輪廻する「普遍の実体」
2001年6月28日作成

◇はじめに

映画「マトリックス」の話題から派生した輪廻に関する私の文章を掲載いたします。 これらは全て、ある掲示板に投稿した私の記事です。


◇投稿記事の目次

No.タイトル作成日時
1映画「マトリックス」 2000年03月20日(月)05時43分36秒
2RE:映画「マトリックス」 2000年03月21日(火)06時57分02秒
3創造者による「虚構」 2000年03月22日(水)02時54分41秒
4輪廻する「普遍の実体」(1/2) 2000年03月25日(土)05時06分36秒
5RE:ゲルク派? 2000年03月26日(日)07時28分43秒
6輪廻する「普遍の実体」(2/2)  2000年03月27日(月)03時07分29秒


映画「マトリックス」

Ghost in the shell のパクリで名高い(笑)この映画がレンタル開始されたので 借りてきて早速、見てみました。 SF 映画のようですが、実はこれはグノーシス的な意味で「宗教映画」とも言え そうです。 救世主や、覚醒(この世界が幻影に過ぎないことの認識)、悪魔の誘惑(望むがま まの権力を与え、欲望をかなえよう、という誘惑)、救世主への裏切り、復活、 超常現象(奇跡)−−本物の宗教に奇跡はない…といった俗説は、まだそれを知 りえないレベルであるという告白に過ぎないと思っています−−といったテー マが、よくできた映像の中に盛り込まれていますから。 タイトルが matrix(子宮)というのは実に意味深いです。登場人物の名がネオ (復活)、モーフィアス(morphi(ng)+ous?=metamorphosing + ous?〕、トリニテ ィ(三位一体)だったり、船の名前が旧約から採られていることなども。 追記:
モーフィアスの由来については訂正 グノーシス的だというのは、映画の中の日常世界が悪魔(マトリックス)によっ て支配されているという観点があるためですね。世界を創造し、維持、支配し ているのは神ではなく、悪魔(的存在)であるという認識はグノーシスの系統と 原始仏教の系統(EO 師を含む)だけが持ち得た認識ですから。 仏教ではこの世界(=欲界)の支配者が第六天の魔王(他化自在天)であるとして いますが、どうも禅などで悟った人は覚醒と同時に一種の高度なロボトミー操 作も受けてしまうらしく、悟れば万事 OK 式の楽観的な観点にどっぷり浸るよ うです。覚めた積もりが、実はより繊細で、神秘的な夢に移っただけかも。 だとすると、悟ったつもりが、実は幾分かの意識のシフトと引き換えに高度な ロボトミー的処置を施されただけ(酷い場合は狂った妄想を吹き込まれる)… というパターンも多そうです。程度の問題かも知れませんが。

(○○○ さんへ)RE:映画「マトリックス」

>reverieさん、めちゃくちゃ濃い書き込みですね〜。 レスポンスありがとうございます。まだ薄いのでもっと濃くしちゃいます(笑)。 >この世界が幻影なら、神や悪魔が実在しても、他のものの実在と同じく幻影 >なわけだから、創造、維持、支配しているのは神でも悪魔でも気にすること >ないのではないでしょうか?「どっちでもいい」というか。 たぶんですね、世界は幻影でもその幻影たる世界を創造し、維持している神な り悪魔の存在それ自体は(世界と同一のレベルの)幻影ではあり得ないというこ とだろうと思いますね。マーヤ(幻影)を操っている主体は同じレベルのマーヤ ではあり得ないという意味で。 なぜなら、幻影をつくり出すということは、言い方をかえれば存在を生じさせ ているわけです。ですから、そのような「存在を生じさせるもの」は既に存在 の有無の領域にはありえないと。 ですから、神や悪魔は「実在する」とか「実在しない」という領域ではなく、 より本質的な「実在」の基盤を与える領域に「ある」と思います。永井均氏の いう<私>もまた、その領域だろうと。 で、このような「実在」の基盤を与える領域(ガルバ=基胎=子宮=今、話題に しているマトリックス)を大乗仏教では(子細に見れば差異はあれど)真如とか、 仏性とか如来蔵とか、空とか、表現してるようです。同じものをウパニシャッ ドではブラフマン、老荘では道、スーフィー(イスラム神秘主義者)ではファナ ー(消滅)と呼んでいるようです。上座部仏教の釈迦の直説と推定される教説 にも僅かながら言及があります。 さらにこう言った思想(如来蔵思想)を非仏教的土着思想の焼き直しであると批 判したのが松本史朗氏の「縁起と空−如来蔵思想批判―」(大蔵出版)です。 このような意味では幻影かどうかは、実に奥の深いものだと思います。 >「どっちでもいい」というか。 この「自己」なるものも所詮は、幻影だから「どうなってもよい」、「どっち でもいい」…と言える境地であれば「神でも悪魔でも気にすることない」ので すが、そうでない場合はやはり、気にせざるを得ないのではないでしょうか。 >ロボトミーについては、洗脳ではなく、この世界にいる自分を、悟った自分 >がメタプログラミングしている可能性もあるのでは? つまり、この世界より上位の世界にいる自分(真我的存在?)が、この世界の自 分を改良しているというイメージですね? メタプログラミングが可能なのは一般にプログラミング言語 lisp の lambda 式のように記述されたプログラムが *実行中に* 自分自身を意図をもって書き 換えることの可能な場合ですね。この時、その「意図」や意図の達成度合の 「評価」も lamda 式のような形でプログラムとして記述可能でなくてはなりま せん。IMB の deepblue(でしたっけ?)はチェスという限定された局面でこれに やや近い事をしていたものと想像します。 さて、この問題は人間の意識なり自己の本性が何らかの意味で「プログラム」 なのかどうか、だと思います。いわゆる「強い」意味での AI は可能か、とい う問題と通じますね。 これはどうお考えになります?

(○○○ さんへ) 創造者による「虚構」

>それは私的には、幻影というより、創造者による「虚構」といったほうが >ピッタリ来ます。 >その辺を扱うのがグノーシス主義なわけですね。 >我々が現に生きているということが、その「虚構」の内部での出来事であ >るのか否か? >う〜ん、わかる方法があるんでしょうかね(笑)? ええ。例えば、夢の中で今、夢を見ていると気付く場合(明晰夢)がありますで しょう。夢から覚めずとも、それが夢であると気付けるのですから、虚構の内 部にいながら、それが虚構だと気付くことは原理的には可能だと思いますね。 一部の哲学者は、夢の中で夢だと気付いたとしても、それもまたそういう内容 の夢にすぎないので、真実に夢だと自覚したわけではない…などと言いますが (大森荘蔵など)、そんな説は実験によって否定されていますね。 また(自我意識もその論旨で否定できてしまうので)論理的にも破綻しています し、なにより実際に明晰夢を見る訓練をしてみれば、自ずと解ることですね。 実際、ナローパの修行方法の中にこの明晰夢の手法がありますし、カスタネダ の本にもその技法に関する記述(確か、夢の中で手の平を見る癖をつける)があっ たと記憶しています。明晰夢に馴れるとその内容を自在に操ることができ、さ らにその夢から何時でも覚めることができるようになりますね。 ただ私自身はこの手法はある時点で中断、放棄いたしました。個人差があろう かと思いますが、稀に中断すべきケースや危険なケースもありうると思います ので慎重さなどが要求されるとは思います。 >幻影について、宗教で幻影という場合「死」の向こう側にあるものは含ま >ないと思います。 >肉体で生きている「こっち側」の世界のことを、普段思い込んでいるよう >な確固とした実在ではないという意味合いで、幻影と言うわけです。 >死は確実ですから、幻影もまた確実(!)であると思います。 >これは上の「虚構」とはまた違った問題でしょうか、それとも・・・? 仏教の見方からすれば、生も死もその中間領域も全て幻影ですね。そういった 輪廻そのものが無明という幻影によって回されているわけですから。 >神や悪魔は当然、地上の生き物のような生死ははじめから問題にしないよ >うな存在ですね。 仏教の見方では神や悪魔も輪廻する存在ですから、寿命の長短はあれ、生死は ありますし、かつて神だったものがいま、人間であることも十分ありえるとい う立場ですね。なお、仏教でいう神や悪魔はユダヤ教、キリスト教、イスラム でいう絶対神とはほとんど別物で、むしろ天使的存在に近いと言えます。 > それを「現実的に」論じるためには、論者もまた生死を >問題にしない存在でなければならず、その上、神や悪魔の「正体」を知っ >ていなければならないような気がします。・・大変なことです(笑) ええ。ですから、輪廻(夢)から覚める[=解脱する]ためにはまず、輪廻(夢)の 中である事を実感的に自覚できなくてはならないのだと思いますね。その過程 で段階を踏んで神々を瞑想中に見、その神々と自己のとカルマ的関連を知り云 々、と原始仏典には記載されていますね。 その意味では、たとえ大悟しても輪廻を実感しないようでは(=一切皆苦を実感 しないようでは)およそ、解脱などありえないと思います、私は。

(○○○ さんへ) 輪廻する「普遍の実体」(1/2)

>>虚構の内部にいながら、それが虚構だと気付くことは原理的には可能だと思いますね。 > >しかし、気づいて、知ってしまって、それが真実でも、困るだけかもしれませんね。 >裏電波情報って奴でしょうか(笑)。ディックっぽい。 そういえば、「電波系」(村崎 百郎著、太田出版)という本がありましたね。あ れは心理学、宗教学における名著ですね、本当に(笑)。解毒剤としても、実に よく効きますし。 多くの心理学者は「人を見抜く方法」とか「異性にもてる方法」の類の屑本を 書いたり、翻訳業をやったり、事件があればつまらないコメント出すだけの存 在では、と疑われていますから、先の本は貴重です。 >仏教では輪廻する「普遍の実体」は想定しないのですよね。 >ある本に、輪廻というのは、真珠のネックレスが一本の糸(魂)によって繋が >れているようなものではなく、縦に積み上がったサイコロの柱のようなものだ >という喩えがあって、なるほどなと思いました。そこには同一性ではなく、条 >件的な繋がりがあるだけなんだそうです。 「輪廻している主体は何か?」という問題は仏教の中の最大の難題の一つでしょ うね。この問題は「ミリンダ王の問い」という経典の主要テーマでもありまし たが、この経典で解決されたとは言えないようです。 単純に分類すれば、ほぼ (1)輪廻の主体は存在しないが、輪廻はあるという立場。 (2)人格的な実体を想定する立場(特子部のプドガラ説など) (3)人格的な実体は否定するが「場所としての実体」を認める立場(唯識での阿 頼耶識など) (4)漠然と『大海(「空」や「道」的イメージ)に帰する』とする立場。 (5)輪廻はないという立場(断滅論) というように分類できるかと思います。 (1)が釈迦の教説に最も近いものです。(2)は「ゲルク派の死者の書」(俗に「チ ベットの死者の書」と呼ばれる経典ですが、ゲルク派の主張がチベット仏教の 正統とは言い難い面があるので本来は「ゲルク派の〜」と言うべきとされてい ます)の立場です。 (5)は外道の立場ですが、禅家の秋月龍みん、などがいました。 臨死体験で語られる様々な事柄とか、日本仏教の立場はほぼ(2)でしょうね、実 質は。そうでなければ葬式でお経をあげて供養する…などという発想が生じる わけがないゆえに。 ちなみに、原始仏典では死者への供養の効果が否定されていましたが(自分を救 えるのは自分のみで、他者を救うことはできないという立場)、後世の経典では それが覆されていますね。つまり、大乗仏教では他者を救うことを目的にする という逆転現象が生じていますから。 釈迦が輪廻を認めた(そもそも、輪廻からの脱出というのが仏教の目的ですから) にもかかわらず、しかし「識」すら明確に輪廻の主体ではないと否定している ため(それが要するに(1)の立場)、後の仏教徒が理論付けに苦労したわけですね。

(○○○ さんへ) RE:ゲルク派?

>「ゲルク派の死者の書」はニンマ派の間違いではないでしょうか。私の >俄仕込みの知識によれば、ゲルグ派はダライラマも所属しているチベッ >ト密教の最大宗派なので、ゲルグ派の主張なら正統ということになると >思います。 はい、まったく、ご指摘の通りです。先の私のポストのゲルグ派とニンマ派が 入れ替わっておりました。ご指摘を深く感謝いたします。ありがとうございま した。 このような基本的な事を間違えた、ということでちょっとショックです(笑)。 これを機会に「チベット仏教哲学」松本史朗著(大蔵出版)を読み直す必要を 感じました。 # なんでこんなチョンボをしたのかなぁ…。ゲルク派もニンマ派も「死者の書」 # を持っているので、私の頭が混乱したみたいです(ハァ…)。 なお、ニンマ派の「原典訳 チベットの死者の書」川崎信定訳(筑摩書房)でも、 ゲルク派の「ゲルク派版チベット死者の書」平岡宏一訳(学習研究社)でも >(2)人格的な実体を想定する立場(特子部のプドガラ説など) という事では共通するとは思います。

(○○○ さんへ) 輪廻する「普遍の実体」(2/2)

# 『輪廻する「普遍の実体」(1/2)』の続きです。 この釈迦の (1)輪廻の主体は存在しないが、輪廻はあるという立場。 の立場がどこかで矛盾しているように感ずるのは何故でしょうか? それは、この自分自身が疑いなく主体として存在しているという(ほとんど自 明に近い)自覚があるためだ、と私は思います。そのため、輪廻で「この自分 の主体」が存在しなくなる、という事が不可解に思えてしまうと。 (究極の意味で)輪廻に主体が存在しないのであれば、当然ながらこの現在の 自分自身にも主体は存在しないと言わざるを得ません。なぜなら、輪廻は生 (という期間)と死(という瞬間)と次の生への移行領域(中有)を全て含ん だ概念ですから生の間だけ主体が認められる筈もありません。 このように、輪廻する「普遍の実体」は何かという問いは、今生きている自己 の実体(本質)は何かという問題そのものに通じます。その問題に対してウパ ニシャッドではそれをアートマン=ブラフマン、老荘では道と答えましたが、 釈迦は問題の前提とされていた普遍の実体の存在そのものを否定いたしました。 釈迦はこの問題の(普遍の実体が存在する筈だという)前提そのものを覆し、 「縁起」という原理を説いたわけです。普遍の実体が存在しないという釈迦の 発見が「縁起」のベースにあり、普遍の実体が存在しないが故に輪廻が幻影と して成立しているのだと見るようです。 そして、その「幻影として」見られた輪廻の中の仮の主体が現に生きているこ の自己であり、両親の性行為の最中に胎内に入り込むとされる人格をもった主 体や死後の存在(=魂)であるようです。 輪廻という巨大な幻影生成システムは縁起という自動展開アルゴリズムに基づ いて次々と幻影を紡ぎ出していると見ることができましょう。その巨大幻影シ ステムの中に極々ちっぽけなサブシステムとして自己という小型のやや貧弱な 幻影生成システムが組み込まれてる…こんなイメージでしょうか。 その貧弱な幻影生成システムが自動展開しつつある過程そのものが、自己とい う形で認識されているように思えます。この自動展開の過程がどういうわけか ごくまれに自己消滅の過程を辿るケースがあり、それが涅槃なのかも知れませ ん。これは、我ながら怪しい説です(笑)。 ともあれ、あまりにこの釈迦の縁起の発見が根源的(ラジカル)だったため、 容易には理解されがたく、本来は否定的な意味である空を誤って肯定的に捉え たり、神秘化されてなにやらありがたいものとして捉えられたりした姿が、い ま我々の目にする仏教の一般的ありようのように思えます。 仏教思想の理解の根幹とされる「空」は実は枝葉末節に過ぎず、「縁起」こそ が根幹と言えましょう。

訂正:映画「マトリックス」のモーフィアスの由来

 投稿者:reverie  投稿日:10月 2日( 月)05時14分08秒 古い話題で恐縮ですが私のポストの誤りに気づきましたで訂正させてください。 >映画「マトリックス」 投稿者:reverie  投稿日:03月20日(月)05時43分36秒 : >タイトルが matrix(子宮)というのは実に意味深いです。登場人物の名がネオ >(復活)、モーフィアス(morphi(ng)+ous?=metamorphosing + ous?〕、トリニテ >ィ(三位一体)だったり、船の名前が旧約から採られていることなども。 という内容をポストしたのですが、モーフィアスの綴りは Morpheus 、つまり ギリシャ神話の「夢の神」が由来でした。 覚醒剤、麻薬関連の本を読んでいて、アヘンから有効成分として抽出したモル ヒネに、痛みの苦しみから解放し、気持ちよくなることから Morpheus (夢の 神)に因んで morphium と命名した…という趣旨の文章から思いあたり、検索 エンジンでチェックしてほぼ、確認できました。 # 訂正すべきポストはそれだけかい?、という声が聞こえそう(笑)



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