宿業(カルマ)はコントロール可能か?


(Sさんへ) Re: ビジネスマンよ、DSを抱け 投稿者:reverie  投稿日:05月31日(月)20時34分30秒

>松下幸之助のDS図が「身体意識」に載っていたことがありましたし、ビル・ゲイツにつ
>いて言及したことがありましたから、一流のビジネスマンのDSというのも特徴がある
>に違いありません。
>ただ、紺屋の白ばかまではないですが、高岡先生自身、自分はお金がない、と言ってい
>るので、一流のビジネスマンのDSを知っていても活用していないんでしょうね。

このある人物の DS を体得すれば、それでその人物の能力、才能と同
等の(あるいはそれに近い)ものが得られる筈という前提は、カルマの
概念基盤と矛盾するようにも思えます。

つまり、そういった一流のビジネスマンの能力は本人のカルマに基づ
く先天的要素分と、意志的努力による後天的要素分の総和で決るもの
とした時(仮定)、DS によって影響を与え得るのは後天的要素分だけ
でしかあり得ないのではないでしょうか。もし先天的要素にまで影響
を及ぼすとなるとカルマを変更できてしまうことになりますが、高岡
氏の行法がそれを可能とするものとは思えませんし。

また意志的努力ですら、そういった努力に耐え得るという「素質」、
というカルマ的要素が見られますから、DS によって可能な割合は実
はそれほど大きくない、かようにも推測できます。

以上、あくまでカルマの存在、機能を認めた場合のことですが…

(reverieさんへ) 投稿者:J  投稿日:06月01日(火)08時10分04秒

>このある人物の DS を体得すれば、それでその人物の能力、
>才能と同等の(あるいはそれに近い)ものが得られる筈とい
>う前提は、カルマの概念基盤と矛盾するようにも思えます。

 はい、おっしゃることには半分賛成です。高岡英夫は『意識のかた
ち』しか読んでいませんが、ご投稿に目を通すと、"因果を無いもの
とする傾向"があると思いました。

 たとえばこれは一例ですが、後期仏教徒は進化論に対して別の立場
を取ります。
----
進化論(evolution)という理論に対して、仏教ははっきりと別の立
場に立つ。なぜなら、習慣性によって形成されていく生類の個体と
しての固有性は、たとえ環境のうちに適合してある方向に<進化>し
ていくとしても、その環境自体が生類自らの行為(karman 業)によ
って形成されるとされるからである。つまり、その適応すべき環境
自体がそこに生を得るべきものに対して生成し、その同様な《業》
の形成作用を共有する衆生がその環境に生を受け、その共通の表象
としての環境を共有するのである。
----生井智将『輪廻の論証-後期仏教論理学派による唯物論批判』

つまりこの説明によれば、"その環境自体が生類自らの行為(karma
n 業)によって形成されること"="先天的素質"は改変できないとい
うことなので、そのレベルでのDSは眉唾です。が、こう断言してし
まっても良いものかと自問したくもなります。業思想にまつわるこ
の種の決定性についてreverieさんはどのように整理されておられ
ますか。

 仏教入門書の中には、"先天的素質"についてとやかくいうのは仏
教的にはけしからんことだともあります。まぁそのような類書は仏
教は無限の可能性を追究する人生の一大事である云々と結ばれてい
るので個人的には眉唾なのですが、人間に生きる目的を与えるとい
う意味であるならば、隠しておきたい真実でもあります。

skip
>生と死、つまり輪廻の問題や自我と悟りの構造をも含めて統一的
>に模式化して扱える可能性

早速判読させていただきます。

(Jさんへ) 投稿者:reverie  投稿日:06月01日(火)21時38分42秒

>が、こう断言してし
>まっても良いものかと自問したくもなります。業思想にまつわるこ
>の種の決定性についてreverieさんはどのように整理されておられ
>ますか。

この業思想が仏教の名を語ってなされた差別戎名や出身、ある種の病
気、身体障碍者への差別の根拠と見なされたのは明らかですね。カー
ストを否定した釈迦の末裔とは言えないですね。

私は、次の二つ
(1)現在の境遇(既定、変更不可能の事柄)がカルマの反映である事。
(2)その境遇の中で、これから先、どのように生きるか(未確定であり
   主体の意志が反映する事柄)。
を区別すべきだと考えます。これらは全く別の事柄ですから。

さらに、立ち入れば
(2a)周囲から差別を受けることは当人にとってはカルマと言える。
(2b)カルマを根拠と見なして他人を差別するのは、差別する側の悪業。
だと考えます。なぜなら、(2a)は受ける側にとって主体的に選ぶ行動
ではないのに対して、(2b)は差別を行う側が主体的に選ぶ行動ですか
ら。

> 仏教入門書の中には、"先天的素質"についてとやかくいうのは仏
>教的にはけしからんことだともあります。まぁそのような類書は仏
>教は無限の可能性を追究する人生の一大事である云々と結ばれてい
>るので個人的には眉唾なのですが、

その著者の理解する仏教がその程度のものだから、信頼、自信がない
のでしょうね。ところで、なぜ、「仏教は無限の可能性を追究する人
生の一大事」が「個人的には眉唾」なのか腑に落ちない読者もいると
思うのですが、できればご説明頂けますか?

>人間に生きる目的を与えるという意味であるならば、隠しておきた
>い真実でもあります。

イエスの立場はそれかも知れませんね。
----- ヨハネの福音書 9: 2 ----
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。先生。彼が盲目に
生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。そ
の両親ですか。イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもな
く、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。 

(Iさんへ)Re: カルマ(業)について 投稿者:reverie  投稿日:06月01日(火)21時39分40秒

>10年ほど前に考えていたのは、カルマは身体のなかに蓄積されていて、身体をほぐしていく
>ことにより取れていくのではないか、ということです。が、今は分からなくなりました。

辞書では
---- 大辞林 ----
【業】 ごう 
(1)〔仏〕〔{梵}karman〕身体・言語・心による人間の働き・行
為。行為は必ずその結果をもたらし、また現在の事態は必ずそれを生
む行為を過去に持っているとする思想は、インド思想に広く見られる。
カルマ。羯麿(カツマ)。⇔果報。 
(2)人が担っている運命や制約。主に悪運をいう。「―が深い」 
----
となっていますね。仏教的な意味の(1)はこのように因果を前提とし
た概念となっています。つまり、身、口、意による行いが原因となっ
て、将来、それに応じた結果が生じるという考え方ですね。そして、
原則として、一度なした行為のカルマはそれに対応した結果が生じる
までは絶対に消えないことになります。善行が悪行をキャンセルする
ことはなく、それぞれが別々に結果として反映すると考えられます。

祈祷なり、ある種の修行なりで悪行のカルマをキャンセルできるとい
う仏教的な主張の立場もありますが、それはカルマが前提としている
因果律からは否定されるように思えます、私には。つまり因果律はど
のような行為によってもバイパス、キャンセルすることはできないと。

としますと、カルマは何らかの身体的操作や知的操作によってコント
ロール可能な「モノ」ではなく、因果律という「法則」のシンボルで
すから「身体をほぐしていく」ことでは取れないと考えます。