絵画批評:通路の先の光景

2004.8.30


野暮な但し書き:

このページでは他者が作成したいくつかの絵画の画面イメージを 批評を目的として引用しています。 これは完全に合法な行為であり著作権の侵害にはあたりません。こういった批評目的の引用では著作権者からの許諾は不要であることが著作権法によって保証されています。

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著作物が自由に使える場合は?のページより引用)


このページでは『帝国少年』の Web サイトにある絵の批評を行います。特に言及がない絵はこの『帝国少年』のサイトから画像サイズを縮小の上で引用しています。

以下、引用するのはとても印象に残る素晴らしい絵ですが、いわゆるアートとしての批評はできません。批評のための絵の知識も芸術的センスも持ち合わせておりませんので、それは無理なのです。絵画芸術とは無縁の素人の戯言でしかありませんが、それでよろしければ、この続きをお読み下さい。

さて、次の2枚の絵、「路地裏」と「オトもダチ」をご覧下さい。この2つはよく似た構図になっています。共通点は

などが挙げられます。


画面の左手前から右曲がりで画面中央奥へとのびる通路という共通の構図は通路の先(向こう側の世界)へと見る人の意識を誘います。そして視点位置からは見えませんが、画面の中央奥にそれが開けていることを強く意識させています。


『帝国少年』から「路地裏」


上の絵(「路地裏」)は視点位置から僅かに右側へ分岐した通路が見えています。下の絵(「オトもダチ」)でも右側の分岐がありそうです。

左側の通路には陽光が差し込んでいますので、隠れた右側の通路は薄暗いことが暗示されています。視点位置かまっすぐの方向には明るい通路が延び、また右側にも暗い通路へ分岐しています。この暗い右側への分岐が画面の中の世界の左右の広がりを感じさせます。全体として明るい側が強調され、青少年たちは明るい側へ向かって進んでいます。

この2つの絵で共通して通路が右にカーブしていることには大きな意味があるようです。カーブすることで通路の奥の世界が中央部分の建物の陰に隠され、視点位置からは見えないのです。奥の世界が見えないことでその先に開かれている世界を強く意識させます。

『帝国少年』から「オトもダチ」


通路の天上が高いこととも重要です。左側からの日差しとこの天上の高さが圧迫感や閉塞感を防いでいます。これらがないと地下道のような圧迫感が生じるからです。上の絵では通路の左側が大きく開かれていることでより開放感を高めています。

通路の周囲の電球や飾り照明、看板、パイプ、備品類は画面にリアリティとともに懐かしさの伴った安心感を与えてくれます。分岐点付近に人影や人の看板(上の絵画)や人(下の絵画)がいるのも同じ効果があります。
下の絵画に描かれた世界は雑然としていながらも、不潔さや汚らしい感じを与えないように注意が払われているようです。

床の下にも空間の広がりを感じさせる効果として、上の絵では通路の右側が部分が大きく開けられて、下の階らしきものが見えています。下の絵でも階段状の隙間から通路の下側がのぞいています。これによって床下にも人の作った世界が広がっていることが感じ取れるわけです。天上が高いことと相まって上下方向の広がりがこのように表現されています。

さて…。ここから先は上の絵をもとに妄想を膨らませたヨタ話へ移ります。

この2つの絵の主題はこの通路の先への予感、期待だと私は思います。この通路の先にどんな光景が広がっているのだろう、という期待です。この通路の先にあるのは何でしょうか? どのような光景がこの通路の先に広がっているのでしょうか? この絵では描かれていないから、想像するしかないのでしょうか。

実はこの通路の先の光景は、無いのです。あるいはこういうべきかもしれません。この通路の先の光景として期待されるものの本質は、既にこの絵に描かれてるまさに「この通路」自体なのです。

まだ見たことのない心躍る世界、いつの日にか長い旅路の果てに辿り着くことを夢見ている理想郷、それがこのような通路の彼方にあるものと我々は期待しています。

ですが、この通路の先はないのです。通路の先がないのが納得できないのであれば、つぎのような比喩はどうでしょうか。通路の先は摩訶不思議な位相空間の歪み・ワープによってこの通路それ自体に化けているのです。

それゆえ、カンの良い人はそれを察して通路それ自身がその求める理想郷だった、というようなよくある類の宗教的達観に陥るわけです。たとえば各種の大乗経典から生まれた「生死即涅槃」、「煩悩即菩提」、「迷悟一如」、蘇東坡の「花は紅、柳は緑」(これらはまさに「達観」であって本物の悟りとはまるで別物ですが…)。

通路の先が無いゆえに当然、通路の先に辿り着くことはありません。歪んだ位相空間(無明)が作り出す閉じた通路(マーヤ)をいつまでも歩き続けるだけです(輪廻)。


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