批評:ウスペンスキー著『ターシャム・オルガヌム』
2001年6月29日作成

◇はじめに

以下では「ウスペンスキー掲示板」に投稿した私の記事です。


◇投稿記事の目次
No. タイトル 作成日時
1 『ターシャム・オルガヌム』における「動物の心理学」 2000年11月20日(月)07時24分53秒
2 (高橋さんへ)「動物の心理学」への反証データ
3 (高橋さんへ)三次元の知覚と概念 2000年11月24日(金)06時37分23秒
4 (高橋さんへ)re:「動物の心理学」への反証データ 2000年11月24日(金)06時39分46秒
5 (小森さんへ)re: 階層宇宙論、その他 2000年11月26日(日)16時39分17秒
6 (ALRDTP さんへ)re:機械、動物、人間の意識 2000年11月26日(日)16時41分02秒
7 (高橋さんへ)re:「動物の心理学」への反証データ 2000年11月26日(日)16時42分40秒
8 『ターシャム・オルガヌム』:四次元の球体の「ビジョン」について(1/3) 2000年11月27日(月)10時48分32秒
9 『ターシャム・オルガヌム』:四次元の球体の「ビジョン」について(2/3) 2000年11月27日(月)10時50分13秒
10 『ターシャム・オルガヌム』:四次元の球体の「ビジョン」について(3/3) 2000年11月27日(月)10時52分19秒
11 お詫び 2000年11月29日(水)05時36分55秒
12 『ターシャム・オルガヌム』:神秘体験の本質と四次元(1/3) 2000年11月29日(水)05時40分55秒
13 (小森さんへ)re:ヴァン・マーネンの四次元球 2000年12月01日(金)06時24分05秒
14 (高橋さんへ)RE:『ターシャム・オルガヌム』:神秘体験の本質と四次元 2000年12月01日(金)06時27分50秒
15 (高橋さんへ)re:『ターシャム・オルガヌム』:神秘体験の本質と四次元 2000年12月03日(日)13時07分58秒
16 (高橋さんへ)RE:『ターシャム・オルガヌム』:神秘体験の本質と四次元(続き) 2000年12月03日(日)13時09分53秒
17 (小森さんへ)re:禅とウスペンスキー思想(1/3) 2000年12月03日(日)13時12分21秒
18 (小森さんへ)re:禅とウスペンスキー思想(2/3) 2000年12月03日(日)13時13分17秒
19 (小森さんへ)re:禅とウスペンスキー思想(3/3) 2000年12月03日(日)13時14分48秒
20 (小森さんへ)re: 諸点 2000年12月11日(月)02時11分23秒
21 (小森さんへ)re:ヴァン・マーネンの図に関して補遺 2000年12月11日(月)02時12分43秒
22 (高橋さんへ)re:神秘主義の本質と四次元(1) 2000年12月11日(月)02時17分15秒
23 (高橋さんへ)re: reverieさんへ 2000年12月11日(月)02時18分22秒
24 (高橋さんへ)re:神秘主義の本質と四次元(2) 2000年12月11日(月)02時20分31秒
25 (高橋さんへ)re:『四次元』と『新しい宇宙像』
26 (小森さんへ)re:ハクスレーの体験等



『ターシャム・オルガヌム』における「動物の心理学」


はじめまして。
『ターシャム・オルガヌム』の解説者紹介のページの URL を拝見してお邪魔いた
しました。いま、10章まで読み終えたところです。

8章までは非常に興味深く読み進んだのですが、9章の「動物の心理学」、と、10章
の「科学と四次元問題」で正直、がっくりしてしまいました。この9章の内容が以
後の章の論旨展開のベースとなっていないのであれば良いのですが、そうでない場
合のことを考えてしまい、読み進む気力がやや萎えた状態です。

なぜなら、9章の「動物の心理学」における著者(ウスペンスキー)の主張、論旨
展開が最近の動物学によってほぼ否定されているようですから。これは失望という
よりも、期待が大きいが故の反作用というべきものだと思っています。

9章の内容は以後の章にあまり関係ないよ、とどなたか希望を与えて下さい(笑)

# 新参者のくせに勝手なことを申し上げて失礼いたしました。 



(高橋さんへ)「動物の心理学」への反証データ


>>なぜなら、9章の「動物の心理学」における著者(ウスペンスキー)の主張、
>>論旨展開が最近の動物学によってほぼ否定されているようですから。
>
>このあたり、もう少し詳しく教えていただけますか? 

はい。長くなりますがご容赦願います。ここでいう「動物の心理学」における
ウスペンスキーの主張とは「動物が言葉と言語を持たないから」、「動物は概
念を持たない」(116頁)を指します。論旨展開とは、この主張をベースとした
「動物は三次元を理解できず、表面のみを知覚する」(124頁)を指します。

最近の動物学における、「動物が言葉と言語を持たない」、「動物は概念を持
たない」という主張への反証とは以下のようなものです(すでに TV などでご
存知のことと思います)。

(1)ハトによる視覚認知の実験結果
  慶応大学の渡辺茂教授、米ハーバード大のハースタイン、ラブランド両氏の
 実験結果から、ハトには人間と人工物、さらには印象派、前衛派という概念
 を形成できること、さらにある特定の人間や絵ではなく、人間『一般』、
 印象派・前衛派『一般』を識別する能力があることが示されています。

(2)言語を理解するオウム(専門家の間では細部で異論があるようですが)
   http://www.newscientist.co.uk/ns/20000115/listeningt.html

(3)数の概念を扱えるチンパンジーがいるという実験結果
  ---------- 新聞記事から引用 ----------
  京大研の天才チンパンジー「アイ」 「ゼロ」の概念理解 人間以外で初
  読売12-1-6(35)

  愛知県犬山市の京大霊長類研究所の天才チンパンジー「アイ」(二十三歳)が
  0から9までの数字をでたらめに並べても、五つまでなら、小さな順に記憶す
  る能力を持つだけでなく、ゼロの概念も理解していることが分かった。成果
  は、六日発行の英科学誌「ネイチャー」に発表される。研究を行ったのは松
  沢哲郎教授(比較認知科学)と川合伸幸研究員(同)。実験ではコンピュータ画
  面に0から9までのいくつかの数字を表示。アイに一番小さな数字を選ばせた
  後に残りの数字を隠し、これらの数字が表示されていた場所を小さい順に指
  ささせたところ五個までなら正確に記憶していた。この際、0を一番小さい
  数字と理解していたほか、画面上の白い点を数えさせる別の実験でも点がな
  い場合は0を選んだ。いくつかの数字を二、三十秒間だけ記憶する「短期記
  憶」はこれまで、人間特有の能力とされてきた。人間ではその数は七つ(プ
  ラスマイナスニ)とされるが、今回、五つとはいえチンパンジーにも同様の
  能力があることが証明された。ゼロについても、一個、二個など物の数を示
  す「基数」、順番を示す「序数」の双方の意味から理解を示したことになり、
  松沢教授は「ヒト以外の動物で序数とゼロの意味を理解したのはアイが初め
  て。小学校に就学前の子供と同じかそれ以上の数的能力があることが証明さ
  れた」と話している。浪川幸彦・名古屋大大学院教授(代数幾何学)の話「人
  間はゼロの発見を通し、何もない状態だけでなく、ケタ上がりの表記もでき
  るようになった。チンパンジーがゼロの概念や数字をどのように理解してい
  るのか。どこまで数の理解を広げることができるのか。ヒトの認識のプロセ
  スを知るうえでも非常に興味深い」
  --------------------

次に、「動物は三次元を理解できず、表面のみを知覚する」に対する反証とし
てコウモリやイルカが挙げられると思います。これらは超音波による奥行きを
含めた空間認識をしていることが実験的に証明されていますから。
これは例えば、
http://gakugei.gakugei-hs.setagaya.tokyo.jp/BUTURI/SW/2G09/bat.htm
http://www.nrife.affrc.go.jp/akamatsu/jasj58.html
をご覧ください。

また、コウモリでなくとも、両眼視を行っている犬や猫などの動物は三次元的
な奥行を認識できていると考えるのが(進化論的な意味で)妥当かと思います。
両眼視による奥行認識については、例えば
http://www.strl.nhk.or.jp/open-e/ex/k14/index.html
をご覧ください。犬や猫の場合、視覚以外に聴覚による方向と距離(奥行)の
認識を行っているように思います。我々人間でも遠くからの音と近くからの音
をある程度は(音の波形に含まれる高域成分の減衰などから)識別できますか
ら。




(高橋さんへ)三次元の知覚と概念


ご返答ありがとうございます。私は誠実な読者=(著者への)批判も躊躇しな
い読者、という立場です。もし、これがこの掲示板の趣旨にそぐわないのでし
たら退去する用意がありますので、遠慮なく退去を命じてください。

>まず、第9章の論旨は、『ターシャム・オルガヌム』全体の中では一つのエピ
>ソード程度の意味しか持たないので、どうぞ気になさらず読み進めていただき
>たいと思います。

はい。確かに、動物が概念を持つかどうか、奥行を認識できるかどうかは、我
々にとっては本質的ではありませんね。いま22章まで読み終えたところです。

>動物が三次元の知覚(概念)を持つことを客観的に示す徴が一つあります。そ
>れは、「言語」の存在です。しかし、今のところ動物が言語を持っているとい
>うデータは存在していないように思われます。 

『ターシャム・オルガヌム』におけるウスペンスキーの三次元や四次元、高次
元という概念の扱い方にはいくつか問題があるように思います。本来、それは

(1)「比喩」のレベル
(2)真実としてではなく、説明のための一つの「モデル」のレベル
(3)「真実」の在りようとしてのレベル

に区別されるものを、あるときは(1)のレベルで言及し、またある時は(2)のレ
ベルで、さらにあるときは(3)のレベルで言及しているように思えます。文脈
からこれらの区別が明らかであれば良いのですが、どうもウスペンスキー本人
が、これらを取り違えている節がうかがえます。

具体例で申し上げます。ちょうど、ご返答で高橋さんが

>その理由は、簡単に言うと、挙げていただいた例は、動物が三次元の知覚(概
>念)を持つことの証明にはなっていないからです。

と仰る「三次元の知覚」と「概念」の場合を見てみます。

「感覚だけを持つ存在にとって世界は一次元であり、感覚と表象を持つ存在に
とっては世界は二次元であり、概念や観念に加えて、高次の知覚形態を有する
者にとっては、世界は四次元である」(『ターシャム・オルガヌム』94頁)
「第三次元は、最初の二次元と並んで、ただ考えることができるのみである。
この次元は『概念』であるに違いない」(同書116頁)

このように「三次元の知覚」と「概念」を等価、あるいは同一範疇と見なすこ
とも、ウスペンスキーの誤謬の一つだと思えます。この二つの類似性を「比喩」
のレベルで言及することに意味はありますが、「モデル」のレベルでは破綻し
ています。

なぜなら(幾何学的な意味での)「三次元の認識」と、(個物からそれらの同
一性を抽象した一般に関する)「概念」は本来別のものですから。仮想的な二
次元世界の存在が三次元の認識を出来ないから、彼らが個物を抽象化した「概
念」をもてないとか、動物は三次元を認識できないゆえに概念を持たない、と
いう論旨は成立しません。

この仮想的な二次元世界の存在が概念を持てないという主張を、ウスペンスキ
ー本人が自ら、図らずしも、以下のように否定しています。

------
おそらく間違いないのは、面存在は角度を彼自身の主観的な表象とみなし、こ
の主観的表象に対応する客観的な現実が存在するかどうかを疑うであろうとい
うことである。(65頁)
------ 
彼(二次元の存在:reverie の注)はこれらすべての現象が面の上で起きてい
ると推測して、お互いに因果関係でつながっていると考える。(68頁)
------ 
こうして二次元存在は「時間の観念」に達する。(69頁)
------  
そして彼は「我々はこの現象を研究した」と言い、「数学的手法」を応用して、
「計算する」ことができたと言うであろう。(70頁)
------  

ウスペンスキーのいう二次元の存在が抱く、主観的表象、客観的表象、現実、
存在、現象、因果関係、時間はどれも充分すぎるほど『概念』です。また『概
念』を用いない数学的手法や計算はありえません。



(高橋さんへ)re:「動物の心理学」への反証データ


>それから、Reverieさんが挙げてくださったデータについて言えば、それがウス
>ペンスキーの論旨の反証になっているとは私は思いません。
>その理由は、簡単に言うと、挙げていただいた例は、動物が三次元の知覚(概
>念)を持つことの証明にはなっていないからです。
>ご指摘の動物実験のデータから分かるのは、人間から見て動物が「あたかも三
>次元の知覚(概念)を持つかのように」振舞うことができるということだけで、
><実際に>動物がそれを持っているかどうかは証明できません。

そうでしょうか? 

認識における懐疑論はどこまでも疑うことができます。高橋さんのご主張だと、
自ら<実際に>知覚できないことがらは全て、証明されないことになります。
しかし、この動物の知覚の問題は、そのような哲学における他我問題のような
徹底したレベルの疑念に基づくものが必要かつ相応しいものでしょうか。

コウモリが空中を飛ぶ昆虫を三次元的に自在な飛行で捕食できることが、三次元
の知覚を持っているという十分な証明でしょう(なお、知覚と概念は別ものです)。

例えば、異なった色によって対応した行動ができることをもって、異なった色を識
別している、と判断するのであって、
-----
<実際に>その主体が異なった色に「見えている」かどうかで判断できないか
ら、それらの色の違いを認識しているかどうか「証明できない」
-----
と判断するような、「過剰な懐疑」に基づく誤りだと思います。

他者や動物がどう感じているかを、我々が自ら<実際に>感じるような事はあり
ません。他者の行動と、(自己と他者の間の生物学的、心理学的)類似性から、
他者も三次元の知覚があると判断しているのであって、他者の心の知覚を<実際
に>感じるからではないでしょう?

同様に、コウモリの場合も進化論的な意味や、生物学的な機能の(人間に比較し
た)類似性とコウモリの実際の行動から判断すべきではないでしょうか。




(小森さんへ)re: 階層宇宙論、その他


>ご批判の趣旨は、わかります。ウスペンスキーの読解のためにも役立つ内容
>ですので、こういう内容のも歓迎です。

恐縮です。許容して頂き、ありがとうございます。

>全体を通読してみた感想としては、いかがなものでしょう。8章までは面白く
>読めた、と前の発言でおっしゃっていたように思うので、「ターシャム」が
>少なくとも汲むべきところのあるものだとは思うのですが──

全体を通しての感想はもう少し、お待ち頂けませんでしょうか。『ターシャム・
オルガヌム』に関してあと2〜3件ほど個別のテーマで検討してから、全体を通
しての感想を考えてみたいのです。

>理系の方が読むと、なおさらそうかなあとも思いました。ただ、論旨そのもの
>は、その弱点があっても、有効だと私は思っております。

私は(科学のドグマを信奉する「と学会」系や「疑似科学批判」系的な意味で
の)理系とは程遠い人間です。ですから科学のドグマが「欠点」、「弱点」と
見なすような事柄を批判するつもりはありません。ウスペンスキーへの批判は
主に神秘主義の内実、そして主張の自己矛盾に絞りたいと思います。





(ALRDTP さんへ) re:機械、動物、人間の意識


はじめまして。微妙なテーマを持ち出されますね(笑)。

>reverieさんの立場では、コウモリそっくりの行動をするロボットあるいは
>人工生命も知覚を持つことになるのですか?

比喩的な意味でそれらが知覚を持っていると表現することは可能だと思います。
が、真の意味ではそれらが知覚を持つとは言えないと考えています。その理由
を一言で言えば、意識の主体がどこにも存在しないゆえに…。

>人工生命も知覚を持つことになるのですか?

人工生命=いわゆる AI であるならば、これも No だと考えています。上と同
じ理由で。

昆虫の神経細胞は数万〜数十万だとされ、じきに Sony や Honda のロボット
が等価的な素子数では追い越すでしょうし、今後ロボットの進化は急速だと予
想しています。ですが、ロボットがどれほど複雑化し優美な動きをしようが、
本質的にあやつり人形であることは変わらない…このように考えます。

>チューリングテストでは人間と区別することが
>困難なAIが作られると思いますが、そのときの知覚や意識はどう考えていくべき
>でしょうか?以下にペンローズの分類を書いてみます。ここでアウェアネスは
>「意識の受動的な現れで’気づくこと’、色や調和の知覚とか記憶の利用など」
>となっています。
>A すべての思考は計算である。特に意識的アウェアネスの感覚は、適切な計算
>  を実行することによってのみ引き起こされる。(強いAIの立場、機能主義)
>
>B アウェアネスは脳の物質的活動の特徴である。どんな物質的活動も計算に
>  よってシュミレートできるが、計算によるシュミレーション自体は、アウェ
>  アネスを引き起こせない。
>
>C 適切な脳の物質的活動がアウェアネスを引き起こすが、この物質的活動は
>  計算によってシュミレートすることはできない。
>
>D アウェアネスは、物質や計算や他のどんな科学的用語をもってしても説明
>  できない。

「アウェアネス」=この問題の核心、とは思いませんが、私の立場は D です。

>私は人間と動物のアウェアネスに質的違いがあるとは思っていません。ただし
>量的な違いがあり、動物の神経回路網に人間特有の神経回路を加えて初めて
>意識や言語活動が起こると考えています。よって人間に関しても特殊な回路
>を(ソフト的にでも、ハード的にでも)付加すれば超人的認識が得られる
>のではと考えています。(サイバーパンクですね。)

実際、ある面で薬物が(不完全ながらも)それに相当していると思いますね。




(高橋さんへ) re:「動物の心理学」への反証データ


>その根拠として、人間自身、物の「表面(二次元)」しか知覚しないにもか
>かわらず、人間は「奥行き」という「概念」を持つが故にそれを「立体(三
>次元)」として知覚する、という考えが述べられています。つまり、人間
>(三次元存在)は、二次元として見ているものを絶えず頭の中で三次元に修
>正しているのだ、というわけです(p114)。つまり、<三次元>とは<知覚>
>ではなく、それ自体がすでに<概念>なのです。

つまり

(1)奥行きは概念である。
(2)三次元とは知覚ではなく概念である。

と仰るわけですね。「三次元という言葉」は概念であるという意味で(2)は仰
るとおりだと思います、私も。しかし、「三次元の感覚=奥行きの感覚」それ
自体は概念ではありえないと考えます。その意味で(1)は成立しないと。

これを詳しく説明してみます。例えば、「右の奥歯の痛み」は生の感覚であっ
て、痛み一般を抽象化した「痛み」は概念です。概念としての「痛み」は痛く
ないことで具体的な感覚としての「痛み」と区別できます。つまり概念はそれ
が個別の対象が一般化、抽象化される段階で個別の対象が持っていた生の感覚
が削ぎ落とされているわけです。

ですから、もしも目の前の机の奥行きに、「奥行き感」が無いのであれば、そ
れは概念であると言えましょうが、実際はそうではない筈です。

三次元(という言葉)の場合は、(それが一般化、抽象化されているゆえに)
具体的な対象がありえず、生の奥行き感覚がともなわない…よって、概念だと
いえます。

しかし、個々の奥行きにはそれぞれの対象が存在しますのでそれに対応した個
別の奥行きの感覚が伴います。そうでなければ、個別の奥行き感は生じえず、
(こちらの方が深いなどと)区別しえないことになります。



『ターシャム・オルガヌム』:四次元の球体の「ビジョン」について(1/3)


本書の 154頁に四次元の球体を「見た」体験とその「ビジョン」が描かれてい
ます。最初に、これに関連する記述個所を同書から引用します。

------
それは普通の三次元球であるが、両方の側から外に向けて飛び出しており、円
を描きながら牛の角のようにだんだん小さくなっていき、球の上部で一つにつ
ながっている。(図1)
だから三つの円が形成されるわけである。元々の球を表す下の円、何もない空
間を表す上の円、そしてそれらを包含する大きな円である。ここで、上の円
(何もない空間)が存在せず、下の(小さな)円が外の(大きな)円と相似で
あることが理解できれば、少なくともある程度は印象を伝えたことになる。
( reverie 注:上記個所はヴァン・マーネンの記述)
skip
私の意見としては、ヴァン・マーネンの「ビジョン」の真の意味は、我々が用
いることのできる方法では評価することさえ難しいと思う。彼の本でこの図を
見たとき、私はすぐにそのすべての意味を理解し、感じた。しかしこの図の解
釈に関して私はマーネンといくつかの点で同意しかねる。彼はこう書いている。

我々は全体の印象を輪(リング)に例えてもいいと思う。私はこの図を見たと
きに初めて、いわゆる四次元視覚は濃密さの視覚的知覚から生じる空間概念に
関わっているということを理解した。
skip
私の意見では、その図形は常に運動しでいる。図形(球)全体が私には動いて
いるように見え、絶えず尖った先の交差点まで上昇し、そこから外に向かって
広がり、再びそこに吸収されるような動きを感じた。
------ (154-157頁)

ウスペンスキーは

---
ヴァン・マーネンの「ビジョン」の真の意味は、我々が用いることのできる方
法では評価することさえ難しいと思う。
---(156頁)

と書いていますが、この「ビジョン」そのものは、それほど大袈裟なものでも、
神秘的なものでもないと思います、私は。そこで、このヴァン・マーネンのビ
ジョンを簡単に解説してみます(実際、単純な話なのです)。

円や球の図を使わないとこの「ビジョン」の解説は困難なので Web で、説明
に用いるのに適切な図を探して見たところ、ドンピシャリの Web ページがあ
りました(他所様のページで私には関わりがありません)。

まずは、

http://www.hokuriku.ne.jp/cyan/graph_30.gif

の図をご覧ください。この図と、

http://www.hokuriku.ne.jp/cyan/graph_13.gif

の図から、「ビジョン」の両側に湾曲して伸びる角が、二次元の円を三次元的
にクルリと伸ばして覆い包む操作に相当していることが分かります。
なお、この図を含む全体の Web ページは

http://www.hokuriku.ne.jp/cyan/novel_1.html

で見れます。



『ターシャム・オルガヌム』:四次元の球体の「ビジョン」について(2/3)


「ビジョン」では角が両側に湾曲して伸びていますが、実際はこの角の伸びる
方向は四次元の方向であって(graph_13.gif が左右の2つの方向に覆い包む
のではないのと同様に)「左右でも、2つだけの方向」でもありません。

さて、ようやく本題に入ります。ヴァン・マーネンの「ビジョン」の『真の意
味』ですが、ヴァン・マーネンも、ウスペンスキーも四次元の球体を(三次元
の超えた視点から)「ビジョンとして見た」ことはないと判断します、私は
(その根拠は後述します)。

ヴァン・マーネンの「ビジョン」は高次元での知覚によるものではなく、あく
まで三次元空間の内部での知的なイメージ操作に過ぎないと判断しています。
たとえ、それが

---
私は目の前の空中に(部屋は暗かったにもかかわらず)形を見た。そしてその
形の後ろに、カーテンの中に裂け目があるのをはっきりと見た。光はそれを通
して部屋に入ってくるのだった。この場合、私は物体が私の頭の外に見えると
いう印象をはっきりと持った。
---(154頁)

という体験であろうとも。また、ウスペンスキーのいう

---
私の意見では、その図形は常に運動しでいる。図形(球)全体が私には動い
いるように見え、絶えず尖った先の交差点まで上昇し、そこから外に向かっ
て広がり、再びそこに吸収されるような動きを感じた。
---

という感覚は

---
実際には完全に三次元であるにもかかわらず、「疑似四次元」を構築
--- (157頁)

したものだろうと判断しています。つまり、端的に言えば錯覚だろうと。

まず、当然ですが、ヴァン・マーネンのビジョンの描写それ自身は四次元のそ
れでないと判断できます。

四次元のイメージは三次元の世界の中においては記述不能です。それは近似で
すら不可能です。なぜなら、三次元の世界の中においては四次元世界に含まれ
る縦、横、高さ、に直交する方向が存在しえないゆえに。あるのはその方向へ
の切り口だけですから。ですから、

---
それは普通の三次元球であるが、両方の側から外に向けて飛び出しており、円
を描きながら牛の角のようにだんだん小さくなっていき、球の上部で一つにつ
ながっている。
---

というような三次元イメージでは当然、四次元のイメージとはいえません。



『ターシャム・オルガヌム』:四次元の球体の「ビジョン」について(3/3)


では、ヴァン・マーネンが絵で描写し、言葉で表現したイメージが四次元のビ
ジョンそのものでありえないのは当然として、彼は生の体験としては四次元の
ビジョンを「見た」のでしょうか? それも否定的だと思います、私は。

仮に我々が、今、二次元世界に突然、封じ込められたとしましょう。記憶を含
めた意識はそのまま保持しているものとします。そして、二次元世界の原住民
に三次元における球を説明する場合のことを考えてみます。

果たしてこの時、二次元に封じ込められた我々は、ヴァン・マーネンの「ビジ
ョン」を二次元に射影した図---直径が D の大きな円の中に、D/2の直径の小
さな円があるような図(左右の角にも見える図)---のようなものを、球の忠
実な印象として描くでしょうか? 

球がもつ膨らみ、しかもその膨らみの形状が円と類似する何かを持つこと、は
左右の角に見えるような2つの円で表現されるものとは、まるで別ものでしょ
う。我々が描くとすれば、絵画にあるような、微妙な光と影の陰影で表現され
た円でしょう。

二次元世界の原住民はその円に描き添えられた、微妙な影と光の陰影が全く理
解できないでしょうが、三次元のイメージ体験があれば、その陰影があること
で、それが球を描いたものであると理解できます。しかし、ヴァン・マーネン
の「ビジョン」にはそれが決定的に欠落していますから、三次元内部での知的
イメージ操作だと判断するしかありません。

とはいえ、ヴァン・マーネンの

---
我々は全体の印象を輪(リング)に例えてもいいと思う。私はこの図を見たと
きに初めて、いわゆる四次元視覚は濃密さの視覚的知覚から生じる空間概念に
関わっているということを理解した。
---

という印象は、四次元での球のイメージの残滓という僅かな可能性が残ってい
ます。「濃密さの視覚的知覚」が先の陰影に相当する可能性です。その場合、
ヴァン・マーネンは四次元の球の「印象だけ」はうっすらと覚えており、それ
とは別に、知的イメージ操作でビジョンを見た(=作り出した)と言えそうで
す。よって、ウスペンスキーがヴァン・マーネンの図に関して、

---
彼の本でこの図を見たとき、私はすぐにそのすべての意味を理解し、感じた。
---(156ページ)

と述べるのは、ハッタリではないかという疑いを持ちます、私は。さらにこれ
までの説明から、

---
私の意見では、その図形は常に運動しでいる。図形(球)全体が私には動いて
いるように見え、絶えず尖った先の交差点まで上昇し、そこから外に向かって
広がり、再びそこに吸収されるような動きを感じた。
------ (154-157頁)

というウスペンスキーの記述も四次元の球とは無関係なものと判断できます。
神秘めかして読者を煙に巻く記述に過ぎないと疑うことも、あるいは可能です。




お詫び


ヴァン・マーネンの図についての私のポストはガサツだったと、今ごろになって
反省しております。気分を害された方へお詫びいたします。

ポストの論旨そのものは変更するつもりはありませんが、イエローレベルのガサツ
さだったという認識でおります。失礼いたしました。



『ターシャム・オルガヌム』:神秘体験の本質と四次元(1/3)


実は、

・『ターシャム・オルガヌム』で積極的に評価すべき点。
・20章での「無限」の数学的扱いは適切か。
・21章の「第三の思考規範」は規範となりうるか。

を検討しそのポストを終えてから本題に入るつもりでした。しかし年末も近づ
き、時間的余裕の見通しがかなり狂ってきましたので、それらはスキップして、
私が最も重要と考える問題(つまり本題)の検討に移ることにいたします。

それは『ターシャム・オルガヌム』でウスペンスキーが記述している神秘主義
の本質と四次元の関係そのものについて、です。

さて。 神秘体験や霊的世界、マーヤを超えた真実の世界は実は四次元以上の
高次元の世界であるというウスペンスキーの主張は、いまやオカルト界、精神
世界に広範囲に普及し、なかば常識化しているといえます(web で「四次元」
と「精神」のキーワードで検索すると明らかです)。

かつての四次元がブームだった時代風潮もその普及に寄与し、現在ではむしろ
陳腐化しているとすらいえる面があると思えます(「四次元」は、オカルト雑
誌ですらメインテーマにならないというような意味で)。しかし、普及した割
には、いまだに、ウスペンスキーの上記の主張の内実が吟味され尽くしたとは
言えないように思います。

精神的、霊的な面で、なにやら神秘的な事柄を、数学や科学の面で一般からは
同じく神秘的に見える四次元に当てはめて見たら、たまたま、幾つか符合する
ところがあったというだけなのか、真理であるがゆえに一致すべくして一致し
ていることなのか…これの検討が不十分なように思えます。あるいは、その前
にそもそも本当に符合していると言えるのか、というような検討です。

そこで、ウスペンスキーの主張を次の三つの命題に絞った上で検討してみたい
と思います(この要約が不当であれば、それは私の歪曲か誤読と言えます)。

(1) 神秘体験における世界との一体感、宇宙感覚、至福の感覚、永遠の今の感
  覚は四次元以上の世界での体験である。
(2) ウパニシャッドの奥義や禅における悟り、老荘の道(タオ)――以後これ
  らをまとめて東洋思想と呼びます――は四次元以上の世界に関する直接認
  識である。
(3) このような(1)の体験、(2)の認識が可能なのは我々の本質が四次元以上の
  世界にあるからである。

ここで四次元とはウスペンスキーのいう過去、未来が同時に存在する世界を指
します。なお、「命題」ですから「比喩」や「モデル」のレベルの議論ではな
く、それが「真実」かどうか、これが問題となります。

この三つの命題が否定された場合、ウスペンスキーの主張は大枠で否定される
でしょうし、肯定された場合は大枠で受け入れられることでしょう。

まず、(2)から検討します。仮に禅における悟り、老荘のタオが四次元以上の
世界に関する直接認識だった、と仮定してみます。この場合、四次元以上です
から当然、四次元の認識も含まれるはずですが、タオに通じた人、大悟した人
が四次元世界の認識能力を得たという形跡が無いようです。

少なくとも、四次元の認識能力が本当にあれば四次元の球体をイメージできる
筈ですが、エッシャーの絵画やクラインの壺など、相当するイメージの言及は、
老荘や禅師、さらに過去の神秘主義者を含めてなされた形跡がありません。

過去と未来が一体として見通す(もしくは見通したと感じた)ことで、それが
四次元認識だと認めるのは問題があります。四次元を出さずとも、たとえば、
時間という概念の成立する(=時間という幻が展開されつつある)そのさらに
奥の領域に意識が移行したという唯識的な見解も可能ですから。

東洋思想では(高次元の実在のような)イデア論的立場ではなく、むしろ唯識
的な立場をとります。つまり本質が高次元の世界に実在するとみるのではなく、
高次元であろうが、低次元であろうが、「存在はすべてマーヤ」であり、無や
空、混沌のような在りよう(≠存在)が真実であると。

東洋思想では高次元の世界というような、高レベル、高い秩序構造の世界より
むしろ、より下位の、秩序が生まれるその前の世界、つまり無や空、混沌(カ
オス)といった世界に向かっていると思えます。

つまりウスペンスキーはこの世界のさらにレベル的にも階層的にも上の世界に
真実があると見、逆に東洋思想ではこの世界の基盤としての混沌や無、空のよ
うな在りようを真実と見ていると思えます。ウスペンスキーは彼の想定した高
次元世界の本質は東洋的真実(=混沌や無、空)と通じていると判断していた
ようですが、私には全く逆であるように思われます。

―――― 
今後、掲示板のアクセスの頻度がやや落ちることをお許しください。論旨展開
も雑で、書籍からの引用もなしという手抜き状態なことを申し訳なく思います



(小森さんへ)re:ヴァン・マーネンの四次元球


図を描いていただきまして、恐縮です。

>ここで、ヴァン・マーネンの、四次元球の視覚化した図を見てください。
>
>おそらく、ヴァン・マーネンは、
>(1)時間軸を空間内の方向で代用し
>(2)時間を円環状に表象している
>のだと思います。

ええ、よく分かります。この(1),(2)は私の先のポストにあった Web の図とそ
の意味するところは同じですから。要は四次元の球の極薄の断面(=三次元の
球)を四次元の方向へ重ねるか、四次元球の表面を覆い尽くして最後に中身を
詰めるか、の違いはあっては結果としての形状は同じになりますね。

しかし、

>その二点の条件下では、この図が、まさに四次元球の視覚化であることがわ
>かるでしょう。

というご意見には残念ながら賛成できません。(1),(2)にもとづくヴァン・マ
ーネンのイメージは「まさに四次元球の視覚化である」とは言えず、四次元球
の「三次元内部での知的イメージ操作にとどまる」と判断します、私は。

ここでの問題はあくまでヴァン・マーネンなり、ウスペンスキーが、四次元球
を三次元内部で知的イメージ操作をしただけなのか、三次元を超える次元にお
いて「見た」のか、です。ヴァン・マーネンのあの図自身は幾何学への理解が
あれば誰でも、少し考えれば描けるイメージに過ぎません。実際に、四次元を
見たことのない人が  web で当たり前のように解説している事は紹介ずみです。

比喩で説明します。ある人物が神の姿を見たと主張したとしましょう。彼は
「神の姿は絵に描くことは不可能なのだが、あえてその印象だけでも表現して
みた」といって神の姿の絵を見せてくれたとします。ところが、その神の姿の
絵とうり二つの絵が、別人によって Web で公開されていて、その Web の絵は
知的な推測によって(神を見ずに)描かれたものだと判明したとします。

この場合、最初の人物が「本当に神を見た」と無理に仮定する必要は不要でし
ょう(不自然な仮定を要求するゆえに)。手品師と全く同じことしかできない
超能力者は、超能力があると認める「必要がない」のと同じです(オッカムの
剃刀の原理)。

>ヴァン・マーネンのヴィジョンに関して、ウスペンスキーが、「球全体が動
>いている」(157頁)と言ったのは、重要です。これは、三次元では表記できな
>い時間軸を、空間的に代用していることをウスペンスキーが自覚していたこ
>とを示しています。

まず、あの図のような形で「時間軸を、空間的に代用していること」はウスペ
ンスキーならずとも自覚できることです。あの Web の図がその自覚なしで描か
れたとお考えでしょうか? 

次に、ウスペンスキーが、「球全体が動いている」と述べていることについて
は小森さんとは反対に、否定的に評価します、私は。本当に四次元空間から
「見た」場合、(その断面となる三次元の)球に動きはありえません。三次元
での時間的な動きは四次元では静止して一体となった静止した形状に見えるこ
とはウスペンスキーが本書で述べていることです。

それが三次元では動きとして見えるというのは、当たり前のことですが、余計
な事を書きすぎて矛盾を生じているようです。矛盾とは、
---
私の意見では、その図形は常に運動しでいる。図形(球)全体が私には動いて
いるように見え、絶えず尖った先の交差点まで上昇し、そこから外に向かって
広がり、再びそこに吸収されるような動きを感じた。
------ (154-157頁)

の後ろの文章です。四次元から見たときには動きはありませんし、三次元から
見たときには、動きはあっても「絶えず尖った先の交差点まで上昇し、そこか
ら外に向かって広がり、再びそこに吸収されるような動き」はありえません。

ですから、ウスペンスキーの(上記の引用の)記述は四次元でも三次元でもあ
りえません。

>下の図1の、二次元からの、三次元球の視覚化ですが、この図においても、
>同様に、円が動いています。円が、点からだんだん大きい円になって、真ん
>中で最大の円となり、だんだん小さな円へと動いているところを想像してく
>ださい。それが、二次元から見た、ヴァン・マーネン的ヴィジョンによる(三
>次元の)球です。 

それは別段、(三次元を超える)高次元の知覚を必要としませんが。




(高橋さんへ)RE:『ターシャム・オルガヌム』:神秘体験の本質と四次元


>>少なくとも、四次元の認識能力が本当にあれば四次元の球体をイメージでき
>>る筈ですが、エッシャーの絵画やクラインの壺など、相当するイメージの言
>>及は、老荘や禅師、さらに過去の神秘主義者を含めてなされた形跡がありません。
>
>エッシャーの絵画やクラインの壺というのは四次元のイメージなのでしょうか?

はい。まず、

http://www.post1.com/home/hiyori13/other/asada.html
http://homepage1.nifty.com/ogw/talk01.html

をご覧ください。三次元で可能なメビウスの輪の捻りに(位相幾何学的に)対
応するのが四次元でのクラインの壺ですから肯定できると思います。

エッシャーも四次元のイメージを明確に意識しています。
---
美術史を振り返ると、四次元的なイリュージョンを発生させている画家にエッ
シャーがいる。彼はトポロジーの概念を用い、4次元的なイリュージョンを発
生させている。
--- http://www.wind.ne.jp/satoru_i/review.htm から引用 


>カバラや錬金術、東洋で言えば曼荼羅などで用いられているイメージは高次元
>のリアリティのイメージやシンボルではないとどうして断言できますか?

その前にこの話題(つまり本書でウスペンスキーの述べている神秘体験と四次
元の話題)を私はどういう観点に絞りたいのか、を確認しておきたいと思います。
四次元一般、神秘主義一般は議論の対象としてはあまりに大きすぎます。そこで

---
そこで、ウスペンスキーの主張を次の三つの命題に絞った上で検討してみたい
と思います(この要約が不当であれば、それは私の歪曲か誤読と言えます)。

(1) 神秘体験における世界との一体感、宇宙感覚、至福の感覚、永遠の今の感
  覚は四次元以上の世界での体験である。
(2) ウパニシャッドの奥義や禅における悟り、老荘の道(タオ)――以後これ
  らをまとめて東洋思想と呼びます――は四次元以上の世界に関する直接認
  識である。
(3) このような(1)の体験、(2)の認識が可能なのは我々の本質が四次元以上の
  世界にあるからである。
--- (前回のポストの引用)

に絞る事で有効な議論を進めたいのです。よろしければ、カバラや錬金術につ
いては議論が発散しそうなこと、日本人である我々の一般的な興味・知識が東
洋思想のそれに比べて薄いこと、からこの問題に関する主たる話題からは除外
させてください。

マンダラも上記のウパニシャッド、禅、老荘(以下、東洋思想と略記)とは直
接の関係がありませんので軽く触れるだけにさせてください。さて。

>曼荼羅などで用いられているイメージは高次元のリアリティのイメージやシ
>ンボルではないとどうして断言できますか?

と、仰っていることと類似したことが、例えば、

---
こうして、マンダラの本籍はどうも、「空」の世界にあることは分かってきた。
「心の中の多宝塔」とは、こうした次元のことなるであろう空の世界の多重構
造を指している。三次元は四次元の投影であり、四次元の投影は恒に三次元の
立体となって立ち表れる。
--- http://www.tk.xaxon.ne.jp/~kurosawa/Japanese/004.html#4jigen

などでも述べられていますね。でも高橋さん(やウスペンスキー)と密教思想
では重要な違いがあります。それは、

高橋さん:四次元以上の実在は、形がある実在であり、空ではない。
密教思想:曼荼羅は何らかの実在のシンボルではなく、究極では空を意味する。

という違いです。それを、同じ web から引用します。

---
マンダラは「空」の世界の究極の「相」であり、空の本質であり、円く輝くさ
まざまな色彩に満ちた光の像となって顕れる。
--- http://www.tk.xaxon.ne.jp/~kurosawa/Japanese/001.html

ここでの「相」は実在を意味せず、移ろい行く表象であり幻影的存在を意味し
ているようです。さらに、究極では曼荼羅は空ですから

---
その意味では、マンダラは目に見えず、鼻で臭いを嗅ぐことができず、耳で聞
くことが出来ず、舌で味わうことが出来ず、身体で触れることが出来ない。
--- http://www.tk.xaxon.ne.jp/~kurosawa/Japanese/002.html

とあるように、(タオや無、空と同様)具体的な認識しうる形を持ちません。

さて、高次元の実在は当然ですが、形をもちます(そうでなければウスペンス
キーやヴァン・マーネンが四次元球を「見る」わけがありません)。

かりに「曼荼羅などで用いられているイメージは高次元のリアリティのイメー
ジやシンボル」だとしても、その「高次元のリアリティ」=空であり(形をも
ったモノのような)実在ではない…これが東洋思想です。
ゆえにその実在をウスペンスキーのようにビジョンとして形を見ることはでき
ません。

>「時間という概念の成立する(=時間という幻が展開されつつある)そのさ
>らに奥の領域に意識が移行した」というのはどういう意味でしょうか?

先の三つの命題とは直接関係しないゆえ、ここでは省略させてください。
「αというウスペンスキーの主張は正しくない」ということを議論するときに、
「正しいのはαではなくβである」のβを説明するのが望ましいのは確かです
が不可欠ではありませんから。その時間的余裕がありませんし、議論も発散し
ます。

>>東洋思想では(高次元の実在のような)イデア論的立場ではなく、むしろ
skip
>>であり、無や空、混沌のような在りよう(≠存在)が真実であると。
>
>ここで説明されている東洋思想とは何のことでしょう? 「存在はすべてマ

一応、前回のポストで
---
(2) ウパニシャッドの奥義や禅における悟り、老荘の道(タオ)――以後これ
  らをまとめて東洋思想と呼びます――
--- 
と定義しています。そのたびに「ウパニシャッドの奥義や禅における悟り、老
荘の道」と書くのも面倒なので。

# 長文になりましたので、続きはまた次回にいたします。




(高橋さんへ)re:『ターシャム・オルガヌム』:神秘体験の本質と四次元


>Reverieさんのお答えにはいくつか明らかな矛盾点がありますが、議論のための議
>論を続ける気はないので、基本的なところについて一言。

「議論のための議論」をしているとお考えでしたら、私の説明が稚拙なせいで
しょうね。あるいは全体的に否定的論旨が多すぎるのかも。確かに肯定的な個
所は言及していません(笑)。

『ターシャム・オルガヌム』でのウスペンスキーの「意気込み」を高く評価し
ているがゆえに、その検証は徹底しなければならない、と私は考えています。
それが著者や訳者である高橋さんへの読者としての礼儀だとも。阿るだけが読
者のあり方ではないという立場ゆえに。

私のウスペンスキーへの批判的論旨が、本書の本質的問題とはかかわりが無く、
議論のための議論に過ぎない、あるいは、ためにする批判であり迷惑だとお考
えでしたら、そう言ってください。最初に申し上げたように直ちに撤退いたし
ます。理由抜きにそう命じて下さってもかまいません。

また、理由がなんであれ、それが議論したくないテーマでしたら、それも言っ
てください。無理に私が本質的だと思い込んでいる問題に乗ってくださる必要
は、訳者といえど、ありませんから。

>ウスペンスキーが『ターシャム・オルガヌム』で意図したのは、誤解を恐れず単純
>に言えば読者に「異なった思考」を示すことであって、科学的事実の追求や究極的
>真理の提示を第一の目的にした書物ではないと私は捉えています。その意味では、
>これはまだまだ開発途上の作品だと言えます。ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』
>がそうであるように。

ええ、仰るとおりでしょうね。

>ですから、私などには、そもそもreverieさんが立てた3つの命題の真偽によって
>この書の価値を図ろうという試み自体がいささかピント外れなものに思われてしま
>います。

すこし、誤解があると思います。
本書の「主張」の是非を論ずることと、「価値」を論ずることは別ですから、

>この三つの命題が否定された場合、ウスペンスキーの主張は大枠で否定される
>でしょうし、肯定された場合は大枠で受け入れられることでしょう。

とウスペンスキーの「主張」を否定することが、即、本書の価値を否定してい
るとか貶めていると思わないでいただけませんか? 

本書の「主張」がどこまで正しく、どこが誤りか、これを徹底して評価するこ
とが、本書の価値を最大に認めることであり、安易に受け入れることはむしろ、
ウスペンスキーの意図を貶めることではないでしょうか。

>彼はこの本の中で、高次元という補助線を使って人間の思考がアナロジーの力でど
>こまで行けるかを実験してみたのだと思います。彼の物言いが断定的で、いかにも
>絶対的真理を語っているという風を装っているために読者に誤解を与える部分はあ
>ると思いますが…

うーん。訳者がそのような軟弱な解釈をしていると知ったならば、ウスペンス
キーは嘆くのではなかろうか…これが率直な感想です。ウスペンスキーはアナ
ロジーとしてではなく、四次元こそが、空間認識こそが答えでありキーである
と、本気で思い込んでいたように私には思えます(少なくとも本書の執筆時点
では)。だからこそ、アリストテレス、ベーコンに次ぐ、第三の思考規範だと
自負したのでは?

私はその壮大な意図と自負に感銘したからこそ、ここに書き込んでいるのです。
ウスペンスキーの主張が比喩に過ぎないのであれば、私はその比喩の細部に拘
る馬鹿者に過ぎませんので大いに萎えます。そして、確かにこれまでのような
私の議論は無用でしょう。

>(だいたい空とか実在などという概念自体かなり曲者ですが、ここでは深く論じま
>せん。)しかしこれはそういう議論をするための書物ではないのです。ウスペンス
>キーの「悟り」がそこまでいっていなかったと言えばそれまでですが。

つまり、ここでは空や実在を論ずるつもりがない、という理解でよろしいでし
ょうか。

四次元や神秘体験は曲者じゃないが、神秘体験で実感される空や実在に関する
認識は、概念として曲者だ…とおっしゃるわけですね。そして、本書は四次元
や神秘体験を議論しているが、空や実在に関する認識には関わりがない本だと。

であれば、すでに用意した高橋さんへのレスポンスは流れ上、次にポストいた
しますが、それ以後の高橋さんとの「空や実在に関する議論」は取りやめます。

# 小森さんとの議論はここで継続してかまわないのですね?




(高橋さんへ)RE:『ターシャム・オルガヌム』:神秘体験の本質と四次元(続き)


高橋さんへのレスポンスの続きをポストさせていただきます。

>「存在はすべてマ
>ーヤ」というのはインド哲学の不二一元論で、「無や空、混沌のような在り
>よう(≠存在)が真実である」というのは老荘思想ですか? 

「存在は全て実在ではなく、幻(マーヤ)である」というのはウパニシャッド、
禅、老荘に共通した捉え方である、このように思います。もちろん、その細部
に拘れば、それぞれに特有の傾向や差異を見出すことは可能です(例えば、空
と道はかなり類似していますが本質的差異も見出せます)。

ウパニシャッドと仏教の間で多くの共通項があること、仏教と老荘思想の間に
このような面で共通項があることは一般に認められています。たとえば、挌義
仏教をご存知でしょう。インドからの仏教が老荘思想がベースであった中国に
受け入れられた時に用いられたもので、仏教思想を老荘思想に焼きなおして把
握されたことをさします。仏教と老荘の間に本質的に共通するもの(空と道)
があるゆえに、可能になったことです。

>>東洋思想では高次元の世界というような、高レベル、高い秩序構造の世界
>>よりむしろ、より下位の、秩序が生まれるその前の世界、つまり無や空、
>>混沌(カオス)といった世界に向かっていると思えます。
>
>東洋思想の中でも、チベット仏教やインド思想では「高い秩序構造の世界」
>(必ずしも高次元の世界とは呼んでいないにせよ)の存在を認めています。
>「より下位の、秩序が生まれるその前の世界、つまり無や空、混沌(カオス)
>といった世界に向かっている」というのはどういうことかちょっとよく分か
>りません。

チベット仏教や密教、華厳経などで「高い秩序構造の世界」が説かれているの
は仰るとおりです。ただし、その「高い秩序構造の世界」は「究極の実在」と
して説かれているのではありません。それらの「高い秩序構造の世界」も所詮
は幻であり、究極のありかたは「空」だと捉えます。

そして、この議論においてこれが最も重要なポイントですが、空というあり方
は「高い秩序構造の世界」とは全く相反します。空はいかなる意味でも高次元
空間ではありえません。

>>つまりウスペンスキーはこの世界のさらにレベル的にも階層的にも上の世
>>界に真実があると見、逆に東洋思想ではこの世界の基盤としての混沌や無、
>>空のような在りようを真実と見ていると思えます。ウスペンスキーは彼の
>>想定した高次元世界の本質は東洋的真実(=混沌や無、空)と通じている
>>と判断していたようですが、私には全く逆であるように思われます。
>
><東洋的真実=混沌や無、空>、<ウスペンスキー(西洋思想)=イデア論>
>と形式的に考え、それらを対立させるような思考法こそ、ウスペンスキーの
>批判した「論理的思考」のような気がします。『ターシャム・オルガヌム』
>はそういう思考の呪縛から逃れるために書かれたのではないでしょうか。 

つまり、

(1)reverie は東洋的思想と西洋思想の形式的に捉え対立させている。
(2)『ターシャム・オルガヌム』がそれらの思考の呪縛から逃れようとした。

と仰るわけですね。(2)は仰るとおりだと思います。その意図がどの程度実現さ
れたのかが、私の主たる興味でもあり、この一連の議論である程度明らかにな
ることを期待しています。(1)は誤認だと思います。

まず、私は東洋思想と西洋思想の「一般」をを対比させているのではありませ
んし、その「形式」を問題にしておりません。ご確認いただきたいのですが、
私は、具体的に
----
ウパニシャッドの奥義や禅における悟り、老荘の道(タオ)における神秘体験
(世界との一体感、宇宙感覚、至福の感覚、永遠の今の感覚)はウスペンスキ
ーの述べる四次元以上の世界での体験ではない
---
ことを主張しております。この主張はあくまでウスペンスキーが対象であって、
西洋思想「一般」との「形式的に捉えた対立」などないと認めて頂けるものと
思います。



(小森さんへ)re:禅とウスペンスキー思想(1/3)


引用の順や改行位置を変えさせていただきました。

>>少なくとも、四次元の認識能力が本当にあれば四次元の球体をイメージできる
>>筈ですが、エッシャーの絵画やクラインの壺など、相当するイメージの言及は、
>>老荘や禅師、さらに過去の神秘主義者を含めてなされた形跡がありません。
>
>↑この箇所には、私はまったく賛同できません。
> 神秘文献の例はたくさんあり、エッシャーの絵と似た図画を書いていた
>  神秘家というと、ヤコブ・ベーメがいますが、あまりに多岐にわたるので、
>  とりあえず禅に話をかぎりますが──

ご教授、ありがとうございます。もし、実際にヤコブ・ベーメが四次元世界を
見たと主張し、それを図画で(近似的に)描いていたのでしたら、「さらに過
去の神秘主義者を含めて」の部分のみ取り下げます。よろしければ、参照すべ
きポインターを教えてください(お暇なおりで結構です)。興味がありますの
でその図形を見てみたいです。

>     まあそれは、ウスペスンキーの世界観を学んだ後で、その枠組み
>で見ようとするから、そう見えるのだという意見もありますが、今世紀最大
>の禅学者とも言うべき鈴木大拙が、ウスペンスキーの思想を「禅と通底して
>いる」と評したことは忘れるべきではないでしょう(「宗教と近代人」参照)

その大拙の批評の意味は「ウスペンスキーの思想を全体として見た時、禅と通
底しているものがある」であって、いま問題としている「ウスペンスキーの四
次元世界と神秘体験に関する主張が、禅と通底している」と述べているという
根拠にはならないのではないでしょうか。

大拙が禅と四次元世界の関連性について(比喩やモデルとしてではなく、真実
として)述べた文献などがありますでしょうか?

> ウスペンスキーを読むまで、私は、大学で禅サークルにいたときから、禅
>籍の研究をしてまいりましたが、禅の典籍は、高次元の比喩とか描写に満ち
>ています。

私は禅の典籍が(次元の高い議論をしようといった意味の次元ではなく、ウス
ペンスキーの言う意味での)高次元の比喩とか描写に満ちているとは全く思い
ません。

>禅の公案から一つ例を取り上げてみましょう。
>南泉和尚が、瓶の中で育てて大きくなった鳥を、瓶を壊さず、鳥を殺さず外
>に出してみよ、という公案を出しています。これは、三次元的に考えるかぎ
>りは、両立不可能な難題なのですが、高次元において外と内がつながってい
>ることを、悟りにおいて了解することを示していると思います。

つまり、高次元世界の中にも(三次元世界の)瓶の外と内に相当するモノがあ
りそれが、その高次元空間ゆえに繋がっている、それを了解する…これが禅に
おける悟りだと仰るわけですね。

まず、その解釈の「外と内がつながっている」と「高次元において」、はよけ
いでしょう。外と内を区別しておいて、それがつながっていると見ること自体
が無分別を立てる禅の悟りとはほど遠いと思います。

>禅の公案は、高次元という補助線を引くことで解けるものが他にもたくさん
>あります。

禅の公案は(完全な密室殺人のような)論理では絶対に解けない、ぎりぎりの
状況を設定しますから、見方によっては、その状況自体が四次元空間を持ち出
せば解けるケースも、沢山の公案の中を探せば、見つかるでしょう。その例を
無関門から上げて、テキトーに解釈して見ましょうか。

無関門の門:四次元にある門を通る。
香厳上樹:四次元を通って木から下りる。
南泉斬猫:これも四次元を通って猫を救い出す。
じょう州狗子:狗の仏性は四次元にあるから三次元では有るとも無いともいえる。
世尊捻花:釈迦は四次元空間で真実を示し、迦葉だけはそれを見た。
けい仲造車:これも四次元空間で車を作った。
大通智勝:三次元では十劫に感じる時間を四次元空間の道場に座っていた。
牛過窓れい:牛の尻尾だけ四次元世界を通った。
庭前栢樹:四次元世界の木のこと。
兜率三関:四次元に行く。
乾峰一路:四次元の道。

うーん、四次元って便利! 難解無比なる無関門も実に簡単に透ります(笑)。

>あります。無とか空と、高次元は、矛盾するものとか対立するものではない
>と私は思います。

私が否定するのはまさに、これです。次のポストで一般によく知られている
「庭前栢樹」の公案が四次元空間とは無関係なことを説明いたしましょう。



(小森さんへ)re:禅とウスペンスキー思想(2/3)


以下、禅師の言葉ではなく、『知覚の扉』(平凡社ライブラリー)A.ハクス
リー著 河村錠一郎訳、から大量に引用します。禅師の言葉を使わず、『知覚の
扉』を引用するのは

(1)禅師の悟りの体験の告白は独特の宗教概念によって表現され、その信念に
  よってフィルタリングされているため、体験それ自体のありのままの分か
   りやすい記述が期待できない。『知覚の扉』はその逆に大変詳細にかつ具
   体的に記述されている。
(2)禅師はその悟りの内容をみだりには述べない。述べるとしても抽象的だっ
  たり、隠喩だったりして、その具体的内容がわかりづらい。
(3)悟りにおける高次元空間についての意識した言及が禅師には見られない。

という理由からです。『知覚の扉』にある体験が「庭前栢樹」の公案の悟りと
本質的に同じであることを引用によって示します。私はこの体験が一時的であ
るという制約はあるものの、本質的に「庭前栢樹」の公案の悟りと同じものだ
と判断します。

以下、微妙な問題ゆえ、主題に関連する部分全体を省略せず引用します。なお、
17頁から25頁が関連する個所です。
---- 
 私が薬を飲んだのは十一時である。一時間半後には、私は書斎に坐って小さなガラスの
花瓶に眼を凝らしていた。花瓶には花が三本活けてあるだけであった― 一本は満開の
「ポルトガルの美女」という薔薇で、色は褐色を帯びた赤黄色、花弁の付根のところは熱い、
炎のような色をしていた。それと深紅色にクリーム色の大きなカーネーション、そしても
う一本は折れた茎の端に淡い紫色の花を付けている菖蒲(あやめ)で、紋章のように輪郭
のくっきりした花を付けていた。この小さな花束は、偶然の、一時の組合せにすぎず、
伝統的な良き趣味なるものの持つ規則をすべて破っていた。その日の朝は、朝食を取りな
がらこの色彩がひどく不調和だと感じたのに、いまはもうそんなことは問題ではなくなっ
ていた。私がいま眼にしているのはおかしな活け花ではなかった。私が見ているのはアダ
ムが創造された日の朝彼が眼にしたもの― 一刻一刻の、裸身の存在という奇蹟だったの
である。
「気持はいいですか」誰かがそう訊いた(実験のここの部分は会話がすべて録音されてい
たので、たやすく記憶を甦らすことができた)。
「気持良くも悪くもないですよ」私は答えた―「あるがままです」。(イスティッヒカイト)
これこそマイスター・エックハルトが好んで使った言葉ではなかったか。即ち、「存在性
 is・ness」。プラトン哲学でいう<存在> であるただし、プラトンは 〈存在>と 〈生
成>を区別し 〈存在>を 〈イデア>という数学的抽象物と同一視するという、法外な、グ
ロテスクな間違いを犯したようではあるが。可哀そうにプラトンは、内なる光に輝き意味
を充填されてその重みにうち震えている一束の花を見たことがなかったに違いない。薔薇
や菖蒲やカーネーションがこれほど激しく意味しようとしていたものがあるがままの花の
存在そのもので、それ以上でもそれ以下でもないことなど、気付いたためしがなかったに
違いない ― それは、無常でありながら永遠の生命であるような無常、絶えざる消滅で
ありながら同時に純粋な 〈存在>であるような消滅、微少な、個個別々のものの特殊の
集まりでありながら何か言うにいわれぬ、だがまた自明でもある逆説によって全実在の聖
なる源泉を見ることができるものとしての個物の束なのである。
 私は花を見続けた。すると、生き生きとした花の光の中に質的に呼吸に相当するものが
認められるように思えた − ただしその呼吸は出発点に戻ることのない呼吸で、潮がくり
返し引くということはなく、ただひたすら美から更に高度の美へ、深き意味から更に深き
意味へと絶えず昇っていく流れである。〈恩寵>とか 〈変容>といった言葉が心に浮かんだ
 − この光の息遣いは、もちろん、何をおいてもまずこれらの言葉が意味するものに他な
らなかった。私の視線は薔薇からカーネーションヘ、そしてその羽毛のような白熱から滑
らかな渦を巻き菖蒲と呼ばれる有情の紫色へと移動した。〈神の示現>、〈Sat Chit Anan・
da>、<存在・認識−至福> − これらのおどろおどろしい言葉の言わんとすることを、私は、
はじめて言葉の次元でではなく、漠として不完全な暗示によるのでもなく、靴を隔てて痒
きを掻くというのでもなく、正確に、完全に、理解した。そして私は鈴木大拙の書いた随
筆の一節を思い出した。「<仏陀の法>とは何でございますか」(〈仏陀の法>は〈心>、<真如>、
<虚空>、あるいは<神>を意味する別の表現法である)。この間は禅寺で新米の憎が発したもの
である。禅師はマルクス兄弟流の意表を突いた即答でこう答える − 「庭のはずれの生垣
じゃ」。「ではこの真実を具現せる者はそも何人でございましょうか」と新米の僧は然とは
納得できないというように訊ねた。グルーチョウはこの僧の肩を柱杖ではっしと叩き、こ
う答える − 「黄金のたてがみをした獅子じゃ」。
 これを読んだ当初は、ほとんど意味のないただのナンセンスだと考えていた。ところが
今や陽の光のように明晰であった − ユークリッド幾何学のように明白であった。もちろ
ん、仏陀の法は庭のはずれの生垣である。同時に、それと劣らず明白に、それはまたあの
一束の花であったし、私が―というよりはむしろ私の抱擁に窒息しかけることから一瞬
解放された至福の 〈非自我>が―好んで見ようとするものすべてであった。例えば、書
斎の璧にぎっしり並んだ書物。私が眼をやると、花の場合と同じように、これまでにない
鮮烈な色彩で、これまでにない深い意味を持って輝いた。ルビーのような赤い本、エメラ
ルドの本、白水翡翠装丁の本、瑠璃の本、藍玉の本、黄色トパーズの本、そして瑠璃の本は、
色彩が非常に強烈で本質的意味にあまりに満ちているために、いまにも棚を抜け出してさ
らに執拗に私の視線に身を投げ付けてくるかのように思えた。
-------



(小森さんへ)re:禅とウスペンスキー思想(3/3)


次に、この禅の公案そのものいえる体験において四次元以上の空間はどの程度
関係したでしょうか。関連の個所を引用します。

----
 この私の世界に現実に起こつた変化はいかなる意味でも革命的なものではなかった。
skip
人間や動物の顔とか姿が現われることはまったくなかった。
巨大な空間も見ず、魔術のように成長したり変形したりする建築物を見ることもなく、お
ぼろげにせよなにかドラマのようなものとか寓話のようなものを見るということもなかっ
た。メスカリンが私を招き入れたもう一つの世界なるものは幻想の世界ではなかった。そ
うではなく、眼の前に外在している世界―眼を開いて見ることのできる世界であった。大
いなる変化は客観事実の領域に起こつたのである。私の主観世界に生じたことはこれに比
べれば物の数ではなかった。
---
つまり客観的な空間認識は大きくは変わらず、従来の三次元空間のままだった
と分かります。あくまで主観世界の出来事だったことも。

---
「空間関係はどうですか」本を眺めていると実験者が開いた。
 それに答えるのは難しかった。ものの遠近はなるほどいささか奇妙に見え、部屋の壁は
もはや直角に交わらないように見えた。しかし、こういったことは真に重要なことではな
かった。真に重要な事実は、空間関係が大して問題と感じられなくなったということ、そ
して私の精神が世界を空間的範疇以外の見方で認識することを始めていたことであった。
普通、眼は「どこに―どの位遠くに―何との関係でどう位置しているか」といった開
題に係るものである。メスカリン実験では、眠が反応する事柄はそれとは別の種類のもの
であった。場所と距離はさして関心の的ではなくなった。精神の認識作用は存在性の強度、
意味性の深度、パターン内部の関係性といったものでなされるのである。私は書物を眼に
した。しかし、その空間的位置にはまったく無関心であった。私が注目したのは、私の精
神に印象づけられたのは、書物がすべて生きた光に輝いたこと、そしてその輝きの強さに
本によって違いがあったことである。この限りにおいては、位置とか三次元とかは問題の
核心ではなかった。もちろん空間という範疇が抹殺されたわけではない。立ち上がって歩
き廻ってみても、まったく平常と変りなくできたし、物の在り場所を見誤ることはなかっ
た。空間はいぜんとして存在したわけである。が、支配的なものではなくなっていたのだ。
精神がもっぱら係っていたのは大きさとか位置ではなく、存在と意味だったのである。
 そして、この空間への無関心に、時間に対するさらに完璧な無関心が伴った。
---

「位置とか三次元とかは問題の核心ではなかった」、「空間はいぜんとして存
在した」にご注目ください。つぎに時間について引用します。

---
もちろん腕時計を見ようとすればできることであった。しかし時計は別の世界のも
のであることを私は知っていた。時間のことを問われるまでの現実の私の体験は無限の持
続という性格のものであったし、現にそのときもいぜんとしてそうであった。それは、い
いかえるなら、一つの絶えず変化する啓示からできている永遠の現在であった。
skip
すべてが(内なる光)に輝き、無限の意味に満たされている世界へ。例えばあの椅子の脚
−その管状の丸みのなんと奇蹟的なことか、その磨き上げられた滑らかさのなんと超自然
的なことか! 私は数分間!いや、数世紀間であったろうか−その竹製の脚を凝視してい
ただけでなく、現実に私がその脚そのものであった−というよりは、その脚において私が
私自身であった。いや、もっと正確にいうなら(「我」はこの場合に係っていなかったし
脚自体もある意味では係っていなかったから)、私は椅子という〈非自我)における私の
非自我)であった。
---

要は禅の悟りにおいて、四次元空間は無関係だということになります。しかし、
内面世界こそが、四次元(以上の)空間であると主張されるかもしれません。

# 高橋さんは既に、四次元は比喩という立場をとられたようです(この理解でよ
# ろしいですね?)が、小森さんのお立場は違いますね?




(小森さんへ)re: 諸点


こんにちは。ここには週末しかお邪魔できない状況となっております。レスポ
ンスが悪くなったことをお詫びいたします。

>ヤコブ・ベーメの図画に関しては、「キリスト教神秘主義著作集13巻・ヤコ
>ブ・ベーメ」(日本教文館)の巻末に収録されているので、ご参照ください。

ありがとうございます。後日、入手してその図を見たいと思います。

>私が否定したのは、「東洋思想では、そういうビジョンは見ない」という類
>の、明らかに不当と見える全称命題です。そういう断定は、東洋思想全般を
>知り尽くしていなければできないはずで、そういう断定をできる資格のある
>人が、いるとは思えません。

ええ、仰ることは理解できますし、私の先の主張に不当な全称命題という面が
あることを認めます。ですが、全称命題だから、断定だから、主張の中身の吟
味は不要で、生産的な議論をするまでもない、と判断されるのであれば(仮定)、
それは若干問題だと考えます。その理由は次のとおりです。

全称命題や断定は「∀x P(x)という全称命題の論理式の意味そのもの」だけを
意味し、それ以外の用法はありえない……ということはないと私は考えるから
です。全称命題や断定が論理式の意味でのみ許されるのであれば、全称命題は
一般的には検証できませんから、小森さんの仰るとおりです。

しかし、主張する側の確信度、信念の度合いの強調という用法もまた認められ
るし、実際にそういう使われ方をしていると思っています、私は。その証拠に
小森さんご自身がそういう意味での「全称命題や断定」をお使いになっている
ようです。たとえば、

---
彼の同時代人には、空間を理解するという考えと聖性を結びつけた者は誰もい
なかった。その時代には「空間」についての問題はまだ存在していなかった。
--- (本書 427頁)
思考の運動を拘束するすべてのものは虚偽である。
--- (本書 429頁)
『ターシャム・オルガヌム』はアリストテレスとベーコンの水準をはるかに越
え、両者の思想をもその中に取り込む、包括的な思想書である。
--- (本書 442頁)
  
というように。ウスペンスキーもまた沢山のそういう意味での「全称命題や断
定」を本書で用いています。私はそれに対して、全称命題だから、断定だから、
ということだけで反論をしてはいないつもりです。動物の概念について、四次
元について、具体的に中身にそった反論をしているつもりです。

……とまぁ、半分、言い訳をしましたが(笑)、信念や確信度の表明ならばそ
れなりの表現方法を私がとればよいわけで、紛らわしく、かつ知ったかぶり臭
がプンプンの記述を行った私にも非はあると、認めます。

>「無門関」に関して卓抜(?)な解釈を披露されていますが、その解釈が間違っ
>ているとは言えないと思います。それは、何とも言えないというのが実際の
>ところで、多様な解釈を許す公案の、一つの解釈可能性だろうと思います。

うーん。私は、完全にジョークのつもりでしたが。

たしかに、公案の解釈は多様になされうると思います。しかし、公案はその時
の、その当人にとっては、ただひとつの答えしかありえません。そのたった一
つの答えが無数の意味に展開されえたとしても。そして、四次元という答えは
誰にもありえないと。ええ、これは確信度の意味での「断言」です(笑)。

>ハクスレーの「知覚の扉」は私も読んでいますが、あそこで述べられている
>体験が、禅師の悟りと同じかどうかは、疑問があります。そう断じるだけの
>根拠はないように思います。

同じことは、ほとんどすべての神秘体験や悟りの体験についても言えるのでは?
大悟したと確信した当人でさえ、後にあれはまだ本物ではなかった、いや錯覚
にすぎないとさえ、思い当たる場合がありますゆえ。

薬物だから真性の体験ではないと言えば、ウスペンスキーの 22章の記述もカ
ットが必要になります。体験の深みにおいても「知覚の扉」の内容は 22章の
それやウスペンスキー自身の体験と比較して劣るとは全く思えないです、私は。

悟りや神秘体験の深みの判断もまた、個々人によって異なるでしょうから、こ
こから先は「客観的な議論」とはなりにくいとは思います。

>そこへの道筋のつけかたは、いろいろな可能性があり、ウスペンスキーによ
>る次元論は、その一つとして有効だというのが、私の立場です。

ええ、私も賛成いたします(次元論の有効性は「モデル」として、という限定
をつけた上で)。



(小森さんへ)re:ヴァン・マーネンの図に関して補遺


>これに関しては、
>(1)ウスペンスキーが三次元のイメージしか得ていない
>(2)ウスペンスキーが四次元のイメージを得ているが、言葉の制約上、三次元
>   的な表現になった
>どちらの可能性も考えられます。私自身は、(1)ではなく(2)だと思っていますが。

これについては見解が一致しなかった、ということになりそうですね。

>四次元を描写しようとすれば「運動=静止」といった、通常の概念から逸脱
>した表現を用いざるを得ません。禅典における「一即多、多即一」といった
>矛盾表現の頻出も、そういう含意があるのでは、と私は考えています。 

私も禅籍や中論、唯摩経、金剛般若経などにおけるこういった特殊な論理(あ
るいは実感、認識)に興味があります。そこには、人間の意識の深みと、危う
さの両面があるように思います。



(高橋さんへ) re:神秘主義の本質と四次元(1)


>以上、reverieさんが立てた3つの命題を『ターシャム』におけるウスペンス
>キーの主張と断じることには無理があり、これはどうもreverieさんが東洋思
>想について論じるのに都合のいいように設定したものではないかという印象す
>ら持ちます。 

若干の誤解があるように思います。あの東洋思想に絞った三項目が本書のウス
ペンスキーの主張の要約であり、その他の主張は些細なものだ、という主張を
するつもりは全くありません。他にも様々な観点から評価することができるが、
その中でも、「ウスペンスキーの主張を次の三つの命題に絞った上で検討して
みたい」ということなのです。

その選択基準は「私にとって」東洋思想が本質的と思えるから…ですが、それ
が「東洋思想について論じるのに都合のいいように設定したものではないかと
いう印象」となったのかも知れません。

しかし、東洋思想を論ずるのが目的ではなく、ウスペンスキーの主張は「私に
とっては」東洋思想を背景とした時に最もよく評価しやすい―当否のコントラ
ストが最も明瞭となるという意味で―のです。私が東洋思想それ自体(例えば、
空とは云々とか)を論じていないことは認めていただけるでしょう?

東洋思想は「私にとって」本質的ですが、ウスペンスキーの主張が真理であれば、
東洋思想にも当然、適合するはずなので、その意味で、

>この三つの命題が否定された場合、ウスペンスキーの主張は大枠で否定される
>でしょうし、肯定された場合は大枠で受け入れられることでしょう。

と述べました。つまり、この意味ではウスペンスキーは小森さんの仰る全称命
題を述べているわけです。ですから私は東洋思想での反証をひとつあげるだけ
でそれを否定しうるわけです。第三の思考規範を自負し、老荘、ウパニシャッ
ドを論じている本書の主張は、相撲でも負けない言っているようなものです。
ですから、「広場の上に自分で引いた土俵の上で一人相撲を取ってい」るとま
では言えないように思います。というか、思いたいです(笑)。

さて、本題です。先の3つの命題がウスペンスキーの主張を正しく反映してい
るかどうかですが、私は次のように考えます。

(a)私の要約が誤読・ 曲解かどうかは微妙だと思います。本書は法律解釈のよ
  うに厳密な文章構造をとっていないため、「直接的な記述」がないこと=
  主張していないこと、とは必ずしもいえません。文脈による判断が必要です
  がこれは主観が多分に反映します。
(b)私としてはウスペンスキーの意図にそってその主張のコントラストを強調し
  たが、歪めてはいないと思っています。つまり、東洋思想を背景にウスペン
  スキーの主張が明瞭になるような形で要約したと。逆にいえば、ウスペンス
  キーの記述と一字一句違わない、とは自分でも思っていません。
(c)とはいえ、本書を最も読み込んでいる訳者の方の読み方を否定することは
  なしえません。ただ、ウスペンスキーの代弁者としては主張が若干弱腰だ
  とは思いますが(笑)。



(高橋さんへ)re: reverieさんへ


レスポンスが遅くて失礼いたしました。

>「『ターシャム・オルガヌム』:神秘体験の本質と四次元」の論旨展開がま
>だ途中のようなので、できれば最後までご意見をお聞かせいただければ嬉し
>いです。

その後の高橋さんや小森さんとの議論にほぼ反映されていますので、残された
「概念と高次元空間の矛盾」の件などを整理しなおしてポストしたいと思いま
す。時間がとれないため、遅れるかもしれません。

>あと、お答えいただかなくても結構ですが、ウスペンスキーの他の著作
>(『奇蹟を求めて』や『人間に可能な進化の心理学』)はお読みですか? 
>個人的にはそちらについての感想もお聞きしたいです。

はい、両方とも過去に読んでおります。とりわけ、『人間に可能な進化の心理
学』は強く印象に残っています。(幾つか納得しがたい個所があったにせよ)
内容的にも素晴らしいと感じました。『奇蹟を求めて』は記憶に薄いです。

小森さんが解説で仰るように著述家としてはグルジェフを凌ぐ、つまり論述の
明晰性(=思考の緻密さ)については師を凌ぐと『人間に可能な進化の心理学』
を読んで思いました。



(高橋さんへ)re:神秘主義の本質と四次元(2)


>エッシャーの絵画やクラインの壷が、「知的操作によって作り上げた図形」
>であることは明らかでしょう。にもかかわらず、それらに相当するイメージ
>が老荘や禅師によって作られていないから彼らは四次元を認識できなかった
>に違いないと言う理屈はおかしいのではないでしょうか。仮に、「ウスペン
>スキーやマーネンの図形は知的操作によって作り上げたハッタリ図形である」
>というのであれば、エッシャーやクラインの図形もハッタリ図形ということ
>になるでしょう。なぜなら彼等もまた四次元を認識していないのですから。

少々、誤解があるのかもしれません。私は知的操作で作り上げたから、ハッタ
リだと述べたわけではありません。四次元世界を見ていないことを自覚しつつ、
しかし他者に四次元世界を見たらしいと思い込ませるような記述をあえて行う
こと…この可能性をさしてハッタリの可能性と述べています。

エッシャーは四次元の世界を知的操作でイメージし、それを表現しただけで、
四次元を見たとは主張していませんでした。ですからハッタリにはなりません。
マーネンは実際に見たと思っているようですから、それが思い込みだったにせ
よ、ハッタリとは呼べません。

問題は四次元を実際に認識したかどうか、です。Yes ならば、そのとき見た四
次元の光景なり、印象なりを強く覚えているはずです(それが満足に表現しう
るかどうかは別として)。そしてその光景や印象を表現した図形なり文章は、
四次元世界の幾何学に特有の性質を不完全にせよ、反映しているはずです。

具体的に述べます。たとえば、最も身近な人体の内部構造の詳細な知識、これ
が得られるはずです。なにせ四次元世界からは人体の内部構造は丸見えのなの
ですから。しかし、ヨーガの達人、道教の奥義に通じた人が見たのは全く別の、
脈管やチャクラ、経脈の類でした。臨済の場合は心臓の中のアートマンだった
りします。あるいはチベット密教における原色の光の世界だったり。そしてチ
ャクラが三次元では理解しえないような構造をしているという記述もないと思
います。

こういった「脈管やチャクラ、経脈や光」が四次元(もしくはそれ以上)の世
界なのであれば、その断面がこの三次元世界の何かに対応する筈ですが、それ
は一体なんでしょう? 幾何学と矛盾せずにそれを説明できるとは私には思え
ません。よって、老荘や禅師は四次元世界を見ていない、と判断できます。



(高橋さんへ)re:『四次元』と『新しい宇宙像』


>私はウスペンスキーの代弁者だなどと大それたことは毛頭思っておりません。
>あの本を訳したというだけで、ただの一読者にすぎませんので、私の読み方に
>対して貴方に軟弱とか弱腰とか言われる筋合いはないと思っております。

失礼いたしました。仰るとおりです。軟弱云々は議論に余計であるだけではな
く、無礼な言葉でした。その表現を撤回し、お詫びいたします。

>まあ
>ウスペンスキーがreverieさんのこれまでの書き込みを読んだら「なんて的外
>れな議論だ」と言うとは思いますがね。

それは何をもって「的」とするかによりますね。『ターシャム・オルガヌム』
におけるウスペンスキーの思索における「的」が本当に「的」なのかどうか、
この検証作業がおろそかになっている面があると思えるのです、私には。

率直に言えば、ウスペンスキーの本書での思索の射程は遠大ですが、思索の基
礎がためや検討があまりに杜撰なように感じます。地盤が揺らいでいるのに、
巨大な伽藍を構築しようとしていると。

>前にも書いたとおり、四次元や高次元についてのウスペンスキーの考え方を詳
>しく知るには『新しい宇宙像(ア・ニュー・モデル・オブ・ザ・ユニバース)』
>に収録されている『四次元』と『新しい宇宙像』の章を検討する必要がありま
>す。次元に関する『ターシャム』での議論はアナロジーのレベルで終わってい
>ると私は思います。

私の今回の議論は全て『ターシャム・オルガヌム』の記述に限ったものですか
ら、それで「ウスペンスキーの思想全体」を決め付けようとは思いません。し
かし「同書における主張」を評価することは可能ですし、意味があると考えま
す。

>『新しい宇宙像』の出版は実現すべく目下努力しておりますので、しばらくお
>待ちください。 

はい。出版された折には拝見するつもりです。




(小森さんへ)re:ハクスレーの体験等


こんにちは。

>いま出典を確かめずに書いていますが、鈴木大拙の「禅とはなにか」でたしか、
>次のような言葉がありました。
>「道を求める前は、山は山であり、川は川であった。道に入ると、山は山でな
>くなり、川は川でなくなった。道を得ると、山は山であり、川は川であった」
>(記憶で書いているので、ちょっと不正確かも)

『続伝燈』にある青原惟信の、
見山是山 見山不是山 見山祗是山
ですね(抜粋)。最初の悟る前の見え方、悟って世界が一変した時の世界の意味、
そして悟りが深まった時の世界、この3つのレベルの見事な表現の事ですね。

>ハクスレーの「知覚の扉」で述べられているのは、上の言葉で言えば、三段階
>目の「山は山であり、川は川であった」の箇所に相当すると思うわけです。ウ
>スペンスキーの言う、高次元の体験等は、「山は山でなくなり、川は川でなく
>なった」の方に相当するところだと思うので、ハクスレーの体験の例は、反例
>にはならないと思うわけです。

私の解釈は逆ですね。『知覚の扉』の体験や悟りの直後の世界が一変して見える
体験が「見山不是山」だと思います。『続伝燈』でも師の元で悟りを得ることで
「見山不是山」となったとありますし。しかし「見山不是山」ではまだ向上道で
すから「見山祗是山」にまで降りてこなくてはならないと。

3つ目の「見山祗是山」の山は最初の「見山是山」の山と似ていますが、空や無
による激しい変貌(これが2つ目のレベル)の後に再び蘇ってきた山ですから内
実は全く違いますね。

>にはならないと思うわけです。ただ、これは、あくまで私の個人的感想で、こ
>れが正しいと押しつける気はありません──

同じく私の個人的感想です…と言いたいところですが、実は上記の私の解釈は故、
井筒俊彦(イスラム学)の説の受け売りです(笑)。


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