次にその光や色が自分の意識でもあるという奇妙な関係です。自分の意識の一部が抗いようもなく解け、この自己とは異なる無数の自己の意識が生まれては滅するさまが見えてきます。そしてまわりを何重にも取り囲む巨大な大伽藍に気づきます。光と色からなる生きて輝く大伽藍、神の身体、光の鯨の出現です。これらが自己の溶解しつつある意識、無数に生起しつつある意識と連なっていることにも気づきます。

続いて「この私の、この意識」が消失するという本源的な恐れが生じます。死ぬことなどとは比べものにならないような、最大級の恐れ、真の意味で取り返しのつかない事態への恐れです。この真の恐怖は魂を芯から痺れさせ、後ずさりしてそこから逃げ出します。

気がつくとこの世界の始まりが見えてきます。それは1つの小さな泡です。水中をゆらゆらと少しばかり昇ったかと思ったらすぐに潰れて消えてしまいました。それが世界の終わりです。最初から泡など無かったのに、生じて直ぐに滅したと錯覚しただけのことでした。


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