「無我と輪廻」の矛盾にかんする木村泰賢博士の解釈

2005.1.1追加
2004.12.30


仏教で説いていると言われている「無我」と「輪廻」という2つの基本的思想の間には明白な論理矛盾があります。この矛盾に関して経典の『ミリンダ王の問い』などでも解消(あるいは説得)への努力が見えますが成功しているとは言えないようです。ここではこの矛盾を木村泰賢博士はどう考えていたのか、これを紹介します。

以下、特に断りがないものは全て
『原始仏教思想論 木村泰賢全集第三巻』木村泰賢著 大法輪閣刊
からの引用です。大正11年(1921年)に書かれたものです。

木村泰賢博士は
○ 「無我説と業説とをいかに調和すべきかは、仏教学もおける一大重要問題」(157ページ)であるとし、
○ 「この困難は、要するに無我ということを余りに機械的に解した、説相に捕らわれ過ぎた見解に基づくもので、もし仏陀の生命観を正当に理解するならば、却って業説、輪廻説は仏教に来たって初めて真の哲学的意義を帯びる」(158ページ)

と述べています。つまり木村泰賢博士は「仏陀の生命観を正当に理解」することでこの矛盾が解消でき、さらに哲学的意義さえ持つようになると主張しているわけです。

では木村泰賢博士は無我と輪廻の矛盾をどう解決したのか、それを以下で見ていきます。著名な仏教学者がこの問題に関してここまで大胆かつわかりやすく自説を述べた例はあまりない思います(単に輪廻を否定して矛盾はないと言い張る「仏教学者」は現在でもいますが、これは問題外とします)。

資料的価値と、正確を期す意味で当該箇所の全体を次に引用します(注:著作権が切れていますので下記のような大量引用に法的な問題はありません)。
---{
 先ず、吾らはこの世において、一定の身分を獲得したとする。生命の必然として、生まれ落ちるより死に至るまで、種々に活動して止むことがない。これすなわち生活(jiva)または寿(ayus)である。その外的特徴は、肉体的にいえば、暖気(usma)あり、出入息あり、心理的にいえば識あることである。故にこれを一口に寿暖識あることがすなわち寿命あることであるという。

 かくして一定の時期来るや、この寿暖識が最早強調を持つことが出来ぬようになって、身体を去るのが死すなわち寿命(ayusankhaya)である。ここにすなわち四大より成る肉体の解体を見るに至る。その何故に一定期が来れば必ず死せねばならぬかに関しては、特に詳しい説明がないけれども、要するに昧(くら)ますことの出来ない事実として、大体からいえば、やはり業(カルマ)の作用として自ずから然らしめるものというべきであろう。

 二法常に相随う。謂く業と寿となり。業あれば寿またあり。業なければ寿またなし。寿業未だ消亡せざれば、有情遂に死せず。寿業もし尽滅すれば、含識(有情)の死すること疑いなし。(本事経巻5 大正17,p685c)

ここに業とあるのは、一期を保つだけの業力を指すもので、この力によって寿あり、この力滅する時、寿もまた滅すという義で、すなわち業と寿尽との関係を明らかにしたものである。とにかく、生あるものは必ず滅するのが法として定まった運命である。しかしながら仏陀にしたがえば、この死とともに、吾らの生命は絶滅し去るものではない。いかにも意識的の活動はその五根の破壊に伴って休止するけれども、生きようとする根本意志すなわち無明は、生時の経験すなわち業(カルマ)をその性格として刻みつけて継続する。しかもこの性格中には、開発すれば、五蘊となるべき可能性を具備するはもちろん、性格に応じて自らを特定の有情に実現し創造する力を具するものである。ただし生命のこの当体を以て空間的存在のごとくに考えて、何処かにか、何らかの形を以て彷徨っているかのごとくに解してはならぬ。何となれば、空間的存在とは物質を予想することであるけれども、生命のこの当体は物質的存在ではなきから、空間的にこれを取り扱うことが出来ぬからである。このことは仏陀は無色界の衆生には処所なしとて、純粋なる精神的生活のみの有情に対する場所を認めないのに例しても明らかであろう。すなわち現実界の一種たる無色界の有情すら、空間的存在として考えてはならぬとすれば、まして身を離れ、一切の意識的活動を根本意志に摂取した生命のこの位を、いかに物のごとくに考えて然るべきであろうか。これすなわち仏教における輪廻の主体が通常の半物質的霊魂観と大いに異なるところで、仏陀の真諦的見地からすれば、この当体の生命は今風にいえば、いわゆる第四階(The fourth dimension)の範囲に属すというべきであろう。しかもこの点はまた、仏教輪廻観の極めて解し難い所以であって、また後に至ると、いわゆる中有身(antara bhava)の考えを提出し、これを空間的に翻訳して、通常人の了解に資する説の起こった所以であるけれども、実は中有身説のごときは、要するに、真諦説の通俗化の結果であって、生命の当体は飽くまで空間的存在を以て計ることが出来ぬと承知せねばならぬ。

 しからば、かかる当体の生命はいかにして自らを再び実現化するかというに、後に述べるがごとく、仏陀にしたがえば、実現化の仕方に、胎生、卵生、湿生、化生の四とおりあるけれども、今暫く、これを胎生による実現化について述べるならば──先ず男女ありて和合する。これすなわちその現実化の第一歩である。けだしこの和合は、これを男女の方からすれば、要するに、その本能的欲望を満足せんがための所行であるけれども、これをその子として実現化しようとする生命の方からすれば、その業の創造力が自らを実現するがために、相当の男女をして和合せしめたものと解すべきである。かくして托胎の現象が起こる。経にはこれを父母および乾闥婆(gandhabba 香陰)の三事和合して托胎ありというているが、ここに乾闥婆といえるは、すなわち神話的名称に名を籍りて、実現化しようとする生命が、父母の和合を縁として、自らを胎生としての有情に実現化する門出をする。ここに至って、超空間的生命が、少なくともその身体的方面において、空間的規定を受けることになり、すなわち一定の身分を獲得することになる。かくして、いわゆる胎内の五位を経て、遂に出産して、その身分に応じた現実的活動を営むことになる。これすなわち再生である。

 生前より死後の再生に至る経過は、大よそかくのごときものである。したがって死の現象はこれを外見的にいえば絶滅のようであるけれども、生命そのものの当体からすれば、依然として可能性としての五蘊を継続して、その性格に応じて、再び現実化するまでであって、その間に、一度これを解体して再び新たなる五蘊を積むというがごときことはないわけである。つまり更生の五蘊も、前生より引き続いた五蘊の変化的継承に外ならぬというべきである。故に曰く、

 業報あり、作者なし。此陰(五蘊)滅し終わりて異陰(余蘊)相続す。(雑巻一三(大正2, p92c))

と。これをまた弥隣陀問経(Milinda panha)や智度論などでは、一燈の他燈に移るがごとき喩を以てして、その無間断的継続を明白ならしめようとした。っまた、この点は、後に述べるがごとく、あたかも蚕の幼虫が蛹と化し、蛾に化する趣きと同斑とみたならば、一そうよく仏教の輪廻観が会得し得られようと思う。

 ところで、ここに疑問となるのは、もし吾らの心身組織は前生の五蘊よりの引続きであるならば、何故に吾らは前生のことを記憶せぬかということである。しかしながらこれは仏教の立前からすれば、必ずしもさほど解答に困難な問題ではない。何となれば、前に述べたごとく、仏陀にしたがえば、生命の本質は知識ではなく、意志であるから、知識に伴う記憶が更生と共に滅すべきものであるからである。長阿含大縁経などが、托胎を以て、識が母体に入ると説いているけれども、その時の識とは、所詮、無意識的意志、すなわち、生命の異名に外ならぬもので、意識そのものを指すのでは決してない。このことは、茶啼(Sati)比丘が輪廻の主体を識(vinnana)なりと主張して、大いに仏陀に咎責せられた事実によっても明らかである。すなわち
已に識ではないとすれば、前生の経験が記憶としては保存せられておらぬのも、むしろ当然ではないか。しかもこのことは、已に早くもショーペンハウエルが弁明していることで、意志本位説の立場からすれば、記憶のごときは、人格の同一に対して第二、第三の価値を占めるに過ぎないものである。もちろん仏陀にしたがえば聖者の位に達すれば、前生はもちろん、後生のことも解るということで、仏陀自身もしばしば人の前生を語ると同時に死後の運命をも告げたところである。けだしこれ、聖者となれば、生命の本質にまで沈潜して、その性格(業)として刻みつけられてあるものより、過去、未来を判じ得るからである(聖者となればモナード Monad において過去、将来を読むことが出来るといったライプニッツの説と照慮せよ)。しかしながら、これは普通の記憶作用の結果でないのみならず、普通人のなし得るところでもないから、普通人が普通の記憶の有無によって輪廻の有無を論ずることは、仏教の立場と添わざるものというべきである。仏教のいわゆる輪廻は飽くまでも無意識的性格の上において論ぜらるべきものである。
---} 『原始仏教思想論 木村泰賢全集第三巻』木村泰賢著 大法輪閣刊 (158〜162ページ)

要約すると木村泰賢博士の主張は次のようになるようです。

(1)意識作用を含め五蘊は死によって滅ぶが、超空間的生命(=無明、生きようとする根本意志)は生きていたときの経験(=カルマ)を性格として刻みつけて継続する。
(2)再生(受胎)とは超空間的生命がカルマに基づいて再び空間的な形態(=五蘊)を形作ることである。
(3)カルマそのものが生命であり、カルマは生命に付属する一種の力ではなく、むしろ生命が自己創造を営む時の内的規定である(164ページ)。
(4)無意識的意志(=超空間的生命、無明)が生命の本質であり、記憶や意識は生命の本質ではない。

単純化すると木村泰賢博士のいう超空間的生命とは一面でアートマンに類似しています。アートマンの本質が空間的存在ではないことはヤージュニャヴァルキヤのとらえ方一致しています。ヤージュニャヴァルキヤと異なるのは次の点のようです。

認識能力を本質とみるかどうか。ヤージュニャヴァルキヤはアートマンを「認識の主体」としているのに対し、木村泰賢博士は認識機能(=識)は超空間的生命(=無明、無意識的意志)から副次的に生起されたものとしています。

ジャイナ教との違いで言えば、次のようになります。
ジャイナ教ではカルマを真我の外側に付着した泥と見ますが、木村泰賢博士はカルマこそが我々の本質そのものと見ます。

木村泰賢博士の上記の主張の内実は全体としてヴァスバンドゥの『成業論』を、現代人向けに解説したものという印象を受けます。

なお、木村泰賢博士が無明を四次元の範囲に属すると述べているのは、四次元空間に摩訶不思議な世界を投影させていた当時の流行の影響でしょう(批評:ウスペンスキー著『ターシャム・オルガヌム』を参照)。今で言えば量子論のニューエイジ流解釈のような「サイエンスもどき」に相当します。



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