真の実在と自我、超越的真理と認識、神秘体験について

2003.2.5〜2003.5.12


ある掲示板での比較的長期にわたる対話のログ(長文)です。


古賀さん、妥当性・・・ 投稿者:えにしだ  投稿日: 2月 5日(水)01時36分13秒

>要するに、
>〜であるべき、〜という考えは正しい
>という立場は、一時代的ある状況の中でのみ
>妥当性があって、時の移り変わりで変化していく
>物である、ということですね。きっと。

どんなに遠い未来においても、「……であるべき」が絶対的普遍性を獲得すること
はありえない、と私も思います。普遍妥当性は、古賀さんのおっしゃるとおり、
いつでもある文化圏、ある歴史的世界における普遍妥当性にすぎないのでしょう。
「自分は普遍妥当的な真理を所有している」という思いこみは災いです。
私たちがそのつど提出する「真理」は、つねに、絶対的真理ではなく、むしろ
そうあろうと努める過程で、自らの限界を明るみ出すものだと思います。
私は、たぶん古賀さんよりも俗っぽい人間なので、そういう意味での「真理」
との関わり方を、人間は避け得ないと思っています。

>判りやすく言うと。
>一生懸命「妥当性」のための「妥当性」を追い続け
>ることは、ベクトルの方向を見ることではなくて、
>何もないと心もとないという理由で
>形をもったみちしるべを作り続けることに他ならないと思います。

「妥当性」のための「妥当性」という閉じられた形を、私はイメージしにくいの
ですが、概念的な次元だけで辻褄を合わせるような真理観のことでしょうか?
たしかに、正しさを追い求めるうちに、そのようになる傾向はあるのでしょう。
たぶん、古賀さんと私との間に違いがあるとすれば、絶対的な普遍妥当性に、
ついに人間は到達できないという事態を、いかに受けとめ、いかに評価するかと
いう点にあるのかな、という気がします。
私は、もしも絶対的真理が現前してしまえば、「……であるべき」なんて要請が、
人間の頭に浮かぶはずはないと思います。概念と現実、知と世界との完全な一致、
あるいは、自分に対する知と、自分自身の存在それ自体とが一致しているなら、
人間は、「……であるべき」などと考えたりしないでしょう。前回の言葉を用いれば、
「私」が究極において、そのつどフィクショナルなものだからこそ、私は「……である
べき」存在なのではないでしょうか? 言い換えると、「私」が真実在として存在して
いるなら、私は「……であるべき」必要はないわけです。
ですから、「……であるべき」という真理が、永遠の、絶対的な、普遍的真理では
ないのは、理の当然だということになります。「……であるべき」という真理は、
有限の人間が、無限を思惟するときに生じる暫定的な真理の形なのでしょう。
で、私はそれを一人の人間として受け入れようと思います。真理は、絶対を志向する
展望のようなものだと、私は思います。この展望は、つねに部分的で、相対的なもの
にすぎないということを弁えている限りで、根拠を持つのだと思います。
古賀さんからご覧になったら、甘っちょろいとお感じになるかもしれませんが。

>救いの無い話で
>申し訳ないです。

いえいえ、安易な救いを求めない、という古賀さんの姿勢は、よく分かりますし、
生意気ながら、私の刺激にもなります。忌憚なく述べて頂いているということ
が伝わってまいります。

(えにしださんへ)re:妥当性・・・(1/2) 投稿者:reverie  投稿日: 2月 9日(日)12時00分53秒

興味深い内容ですので横から失礼します。話題の流れをトレースしていません
ので以下はスレッドの論旨から逸脱しているかも知れません。

---{
どんなに遠い未来においても、「……であるべき」が絶対的普遍性を獲得すること
はありえない、と私も思います。普遍妥当性は、古賀さんのおっしゃるとおり、
いつでもある文化圏、ある歴史的世界における普遍妥当性にすぎないのでしょう。
「自分は普遍妥当的な真理を所有している」という思いこみは災いです。
---}古賀さん、妥当性・・・ 投稿者:えにしだ  投稿日: 2月 5日(水)01時36分13秒

以下は反論ではなく私の解釈にすぎません。
「……であるべき」が絶対的普遍性を(それだけでは)持ちえないのは前提条
件が不明確だったり、前提条件の正しさが絶対的普遍性を持たないからだと思
います。

具体例を挙げると「新約の教えは正しい」という前提からキリスト教徒の「…
…であるべき」が導出され、「釈迦や大乗教典の教えが正しい」という前提か
ら仏教徒の「……であるべき」が導出されます。それらの前提も別のより基盤
となる前提をよりしろにしてます。そしてそれらの前提、基盤の絶対的普遍性
こそが問題になってきます。

どんな前提条件も遡れば必ず無前提で受け入れるべき公理のような土台(盲目
的信念)に基礎づけられている筈です。この土台は自覚も(論理的な)明確化
も困難であるゆえに、そこから派生した「……であるべき」は絶対的普遍性を
持ち得ない…このように私には思えるのです。

---{
「妥当性」のための「妥当性」という閉じられた形を、私はイメージしにくいの
ですが、概念的な次元だけで辻褄を合わせるような真理観のことでしょうか?
---}

概念的次元だけで真理としての十分条件を満足するとは私も思いませんが、概
念的な次元で辻褄が合わないものは、真理たりえないと思います。神秘的言説、
宗教的言説の多くは不合理を伴うゆえ、真理とは言い難いことになります。

(えにしださんへ)re:妥当性・・・(2/2) 投稿者:reverie  投稿日: 2月 9日(日)12時03分39秒

---{
私は、もしも絶対的真理が現前してしまえば、「……であるべき」なんて要請が、
人間の頭に浮かぶはずはないと思います。概念と現実、知と世界との完全な一致、
あるいは、自分に対する知と、自分自身の存在それ自体とが一致しているなら、
人間は、「……であるべき」などと考えたりしないでしょう。
---}

仮に、絶対的真理ならば
・概念と現実、知と世界との完全な一致、あるいは
・自分に対する知と、自分自身の存在それ自体とが一致
するとしましょう。これを命題αとします。このαは一部の人がごく特殊な意
識状態でのみ実感可能なものであり、このリアルな現実世界では日常的、持続
的には成立しえないと思います。

そして現実世界で日常的に成立していないのであれば万人に受け入れられる絶
対的真理とはなりえないと。よって、αは成立しない、つまり絶対的真理と
・概念と現実、知と世界との完全な一致、あるいは
・自分に対する知と、自分自身の存在それ自体とが一致
はリンクしないと思えるのです。

---{
「私」が究極において、そのつどフィクショナルなものだからこそ、私は「……である
べき」存在なのではないでしょうか? 言い換えると、「私」が真実在として存在して
いるなら、私は「……であるべき」必要はないわけです。
ですから、「……であるべき」という真理が、永遠の、絶対的な、普遍的真理では
ないのは、理の当然だということになります。
---}

つまり自我が虚構だから「永遠の、絶対的な、普遍的真理」が成立しないとお
っしゃるわけですね。ですが仮に、自我が自立し永続した存在だったとしても
「永遠の、絶対的な、普遍的真理」が成立するとは限らないのでは?

「永遠の、絶対的な、普遍的真理」こそ虚構では? 「私」の存在は(離人症
などの特殊なケースを除けば)少なくとも日常的に実感しうるのに比べ、これ
らは実感さえ難しいゆえに。

要するに、日常的にごくふつうに自分がいる、それこそが「実在」と呼ばれる
べきであってイデア的あるいは神秘主義的、宗教的、哲学的な意味での「実在」
や「真理」の方がフィクショナルだ…こう思うのですよ。

# 以前、仏教思想に関して合理主義と神秘主義の立場に分かれてある人と掲示
# 板で議論をしたことがあります。本投稿からは意外に聞こえるかも知れませ
# んが私の立場は神秘主義でしたし、今もそうです。

reverieさん、妥当性(1/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 2月11日(火)01時54分14秒

reverieさん、どうもありがとうございます。きちんとした応答ができるかどうか、
怪しい気もしますが、reverieさんのご意見に触発されて、私なりに感じたことを、
いくつか申し述べたいと思います。

>「……であるべき」が絶対的普遍性を(それだけでは)持ちえないのは前提条
>件が不明確だったり、前提条件の正しさが絶対的普遍性を持たないからだと思
 (中略)
>どんな前提条件も遡れば必ず無前提で受け入れるべき公理のような土台(盲目
>的信念)に基礎づけられている筈です。この土台は自覚も(論理的な)明確化
>も困難であるゆえに、そこから派生した「……であるべき」は絶対的普遍性を
>持ち得ない…このように私には思えるのです。

はい、おっしゃることはよく理解できますし、私も同感です。「……であるべき」
という真理を支える公理のような土台は、究極的には、仮想された主権者であると
いうことなのでしょう。もちろん、だからといって、認識全般が有効性を持たない
というわけではありませんが、それが絶対的普遍性を持つと見なすのは、抑圧的に
作用する形而上学だと思います。

>---{
>「妥当性」のための「妥当性」という閉じられた形を、私はイメージしにくいの
>ですが、概念的な次元だけで辻褄を合わせるような真理観のことでしょうか?
>---}
>概念的次元だけで真理としての十分条件を満足するとは私も思いませんが、概
>念的な次元で辻褄が合わないものは、真理たりえないと思います。神秘的言説、
>宗教的言説の多くは不合理を伴うゆえ、真理とは言い難いことになります。

そうですね。reverieさんが言われていることの繰り返しにしかなりませんが、
概念的次元で辻褄が合っているということは、真理の必要条件なのでしょう。
もちろん、かといって、概念的な辻褄合わせは、言説のレヴェルで無矛盾的で
あることを保証しますが、その無矛盾性が「現実」に合致していることを保証
しません。そういう意味では、十分条件を満足させないということなのだと思
います。

reverieさん、妥当性(2/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 2月11日(火)01時57分39秒

>仮に、絶対的真理ならば
>・概念と現実、知と世界との完全な一致、あるいは
>・自分に対する知と、自分自身の存在それ自体とが一致
>するとしましょう。これを命題αとします。このαは一部の人がごく特殊な意
>識状態でのみ実感可能なものであり、このリアルな現実世界では日常的、持続
>的には成立しえないと思います。

>そして現実世界で日常的に成立していないのであれば万人に受け入れられる絶
>対的真理とはなりえないと。よって、αは成立しない、つまり絶対的真理と
>・概念と現実、知と世界との完全な一致、あるいは
>・自分に対する知と、自分自身の存在それ自体とが一致
>はリンクしないと思えるのです。

概念と現実との一致、知と世界との完全な一致を、私は絶対的な真理と呼びました。
そのような意味での真理が、そもそも、日常的、持続的な成立しない、というように
私も思います。ところで、絶対的真理と、「概念と現実との一致」「知と世界との
一致」にリンクしない、とおっしゃる際、そのリンクしないという意味が、私には
掴みにくいです(汗)
日常的、持続的に成立しないから、絶対的真理は「知と世界との一致」にリンク
しない……私の発想では、だから、絶対的真理は実在としてではなく、理念として、
あるいは「信」の対象としてのみ意味をもちうる、と思われるのですが、reverieさん
は、それとは異なったお考えをお持ちなのでしょうね? たとえば、そもそも絶対的
真理を、「知と世界との一致」というように捉えることが誤謬であるとか……。

>---{
>「私」が究極において、そのつどフィクショナルなものだからこそ、私は「……である
>べき」存在なのではないでしょうか? 言い換えると、「私」が真実在として存在して
>いるなら、私は「……であるべき」必要はないわけです。
>ですから、「……であるべき」という真理が、永遠の、絶対的な、普遍的真理では
>ないのは、理の当然だということになります。
>---}

>つまり自我が虚構だから「永遠の、絶対的な、普遍的真理」が成立しないとお
>っしゃるわけですね。ですが仮に、自我が自立し永続した存在だったとしても
>「永遠の、絶対的な、普遍的真理」が成立するとは限らないのでは?
>
>「永遠の、絶対的な、普遍的真理」こそ虚構では? 「私」の存在は(離人症
>などの特殊なケースを除けば)少なくとも日常的に実感しうるのに比べ、これ
>らは実感さえ難しいゆえに。

絶対ということについて思索して来られたreverieさんの歴史を感じます。
私なりの考えを申し述べたいと思いますが、もしも言葉がうまく噛み合っていない
とお感じになったら、ご指摘下さい。
まず、「自我が自立し永続した存在だったとしても」という仮定は、私にはどこと
なく空しく響きます。自我が自立するということは、経験的な水準において、ある
付帯条件を考慮すればありうる現象だと思いますが、しかし、その自立ということ
がそもそも実在ではなく、現象だという気がします。したがって、永続した自我、
という仮定が果たして有効なのか、私は疑問に思います。
永続した自我が存在するとなると、それは同時に「永遠の、絶対的な、普遍的真理」
の具現ではないでしょうか? というよりも、「永遠」ということば、「絶対的」
ということば、「真理」ということばすら思い浮かびもしないような、そういう真理
に、自我が達しているということではないでしょうか? 逆に言い換えれば、「永遠
の、絶対的な、普遍的真理」が彼岸にしか想定できないがゆえにこそ、「自我」が
発生するのだと思います。「自我」はつねに、はかない現象としてのみ「自我」だ
と思います。
ひょっとしたら、reverieさんも同様にお考えになっていることを、私がひねくり
まわしているだけかもしれません。というのは、「永遠の、絶対的な、普遍的真理」
こそ虚構では? とおっしゃっている内容に、上述の点が含意されているようにも
感じますから。

reverieさん、妥当性(3/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 2月11日(火)02時00分27秒

>要するに、日常的にごくふつうに自分がいる、それこそが「実在」と呼ばれる
>べきであってイデア的あるいは神秘主義的、宗教的、哲学的な意味での「実在」
>や「真理」の方がフィクショナルだ…こう思うのですよ。

うーん、そうでしょうか? いえ、自我がフィクショナルであるのと同じく、
私たちが把握できる真理もまた虚構であると、私も思います。でも、理由付けに、
ちょっと引っ掛かってしまいます。日常的に実感しうる、ということと、実在する
ということとは、私には別の事柄だと思えるものですから。素朴な実在論的立場を
reverieさんがおとりだとは思われないので、ちょっと奇異な感じが致します。

どこまできちんと応答できているのか不安ですが、もしも誤解や誤読、見当違いの
応答などがあるようでしたら、ご指摘下さればありがたいです。

># 以前、仏教思想に関して合理主義と神秘主義の立場に分かれてある人と掲示
># 板で議論をしたことがあります。本投稿からは意外に聞こえるかも知れませ
># んが私の立場は神秘主義でしたし、今もそうです。

そうですね、今回のご投稿からだけでは、神秘主義だというようには感じられま
せんでした。たぶん、あえて、私と言葉が噛み合いそうな水準で議論を組み立てて
くださったのでしょう ^^;

(えにしださんへ)re:妥当性 投稿者:reverie  投稿日: 2月13日(木)02時36分10秒

ご返答、ありがとうございます。記事を拝見して次のような論点を抽出してみ
ました。もちろん別の論点の抽出も可能かとは思いますが私の興味で勝手に抽
出してみました(笑)

---{
>要するに、日常的にごくふつうに自分がいる、それこそが「実在」と呼ばれる
>べきであってイデア的あるいは神秘主義的、宗教的、哲学的な意味での「実在」
>や「真理」の方がフィクショナルだ…こう思うのですよ。

うーん、そうでしょうか? いえ、自我がフィクショナルであるのと同じく、
私たちが把握できる真理もまた虚構であると、私も思います。でも、理由付けに、
ちょっと引っ掛かってしまいます。日常的に実感しうる、ということと、実在する
ということとは、私には別の事柄だと思えるものですから。
---}
から
(1) 自我はフィクショナルなのか、あるいは実在なのか。
が第一の論点。

---{
したがって、永続した自我、という仮定が果たして有効なのか、私は疑問に思います。
永続した自我が存在するとなると、それは同時に「永遠の、絶対的な、普遍的真理」
の具現ではないでしょうか? というよりも、「永遠」ということば、「絶対的」
ということば、「真理」ということばすら思い浮かびもしないような、そういう真理
に、自我が達しているということではないでしょうか? 
---}
から
(2) 永続した自我という仮定は有効か。
(3) 永続した自我ならば「永遠の、絶対的な、普遍的真理」の具現といえるか。
が第二、第三の論点。

---{
概念と現実との一致、知と世界との完全な一致を、私は絶対的な真理と呼びました。
そのような意味での真理が、そもそも、日常的、持続的な成立しない、というように
私も思います。
---}
から
(4) 概念と現実との一致、知と世界との完全な一致(ただし日常的、持続的に
  はこの一致が成立していない)は絶対的な真理となるか?
を第四の論点としてはいかがでしょうか? もしそれでよろしければこのスレッ
ドでの私の立場は、

(1) 実在
(2) 有効
(3) いえない
(4) ならない

とおきたいと思います(より有意義なものとするために)。

reverieさん、続・妥当性(1/2) 投稿者:えにしだ  投稿日: 2月16日(日)03時06分02秒

reverieさん、せっかく興味深い問題点を抽出していただきながら、ご返事が遅く
なってしまい、申し訳ありませんでした。おさらいですが、reverieさんが抽出
されたのは、次の四つの問題点でした。

(1) 自我はフィクショナルなのか、あるいは実在なのか。
(2) 永続した自我という仮定は有効か。
(3) 永続した自我ならば「永遠の、絶対的な、普遍的真理」の具現といえるか。
(4) 概念と現実との一致、知と世界との完全な一致(ただし日常的、持続的に
 はこの一致が成立していない)は絶対的な真理となるか?

これから、どのように議論が進行するのか、あるいはしないのか、予測できませんが、
しかし、いずれにしましても、reverieさんがお立場を表明された以上、私もそれなり
に立場を述べておくべきかと存じます。とはいえ、私の応答は、reverieさんほど
明確なものではなく、いくつか断り書きをつけながらになってしまいます(汗)

さて、まず第一点、すなわち「自我はフィクショナルなのか、あるいは実在なのか」
という点ですが、この点について、reverieさんは「実在」であると明確に述べて
おられます。一方、私は前々から「自我はフィクショナル」であると述べて参りま
した。一見して、見解の相違は明瞭であるように思われますが、しかしその際、
「自我」および「実在」ということばでもって、何が指示されているのかということ
が問題になると思われます。
余計な尾ひれを省いて、簡潔に申し述べるなら、
@ 「自我」とは、私たちが世界として認定するすべての存在が、「それ」に対して
 現象していることを意味するところの「それ」にあたるものです。なるほど、世界
 を認識する「自我」を支える自己存在が、世界内部の存在として、今、ここに実在
 するという「信」を、私ももっております。そうした世界内部に現象する実在として
 の自己存在を、もしも自我と呼ぶなら、なるほど自我は経験的自己として実在すると
 いえるのかもしれません。しかしながら、「自我」は経験的自己というよりも、むし
 ろ、そうした自己存在をもふくめた世界表象の全体に対応する「点」であると、私は
 考えます。その意味での「自我」は、経験的な意味での実在ではありえません。自我
 は、あくまでも経験的実在ではなく、実在を表象する作用点であり、いわば論理的構
 成物に近いものだと私は考えます。
A 経験的自己という意味での自我は実在する、と申し述べましたが、これにも但し書
 きが必要なように私には思われます。そのような意味で実在する存在者は、それを
 自我と呼ぶにせよ、すべて現象であると私は思うからです。もちろん、現象するもの
 は、ただちに非−実在である、などと暴論を述べるつもりはありません。しかしなが
 ら、現象が実在するとしても、その「実在する」ということには、厳密に限界を区切
 らなくてはならないと思うのですが、いかがでしょうか。現象は、ある何ものかの
 現れです。もしもその「何ものか」を実在と呼ぶ場合には、この現れは、実在そのもの
 ではなく、実在するものの現れであると考えなくてはなりません。実在するものの現れ
 であるとき、この現れは決して空しいものではないでしょうが、にもかかわらず、
 現れは実在そのものではありません。このように、実在というものを、いわば真実在と
 いうような意味で把握するとき、現象は、まさに現象であるというその一点において、
 フィクショナルと呼ぶことができるのではないでしょうか。

reverieさん、続・妥当性(2/2) 投稿者:えにしだ  投稿日: 2月16日(日)03時11分29秒

次に、抽出された問題の第二点、「永続した自我という仮定は有効か」ということに
ついてですが、有効かどうか、という点でいうなら、私は「理念」として、あるいは
「信」の対象としては有効であると思います。もちろんそれが経験的実在として、
現に在る、という意味でその有効性を言うのであれば、それは空虚であると思います。

さて、第三点、「 永続した自我ならば『永遠の、絶対的な、普遍的真理』の具現と
いえるか」という問題ですが、これは、第四点の「絶対的真理」をいかに想定するか
という問題ともリンクしていると思います。少なくとも私にとっては。
この場合も、「永続した自我」ということばで、何が指示されているかが問題になる
ように思います。もしも自我が、理念としてではなく実在として永続する自我であり
うるというなら、自我は、もはや自我たり得ないと思います。自我は、永続しないに
もかかわらず、永続を思惟するがゆえに、自我なのだと思います。
まだうまく言い表せませんが、自我は、存在の分裂の結果、はじめて生じるのでは
ないでしょうか? 言い換えると、絶対的なものからの分離によって、自我は生じて
いるのであって、絶対的なものがすなわち自我であるというなら、その自我は「狂信」
のなかにあるとおもうのです。自我は永続しない、しかるがゆえに、自我である。
同様に、「永遠の、絶対的な、普遍的な真理」は実在しない、しかるがゆえに理念と
してのみ有効である。そう、私は思います。永続しないからこそ、自我は、永続と
いう理念を生み出すのではないでしょうか? 自我の永続という言い回しが、
そもそも私には形容矛盾だと思います。絶対的なものからの分離が自我を生むこと
と、永続不可能であるがゆえに自我が生じることとは相即していると考えます。

第四点、「概念と現実との一致、知と世界との完全な一致(ただし日常的、持続的
にはこの一致が成立していない)は絶対的な真理となるか?」という、問題ですが、
真理とは何か、という問題について、reverieさんのお考えになる真理とはまったく
違う真理観を、私が抱いているということなのかもしれません。概念と現実、知と
世界との完全な一致は、たとえば私という自己にあてはめて考えると、私の知と、
私自身の存在との一致ということになるでしょうが、その瞬間、私は思惟する自我で
ある必要が消滅します。不完全性の徴表である自我は、自己存在の中に溶解し、
もはや自我とか、自己とかいうような概念すら滅却すると思われます。
知と世界との一致は、水で薄めれば、ある言表が、対象を言い当てている、という
意味での真理を意味しますが、それはいつも相対的真理にすぎません。しかし、
完全な一致となると、知がもはや知である必要はなくなるというところにまで達する
と思うのですが、いかがでしょうか? それを私は「絶対的真理」と呼びましたが、
もしもreverieさんからご覧になって間違っているとか、あるいは、それとは別の
真理観をもっておられるのであれば、お教えいただければ、私の参考にもなり、
ありがたいと思います。

簡潔に述べたつもりでも、ずいぶん長くなってしまいました。どうもすみません。
また、ことば足らずで、意味不明の箇所があるようでしたらご指摘下さいませ。

(えにしださんへ)自我は虚構か、実在か 投稿者:reverie  投稿日: 2月17日(月)12時24分34秒

>reverieさん、せっかく興味深い問題点を抽出していただきながら、ご返事が遅く
>なってしまい、申し訳ありませんでした。

そんなことはないです。私も週に一、二度のアクセスしかできませんから全然
遅くはないです。これ以上のペースではついていけません(笑)。

さて、今回は
(1) 自我はフィクショナルなのか、あるいは実在なのか。
に絞って、次のご返答から考えてみます。
---{
                    「自我」は経験的自己というよりも、むし
 ろ、そうした自己存在をもふくめた世界表象の全体に対応する「点」であると、私は
 考えます。その意味での「自我」は、経験的な意味での実在ではありえません。自我
 は、あくまでも経験的実在ではなく、実在を表象する作用点であり、いわば論理的構
 成物に近いものだと私は考えます。
---}

では自我が虚構や論理的構成物であって実在ではないとしましょう。その場合
我々は今、実在や真理について語っていますが、その我々は実在しないし、
(当然実在しないのですから)真理とも無縁なわけです。

(実在しない筈の)自我が、実在や「永遠の、絶対的な、普遍的真理」を語る
時、(その語られた)実在や真理は意味を持ち得ないものとなります。つまり
端的に実在や真理は無意味(たとえ理念としてですら)となります。

具体的な比喩でいえば、仮に我々の視覚や聴覚などとは全く異なる感覚をもっ
た生物がいたとします。その生物の感覚体験について我々は意味のある内容は
何一つ語れません。虚構もまた、そのような意味で実在からは無縁です。

よって、実在や真理を語るためには、自我を虚構や論理的構成物と見なすのは
自己矛盾をきたすゆえに適切ではない…こう考えます。所詮は自己の持つ属性
の延長線上の領域内でしか我々は世界を語れないと。逆に実在や真理さえも語
ることが可能なものは全て我々の属性の領域内の対象である、と考えます。

なお、自我は完全な実在ではないが、実在への萌芽を理念的に予感しそれに至
ろうとする…といったような論旨(が仮になされた場合)も成立しがたいと思
っています。

なぜなら実在や「永遠の、絶対的な、普遍的な真理」は本性からして美醜や長
短のような相対概念ではありませんから。「実在するか、しないか」、「真理
であるかそうでないか」とスッパリと二分されます。少しだけ実在するとか、
実在の傾向にある、といった途中半端なあり方とはなりませんから。

---{
               自我は永続しない、しかるがゆえに、自我である。
同様に、「永遠の、絶対的な、普遍的な真理」は実在しない、しかるがゆえに理念と
してのみ有効である。そう、私は思います。永続しないからこそ、自我は、永続と
いう理念を生み出すのではないでしょうか? 
---}

この逆説的な論旨は有効ではないように思います。この論旨を(1)の論点に当
てはめると「自我は実在しないからこそ、自我は実在という理念を生み出す」
という趣旨になります。

しかし、自我は虚構だという有力な哲学的・宗教的立場があることを考慮する
と、「自我は実在するからこそ、自我は虚構という理念を生み出す」という全
く逆の主張も同様に成立してしまいます。

reverieさん、自我と実在(1/2) 投稿者:えにしだ  投稿日: 2月19日(水)02時08分09秒

reverieさん、お忙しそうなのに、どうも相手下さってありがとうございます。
おかげで、自我や実在ということについて、改めて考え直す機会をちょうだい
しているように思います。

さて、reverieさんは、前回私が「自我」について申し述べた内容、つまり、
「『自我』は経験的自己というよりも、むしろ、そうした自己存在をも含めた
世界表象の全体に対応する『点』である」と述べたことについて、次のように
おっしゃっています。

> では自我が虚構や論理的構成物であって実在ではないとしましょう。その場合
> 我々は今、実在や真理について語っていますが、その我々は実在しないし、
> (当然実在しないのですから)真理とも無縁なわけです。

おそらく、実在や自我ということが、何を、どのように指示するのかという点に
ついて、食い違いが生じているように思います。と申しますのは、私からすれば、
もし自我が、自己存在の実在そのものに到達してしまえば、むしろそのゆえに、
自我は「真理」とは無縁になってしまうと考えられるからです。この見解の相違
は、reverieさんと私との間に、実在についての受け取り方に差があるからでは
ないかと思います。でも、こんなふうに申し上げると、分かりにくいかもしれま
せんので、実在ということについて、私が考えていることを説明させていただき、
そのうえで、自我ということに戻ってみたいと思います。

実在というものの辞書的な意味は、一般に「主観や自我の作用を離れて存在する
客観的存在」というものでしょうが、この辞書的な説明には、主観や客観について
の混乱があるように思います。私に言わせれば、主観を除いて独自に存在する客観
などというものはありません。客観はその語義からして、主観によって把握された
ものとして客観だからです。もしも、主観や自我の作用から離れたものを実在とし
て想定するなら、それは客観をも飛び越えた物そのものだということになります。
そうした意味での実在は、私たちの認識にとっては、いわば彼岸にしか存在しま
せん。私はその意味において、実在を真実在と言い換えたりしながら、述べてきた
つもりでしたが、たぶん、自覚せざる混乱があって、紛糾を招いていたかもしれ
ません(汗)
もちろん、だからといって、認識の彼岸は空無だなどと言いたいわけではありま
せん。それは前回も、「現象するものは、ただちに非−実在である、などと暴論を
述べるつもりはありません」と申し上げた通りです。私たちが認識によって把握
するものは、なるほど現象(主観−客観の枠組みにおいて現前するもの)ですが、
現象は、「何ものか」の現象にちがいないからです。

さてしかし、一方、主観によって把握された客観のレベル、すなわち現象のレベル
に実在ということばを適用するなら、言い方が変わってきます。実際、カントという
哲学者は、私たちの自我にとって実在的といえるのは、つねに現象として現前する
ものであるにすぎない、という意味の言い方をしています。むろん、カントにしても、
現象を実在そのものであると言っているのではなく、主観にとって実在的であるとか、
主観にとって実在性をもつ、とかいう慎重な言い方をしていますけれども。
こうした言い方は、前述の「実在は、認識の彼岸にある」という言い方と対立する
ようですが、しかし、実のところはその対立は見かけの対立にすぎません。何に
対して「実在」という言葉を与えるかという問題にすぎないからです。肝心なのは、
次の一事です。すなわち、私たちが把握するものを、ある条件下で実在と呼ぶに
せよ、その実在は、物そのものではなく、私たちの主観によって構成された物で
あるということです。私はその構成ということを念頭において、フィクショナル
だと述べたのでした。したがって、フィクショナルということは、けっして、
ただちに非−実在を意味するわけではありません。

reverieさん、自我と実在(2/2) 投稿者:えにしだ  投稿日: 2月19日(水)02時13分47秒

さて、ひるがえって「自我」と実在との関係についてですが、私は次のような
イメージで申し述べています。つまり、私が私を把握するとき、その把握の作用
は、実在そのものとしての、言い換えれば「真実在」としての私自身に的中する
ことはないのであって、むしろ、的中しないからこそ、私は自我として現象する
のである、と。くどいかもしれませんが、その場合も、現象としての自我を支え
る自己存在そのものが、非−実在であるなどと述べるつもりは毛頭ありません。
ただ単に、自我が捉える自己自身は、つねにフィクショナルであるということに
すぎません。そして、こうした意味におけるフィクションは、自我が思考し、
真理を探究することの根拠であって、真理探究の無意味性に帰着するとは、
私は思いません。そしてまた、このフィクショナルという言い方は、reverieさん
がおっしゃるような、自我は実在するという言い方と、必ずしも矛盾するもの
ではないように、私には思われます。

自我は、把握不可能な真実在としての自己存在の作用であり、その作用において
経験世界内部の私として現象します。その経験的存在として現象する私を、
実在と呼ぶこともできるのは、前述したとおりです。でも、そうした経験的実在
としての自己は、自体存在としての自己(真実在としての自己)と区別すべきだし、
また作用点としての自我とも区別すべきではないでしょうか?
なお、この作用点としての自我というものは、あらゆる経験的実在に対向する
自我です。己の思考や行為に責任をとる主体としての「私」は、この自我が、
経験的世界に現象する自己を、己のものとして引き受けるところに生じると私は
思います。そして、それを実在と呼ぶにしても、その「実在する私」が、実は
構成された私であることを、言い換えればフィクショナルな私として「実在」する
ことを、私は再度、申し述べたいと思います。

では、「構成された私」を「構成するところの私」は実在しないのか? という
疑問が出てくるかもしれませんが、構成する自我は、経験的実在として現象する
自己を、「私」へと構成する自我なのであり、経験的実在と同列に実在するとは
いえません。この構成する自我は、「実在としての私」がいかに成り立つかを批判
したときに出現する自我なのですから、それを「実在としての私」へと逆戻りさせて
しまうのは本末転倒であると思います。

まだまだ、意を尽くせていないかもしれませんが、ずいぶん長くなってしまい
ました。ご返答下さるとすれば、当然ではございますが、reverieさんがお時間
のあるときに、もしも気が向かれましたら、ということでお願い申し上げます♪

(えにしださんへ)認識不能ならば実在しない(1/2) 投稿者:reverie  投稿日: 2月22日(土)00時17分06秒

>おかげで、自我や実在ということについて、改めて考え直す機会をちょうだい
>しているように思います。

はい、このスレッドは私にとってもよい機会になっております。

>この見解の相違は、reverieさんと私との間に、実在についての受け取り方に差
>があるからではないかと思います。

たしかに。実在や自我の定義を持ち出すのは後回しで、しばらくは互いの観点
や受け取り方の相違を文脈の上で自ずと浮かび上がるままにしておきたい…こ
う思っておりました。そして徐々にそれが明瞭になってきたように思います。

---{            私に言わせれば、主観を除いて独自に存在する客観
などというものはありません。客観はその語義からして、主観によって把握された
ものとして客観だからです。
---}reverieさん、自我と実在(1/2)えにしだ 2月19日(水)02時08分09秒

==={
はい。たしかに、客観的存在そのものは認識できませんし、そもそも
主観を離れた客観的認識というものは幻想ではないかと思います。
===}Re:すべてのものは、主観に対する客観として存在している 
  4月6日(火) reverie 「個室ログ(1999/04/01〜1999/04/10)」

google は便利ですね、こんな昔の隣接掲示板の記事まで引っ張り出してきま
すから(笑)。というわけで、主観と客観については完全に同意いたします。

---{          もしも、主観や自我の作用から離れたものを実在とし
て想定するなら、それは客観をも飛び越えた物そのものだということになります。
そうした意味での実在は、私たちの認識にとっては、いわば彼岸にしか存在しま
せん。私はその意味において、実在を真実在と言い換えたりしながら、述べてきた
つもりでした

 現象は、ある何ものかの
 現れです。もしもその「何ものか」を実在と呼ぶ場合には、この現れは、実在そのもの
 ではなく、実在するものの現れであると考えなくてはなりません。実在するものの現れ
 であるとき、この現れは決して空しいものではないでしょうが、にもかかわらず、
 現れは実在そのものではありません。このように、実在というものを、いわば真実在と
 いうような意味で把握するとき、現象は、まさに現象であるというその一点において、
 フィクショナルと呼ぶことができるのではないでしょうか。
---}reverieさん、自我と実在(1/2)えにしだ 2月19日(水)02時08分09秒

上記引用箇所を整理してみます。自我と実在(=<真実在>)は簡単にいえば

(a)<真実在>:主観や自我の作用から離れた、認識不能の彼岸的な存在。
(b)自我   :真実在の現れ。構成された私であり、現象としての私。

である、とおっしゃるわけですね。そして

(c)相違点を
 えにしださん:(b)は現象であるがゆえに自我は虚構と主張。
 reverie   :(b)の現象を実在と誤解している

とお考えになっていますね。なお、(a)の意味での「真実在」と真の実在が紛
らわしいので(a)を<真実在>と表記しています。

さて、私の主張は

・(a)のような意味での<真実在>こそ虚構である。
・日常的にごくふつうに自分がいる、それこそが「実在」

でした。よって

(1) 自我はフィクショナルなのか、あるいは実在なのか。

という論点は

(1a)主観や自我の作用から離れた認識不能の彼岸的な存在としての<真実在>
  は真の実在なのか、虚構なのか。

という論点に帰着します。もし(1a)の超越論的な<真実在>が虚構となれば補
欠候補の自我を実在(=真の意味で存在するもの)に昇格するしかないので
(1)も自ずと決着がつきます。

(えにしださんへ)認識不能ならば実在しない(2/2) 投稿者:reverie  投稿日: 2月22日(土)00時19分20秒

では (1a) を少し前の記事を元に考えてみます。
---{
>要するに、日常的にごくふつうに自分がいる、それこそが「実在」と呼ばれる
>べきであってイデア的あるいは神秘主義的、宗教的、哲学的な意味での「実在」
>や「真理」の方がフィクショナルだ…こう思うのですよ。

うーん、そうでしょうか? いえ、自我がフィクショナルであるのと同じく、
私たちが把握できる真理もまた虚構であると、私も思います。でも、理由付けに、
ちょっと引っ掛かってしまいます。日常的に実感しうる、ということと、実在する
ということとは、私には別の事柄だと思えるものですから。素朴な実在論的立場を
reverieさんがおとりだとは思われないので、ちょっと奇異な感じが致します。
---}reverieさん、妥当性(3/3) えにしだ  2月11日(火)02時00分27秒

日常的に実感しうる=実在する、という立場とはやや違います。どうやっても
実感しえないものは実在と呼ぶに値しない(実在の必要条件を満足しない)、
という単純な立場なのです。日常的に実感しうるならば必要条件を満足してい
るので(妄想等の特殊事例を除けば)実在と呼びうるわけです。

ここで、(1a) のキーとなるのは

>私たちが把握できる真理もまた虚構であると、私も思います。

の箇所だと考えます。つまりこの箇所からは
・<真実在>は私たちには把握できない真理である。
となって、(1a)の「認識不能の彼岸的な存在」と同一の趣旨だといえます。

以上から次のような単純な論旨に帰着する思います。

(step1) <真実在>は私たちには認識不能である。
(step2) αが認識不能ならばそもそもαに気づかない。
    (αが認識不能か、実在するか、真理かどうかを問題にする以前の話)
(step3) ゆえに<真実在>に気づくことはありえない。その現象や存在に気づ
    きえないのに、それを語ったとすれば虚構でしかない。

step1 の前提を認めるならば、step3 は必然的に成立します。ですが、えにし
ださんの真意は「<真実在>は私たちには認識不能である」ではないことが次
の箇所から推測できます。

---{                          概念と現実、知と
世界との完全な一致は、たとえば私という自己にあてはめて考えると、私の知と、
私自身の存在との一致ということになるでしょうが、その瞬間、私は思惟する自我で
ある必要が消滅します。不完全性の徴表である自我は、自己存在の中に溶解し、
もはや自我とか、自己とかいうような概念すら滅却すると思われます。
知と世界との一致は、水で薄めれば、ある言表が、対象を言い当てている、という
意味での真理を意味しますが、それはいつも相対的真理にすぎません。しかし、
完全な一致となると、知がもはや知である必要はなくなるというところにまで達する
と思うのですが、いかがでしょうか? それを私は「絶対的真理」と呼びましたが、
---}

つまり、えにしださんは<真実在>や「絶対的真理」が
・概念と現実、知と世界との完全な一致
・自我は、自己存在の中に溶解し、もはや自我とか、自己とかいうような概念
 すら滅却
という神秘主義的な境地においてのみ実現するものと信じていらっしゃる。
ご自身も仰るようにこれは「信仰」であって論理でも哲学でもありません。
そこで新たに

(5)神秘主義的な境地や悟りの境地において「真の実在」や「絶対的真理」が
  顕現するのか。

という論点から考えてみます。これに対する私の立場も単純です。

・神秘主義的な境地や悟りの境地において実感的に了解される「真の実在」や
 「絶対的真理」は真理ではない。

その理由は
(イ)言葉で表現できないような「絶対的真理」は真理の資格を持たないため。
(ロ)そういった境地で実感的に了解される「真の実在」や「絶対的真理」は
   日常の現実世界の中では成立しないため。
です。

reverieさん、認識と実在(1/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 2月26日(水)00時25分53秒

問題点を整理していただき、ありがとうございます。議論の最中に相手の考えを
まとめると、まとめられた側が不満を覚えるケースが多いと思いますが、でも、
reverieさんの整理のされ方は、可能なかぎり公正であろうとする配慮が見事だと
思います。私の方にはほとんど不満は生じませんでした。

もしも私の方から補足するとすれば、次の箇所くらいでしょうか。

> (a)<真実在>:主観や自我の作用から離れた、認識不能の彼岸的な存在。
> (b)自我   :真実在の現れ。構成された私であり、現象としての私。

もちろん、reverieさんのこの整理は要を得て簡明ですし、当面の議論に不都合は
生じないかもしれませんが、念のため、私は、(b)「自我」を、経験的自我(構成
された私)と、超越論的自我(構成する私)に分けておきたいと思います。

(a) 真実在としての自己:主観や自我の作用から離れた、認識不能な彼岸的存在。
(b) 経験的自我:真実在の現れ。構成された私であり、現象としての私。
(c) 作用点としての自我:経験的自我をも含めて、すべての現象に対向する作用点。
  構成する私。

すべての世界表象がそれに対向して現れるところの「作用点としての自我」は、
なるほど経験的自我の変異体とも言えるかもしれません。これとて、真実在と
しての自己の作用にほかならないと思われますから。その点では、reverieさん
の整理で当面は差し支えないのかもしれません。けれども、構造的には、すべて
の現象が対向すべき「自我」は、「経験的自我」から区別することが要請されます。
というのは、厳密には、すべての現象がそれにむけて現れるというときの、その
「それ」は、現象と同列ではないからです。

ところで、reverieさんは、ご自分の主張点を、

> ・(a)のような意味での<真実在>こそ虚構である。
> ・日常的にごくふつうに自分がいる、それこそが「実在」

というように、再度まとめられ、そこから、「自我はフィクショナルなのか、ある
いは実在なのか」という論点について、

> (1a)主観や自我の作用から離れた認識不能の彼岸的な存在としての<真実在>
>   は真の実在なのか、虚構なのか。

という形に立て直されて、

> もし(1a)の超越論的な<真実在>が虚構となれば補欠候補の自我を
> 実在(=真の意味で存在するもの)に昇格するしかないので(1)も自ずと
> 決着がつきます。

と述べていらっしゃいます。おっしゃる筋道はきわめて明快で、自我を「真の意味
で存在するもの」だというお立場も、よく理解できるように存じます。ただ、私と
してはやはり、ある但し書きをつけたいという思いを抱きます。その但し書きとは、
日常的に現れる私や、私の周りの事物が、私にとって実在的であるということを
認めるにしても、その実在性は、作用点としての自我によって「構成された実在性」
であるという一点です。もちろん、reverieさんは、そういう点は百も承知のうえ
で述べておられるのだとは思いますけれども

reverieさん、認識と実在(2/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 2月26日(水)00時29分00秒

それから、但し書きとしてもう一点、「超越論的な<真実在>」が虚構であるか
否かという点についてですが、この真実在とは、そもそも認識の彼方にあるわけ
ですから、虚構であるか否かという問題には適さないと思われます。虚構である
のは真実在そのものではなく、真実在についての何らかの積極的な言明こそが
フィクションだということだと思います。つまり、reverieさんが、

> (step3) ゆえに<真実在>に気づくことはありえない。その現象や存在に気づ
>    きえないのに、それを語ったとすれば虚構でしかない。

とまとめられているとおりだと思います。
それに対して、現象としての「構成された実在性」についての言明は、ある限界内部
で相対的真理として出現しえるのだと考えます。くどい書き方ですが、このあたりの
ことを次に整理しておきたいと思います。

@ 絶対的真理は、把握不可能な真実在について積極的な言明として出現する点で
 フィクショナルである。それゆえ、真実在としての自己自身に的中したかのような
 言表もまた、フィクショナルである。
A 日常的な自我や、その周囲に見いだせる事物は、主観にとって実在性をもつが、
 その実在性は、自我によって構成された実在性であるという点で、フィクショナル
 である。
B 私たちによって構成された現実は、つねにフィクショナルであるという限界を
 もつにもかかわらず、現象世界として定位することによって、それへの言明は
 客観性をもつことができる(相対的真理)。

つまり、真実在そのものについての積極的言明は、端的に主観的虚妄ですが、現象に
ついての言表は、それが「主観−客観」の構造の中に出現した現象であるということ
をわきまえているかぎり、「客観的」たりえると思います。ただし、それが常にフィ
クショナルなものに支えられているという事実は変わらないので、その客観性たるや、
ある歴史的世界、ある文化圏、ある環境世界における相対的真理としてのみ妥当性を
もちえるということだと思います。

それから、以前私が、reverieさんのお立場について、素朴な実在論的立場という
ことばを用いながら「奇異な感じがする」と述べた点について、reverieさんは
次のように説明されています。

> 日常的に実感しうる=実在する、という立場とはやや違います。どうやっても
> 実感しえないものは実在と呼ぶに値しない(実在の必要条件を満足しない)、
> という単純な立場なのです。日常的に実感しうるならば必要条件を満足してい
> るので(妄想等の特殊事例を除けば)実在と呼びうるわけです。

ある条件を付しながら、現象を実在として扱うというお立場かと思います。
その点は理解できたように思います。

reverieさん、認識と実在(3/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 2月26日(水)00時32分46秒

だらだらと論点を羅列して申し訳ありません。
最後に、「絶対的真理」が神秘主義的境地においてのみ顕現するのか否かという
問題について、少し述べさせていただきます。
 この点について、世界の一切を解明しうる絶対的な観点と、それに基づく不可疑の
処方を、世界内で行為し活動する人間が、持続的に所持しうるという「考え」は錯誤
であると、以前も今も、私は考えています。究極の認識を所有しているという意識は、
ひとたび私たちの世界内に現れるや、「狂信」と区別できなくなるということ、それ
ゆえ、完結した知の絶対的な基準点を自認する存在は、現実世界に対して「絶対的で
あるがゆえの無能」として現れるか、さもなくば、恐怖をもたらすことになると思う
からです。仮に、絶対的なものがまさに絶対として世界に出現し、しかも「無能」を
飛び越え、実際的な効力をもつことがあるとしたら、それは自由の圧殺という事態に
結びつく危険性があるからです。実際、宗教とまではいかなくても、無媒介な直接的
綜合を「直観」として哲学の始原に措定すると、しばしば閉鎖的な体系に至りやすい、
と私は思います。

したがって、reverieさんがおっしゃっていること、すなわち、

> (イ)言葉で表現できないような「絶対的真理」は真理の資格を持たないため。
> (ロ)そういった境地で実感的に了解される「真の実在」や「絶対的真理」は
    日常の現実世界の中では成立しないため。

というお考えについては、私はある留保つきで肯定したいと存じます。その留保とは、
たとえば、(イ)でおっしゃっている内容が、「同時にまた、言葉で表現できる真理
は、絶対的真理ではない」ということと、矛盾しないというかぎりにおいて、という
意味です。

私は、人間自身が、実は、根底において経験的な次元を越えた存在であるということ、
言い換えれば、人間は超越的な次元(真実在としての自己)を有しているということ、
このことを否認しようとは思いません。それゆえ、ある種の超越体験が存在しえる
かもしれない、と思います。しかし、その超越の体験は、絶対的なものの知としての
「所有」へと人間を導くのではないし、導いてはならないと思います。不十分ながら、
その理由を挙げると、
 (1) 絶対的なものへの接触は、そうした体験が世界内においていかに孤独で、
   実効性をもたないものであるかということ、つまり自らの力なさの自覚と結び
   付くほかはないということ。
 (2) 絶対的なものへの接触は、その絶対的であることの保証を普遍妥当的な形で
   示すことはできないがゆえに、世界内ではつねに相対的なものとしてしか出現
   しないということ。

上記の(1)も(2)も、結局同じことを言い換えているだけですが、それを原理的な
問題としてさらに言い換えれば、

 (3) そもそも絶対的であるということが、世界を超越しているということである
   なら、世界内にあるとは、絶対的ではないということを意味するのではないか。

ということになります。

(えにしださんへ)絶対的真理は虚構(1/3) 投稿者:reverie  投稿日: 3月 4日(火)01時00分13秒

引用の順を変えています。

---{               「超越論的な<真実在>」が虚構であるか
否かという点についてですが、この真実在とは、そもそも認識の彼方にあるわけ
ですから、虚構であるか否かという問題には適さないと思われます。虚構である
のは真実在そのものではなく、真実在についての何らかの積極的な言明こそが
フィクションだということだと思います。
---}reverieさん、認識と実在(2/3) えにしだ 2月26日(水)00時29分00秒

その言明が積極的か消極的かは関係ないです。単に、

(step1) <真実在>は「認識の彼方にある」
(step2) αが「認識の彼方にある」のであれば、そのαが「真実」だというこ
    とも認識できない。
(step3) よって<真実在>が「真実」だとは認識できない。
(step4) 「真実」だと認識できていないものを真実として扱うとすればそれは
    既に虚構となってしまっている。

ということですから。よって理念として扱おうが、消極的な言明の形をとろう
が、<真実在>が真実になることはない、こう考えます。

---{
したがって、reverieさんがおっしゃっていること、すなわち、

> (イ)言葉で表現できないような「絶対的真理」は真理の資格を持たないため。
> (ロ)そういった境地で実感的に了解される「真の実在」や「絶対的真理」は
    日常の現実世界の中では成立しないため。

というお考えについては、私はある留保つきで肯定したいと存じます。その留保とは、
たとえば、(イ)でおっしゃっている内容が、「同時にまた、言葉で表現できる真理
は、絶対的真理ではない」ということと、矛盾しないというかぎりにおいて、という
意味です。
---} reverieさん、認識と実在(3/3) えにしだ 2月26日(水)00時32分46秒

面白いですね。整理するとこうなります。

えにしださん:(a) 言葉で表現できる真理は、絶対的真理ではない。
reverie :   (b) 言葉で表現できないような「絶対的真理」は真理ではない。

「矛盾しないかぎりにおいて」と仰いますがこの(a)と(b)は完全に矛盾してい
ます(笑)

絶対的真理を希求する立場(えにしださん)と、絶対的真理を虚構と見なす立
場(reverie)では (a), (b) が真っ向から対立するのも当然と言えますが、
この(a),(b)の差異の由来を考えてみます。

結論から言えば、えにしださんの仰る「絶対的真理」とは正しいことを意味す
る「真理」ではなく、「体験」の揺るぎなさの実感(もしくは予感)であろう
かと考えます。この理由は次のとおりです。

・「絶対的真理」が正しいこと(=命題が真であること)を意味するのであれ
 ば、その対象となる命題が明確に言葉で表現されている必要があります。
 「αは真理である。しかし、αを言葉では表現できない」というのでは既に
 命題として成立していません。命題として成立しないものは真理か偽かとい
 う以前の話です。

・言葉で表現できないのはそれが命題ではなく、体験だからです。そして体験
 は錯誤はあったとしても虚偽はあり得ないという意味で常に真実です。
 自我意識と同様に、体験はそれ自体が他のよりしろを要しない根拠となりま
 す。それが根元的な根拠であればあるほど、他のよりしろを要しないもので
 あればあるほど、基盤的・根元的という意味での真理と誤って見なされます
 (基盤 的であることと真理性の間の関係は後述いたします)。
 従って明証性が高く実感される強烈な体験はより根元的ということで真理だ
 と誤解されます。

(えにしださんへ)絶対的真理は虚構(2/3) 投稿者:reverie  投稿日: 3月 4日(火)01時03分00秒

---{
> 日常的に実感しうる=実在する、という立場とはやや違います。どうやっても
> 実感しえないものは実在と呼ぶに値しない(実在の必要条件を満足しない)、
> という単純な立場なのです。日常的に実感しうるならば必要条件を満足してい
> るので(妄想等の特殊事例を除けば)実在と呼びうるわけです。

ある条件を付しながら、現象を実在として扱うというお立場かと思います。
その点は理解できたように思います。
---} reverieさん、認識と実在(2/3) えにしだ 2月26日(水)00時29分00秒

ええ、「現象だけが実在、本質は虚構」、という立場です。言うなれば本質と
は「現象が見る夢」に過ぎないと。「意味」が「言葉が見る夢」であるのと同
様に。

---{                 そのような意味で実在する存在者は、それを
 自我と呼ぶにせよ、すべて現象であると私は思うからです。もちろん、現象するもの
 は、ただちに非−実在である、などと暴論を述べるつもりはありません。しかしなが
 ら、現象が実在するとしても、その「実在する」ということには、厳密に限界を区切
 らなくてはならないと思うのですが、いかがでしょうか。現象は、ある何ものかの
 現れです。もしもその「何ものか」を実在と呼ぶ場合には、この現れは、実在そのもの
 ではなく、実在するものの現れであると考えなくてはなりません。実在するものの現れ
 であるとき、この現れは決して空しいものではないでしょうが、にもかかわらず、
 現れは実在そのものではありません。このように、実在というものを、いわば真実在と
 いうような意味で把握するとき、現象は、まさに現象であるというその一点において、
 フィクショナルと呼ぶことができるのではないでしょうか。
---} reverieさん、続・妥当性(1/2) えにしだ 2月16日(日)03時06分02秒

あまりにも単純化しすぎているとお叱りを受けるかもしれませんが、えにしだ
さんのお立場をモデル化すると次のようになると思います。

基盤         表層
----------------------------
本質  ============> 本質の現れ
実在  ============> 現象
真実在 ============> 自我
絶対的世界 ========> 相対的世界
超越体験 ==========> 日常体験
超越的次元 ========> 経験的次元
真理  ============> 虚妄

つまり、全ての「表層」は「基盤」の反映であり、「基盤」からの湧出である
というモデルなわけです。このモデルは東西の主要な思想にもほとんど同じ類
型として見いだすことができます。たとえば、

基盤         表層            思想
-----------------------------------------------------------
光   ============> 洞窟の壁の映った影     プラトン(イデア論)
一者  ============> 万物            プロティノス(流出論)
空   ============> 色(物質的存在)      般若(禅思想)
道   ============> 万物            老荘
真如・法界 ========> 差別世界          唯識
ブラフマン ========> アートマン         ウパニシャッド
神   ============> 被創造物          ユダヤ教、イスラム
悟り  ============> 迷い            精神世界(笑)

のように。もちろん細部に微妙な差異があるでしょうが類型として同一構造に
なっています。

さて、私の立場を上記のモデルで表現すれば左側に位置する「基盤」こそ虚構
であって「表層」だけが実在だ、となります。

(えにしださんへ)絶対的真理は虚構(3/3) 投稿者:reverie  投稿日: 3月 4日(火)01時04分37秒

では超越体験や神秘体験、至高体験、啓示体験は何を意味するのか? それら
の体験こそ、「基盤」の実在の証ではないか?……こう仰るかもしれません。
そこで、次の

---{
私は、人間自身が、実は、根底において経験的な次元を越えた存在であるということ、
言い換えれば、人間は超越的な次元(真実在としての自己)を有しているということ、
このことを否認しようとは思いません。それゆえ、ある種の超越体験が存在しえる
かもしれない、と思います。
---} reverieさん、認識と実在(3/3) えにしだ 2月26日(水)00時32分46秒

に移ります。超越体験や神秘体験は「基盤」(=絶対の世界)での体験ではな
く、(日常体験と同類の)表層における体験だと考えます、私は。空も真如も
悟りも、神も、全て基盤ではなく表層での体験だと考えます。

基盤==>表層という二重構造で世界を捉えるのではなく、世界を表層のみから
なるとし、その表層を領域1、領域2、領域3、…領域n に分類したモデルです。

それら無数の領域のうち、ある領域は日常世界で、別の領域が夢で見る世界、
その隣の領域がシャーマンの体験する世界、その横の領域が接神を体験する世
界、やや離れて禅で体験する悟りの世界、…といったように乱雑に斑模様の領
域が表層を構成していると考えるわけです。

従ってある領域では
・概念と現実、知と世界との完全な一致
・自我は、自己存在の中に溶解し、もはや自我とか、自己とかいうような概念
 すら滅却
といった類の「疑いのない真理の実感」を覚えることもあるでしょう。しかし、
それはこの世界の全領域をカバーする「絶対的真理」などではなく、その領域
のもつ固有の特質の反映に過ぎないと見るのです。

それがその領域固有の特質であるからこそ、(日常世界の領域の)言葉では表
現できないわけです。言葉にできないどころか、体験の核心を無や空と表現す
るしかないような隔絶が領域の間に生じるのかと。

この状況を身近な例で喩えて見ます。
少年が情熱的な恋愛に陥ったとします。彼にとってはその恋愛が真実であり、
かけがえのない価値をもち、恋愛の対象は唯一無比な存在です。しかし時がた
てば彼は気づきます、どの恋愛もその最中(領域内)だけ真実であることに。
さらにそれは「真実」というよりも「体験」の強烈さであったと。

reverieさん、真理と虚構(1/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 3月 6日(木)20時15分19秒

reverieさん、ご丁寧な応答、いつもながら感謝申し上げます。いくつかの鋭いご指摘
に、私の方も、できるだけ率直に、思うところを申し述べたいと思います。

まず、「真実在」についての積極的言明および消極的言明について。
前回、私が、虚構であるのは「真実在」そのものではなく、「真実在」に対する積極的
言明こそがフィクションであると述べた点について、reverieさんは、「言明が積極的
か消極的かは関係ない」とおっしゃっています。その理由としてreverieさんが挙げら
れたのは次のような筋道でした。

> (step1) <真実在>は「認識の彼方にある」
> (step2) αが「認識の彼方にある」のであれば、そのαが「真実」だというこ
>     とも認識できない。
> (step3) よって<真実在>が「真実」だとは認識できない。
> (step4) 「真実」だと認識できていないものを真実として扱うとすればそれは
>     既に虚構となってしまっている。

> ということですから。よって理念として扱おうが、消極的な言明の形をとろう
> が、<真実在>が真実になることはない、こう考えます。

これは率直に申し上げて、私の真意からは外れたお言葉だと思います。reverieさん
が簡単に誤解されるはずはないので、きっと私の言い方が不十分だったのでしょう。
「真実在」についての積極的言明とは、「真実在」を人間にとっての知のかたちで
命題化するすべての言明を指しています。消極的な言明とは、たとえば、reverieさん
が「真実在」について、「真実として扱うとすればそれは既に虚構になってしまって
いる」とおっしゃっているような、そのような言明のことを指します。

次に、絶対的真理と言葉との問題について。
「言葉で表現できないような『絶対的真理』は真理の資格をもたない」という
reverieさんのお考えに、私は、「同時にまた、言葉で表現できる真理は絶対的真理
ではない」という留保を付しました。その点について、reverieさんは、そのような
留保は矛盾であると述べられています。その際、次のようにまとめられています。

> えにしださん:(a) 言葉で表現できる真理は、絶対的真理ではない。
> reverie :   (b) 言葉で表現できないような「絶対的真理」は真理ではない。

> 「矛盾しないかぎりにおいて」と仰いますがこの(a)と(b)は完全に矛盾してい
> ます(笑)

上記の(a)と(b)との間は矛盾していると、reverieさんはお考えなのですね?
ところが、私は両者はまったく矛盾しないと考えます。(b)で言われていること、
すなわち、「言葉で表現できないような『絶対的真理』は真理ではない」という
命題は、真理というものは、言葉によって表現されるからこそ真理である、と述べ
ているように見えます。でも、どうしてそれが、「言葉で表現できる真理は絶対的
真理ではない」という命題と矛盾するのでしょうか? 前回の私の投稿を読み返して
いただければご理解を願えるかと思いますが、私は、言葉で表現できる真理は相対的
真理でしかない、という主旨を申しております。
たとえば、次のような場合であれば、命題相互の間に矛盾が生じているといえるで
しょう。すなわち、

(α) 言葉で表現できる真理は絶対的真理ではない
(β) 絶対的真理は言葉で表現することができる。

ところが、reverieさんがおっしゃる(b)の命題、すなわち、「言葉で表現できない
ような『絶対的真理』は真理ではない」という言表は、真理は言葉によって表現され
なくてはならないということを述べているのみで、その表現された真理が、絶対的
真理たりうるということを根拠づけているわけではありません。
つまり、私が「矛盾しない限りで」と申し述べましたのは、まさにその、「言葉で表現
された真理は、知と世界との完全な一致としての絶対的真理たりえる」という(β)の
前提を、無批判的に導入しないかぎりにおいて、という意味でした。
むしろ、真理は言葉で言い表される必要があるからこそ、絶対的真理は、私たちの認識
世界にとって絶対的たりえないのだと思います。つまり、つぎのような筋道になります。

(1)真理は言葉によって表現されなくてはならない。
(2)知と世界との完全な一致としての「絶対的な真理」は言葉にはならない。
(3)それゆえ、「絶対的真理」は、言葉によって表現されるや、絶対性を喪失する。

この(1)から(3)は、私からみればきわめて単純な筋道だと思うのですが、
いかがでしょうか? したがって、reverieさんの掲げられた(a)と(b)との間には、
なんら矛盾はないと私は考えます。

reverieさん、真理と虚構(2/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 3月 6日(木)20時18分58秒

ところで、既に私が、(a)と(b)との間に矛盾はないという態度を表明した以上、
reverieさんと私との間に対立があるとすれば、その対立は、(a)の立場と、(b)の
立場との対立なのではなく、(a)(b)両者の間に矛盾があると考えられるreverieさん
のお立場と、矛盾はないという私の考えとの対立だということになるのではないで
しょうか? その対立は、次のお言葉から浮かび上がってくるように思います。
reverieさんは、次のようにおっしゃっています。

> 絶対的真理を希求する立場(えにしださん)と、絶対的真理を虚構と見なす立
> 場(reverie)では (a), (b) が真っ向から対立するのも当然と言えます

ここでreverieさんが対立として立てられているのは、次の二項です。

(@) 絶対的真理を希求する立場
(A) 絶対的真理を虚構と見なす立場

ところが、これもまた、私には対立だとは思われないのです。「現実」という言葉
を曖昧に使うと、reverieさんは鼻白まれるかもしれないのですが、あえて使わせ
て頂くと、(@)と(A)との間に対立があるとするのは、人間の現実に即して
いないと私は思います。私の考えでは、人間が絶対的真理を希求するからこそ、
絶対的真理を虚構としてあみ出し、そしてさらに、絶対的真理が虚構であるという
認識を導くのもまた、絶対的真理への希求だと考えます。虚構を認識することと、
その虚構をさらに希求する態度とは矛盾しません。それが矛盾だといえるとしたら、
たんに言説のレベルで矛盾にみえるにすぎないのではないでしょうか? いえむしろ、
「絶対的真理が虚構であると見なす立場」は、「絶対的真理を希求する立場」に
おいてこそ可能なのだと、私は思います。

> 結論から言えば、えにしださんの仰る「絶対的真理」とは正しいことを意味す
> る「真理」ではなく、「体験」の揺るぎなさの実感(もしくは予感)であろう
> かと考えます。

「真理」というものが、命題として真であることだとすれば、以上のようには言え
ないと思います。「『体験』の揺るぎなさ」というものは、あくまで真実在に到達
したという実感にすぎず、それが命題の形をとることは不可能だと思うからです。
そして、それゆえにこそ、そうした実感は、普遍妥当性をもつものとして現象する
こともできなければ、世界万般の判断基準として無謬の威力を発揮することもでき
ないと思います。そうした超越的な体験を、私自身は所有したことがありませんが、
もしもそうした体験がありえたとしても、それは、真理の真理性(命題が真である
こと)を獲得しえないということです。知と世界との完全な一致という事態は、
言葉の消滅だと思うからです。その意味で、

> ・言葉で表現できないのはそれが命題ではなく、体験だからです。そして体験
>  は錯誤はあったとしても虚偽はあり得ないという意味で常に真実です。
>  自我意識と同様に、体験はそれ自体が他のよりしろを要しない根拠となりま
>  す。それが根元的な根拠であればあるほど、他のよりしろを要しないもので
>  あればあるほど、基盤的・根元的という意味での真理と誤って見なされます(中略)
>  従って明証性が高く実感される強烈な体験はより根元的ということで真理だ
>  と誤解されます。

とおっしゃることは、よく分かりますし、まったくその通りだと思います。そして、
reverieさんへのこの同意は、ここまで私が述べてきたと矛盾しないと思います。

reverieさん、真理と虚構(3/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 3月 6日(木)20時22分51秒

さて、「基盤」と「表層」との図式を用いられた整理について。
reverieさんが挙げられたそうした図式が、洋の東西を問わず、古来人間の思索を
導いてきた強力な図式であるということは、私も承知しております。なるほど、
真実在は把握しがたいけれども、現象はその把握しがたいなにものかの現れである
という私の言い方が、そうした図式を思い起こさせるのは確かなのでしょう。
けれども、私は、真実在が人間的主観にとって実在的ではないということも申して
おります。真実在は、人間的主観によって把握された事象が実在的であるために
想定されざるをえない限界概念である、というのが私の考えです。限界概念である
というのは、つまり、人間的主観によって把握可能なもののみによって世界の全体
を覆おうとするときに、現れざるをえない矛盾、人間の知によって把握できる事象
のみで世界を説明しようとするときに、否応なく人間的主観が巻き込まれざるを
えない撞着、そうした矛盾・撞着は、人間的主観の限界を指示します。限界とは何
でしょうか? そこまでしか達することができないということです。真実在は、
そうした限界を限界たらしめる概念なのです。
真実在は実体として実在するのではなく、私たちにとっての現象が意味(たとえ
相対的であれ)をもつために要請されるフィクションであると、繰り返し述べて
きたつもりなのです。たとえばプラトンにおけるように、人間に内在するヌースが、
イデアを誤りなく把握できるという前提は、イデアを実体化する態度であって、
似て非なるものです。

> 基盤==>表層という二重構造で世界を捉えるのではなく、世界を表層のみから
> なるとし、その表層を領域1、領域2、領域3、…領域n に分類したモデルです。

> それら無数の領域のうち、ある領域は日常世界で、別の領域が夢で見る世界、
> その隣の領域がシャーマンの体験する世界、その横の領域が接神を体験する世
> 界、やや離れて禅で体験する悟りの世界、…といったように乱雑に斑模様の領
> 域が表層を構成していると考えるわけです。

世界は表層のみからなるものとして考え、基盤との二重構造において把握することを
拒まれるというのが、reverieさんのお立場なのでしょうが、表層の彼方になにか実体
があり、その何であるかを人間が規定できるという態度は、不可能を可能と取り違えた
誤謬である、という意味で、私は半ば共感を覚えます。
けれども、そこで質問をさせて頂きたいのですが、人間の知が把握できるのは、
「主観−客観」の構造において現れる事象のみであるということを、reverieさんも、
そして私も認めていると思います。さて、もっとも疑問に思うのは、人間の知に限界
があるという事態から、その限界の内部に現れるもののみが、存在のすべてであると
いう見解を、reverieさんは、飛躍だとはお考えにならないのでしょうか?
念のために申し上げれば、私の考えでは、人間の知に限界があるということと、把握
不可能な真実在がフィクショナルに浮上するということとは同じです。私が申し上げ
ているのは、真実在が確固不動の現象の基盤であるということでもなければ、現象が
存在のすべてであるということでもありません。

(えにしださんへ)re:真理と虚構(1/5) 投稿者:reverie  投稿日: 3月12日(水)00時54分26秒

えにしださんの2月5日の記事に端を発した議論が一月を越えました。私にとっ
ては非常に興味深く、かつ実りが多いスレッドです。その意味でお相手をして
頂いているえにしださんには深く感謝しております。このスレッドにはえにし
ださんがお相手をしてくださっているからこそ可能になった展開があります。

では本題に入ります。
---{
次に、絶対的真理と言葉との問題について。

> えにしださん:(a) 言葉で表現できる真理は、絶対的真理ではない。
> reverie :   (b) 言葉で表現できないような「絶対的真理」は真理ではない。
:
つまり、つぎのような筋道になります。

(1)真理は言葉によって表現されなくてはならない。
(2)知と世界との完全な一致としての「絶対的な真理」は言葉にはならない。
(3)それゆえ、「絶対的真理」は、言葉によって表現されるや、絶対性を喪失する。

この(1)から(3)は、私からみればきわめて単純な筋道だと思うのですが、
いかがでしょうか? したがって、reverieさんの掲げられた(a)と(b)との間には、
なんら矛盾はないと私は考えます。
---} reverieさん、真理と虚構(1/3) えにしだ 3月 6日(木)20時15分19秒

丁寧なご説明を拝見して、やはり(基本的な見解の相違に基づく)矛盾がある
と思いました。その基本的な見解の相違とは要するに

えにしださん:知と世界との完全な一致としての「絶対的な真理」は言葉には
       ならない。
reverie   :「絶対的な真理」は虚構(=実在しない)。

だと考えます。また、「絶対的な真理」が言葉にならない理由には

えにしださん:人間の主観を越えた超越的次元に実在するものだから。
reverie   :虚構なのに、真の意味で実在だと誤解して無理をするから。

という見解の相違があるようです(この相違は後述の消極的言明とも関連して
います)。


話題が少し変わりますが

>知と世界との完全な一致としての「絶対的な真理」

における「知と世界との完全な一致」はカテゴリーエラー(範疇錯誤)を抱え
ていると思います。つまり、「知と世界との完全な一致」の意味するところが、

(a)世界の認識において漏れや欠陥がない状態
(b)認識と世界が同一となる状態

の(b)の意味ならば(音階ミの体温を計ることができないように)原理的に一
致はありえないと思います。えにしださんの真意が(b)であることは

---{                          概念と現実、知と
世界との完全な一致は、たとえば私という自己にあてはめて考えると、私の知と、
私自身の存在との一致ということになるでしょうが、その瞬間、私は思惟する自我で
ある必要が消滅します。不完全性の徴表である自我は、自己存在の中に溶解し、
もはや自我とか、自己とかいうような概念すら滅却すると思われます。
---} reverieさん、続・妥当性(2/2) えにしだ 2月16日(日)03時11分29秒

からわかります。

「その瞬間、私は思惟する自我である必要が消滅します。不完全性の徴表であ
る自我は、自己存在の中に溶解し、もはや自我とか、自己とかいうような概念
すら滅却する」と仰るところの状態は知(=認識)の極限のようにお考えのよ
うですが、この状態は禅定における一種の三昧「体験」であり「知」的な認識
ではないと私は考えます。体験ならば世界との完全な一致の「実感」があって
もカテゴリエラーとはなりませんし。

(えにしださんへ)re:真理と虚構(2/5) 投稿者:reverie  投稿日: 3月12日(水)00時56分16秒

---{
まず、「真実在」についての積極的言明および消極的言明について。
前回、私が、虚構であるのは「真実在」そのものではなく、「真実在」に対する積極的
言明こそがフィクションであると述べた点について、reverieさんは、「言明が積極的
か消極的かは関係ない」とおっしゃっています。その理由としてreverieさんが挙げら
れたのは次のような筋道でした。

> (step1) <真実在>は「認識の彼方にある」
> (step2) αが「認識の彼方にある」のであれば、そのαが「真実」だというこ
>     とも認識できない。
> (step3) よって<真実在>が「真実」だとは認識できない。
> (step4) 「真実」だと認識できていないものを真実として扱うとすればそれは
>     既に虚構となってしまっている。

> ということですから。よって理念として扱おうが、消極的な言明の形をとろう
> が、<真実在>が真実になることはない、こう考えます。

これは率直に申し上げて、私の真意からは外れたお言葉だと思います。reverieさん
が簡単に誤解されるはずはないので、きっと私の言い方が不十分だったのでしょう。
「真実在」についての積極的言明とは、「真実在」を人間にとっての知のかたちで
命題化するすべての言明を指しています。消極的な言明とは、たとえば、reverieさん
が「真実在」について、「真実として扱うとすればそれは既に虚構になってしまって
いる」とおっしゃっているような、そのような言明のことを指します。
---} reverieさん、真理と虚構(1/3) えにしだ 3月 6日(木)20時15分19秒

たぶん、えにしださんの表現が不十分なためでも私の誤解でもなく、その「真
実在」を(知的に把握できなくとも)存在するものと見るか、存在しないと見
るかの相違があるからだと思います。

その「真実在」が真に存在するのであれば仰るとおり消極的言明が偽とはなら
ないでしょうし、逆に存在しないのであれば真実にならないでしょう。えにし
ださんには以下の説明は蛇足だとは思いますが、存在しなければ偽となる根拠
は次の通りです。

ある対象αに関する命題(言明)が真であるためには、そのαが存在する必要
があります(その命題が積極的言明か、消極的言明か、には関係なく)。
数学的論理ではαが存在しない場合、αに関する(自己言及しない)どのよう
な命題も常に真となります(例:「丸い四角は波だ」も「丸い四角は日曜日だ」
も共に真)。αに関するどのような言明も常に真となるのであれば、それらの
言明は日常的な論理では無意味(≠真理)となります。

ですから、その「真実在」が存在しない場合はその積極的言明か、消極的言明
か、には関係なくその言明は日常的意味では無意味(≠真理)→偽となります。

さて、ある対象が存在するか存在しないかを議論する場合、論証の義務がある
のは一般的には存在するという立場の方です。なぜなら、存在しないことを示
すには世界の全事象をチェックすることが必要ですが、存在することを示すの
はたった一つの実在を示せば足りますから。

(えにしださんへ)re:真理と虚構(3/5) 投稿者:reverie  投稿日: 3月12日(水)00時58分24秒

---{
けれども、私は、真実在が人間的主観にとって実在的ではないということも申して
おります。真実在は、人間的主観によって把握された事象が実在的であるために
想定されざるをえない限界概念である、というのが私の考えです。限界概念である
というのは、つまり、人間的主観によって把握可能なもののみによって世界の全体
を覆おうとするときに、現れざるをえない矛盾、人間の知によって把握できる事象
のみで世界を説明しようとするときに、否応なく人間的主観が巻き込まれざるを
えない撞着、そうした矛盾・撞着は、人間的主観の限界を指示します。限界とは何
でしょうか? そこまでしか達することができないということです。真実在は、
そうした限界を限界たらしめる概念なのです。
真実在は実体として実在するのではなく、私たちにとっての現象が意味(たとえ
相対的であれ)をもつために要請されるフィクションであると、繰り返し述べて
きたつもりなのです。
---} reverieさん、真理と虚構(3/3) えにしだ 3月 6日(木)20時22分51秒

単純化しすぎかも知れませんが、その「真実在」とは

(a) 人間の主観では概念であり、フィクションとして顕れるが、
(b) 超越的次元においては実在しており、だからこそ、
(c) 人間は超越的な次元においてそれと一体になる可能性がある。

と仰るわけですね。ですが、私はその「真実在」は

(a)'(b)'(主観における概念や超越的な実在ではなく)体験であり、
(c)'(超越的次元ではなく)表層の中の日常とは異なった領域での体験
  (もしくはそういった体験の予感)だと捉えています。つまり

・真理ではなく、
・超越的とか絶対的なものでもなく、
・(存在するものではなく)その領域特有の体験

であると。

---{
> 結論から言えば、えにしださんの仰る「絶対的真理」とは正しいことを意味す
> る「真理」ではなく、「体験」の揺るぎなさの実感(もしくは予感)であろう
> かと考えます。

「真理」というものが、命題として真であることだとすれば、以上のようには言え
ないと思います。「『体験』の揺るぎなさ」というものは、あくまで真実在に到達
したという実感にすぎず、それが命題の形をとることは不可能だと思うからです。
そして、それゆえにこそ、そうした実感は、普遍妥当性をもつものとして現象する
こともできなければ、世界万般の判断基準として無謬の威力を発揮することもでき
ないと思います。そうした超越的な体験を、私自身は所有したことがありませんが、
もしもそうした体験がありえたとしても、それは、真理の真理性(命題が真である
こと)を獲得しえないということです。知と世界との完全な一致という事態は、
言葉の消滅だと思うからです。
---} reverieさん、真理と虚構(2/3) えにしだ 3月 6日(木)20時18分58秒


ええ。だからこそ、えにしださんの仰る「絶対的真理」や「真実在」は真理で
はなく、体験もしくは体験への予感だと考えるのです、私は。それが体験だか
らこそ、にえにしださんが仰るとおり

・実感にすぎず、それが命題の形をとることは不可能 →(従って言葉にできな
 い)→ 言葉の消滅
・そうした実感は、普遍妥当性をもつものとして現象することもできなければ、
 世界万般の判断基準として無謬の威力を発揮することもできない
・世界との完全な一致(の実感)

となってしまう(なっている)のだと思っています。

(えにしださんへ)re:真理と虚構(4/5) 投稿者:reverie  投稿日: 3月12日(水)01時00分48秒

---{
> 絶対的真理を希求する立場(えにしださん)と、絶対的真理を虚構と見なす立
> 場(reverie)では (a), (b) が真っ向から対立するのも当然と言えます

ここでreverieさんが対立として立てられているのは、次の二項です。

(@) 絶対的真理を希求する立場
(A) 絶対的真理を虚構と見なす立場

ところが、これもまた、私には対立だとは思われないのです。「現実」という言葉
を曖昧に使うと、reverieさんは鼻白まれるかもしれないのですが、あえて使わせ
て頂くと、(@)と(A)との間に対立があるとするのは、人間の現実に即して
いないと私は思います。私の考えでは、人間が絶対的真理を希求するからこそ、
絶対的真理を虚構としてあみ出し、そしてさらに、絶対的真理が虚構であるという
認識を導くのもまた、絶対的真理への希求だと考えます。虚構を認識することと、
その虚構をさらに希求する態度とは矛盾しません。それが矛盾だといえるとしたら、
たんに言説のレベルで矛盾にみえるにすぎないのではないでしょうか? いえむしろ、
「絶対的真理が虚構であると見なす立場」は、「絶対的真理を希求する立場」に
おいてこそ可能なのだと、私は思います。
---} reverieさん、真理と虚構(2/3) えにしだ 3月 6日(木)20時18分58秒

上の引用の最後の箇所の切り返しは見事ですね。思わず頷いてしまいそうにな
りました(笑)。ですが、やはり次のような本質的な対立があるようです。

・「絶対的真理を希求する立場」は絶対や超越を求める
・「絶対的真理が虚構であると見なす立場」は絶対や超越を求めない

前者の場合は
---{            つまり、私が私を把握するとき、その把握の作用
は、実在そのものとしての、言い換えれば「真実在」としての私自身に的中する
ことはないのであって、むしろ、的中しないからこそ、私は自我として現象する
のである、と。
---} reverieさん、自我と実在(2/2) えにしだ 2月19日(水)02時13分47秒

と仰るような、到達不能の無限遠の彼方に真理が想定され、努力次第でどこま
でも接近することができるがそこに(超越的体験を除けば)到達することはな
いとされます。対して後者の場合は絶対的真理を認めない代わりに(真偽の判
断が可能という意味での)真理に手が届きます。

また、私にとっては

>そしてさらに、絶対的真理が虚構であるという認識を導くのもまた、
>絶対的真理への希求

なのではなく、ごくふつうに事物があり日常的意味で自分がここにいることが
真の実在だと知ること…それが同時に絶対的真理が虚構であるという認識につ
ながる、このように思えます。

(えにしださんへ)re:真理と虚構(5/5) 投稿者:reverie  投稿日: 3月12日(水)01時03分46秒

---{
けれども、そこで質問をさせて頂きたいのですが、人間の知が把握できるのは、
「主観−客観」の構造において現れる事象のみであるということを、reverieさんも、
そして私も認めていると思います。
---} reverieさん、真理と虚構(3/3) えにしだ 3月 6日(木)20時22分51秒

その「人間の知」の中に「言語表現によらない体験」は含まれない、とすれば
同意いたします。

---{              さて、もっとも疑問に思うのは、人間の知に限界
があるという事態から、その限界の内部に現れるもののみが、存在のすべてであると
いう見解を、reverieさんは、飛躍だとはお考えにならないのでしょうか?
---} reverieさん、真理と虚構(3/3) えにしだ 3月 6日(木)20時22分51秒

その見解が体験を考慮していないのであれば、仰るとおり飛躍だと思います。

さて、体験に関連してここで
---{
次に、抽出された問題の第二点、「永続した自我という仮定は有効か」ということに
ついてですが、有効かどうか、という点でいうなら、私は「理念」として、あるいは
「信」の対象としては有効であると思います。もちろんそれが経験的実在として、
現に在る、という意味でその有効性を言うのであれば、それは空虚であると思います。
---} reverieさん、続・妥当性(2/2) えにしだ 2月16日(日)03時11分29秒

にも触れたいと思います。仰るとおり、日常の領域では永遠にわたる自我はあ
りえません。ですが別の領域ではその種の永遠に触れる体験(≠絶対的真理)
もまたありうると思います。そんな意味の永遠など錯覚・幻想だと仰るかも知
れませんが、私はその領域での現実体験だと考えています。

つまり永遠とか無限大(小)、空、無、一即多、色即是空といった類の神秘体
験、超越体験における(日常的認識から逸脱した)実感的了解もその領域に固
有の現実の体験だと考えているわけです。それらは言語同断心行処滅の真理で
はなく、体験なのだと。

それらが本当に真理であるならば知的に了解し、言葉で表現することが可能な
可能な筈ですが、それらが体験だからこそ絶言絶慮になるし、人格の基底部か
らのドラスティックな変貌(=大悟)が可能になるのだと思います。

ただ、そういった体験は『永遠の、絶対的な、普遍的真理』やその顕れと誤解
されやすいのですが、それはあくまで体験なので真理と捉えるのは誤解だと考
えています。

---{
さて、第三点、「 永続した自我ならば『永遠の、絶対的な、普遍的真理』の具現と
いえるか」という問題ですが、これは、第四点の「絶対的真理」をいかに想定するか
という問題ともリンクしていると思います。少なくとも私にとっては。

        もしも自我が、理念としてではなく実在として永続する自我であり
うるというなら、自我は、もはや自我たり得ないと思います。自我は、永続しないに
もかかわらず、永続を思惟するがゆえに、自我なのだと思います。

         言い換えると、絶対的なものからの分離によって、自我は生じて
いるのであって、絶対的なものがすなわち自我であるというなら、その自我は「狂信」
のなかにあるとおもうのです。自我は永続しない、しかるがゆえに、自我である。
同様に、「永遠の、絶対的な、普遍的な真理」は実在しない、しかるがゆえに理念と
してのみ有効である。そう、私は思います。永続しないからこそ、自我は、永続と
いう理念を生み出すのではないでしょうか? 自我の永続という言い回しが、
そもそも私には形容矛盾だと思います。絶対的なものからの分離が自我を生むこと
と、永続不可能であるがゆえに自我が生じることとは相即していると考えます。
---} reverieさん、続・妥当性(2/2) えにしだ 2月16日(日)03時11分29秒

私の立場では「絶対的なもの」はそもそも存在しないので、そこからの分離に
よる自我の発生もありえないことになります。また永続は単に永続であり、そ
れだけでは何ら絶対的なものとリンクしないと。無期懲役のようにダラダラと
存続するというイメージですね。

# 長文の読了、お疲れさま。駄文にここまで付き合って下さる物好き、いえ被
# 害者は貴方くらいですね(笑)

reverieさん、真実在は非存在か(1/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 3月18日(火)17時45分57秒

reverieさん、ありがとうございます。私の方でも、reverieさんとの対話の
おかげで、以前からの自分の考えや、あるいはぼんやりとした状態のまま放置
していた事柄などについて、考え直す機会を与えていただいているように思い
ます。長期にわたる対話が、ひょっとして、いつ果てるともない論議に終始する
ようであれば、好ましくないのかもしれませんが、今少し、言葉を紡いでみたい
と思います。
結局、お互いの相違点を際だたせるというかたちが、総括として求められるの
かもしれませんが、その過程で、何かを得ることができると、なお私は感じて
います(笑)
以下、五つの論点(A〜E)について、考えを申し述べたいと思います。

A.さて、まず、「絶対的真理が言葉にならない理由」にかんして。
上記の点について、reverieさんがまとめて下さっている相違点は、次のような
ものでした。

> えにしださん:人間の主観を越えた超越的次元に実在するものだから。
> reverie    :虚構なのに、真の意味で実在だと誤解して無理をするから。

この整理によると、絶対的真理が「超越的次元に実在する」というように私が考え
ているということですが、次のようにな但し書きをつけたうえでなら、reverieさん
のまとめて下さった言い方に異論はありません。すなわち、

(1) そこで言われている「超越的次元に実在する」という表現は、より厳密には、
   「実在すると想定される」という意味であるということ。なぜなら、人間の判断
   として言表される「真理」は、超越的次元に「実在する」ことはありえぬゆえに。
(2) 「絶対的真理」と「真実在」とを区別する必要があるということ、つまり、
   「超越次元に実在する」と想定されるのは、「絶対的真理」ではなく、「真実在」
   の方であるということ。なぜなら、「絶対的真理」が言葉にならないことの理由
   を述べるとき、「言葉としての真理」が超越的次元に実在するというのでは、
   無意味なショートを起こしてしまいますから。

ところで、「主観−客観」の枠組みおいて私たちに捉えられる現象のみが、私たちの
知にとって実在的な対象であるという点では、reverieさんも、私も共通していると
思います。そして、それを越えたところに想定される「真実在」は、要するに想定
されたものなのであって、それを実在として実体化することはできないという点でも、
共通しているように思います。
さて、そうすると、reverieさんと私との間にある相違は、「真実在」や、「絶対的
真理」が、私たちにとって実在するのか、虚構にすぎないのか、という点にあるの
ではない、と私は思います。といいますのは、
第一に、認識不能であり、かつ言表不能な「真実在」と、そのような「真実在」に
ついての言明とを、私は区別しなくてはならないと思うからです。虚構という言葉
が相当するのは、後者についてであって、前者(真実在そのもの)については単に
認識不能なのですから、虚構か否かは問題にならないと思うのです。そうではなく
て、認識不能なもの、それゆえ知的判断の対象ではないはずのものを、命題として
言い当てようとするところに虚構が生じます。
第二に、私たちの認識や判断が虚構であるという言い方が成り立つためには、それ
に照らして虚構であると言えるような手がかりが必要です。その手がかりとなるの
は、認識の彼岸としての「真実在」の概念であると私は思います。もしも「真実在」
というプラトン的な語彙が誤解を呼ぶのだとすれば、単に、追い越しえない人間的
認識の「残余」と呼んでもよいでしょう。認識が虚構であるということが言えるの
は、認識にとって決して取り除くことのできない残余が想定されるがゆえにほかなり
ません。そうした残余こそが、ここで「真実在」と呼ばれているのです。

reverieさんと、私との違いは、おそらく、そうした虚構を告知する限界概念として
の「真実在」を、「真実在についての言明」もろとも、無意味な幻影であるとみなすか
否かにあるのではないでしょうか? 私は、言明は虚構であると思います。しかし、
「真実在」あるいは「残余」は、虚構をして虚構たらしめる不可避の概念であると私は
考えます。

reverieさん、真実在は非存在か(2/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 3月18日(火)17時54分12秒

B.次に、カテゴリーエラーのご指摘について。
reverieさんは、「知と世界との完全な一致」という言表がもつ範疇錯誤を指摘
され、えにしだの文章を引用されながら、次のようにまとめていらっしゃいます。

> 「その瞬間、私は思惟する自我である必要が消滅します。不完全性の徴表であ
> る自我は、自己存在の中に溶解し、もはや自我とか、自己とかいうような概念
> すら滅却する」と仰るところの状態は知(=認識)の極限のように
> お考えのようですが、この状態は禅定における一種の三昧「体験」であり「知」的
> な認識ではないと私は考えます。体験ならば世界との完全な一致の「実感」があって
> もカテゴリエラーとはなりませんし。

はい、よく理解できます。自我が溶解するという言い方は、まさに、それがすでに
知という形を保持し得ないという意味ですから、reverieさんがおっしゃるような、
カテゴリーエラーを起こしているという捉え方も可能なのでしょう。そういう意味
で、なるほどと思わせられ、また同意できました。ただ、それが「禅定における
一種の三昧」なのかどうかは、実は、私には判断がつきません(汗)
でも、「実感」としてならエラーは起こらないというお考えは納得できます。

C.次に、「真実在」を存在するものと見るか、存在しないものと見るかについて。
reverieさんは、「真実在」についての積極的言明、消極的言明ということめぐって、
次のようにおっしゃっています。

> たぶん、えにしださんの表現が不十分なためでも私の誤解でもなく、その「真
> 実在」を(知的に把握できなくとも)存在するものと見るか、存在しないと見
> るかの相違があるからだと思います。
> (中略)
> ある対象αに関する命題(言明)が真であるためには、そのαが存在する必要
> があります(その命題が積極的言明か、消極的言明か、には関係なく)。
> 数学的論理ではαが存在しない場合、αに関する(自己言及しない)どのよう
> な命題も常に真となります(例:「丸い四角は波だ」も「丸い四角は日曜日だ」
> も共に真)。αに関するどのような言明も常に真となるのであれば、それらの
> 言明は日常的な論理では無意味(≠真理)となります。

> ですから、その「真実在」が存在しない場合はその積極的言明か、消極的言明
> か、には関係なくその言明は日常的意味では無意味(≠真理)→偽となります。

「丸い四角」というような非−存在についての命題は常に真とみなされるということ
ですが、でも「丸い四角」という主語がそもそも不合理な命題を内に含んでいるよう
に私には思われます。つまり、「丸い四角」という主語は、その中に「若干の丸は
四角い」とか、「すべての丸は四角い」とか、そうした命題を含意しています。こう
した意味での空虚な主語は、それ自身のなかに不合理をはらんでるので、reverieさん
のおっしゃるように、それに対するいかなる言明も無意味だといえるでしょう。
しかし、「四角い丸」とか、「火で構成された水」とかは、単に論理的な不合理なの
であって、「真実在」が存在するのか、存在しないのかいう問題とは水準が異なると、
私は考えます。その理由を以下に述べたいと思います。
たとえば、reverieさんは、さらに次のようにおっしゃっています。

> さて、ある対象が存在するか存在しないかを議論する場合、論証の義務がある
> のは一般的には存在するという立場の方です。なぜなら、存在しないことを示
> すには世界の全事象をチェックすることが必要ですが、存在することを示すの
> はたった一つの実在を示せば足りますから。

すでにして、ここで用いられている「存在する」という言葉には、ある解釈が施され
ているように思います。人間の認識能力の内部に「存在する」もの、言い換えれば、
人間的主観にとって実在的であるものこそが、存在するもののすべてであるという
解釈がそれです。たとえば、「顔は人間で胴体は馬であるような生き物が、実際に
存在するかどうか」というような水準の議論であるなら、reverieさんのおっしゃる
ことはあてはまるでしょう。そこでの存在の有無は、人間の認識能力によって実在が
示せるかどうかという点に基準がおかれているからです。ところが、ここで問題に
なっているのは、人間の認識能力の彼方についてです。すなわち、人間の知り得ぬ
もの、語り得ぬものが、存在するかどうかが問題なのです。

reverieさん、真実在は非存在か(3/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 3月18日(火)18時08分02秒

したがって、「知り得るはずのものなのに、誰もその存在を示せないではないか」
という反駁は意味をなさないように思います。逆に言えば、「《知り得ないもの》
を《知ることのできるもの》として示せ、そうでないと、知り得ないものは存在
しない」とは言えません。これをさらに言い換えれば、「すべてのxが、集合(φ)
に含まれる」という命題の内部で、ある「x」を、集合の要素として示せるか否かが
問題なっているのではないと思います。そうではなくて、そもそも論じられるべき
なのは、その「集合(φ)」そのものの権利問題にほかなりません。つまり対立は、
「すべてのxが集合(φ)に含まれる」という命題と、「すべてのxが集合(φ)に
含まれるわけではない」という命題との間にこそおかれていると私は考えます。

「示し得ないものは存在しない」という命題が意味を持つためには、「すべての
存在は人間によって示し得る」ということが前提される必要があるでしょう。この
命題は、人間の知が全能であることを述べるに等しいと思います。だとしたら、
なぜ、人間が知り得るのは、「主観−客観」の構造において現れるものだけである、
ということが同時に言われ得るのでしょうか? 私の単純な発想では、人間的主観
によって把握できたものだけを人間は知ることができるというのは、人間の知の
形式の有限性を述べているように思われます。それはすなわち、人間の知り得ない
「残余」が、人間の知の形式の彼方に、想定されざるを得ないということではない
でしょうか? 誤解のないように申し添えれば、だからといって、その「残余」が、
実体的に、規定可能なものとして実在すると言っているのではありません。むしろ、
実在的ではないがゆえにこそ、それは「残余」であり、「真実在」という概念で
ありえるのです。

D.次に、「絶対的真理を希求する立場」と、「絶対的真理が虚構であると見なす
立場」とをめぐる問題について。

前回、私が上記の二つの立場は矛盾しないと述べたことについて、reverieさんは、
やはり本質的な対立があると述べられ、次のようにまとめていらっしゃいます。

> ・「絶対的真理を希求する立場」は絶対や超越を求める
> ・「絶対的真理が虚構であると見なす立場」は絶対や超越を求めない

問題は再び、「真実在」の存在、非存在をめぐる解釈に帰着するように、私には
思われます。というのは、reverieさんは、さらに次のようにおっしゃっている
からです。

> ごくふつうに事物があり日常的意味で自分がここにいることが
> 真の実在だと知ること…それが同時に絶対的真理が虚構であるという認識につ
> ながる、このように思えます。

お立場はよく理解できますし、ほとんど共感をもってreverieさんのお考えに接する
ことができます。ただ、どうしても申し添えたく思ってしまうのは、次の事柄です。
「ごくふつうに事物があり日常的意味で自分がここにいることが真の実在だ」と
おっしゃるとき、はたしてそれは、「絶対的真理」が虚構であると考えることの根拠
なのでしょうか? むしろ両者の関係は、前者が後者を根拠づける関係にあるのでは
なく、どちらも、ある存在解釈の、並行する結果なのではないでしょうか? すなわち
その存在解釈とは、人間が知り得るのは、「主観−客観」関係の構造において把握され
うる現象のみであって、その現象こそが人間的主観にとって実在的なのだ、という解釈
にほかなりません。問題はその際、人間的主観には把握不可能なものは、同時に端的に
存在しないと考えるのか、それとも、把握不可能ということから、知り得ない何かが
「残余」として想定されざるを得ないと考えるのか、という点にあります。

E)最後に、神秘体験、超越体験について。
この点について、reverieさんの次のお考えは得心がいきました。

> それらが本当に真理であるならば知的に了解し、言葉で表現することが可能な
> 可能な筈ですが、それらが体験だからこそ絶言絶慮になるし、人格の基底部か
> らのドラスティックな変貌(=大悟)が可能になるのだと思います。

> ただ、そういった体験は『永遠の、絶対的な、普遍的真理』やその顕れと誤解
> されやすいのですが、それはあくまで体験なので真理と捉えるのは誤解だと考
> えています。

「真理と捉えるのは誤解だ」というお考えと、「人格の基底部からのドラスティック
な変貌が可能になる」というお考えの両立は、reverieさんの「思想」の核心のひとつ
であるように私は受け取りました。そして、そのお考えに私は深く共感を覚えます。
この共感は、これまで私が私の考えとして、ときにreverieさんとの対立点を際だた
せながら述べてきた事柄と、決して矛盾しないと思います。

(えにしださんへ)真実在は非存在か(1/3) 投稿者:reverie  投稿日: 3月28日(金)00時35分57秒

返事が遅くなってしまい、失礼いたしました。レスポンスに時間が空いたので
引用は若干長目にしています(過去の記事を参照する手間を省くために)。

---{ 長期にわたる対話が、ひょっとして、いつ果てるともない論議に終始する
ようであれば、好ましくないのかもしれませんが、今少し、言葉を紡いでみたい
と思います。
結局、お互いの相違点を際だたせるというかたちが、総括として求められるの
かもしれませんが、その過程で、何かを得ることができると、なお私は感じて
います(笑)
---} reverieさん、真実在は非存在か(1/3) えにしだ  3月18日(火)17時45分57秒

私は「お互いの相違点を際だたせる」=「何かを得ること」でもあると思って
います。政治交渉と違い意見の一致や議論の収束自体が目的でもありませんし。
結果的に見解の一致や収束が部分的にせよ得られたとすれば、それは余得だと
思うことにしています(笑)

この先の議論がどうであれ、すでにこのスレッドには十分な意義があると私は
感じています。その意義を認める証でもありますが、一つお願いがあります。
本スレッドのえにしださんの記事を私の Web に掲載する許可を頂けませんか?
(掲載時にハンドルをイニシャルや仮名にすることが望ましければそういた
します。ズボラゆえ掲載がいつになるかはまったく未定ですが。)

---{
A.さて、まず、「絶対的真理が言葉にならない理由」にかんして。

> えにしださん:人間の主観を越えた超越的次元に実在するものだから。
> reverie    :虚構なのに、真の意味で実在だと誤解して無理をするから。

この整理によると、絶対的真理が「超越的次元に実在する」というように私が考え
ているということですが、次のようにな但し書きをつけたうえでなら、reverieさん
のまとめて下さった言い方に異論はありません。すなわち、

(1) そこで言われている「超越的次元に実在する」という表現は、より厳密には、
   「実在すると想定される」という意味であるということ。なぜなら、人間の判断
   として言表される「真理」は、超越的次元に「実在する」ことはありえぬゆえに。
(2) 「絶対的真理」と「真実在」とを区別する必要があるということ、つまり、
   「超越次元に実在する」と想定されるのは、「絶対的真理」ではなく、「真実在」
   の方であるということ。なぜなら、「絶対的真理」が言葉にならないことの理由
   を述べるとき、「言葉としての真理」が超越的次元に実在するというのでは、
   無意味なショートを起こしてしまいますから。
---} reverieさん、真実在は非存在か(1/3) えにしだ  3月18日(火)17時45分57秒

まず、

>(2) 「絶対的真理」と「真実在」とを区別する必要があるということ

は全面的に同意いたします。私にとってはどちらも虚構なのでついまとめて否
定する癖がありますが、仰るとおり明確に区別すべきでした。

次に「真理」を私は
(a) 全ての真理は「言葉で」表現した命題の真偽の「判断」である。
と捉えています。そしてこの(a)から

・「言葉で表現されない真理」という概念は自己矛盾。言葉で表現されないも
 のは既に真理ではない(真理の資格がない)。真理は言葉では表現し尽くせ
 ない…のではなく、事物を言葉で表現し尽くせていないだけ。

・真理は実在するものではない。絶対的であろうが相対的であろうが、全ての
 真理は言明についての真偽の「判断」であるから、事物と異なり実在しない。
 
という判断が導かれます。これはえにしださんの

>人間の判断として言表される「真理」は、超越的次元に「実在する」ことはあ
>りえぬゆえに。

というご発言と見解が一致します。ただし「人間の判断として言表され」ない
ような真理を認めるかどうかという点では見解が分かれそうですが。

(えにしださんへ)真実在は非存在か(2/3) 投稿者:reverie  投稿日: 3月28日(金)00時40分46秒

---{
第二に、私たちの認識や判断が虚構であるという言い方が成り立つためには、それ
に照らして虚構であると言えるような手がかりが必要です。その手がかりとなるの
は、認識の彼岸としての「真実在」の概念であると私は思います。
:
                   認識が虚構であるということが言えるの
は、認識にとって決して取り除くことのできない残余が想定されるがゆえにほかなり
ません。そうした残余こそが、ここで「真実在」と呼ばれているのです。
:
                 私は、言明は虚構であると思います。しかし、
「真実在」あるいは「残余」は、虚構をして虚構たらしめる不可避の概念であると私は
考えます。
---} reverieさん、真実在は非存在か(1/3) えにしだ  3月18日(火)17時45分57秒

「真実在」が文字通り「認識の彼岸」ならば、照らし合わせることは原理的に
不可能な筈です、「見えない定規」で長さを測ることは誰にも出来ないように。
(それに照らして虚構であると言えるような)「手がかり」すら持たないから
こそ「認識の彼岸」なのではないでしょうか。

それ(=手がかり)に「照らして」虚構であると言えるのは、その「手がかり」
が幽かで頼りないにせよ、あくまで「見える定規」――つまりそれもまた私た
ちの日常の認識や判断において多用される「理想のイメージ」――であり「真
実在」と表現するほどの真実性も実在性も持っていない、ように思えます。

---{
C.次に、「真実在」を存在するものと見るか、存在しないものと見るかについて。

> ですから、その「真実在」が存在しない場合はその積極的言明か、消極的言明
> か、には関係なくその言明は日常的意味では無意味(≠真理)→偽となります。

したがって、「知り得るはずのものなのに、誰もその存在を示せないではないか」
という反駁は意味をなさないように思います。逆に言えば、「《知り得ないもの》
を《知ることのできるもの》として示せ、そうでないと、知り得ないものは存在
しない」とは言えません。
---} reverieさん、真実在は非存在か(2/3) えにしだ 3月18日(火)17時54分12秒

つまり

(1) 人間の知り得ぬもの、語り得ぬものが、存在する。
(2) 《知り得ないもの》を《知ることのできるもの》として示すことはできな
  い。
(3) 真実在は人間の知り得ぬもの、語り得ぬものである。
(4) ゆえに真実在の存在を示すことはできないが、存在しないとはいえない。
(5) それゆえ reverie の主張する
> 「真実在」が存在しない場合はその積極的言明か、消極的言明か、には関
>  係なくその言明は日常的意味では無意味(≠真理)→偽
  とはならない。「真実在」が存在しない場合という仮定が成立しないので。

ということですね。それに対する私の反論の趣旨はこうなります。

「人間の知り得ぬもの、語り得ぬもの」(=α)に関する全ての言明は偽、と
いう点において「存在しないもの」と同型である。

以下、その趣旨を詳しく述べます。まず、存在しないものについてはどのよう
な命題も真となります。逆にαに関する(自己言及しない)どのような命題も
偽となります。

なぜならそもそもαは言及不能、不可知と定義されているために、{αの定義
自身(=自己言及)を除き}一切の命題が成立しません。

なお、αに関する消極的言明も実はαの定義自身のトートロジーであり、新た
な意味のある言明ではないと考えます。消極的言明とされるものはαの定義の
表現を言い換えただけであり、αの定義(=不可知、言及不能)以上に詳しい
言明がなされることは、その定義上、ありえませんから。

よって、αに関する(自己言及しない)どのような言明も偽であることが論証
され、この意味で「存在しないもの」と同型であると見なすことができます。

(えにしださんへ)真実在は非存在か(3/3) 投稿者:reverie  投稿日: 3月28日(金)00時41分31秒

---{
「示し得ないものは存在しない」という命題が意味を持つためには、「すべての
存在は人間によって示し得る」ということが前提される必要があるでしょう。この
命題は、人間の知が全能であることを述べるに等しいと思います。だとしたら、
なぜ、人間が知り得るのは、「主観−客観」の構造において現れるものだけである、
ということが同時に言われ得るのでしょうか? 私の単純な発想では、人間的主観
によって把握できたものだけを人間は知ることができるというのは、人間の知の
形式の有限性を述べているように思われます。それはすなわち、人間の知り得ない
「残余」が、人間の知の形式の彼方に、想定されざるを得ないということではない
でしょうか? 誤解のないように申し添えれば、だからといって、その「残余」が、
実体的に、規定可能なものとして実在すると言っているのではありません。むしろ、
実在的ではないがゆえにこそ、それは「残余」であり、「真実在」という概念で
ありえるのです。
---} reverieさん、真実在は非存在か(3/3) えにしだ 3月18日(火)18時08分02秒

「残余」、「実在的ではない」、「想定されたものなのであって、それを実在
として実体化することはできない」、「虚構を告知する限界概念」……このよ
うにう伺っていると「それ」を真実在と呼ぶのにためらいを感じてきます。

「真実在」という言葉の語感が本来持つはずの真実性、実在性がどんどん薄れ
て、単なる「理想のイメージ」と区別し難いものに思えてくるからです。この
意味で「真実在」が実在かどうかは既に、実質的な論点ではなくなりつつある
のかも知れません。

論点を整理する意味で伺いますが、真実在と「理想のイメージ」の間に本質的
な差異があるとすれば、それは何なのでしょうか? 

---{
D.次に、「絶対的真理を希求する立場」と、「絶対的真理が虚構であると見なす
立場」とをめぐる問題について。

> ごくふつうに事物があり日常的意味で自分がここにいることが
> 真の実在だと知ること…それが同時に絶対的真理が虚構であるという認識につ
> ながる、このように思えます。

「ごくふつうに事物があり日常的意味で自分がここにいることが真の実在だ」と
おっしゃるとき、はたしてそれは、「絶対的真理」が虚構であると考えることの根拠
なのでしょうか? むしろ両者の関係は、前者が後者を根拠づける関係にあるのでは
なく、どちらも、ある存在解釈の、並行する結果なのではないでしょうか? すなわち
その存在解釈とは、人間が知り得るのは、「主観−客観」関係の構造において把握され
うる現象のみであって、その現象こそが人間的主観にとって実在的なのだ、という解釈
にほかなりません。問題はその際、人間的主観には把握不可能なものは、同時に端的に
存在しないと考えるのか、それとも、把握不可能ということから、知り得ない何かが
「残余」として想定されざるを得ないと考えるのか、という点にあります。
---} reverieさん、真実在は非存在か(3/3) えにしだ 3月18日(火)18時08分02秒

もちろん、「人間が理解しえないもの」=「存在しないもの」とは考えており
ません。人知の理解を超えたものはあきれるほど無数に存在すると思っていま
すし、その中のごく一部を体験することも十分に可能だと思っています。

ただ、それら人知の理解を超えたものは、単に人知を超えたというだけの話で、
それだけでは絶対的真理とは見なせません。人知を超えようが、日常のありよ
うであろうが、結局のところその領域から見れば実在の濃度は同じ(同じ程度
の真実さ)だ…このように思えるのです、私には。

どこかこの日常世界とは別の超越的次元なり、神秘的境地や臨死体験などで、
真の実在に至ったように錯覚するのは、単に物珍しさによる新奇さに眩まされ
た影響だと。

>「ごくふつうに事物があり日常的意味で自分がここにいることが真の実在だ」と
>おっしゃるとき、はたしてそれは、「絶対的真理」が虚構であると考えることの根拠
>なのでしょうか? 

はい。喩えば、仮に麗子さん(仮名22才)が純一郎さんを「真の恋人」だと実
感しているとします。その時、「絶対的恋人」や「恋の真理」が彼以外の誰か
であることはありえません。

「絶対的真理」を希求するのはアイドル歌手に憧れる「恋いに恋する乙女」に
通じるものがあると思います。対して、恋する女にとっては、普通の男こそが
「実在する恋人」だと。

私には女心はよくわかりませんが、言い伝えによればそんなものだとか…(笑)

reverieさん、真理と真実在 (1/2) 投稿者:えにしだ  投稿日: 4月20日(日)01時02分25秒

reverieさん、最後のご投稿から、3週間……なかなか時間がとれず、
申し訳ありませんでした。あまりにも間延びしていて、応答としては
時機を失してしまったかもしれません。私の中では決して、問題を放置
していたわけではなく、いつも考えてはいたのですが、結果的に、あた
かも放置していたかのようになってしまったことをお詫びします。

> 私は「お互いの相違点を際だたせる」=「何かを得ること」でもあると思って
> います。政治交渉と違い意見の一致や議論の収束自体が目的でもありませんし。
> 結果的に見解の一致や収束が部分的にせよ得られたとすれば、それは余得だと
> 思うことにしています(笑)

はい、そうですね。私はreverieさんとの不思議な近さと遠さとを感じます(笑)
すでにいくつかの一致する点と、食い違うところとを点検する過程で、多くの
ものを得ることができていると思います。

さて、まずreverieさんの真理観について。
reverieさんは、真理について、「言葉で」表現した命題の真偽の「判断」で
あると規定され、次のようにおっしゃっています。

> ・真理は実在するものではない。絶対的であろうが相対的であろうが、全ての
>  真理は言明についての真偽の「判断」であるから、事物と異なり実在しない。
> という判断が導かれます。これはえにしださんの
>> 人間の判断として言表される「真理」は、超越的次元に「実在する」ことはあ
>> りえぬゆえに。
> というご発言と見解が一致します。ただし「人間の判断として言表され」ない
> ような真理を認めるかどうかという点では見解が分かれそうですが。

「真理」とは、「言明についての真偽の『判断』である」というreverieさんの
お考えに従えば、「人間の判断として言表される『真理』」などという言い方は、
空虚な繰り返しにすぎないということになりそうですね(汗) 実際、私の言い
方は、「人間の判断として言表される人間の判断」といったようなものになって
います(笑)
もちろん、「真理」は言明についての人間の判断である、というreverieさんの
「真理観」に、私は基本的に同意いたします。では、なぜわざわざ「人間の判断
として言表される真理」などという持って回った言い方をするのか、疑問に思わ
れるかもしれません。この点は、「認識の彼岸」である「真実在」を、認識に
とってのある種の尺度だと考える立場ともかかわって参りますので、以下に説明
したいと思います。

繰り返しますと、「言明についての真偽の判断」として「真理」を位置づけられる
reverieさんの真理への規定に、私は同意いたしますが、この規定は私にとって
(そしておそらくreverieさんにとっても)、真理が常に相対的なものとしてのみ、
人間に現前するという事態を言い表していると思います。
ところで、真理が相対的なものとしてのみ、私たち人間に現れるということを、
私たちが知るのは、もちろん、異なる文化圏や異なる歴史的時期おいて、真理が
様々な形で現象するという経験に基づくとも言えるでしょう。でも、そうした
経験的次元における判断が成り立ちうるのは、いわば超越論的な水準で、「絶対
的真理」という観念が前提されているからだとも私は思います。誤解のないよう
に申し上げれば、絶対的真理が、実体として私たちに与えられているという意味
で言っているのではありません。絶対的真理は、決して人間にとって実在的では
ないと思います。
にもかかわらず、私たちが真理を「相対的」であると考えることが可能なのは、
それが「絶対的」ではないと考えることができるからにほかなりません。この
あたりの理路は、「真実在」をめぐる理路と共通していると思います。
「真実在」は認識不可能であり、それゆえに、決して実在的だとはいえないにも
かかわらず、なおかつ、作用として、決して空無なのではない、というふうに、
私は思うのです。この理路の受け止め方が、いつも、reverieさんと私との間に
食い違いを生じさせる分岐点なのかもしれませんが。

http://homepage2.nifty.com/enishida/


reverieさん、真理と真実在 (2/2) 投稿者:えにしだ  投稿日: 4月20日(日)01時11分16秒

たしかに、「真理」は、体験の真実性の問題ではなく、言明された命題に
おける問題であり、それゆえにこそ、いかなる真理も相対的であると考え
られます。こんな当然のことを言うためには、人間が知り得るのは、いつ
も人間の知の形式にくみ取られた対象だけであるということが前提され
なくてはなりません。
知の形式を越えたものは、知にとっては非実在的だけれども、しかし知の形式
に捉えられない残余が「ある」という知、ある種の「無知の知」なくして、
どうして知は自らの相対性を自覚することができるでしょうか?
この知の形式を越えた残余を「真実在」と呼ぶなら、なるほどそれは知にとって
は無かもしれませんが、作用として決して空無ではありません。それなくして、
知の相対性は成り立たないからです。

上述した事柄は、認識の虚構性を告知する「手がかり」ということについての、
私なりの考えでもあります。この点について私は、ある種の認識が虚構であると
いう言い方が成り立つためには、認識の限界を告知する「真実在」という限界
概念が「手がかり」として必要であると、やっぱり繰り返すことになります。
それに対して、reverieさんは、次のように疑念を述べていらっしゃいます。

> 「真実在」が文字通り「認識の彼岸」ならば、照らし合わせることは原理的に
> 不可能な筈です、「見えない定規」で長さを測ることは誰にも出来ないように。
> (それに照らして虚構であると言えるような)「手がかり」すら持たないから
> こそ「認識の彼岸」なのではないでしょうか。

> それ(=手がかり)に「照らして」虚構であると言えるのは、その「手がかり」
> が幽かで頼りないにせよ、あくまで「見える定規」――つまりそれもまた私た
> ちの日常の認識や判断において多用される「理想のイメージ」――であり「真
> 実在」と表現するほどの真実性も実在性も持っていない、ように思えます。

おそらく、「照らし合わせる」とか、「手がかり」とかいった私の言葉遣いが
不適切なのだろうと思います。以下の補足的に説明させていただきます。
たとえば、ある事物がどれくらいの「長さ」があるかというとき、reverieさん
のおっしゃるように、その事物を「見えない定規」で測ることはできません。
そこでは、世界内部の事物の「長さ」を決定するための尺度が求められている
からです。
けれども、もしも私たちの認識そのものの射程が問題になっているとしたら、
それを測る尺度はどこに求められるべきでしょうか? 私たちの手に入れた
尺度が、常に相対的でしかないということを測る尺度、尺度一般のための尺度
は、どこ求められるべきでしょうか? 認識が私たちにとっての世界を成立させ
ている以上、世界内部の「目に見える定規」によって、認識の射程を測ることは
できません。見ることそのものの限度を測るために、見ることのできる定規を
持ち出すことはできないと私は考えます。見ることのできる定規は、常に、見る
ということの枠内ではじめて意味をもつからです。
でも、私たちは「見る」ことの限界を感知します。そうした限界は、限界を
超えたものを暗黙のうちに、同時に想定しながらでないと露わにならないの
ではないでしょうか?世界そのものの尺度は、世界内部の事物の尺度のよう
には実在的に想定され得ません。知り得ぬものの想定が、知の限界を告知する
ということ、そのことを私は意味のあることだと思うのです。

上述の点にかかわって、reverieさんは、「真実在」と「理想のイメージ」との
間に本質的な差異があるのかどうか、あるとしたらどのような点においてである
か、と述べておいでです。十分な形で納得していただけるかどうかわかりません
が、さしあたり、次のようにお答えしておきたいと思います。すなわち、「真実
在」は深淵であり、「理想のイメージ」は、その深淵にかけられたスクリーンに
人間が投射した像にすぎないと。
「理想のイメージ」は、ニーチェ流の言い方を借りれば、それなくして人間と
いう種が生きていけないような虚構だと思います。そして、それが虚構である
ことを告知するのは、認識の彼岸、知の残余、あるいは人間の知の形式に汲み
尽くされえない何ものか、すなわち「真実在」だと思うのです。

> 「絶対的真理」を希求するのはアイドル歌手に憧れる「恋いに恋する乙女」に
> 通じるものがあると思います。対して、恋する女にとっては、普通の男こそが
> 「実在する恋人」だと。

> 私には女心はよくわかりませんが、言い伝えによればそんなものだとか…(笑

はい、そんなものかもしれません(笑)
でも、普通の男こそが「実在する恋人」だと確信するためには、「恋に恋する」
精神作用が、常に、多かれ少なかれ伴われている必要があるとも思います。
哲学的に申しますと、「向自的恋」が「対他的恋」の構造的前提かと……(笑)

http://homepage2.nifty.com/enishida/


(えにしださんへ)re:真理と真実在(1/2) 投稿者:reverie  投稿日: 4月30日(水)03時31分20秒

---{
>                 ただし「人間の判断として言表され」ない
> ような真理を認めるかどうかという点では見解が分かれそうですが。

「真理」とは、「言明についての真偽の『判断』である」というreverieさんの
お考えに従えば、「人間の判断として言表される『真理』」などという言い方は、
空虚な繰り返しにすぎないということになりそうですね(汗) 
---} reverieさん、真理と真実在 (1/2) えにしだ 4月20日(日)01時02分25秒

私の説明が稚拙なために若干の誤解を招いたのかもしれません。私が<「人間
の判断として言表され」ないような真理>というフレーズで否定したかったの
は、禅に典型的に見られる(例:維摩の一黙)ような安直な神秘主義者の「真
理は言葉にはならない」という類の主張だったのです。

禅でいう真理とは悟りのことですから、悟りの「体験それ自体」が言葉では捉
えきれないのは当然ですが、その悟りに理(ことわり)という真理性が含まれ
るものならば、その理の側面は言葉(新約でいうロゴス)となる…というのが
奥にある趣旨でした。

つまり私は「人間の判断」の部分が繰り返しだから否定したかったのではなく、
「言表されない真理」という流布している概念を否定したかったのです。


次は重要な内容ですので長目に引用をさせて頂きます。
---{
ところで、真理が相対的なものとしてのみ、私たち人間に現れるということを、
私たちが知るのは、もちろん、異なる文化圏や異なる歴史的時期おいて、真理が
様々な形で現象するという経験に基づくとも言えるでしょう。でも、そうした
経験的次元における判断が成り立ちうるのは、いわば超越論的な水準で、「絶対
的真理」という観念が前提されているからだとも私は思います。誤解のないよう
に申し上げれば、絶対的真理が、実体として私たちに与えられているという意味
で言っているのではありません。絶対的真理は、決して人間にとって実在的では
ないと思います。
にもかかわらず、私たちが真理を「相対的」であると考えることが可能なのは、
それが「絶対的」ではないと考えることができるからにほかなりません。この
あたりの理路は、「真実在」をめぐる理路と共通していると思います。
「真実在」は認識不可能であり、それゆえに、決して実在的だとはいえないにも
かかわらず、なおかつ、作用として、決して空無なのではない、というふうに、
私は思うのです。
---} reverieさん、真理と真実在 (1/2) えにしだ 4月20日(日)01時02分25秒

---{
知の形式を越えたものは、知にとっては非実在的だけれども、しかし知の形式
に捉えられない残余が「ある」という知、ある種の「無知の知」なくして、
どうして知は自らの相対性を自覚することができるでしょうか?
この知の形式を越えた残余を「真実在」と呼ぶなら、なるほどそれは知にとって
は無かもしれませんが、作用として決して空無ではありません。それなくして、
知の相対性は成り立たないからです。
---} reverieさん、真理と真実在 (2/2) えにしだ 4月20日(日)01時11分16秒

つまり、

(1) 真理が相対的なものとしてのみ、私たち人間に現れるのは
(2) 超越論的な水準で、「絶対的真理」という観念が前提されているから

であり、

(3) 私たちが真理を「相対的」であると考えることが可能なのは、
(4) 超越論的な「絶対的真理」という観念に照らしてそれが「絶対的」では
  ないと考えるからだ
(5) それゆえに「真実在」(=超越論的な絶対的真理)は実在的だとはいえな
  いにももかわらず、なおかつ、作用として、決して空無なのではない。
(6) この「真実在」は知の形式を超えているため、残余として感知される。

と仰るわけですね。

しかし、まさにこの(1)〜(6)の論理それ自身が問題となっている<超越論的な
「絶対的真理」>の不在を示しているように思えます。

(えにしださんへ)re:真理と真実在(1/2) 投稿者:reverie  投稿日: 4月30日(水)03時42分24秒

その理由は次のとおりです。

(a) 仮に仰るところの<超越論的な「絶対的真理」>の本質が「認識の彼岸」
  であり認識の枠組みを超越している、としましょう。その場合、我々はそ
  れを不可解で不気味な何か、だと捉えることはあっても、絶対性や真理性
  を持つとは夢にも思えない事でしょう。

  我々がある事柄を真理であるとか、正しい、美しいと認識できるのはそれ
  らが我々の認識の枠組みに合致している場合に限ります。つまりそれがま
  だ相対の領域にあるからこそ絶対化されうる余地が生じるのであって、認
  識の枠組みの領域を超えたものは、そもそも相対的な事物との比較すら不
  可能な、不可解で(場合によっては不気味な)何かでしかありえない…こ
  う私は考えます。

  つまり、逆説的になりますが絶対的真理という概念を我々があるリアリテ
  ィをもって使えるのはそれが絶対的でも超越的でもなく日常的概念に過ぎ
  ないからだと考えます。

  余談になりますが、この意味で悟りや神秘体験などで出会う神や絶対的真
  理、宇宙的真理、慈愛や叡智に満ちた存在というのは、それらがまだ我々
  の日常のレベルからそう遠くないことを示しています。つまり我々は我々
  とほぼ同レベルのものしか理解できないしまた出会うこともできないと。

(b) この(2),(4)の<超越論的な「絶対的真理」という概念>それ自体が知を
  超越したものでも、絶対的真理でもありえず、我々のもつ通常の概念の一
  つに過ぎないこと。しかも他の一般概念と違って空虚な概念だと。

  この絶対的真理という概念は内実を持たないという意味で空虚であり、何
  物をも指し示さない空のシンボルに過ぎないと考えます。神秘体験の類な
  らばまだ対応する実体験が存在していますがこの意味の絶対的真理の場合
  はあらゆる意味で内実を持ちません。逆にそれが内実を持たないがゆえに

---{
認識の彼岸、知の残余、あるいは人間の知の形式に汲み
尽くされえない何ものか、すなわち「真実在」だと
--} reverieさん、真理と真実在 (2/2) えにしだ 4月20日(日)01時11分16秒

  いう知的な嵩上げを受けて錯覚され易いのではないか、と考えます。

(c) ある事柄が「絶対的」ではないと判断しうるほどに、超越論的な「絶対的
  真理」と照らしあわせることが可能ならば、同時に比較対照された絶対的
  なものの「絶対さの内実」も判明するように思えます。

  喩えば、ある絵の美しさを「絶対的絵画」と照らし合わせて絶対的ではな
  いと判断するとき、その比較された側の「絶対的絵画」の絶対的な美しさ
  を部分的にせよ認識しないことはあり得ないように。


---{
上述の点にかかわって、reverieさんは、「真実在」と「理想のイメージ」との
間に本質的な差異があるのかどうか、あるとしたらどのような点においてである
か、と述べておいでです。十分な形で納得していただけるかどうかわかりません
が、さしあたり、次のようにお答えしておきたいと思います。すなわち、「真実
在」は深淵であり、「理想のイメージ」は、その深淵にかけられたスクリーンに
人間が投射した像にすぎないと。
---}

美しい比喩ですね。その場合、深淵もまた人間の投射した像だと見るのが私の
立場に相当しそうですね。

reverieさん、残余は空無か(1/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 5月 5日(月)13時17分59秒

reverieさん、ありがとうございます。ご投稿を拝見していると、そのご見解
のほとんどに、私は同意することが出来ます。ただ、ある一点において私たち
の議論は、多くの一致点にもかかわらず、微妙な、しかし決定的な差異が生じ
ているように感じます。その差異は、あるものが私たちにとって実在するとい
うことと、その実在の範囲に入らない何ものかの存在(もしくは非在)との関
係をめぐって生じているように思います。

reverieさんは、前回の私の投稿を以下のようにまとめられています。

> (1) 真理が相対的なものとしてのみ、私たち人間に現れるのは
> (2) 超越論的な水準で、「絶対的真理」という観念が前提されているから
>   であり、
> (3) 私たちが真理を「相対的」であると考えることが可能なのは、
> (4) 超越論的な「絶対的真理」という観念に照らしてそれが「絶対的」では
>   ないと考えるからだ
> (5) それゆえに「真実在」(=超越論的な絶対的真理)は実在的だとはいえな
>   いにももかわらず、なおかつ、作用として、決して空無なのではない。
> (6) この「真実在」は知の形式を超えているため、残余として感知される。

簡明な整理に感謝申し上げます。前にも申し上げましたが、事柄そのものこそ
が肝要であるというreverieさんの姿勢はお見事で、まとめられた側の私にも、
気持ちよく受け入れることができます。
ところで、上述のようにまとめられた私の見解に対して、reverieさんは次の
ように述べられています。

> しかし、まさにこの(1)〜(6)の論理それ自身が問題となっている<超越論的な
> 「絶対的真理」>の不在を示しているように思えます。

はい、そうですね。でも、私からしますと、それは当然のことだと思われます。
といいますのは、私は、超越論的な絶対的真理が存在することを言わんがため
に、reverieさんがまとめてくださった(1)〜(6)の論理を展開しているのでは
ないからです。むしろ絶対的真理が不可能であることを申し上げているのです。

もう、耳にタコができていらっしゃるかもしれませんが、もう一度「真実在」
と「絶対的真理」とを分けながら、説明させていただくと、私が申し上げたい
のは次の一事です。すなわち、「真実在」は、私たちの主観にとって原理的に
不在にとどまるがゆえに、まさにその不在を通じて、私たちが生きる現実に
作用を与えるということ、そして、その不在であるがゆえの作用の一つが、
「絶対的」という理念(≠実在)の出現です。出現すると申しましても、それ
が実在するという意味ではありません。そうではなくて、それは不可能性の
指標としてのみ現実的です。
もしも私が、真実在はなんらかの方法で認識可能であると考え、その真実在
の認識に基づく絶対的真理を人間が掲げることができると考えているのなら、
真実在は認識不能であるがゆえに真実在である、などと言うはずがありませ
ん。絶対的真理なるものは単なる虚構の理念である、などとも述べたりはし
ないでしょう。むしろ、「絶対的真理が実在しうる」という立場が誤謬で
あること、そのことを言わんがために、真実在は人間的主観にとっては不在
である、と述べています。

けれども、このように言うと、reverieさんはきっと、不在であると認めて
おきながら、それに作用を認めるというのは踏ん切りの悪い態度だとおっ
しゃるかもしれませんね。私のみるところ、「存在」と「不在」ということ
をいかに考えるかということをめぐって、どうしてもreverieさんと私との
間にずれが生じているようです。
もしも誤解がありましたら正していただきたいのですが、reverieさんは、
私たちが目に見えるものとして確認できるもののみが「存在」という名に
値する、という大前提をお持ちのように思われます。reverieさんは次の
ようにおっしゃっています。

> 我々がある事柄を真理であるとか、正しい、美しいと認識できるのはそれ
> らが我々の認識の枠組みに合致している場合に限ります。つまりそれがま
> だ相対の領域にあるからこそ絶対化されうる余地が生じるのであって、認
> 識の枠組みの領域を超えたものは、そもそも相対的な事物との比較すら不
> 可能な、不可解で(場合によっては不気味な)何かでしかありえない…こ
> う私は考えます。

はい、正しいものであれ不正なものであれ、美しいものであれ醜いもので
あれ、私たちがそのようなものとして認識できるのは、その対象が私たち
の認識の枠組みに合致している場合に限るというのは、おっしゃるとおり
ですし、この点は、最初の段階からreverieさんと共有している論点だと
思います。しかしながら、あるものが絶対化されうるのは、あるものが相対
の領域にあるからだ、というご見解を述べられるとき、まさにそのときに、
議論がすれ違ってしまうのだと考えます。

reverieさん、残余は空無か(2/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 5月 5日(月)13時23分00秒

もちろん、あるものが絶対化されうるためには、そのあるものが相対の領域
に存在しなくてはならないのは当然です。でも、そこで言われているのは、
相対的なものを絶対的なものと取り違えるときの条件についてであって、
そもそも認識不能な真実在が、人間にとって認識不能であるという理由で
端的に空無であるかどうかという問題とは、次元を異にしています。
遠くから来たAさんを、Bさんと誤解するという現象が起こったとき、その
誤解が生じるためには、なるほど、遠くから来たAさんが必要です。でも、
そうした陳述は、Bさんについての絶対的な知が成り立ちえないということ、
だからといって私たちの知り得たBさんについての知のみが、Bさんのすべ
てであるとはみなせないということ、そうした問題とは直接には関係しない
のではないでしょうか。

たぶん、reverieさんは、認識の枠組みを超えたものは、要するに知り得ない
ものなのだから、世界内の事物の尺度にはなりえない、というご主旨を述べて
おられるのだと思います。けれども、問題になっているのは、世界内の事物と
の比較が可能かどうか、ということではないと私は思います。だって、もしも
世界内の事物との比較が可能なら、そのものもまた、世界内の事物でなければ
なりません。そして、世界内の事物であるとは、私たちに認識可能な対象であ
るということです。認識可能な対象を、別の認識可能な対象で測るということ、
そうしたことが問題なのではなく、認識の可能性には限界があるということが
問題なのではなかったでしょうか?
前回の言い方をもう一度繰り返しますと、見られた事物の長さが問題なのでは
なくて、見るという行為そのもの限界を、いかに私たちが知るかが問題です。
見られた事物との比較で明らかにされるのは、見る行為の枠内に現れる事物の
長さにすぎず、見る行為そのものの射程ではありません。

けれども、reverieさんは、私たちの知り得るものは、私たちの知の形式に
よって切り取られた対象であるということを述べられつつ、しかも同時に、
私たちの知の形式からははみ出すものは、内実をもたねば尺度にはなりえ
ないとおっしゃっているように見受けられます。けれども、問題は知の内実
についての尺度でしょうか? それとも、内実を可能にする知そのものに
ついての尺度でしょうか?

> この絶対的真理という概念は内実を持たないという意味で空虚であり、何
> 物をも指し示さない空のシンボルに過ぎないと考えます。神秘体験の類な
> らばまだ対応する実体験が存在していますがこの意味の絶対的真理の場合
> はあらゆる意味で内実を持ちません。

> ある事柄が「絶対的」ではないと判断しうるほどに、超越論的な「絶対的
> 真理」と照らしあわせることが可能ならば、同時に比較対照された絶対的
> なものの「絶対さの内実」も判明するように思えます。

でも、reverieさん、私は繰り返し、世界内の事物と比較対照可能な内実を
もつものは、すでに相対的であると述べているのです。そもそも絶対とは、
一切の比較を絶しているという意味ではありませんか。
reverieさんはそんなことは百もご承知で、絶対的なものは内実をもちえ
ないがゆえに、内実をもつものの尺度たりえないのだとおっしゃっている
のだと思います。でも、繰り返しますが、内実をもつものについての尺度
が問題なのではなく、内実をもつものをそのようなものとして認識する私
たちの認識作用そのものの限界が問題なのです。

やはり「照らし合わせる」という言い回しがまずかったのかもしれません
が、私たちの認識の相対性を照らすためには、絶対的真理が世界内の事物
と比較可能な形で現前しなくてはならない、なんてことはありえません。
むしろ事態は逆で、絶対的真理が世界内の事物としては現前しえないが
ゆえに、私たちの認識は相対的であるのです。もしも、内実を持つもの、
すなわち私たちにとって認識可能なものが、認識の限界を告知すべきだ
と言うのであれば、それは絶対的真理の所有者が現前しなくてはならない
ということになりましょう。それは端的に不可能です。繰り返しになり
ますが、認識の限界を照らすものは、認識可能なある対象ではありえない
と思います。

reverieさん、残余は空無か(3/3) 投稿者:えにしだ  投稿日: 5月 5日(月)13時25分39秒

> 喩えば、ある絵の美しさを「絶対的絵画」と照らし合わせて絶対的ではな
> いと判断するとき、その比較された側の「絶対的絵画」の絶対的な美しさ
> を部分的にせよ認識しないことはあり得ないように。

いえ、ある絵の美しさの相対性を照らすものが、実在する絶対的絵画だなん
て妄想にすぎないと思います。実在する絵画は、創作される過程においても
鑑賞される過程においても、世界内部の事象としての制約を受けています。
そもそも、私たちの眼球の構造に依存しています。また、私たちの眼球の
構造に依存しつつ現れるがゆえに、絵画は実在的です。それゆえ、実在する
絵画は絶対的ではありえません。さて、実在する絵画は絶対的でない、言い
換えれば、絶対的絵画は実在的でない、ということを知るために、私たちは、
絶対的絵画を実在として認知しておかなくてはならないのでしょうか?
あたかも、Aが実在しないことを知るために、実在しないところのAの実在
を参照せよというように?

私はreverieさんとともに、人間が知り得るのは、人間の知の形式によって
把握されたもののみであると考えます。それゆえ、すべてを完璧に知ったと
いう知は、不可能であり、誤謬であると思います。そのために、真実在は
人間の知にとっては決して実在的ではないと述べてまいりました。
けれども、真実在が人間の知にとって不在であるということから、知によっ
て把握できないものは、人間にとって端的に空無であるという方向に進むの
もまた、もう一つの誤謬であろうと私は考えます。もちろん、reverieさん
がそうだと決めつけるつもりは毛頭ありません。ただ、そうなってしまうの
ではないかと疑念を抱くのです。人間的主観にとって把握不可能であると
いうことと、把握不可能なものは存在しないということとは、別の事柄です。
また、把握不可能であるのだから、在ろうが無かろうがどちらでも同じだ、
ということも断じてありえないと思います。

もしも人間的主観にとって不在の真実在が、不在であるがゆえに端的に空無
であると考えたり、あるいは、どちらでも同じだと考えたりするなら、それ
は事実上、人間的主観によって把握されたもののみを、存在のすべてである
とみなす立場に帰結します。人間の知り得ないものは存在しない、もしくは
存在しないのと同じだ、という立場は、言い換えれば、人間はすべてを知り
得るとみなしてよいという立場につながらないでしょうか? さて、そう
なると、そこに素朴実在論的な、別の絶対主義が、忍び込む余地が生じます。
知り得るもののみが存在する、知の残余は単に空虚である、そうした立場は、
当初前提されていたはずの、知の限界、すなわち、知り得るものは存在その
ものではなく、知の形式に合わせて、いわば切り取られたものにすぎないと
いう限界を、どこかに厄介払いされているように思います。

(えにしださんへ)re:残余は空無か(1/2) 投稿者:reverie  投稿日: 5月12日(月)02時09分12秒

>                     ただ、ある一点において私たち
>の議論は、多くの一致点にもかかわらず、微妙な、しかし決定的な差異が生じ
>ているように感じます。その差異は、あるものが私たちにとって実在するとい
>うことと、その実在の範囲に入らない何ものかの存在(もしくは非在)との関
>係をめぐって生じているように思います。

はい、仰るとおり多くの一致点とともに決定的な差異もまた明確になってきて
います。それがこのスレッドの大きな意義だと私は思います。この差異のどち
らをとるべきかといった事はこの意義に比べると副次的なものとすら思えます。

さてその「実在の範囲に入らない何ものかの存在(もしくは非在)」、つまり
このスレッドで話題にしている真実在、に関する決定的な差異とは(以前のポ
ストの抜粋になりますが)次のような基本的立場の相違に起因するものだと思
っています。

えにしださん:人間の主観では概念であり、フィクションとして顕れるが、
       超越的次元においては実在。
reverie   :(主観における概念や超越的な実在ではなく)表層の中の日常
       とは異なった領域での体験。

その本質を私は体験だと捉えていますので

>            私のみるところ、「存在」と「不在」ということ
>をいかに考えるかということをめぐって、どうしてもreverieさんと私との
>間にずれが生じているようです。
>もしも誤解がありましたら正していただきたいのですが、reverieさんは、
>私たちが目に見えるものとして確認できるもののみが「存在」という名に
>値する、という大前提をお持ちのように思われます。

と仰るところの大前提とは異なるように思います。ですから、

>私はreverieさんとともに、人間が知り得るのは、人間の知の形式によって
>把握されたもののみであると考えます。それゆえ、すべてを完璧に知ったと
>いう知は、不可能であり、誤謬であると思います。そのために、真実在は
>人間の知にとっては決して実在的ではないと述べてまいりました。
>けれども、真実在が人間の知にとって不在であるということから、知によっ
>て把握できないものは、人間にとって端的に空無であるという方向に進むの
>もまた、もう一つの誤謬であろうと私は考えます。

と仰る事には同意見なのです、私も。私が同意できないのは人間の概念的認識
の対象とはなりえない「非日常的領域での体験」(やその予感)を

・超越的次元における実在とか
・絶対的な真理

であると見なすこと(=体験の絶対視)なのです。

(えにしださんへ)re:残余は空無か(2/2) 投稿者:reverie  投稿日: 5月12日(月)02時12分08秒

>でも、reverieさん、私は繰り返し、世界内の事物と比較対照可能な内実を
>もつものは、すでに相対的であると述べているのです。そもそも絶対とは、
>一切の比較を絶しているという意味ではありませんか。
>reverieさんはそんなことは百もご承知で、絶対的なものは内実をもちえ
>ないがゆえに、内実をもつものの尺度たりえないのだとおっしゃっている
>のだと思います。でも、繰り返しますが、内実をもつものについての尺度
>が問題なのではなく、内実をもつものをそのようなものとして認識する私
>たちの認識作用そのものの限界が問題なのです。

認識作用そもののもつ限界ですが、それは本当に限界なのでしょうか? 

限界というのはその限界を超えたところを想定できてはじめて意味を持ちます。
超えたところがそもそも想定しえない場合、あるいは想定自体が意味を持たな
い場合、それは限界があるというよりも認識作用に関して無意味な想定(内実
のない空虚な想定)や仮構(=虚構を仮説的に構築すること)が行われたと考
えるべきではないでしょうか。

具体的な例でいえば、絶対的真理が概念的認識で捉えきれないのは
(a) (超越的次元に絶対的真理は<実在>するが)概念的認識の認識能力その
  ものに限界があるから捉えきれない
とか
(b) 絶対的真理という概念は時間・空間と同様、我々の認識の形式・枠組みそ
 れ自体、もしくはその色濃い反映であるから
なのではなく、
(c) 絶対的真理という想定が内実を持たず空虚だから、あるいは虚構だから
ではないかと考えるのです。

別の例を挙げてみます。(無限の属性や数学における操作論的な定義ではなく)
「無限そのもの」を我々は概念的に認識できませんが、これは認識作用そのも
ののもつ限界でしょうか? いいえ、無限という概念を内実を持たず空虚なま
ま仮説的に構築したからだと考えます、私は。

勿論、ある事柄が概念的認識で捉えきれなければそれは空虚な想定だとしてい
るのではありません。その事柄が非概念的なものであれば当然、概念的認識で
捉えられないのであくまで概念的認識の対象に限った話です。なお、絶対的真
理や実在が概念的認識であることは認めていただけるでしょう。

私が概念的認識では捉えられないと考える別の例を挙げてみます。量子(の振
る舞いではなく)自体は理解できませんが、これも認識作用の限界ではなく、
概念的認識では捉えられないものを、あえて量子という概念で仮説的に構築し
た虚構だからではなかろうかと考えています。

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