書評:『呪殺・魔境論』 鎌田東二著 (その1)

2005.2.14 修正
2005.2.11 更新
2005.2.9 作成


 著者(鎌田東二氏)は神道に入れ込んでいる宗教学者ですが、やや異色な存在です。異色というのは学者らしくない行動力(神道ソングライターとか)や霊感体質からくる霊体験、神秘体験(幼い頃から鬼を見てきたとか、体外離脱・幽体離脱体験、気にまつわる体験など)をベースとした発言などを指します。

 当然、この本にも異色といえる箇所があります。たとえば、次のような箇所がそうです。
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 かつて湾岸戦争の時、当時のアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュはイラク大統領サダム・フセインを名指して、「悪魔」と呼び、「正義の戦争」を主張した。それに応じて、フセイン大統領もブッシュ大統領を「悪魔」と呼び、アメリカとの「聖戦」を呼びかけた。
 それから13年、2003年3月20日(reverie注:「3月30日」の箇所には傍点あり)、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の息子のジョージ・W・ブッシュ大統領は、父親とまったく同じように、フセイン大統領を「悪魔」と呼び、「正義の戦争」を自称し、、一方的に大量破壊兵器の存在を主張して国連の決議も経ずにそれを遂行した。オウム真理教が犯した地下鉄サリン事件から丸八年、同じ日に(reverie注:「同じ日」の箇所には傍点あり)「大量殺人」が始まった。この日のことを記憶にとどめねばならない。
(略)
 アメリカ合衆国国防総省のボイキン陸軍中将は、オサマ・ビンラディンやサダム・フセインの「神」を批判して、「私の神は本当の神だが、彼らの神は偽りの神だ。」(中略)と発言した。そして重ねて、「敵の名前はサタン(大悪魔)だ」「ブッシュ氏を大統領に選んだのも神だ」とも発言した。
 この発言は「最終解脱者」を名乗った麻原彰晃の発言に似ていないだろうか。両者には、どこにも自己を相対化し、批評し、内省する意志と意志と精神がない。まさに、”自我のインフレーション”的発言において共通しているのである。
 
---} 303〜304ページ
 
 イラクでの戦争と地下鉄サリン事件を、日付が一致するという点と指導者の傲慢な姿勢という二点だけから強引に関連づけるあたりが異色です。

 いうまでもなく、イラクでの戦争と地下鉄サリン事件では規模もその事件のもつ本質的意味も全く異なります。カルト宗教団体の起こした2桁の死者の(話題性はあっても)ローカルな事件と、世界規模の政治的、軍事的事件に神秘的な暗合を見いだす鎌田東二氏の姿勢は「魔」や「魔境」を意識しすぎ、それに囚われているのではないか、とも思えます。

 上記の引用箇所のブッシュと麻原の間に見られる3月20日という日付の一致に神秘的な意味があるというのなら、もっと重大で破滅的な一致すら見いだすことができます。たとえば

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 その後、1994年に、麻原は「1997年、私は日本の王になる。2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。真理に仇なすものはできるだけ早く殺さなければならない」と説いた。
---} 8ページ

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それから13年、2003年3月20日、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の息子のジョージ・W・ブッシュ大統領は、父親とまったく同じように、フセイン大統領を「悪魔」と呼び、「正義の戦争」を自称し、、一方的に大量破壊兵器の存在を主張して国連の決議も経ずにそれを遂行した。
---} 304ページ

から、雑誌によくあるオカルト記事のように
「かつて麻原を操っていた時に悪魔が説いた行動計画は、後にブッシュを操ることで現実化し、既に達成されていた……」
と主張することもできてしまいます。こんな極端な主張はだれもしないでしょうが、こじつけの強引さは先の例と変わりがありません。

 いずれにせよ、鎌田東二氏は3月20日という日付の一致にオカルト的もしくは神秘的な暗合を見い出していますが、鎌田東二氏のもつような神秘的素質にかける我々にはあまり説得力を持たないように思えます。


 次の発言もまた異色といえるかも知れません。

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 かつて、宗教家や宗教学者や各界で活躍している学者が集ったある会議の席上で、神学的傾向を持つ著名な老宗教家が、愛や慈悲の実践こそが高尚な人の道であって、「スプーン曲げ」や「念力」や「超能力」にうつつを抜かすことがどれほど「低次元」のことか、自説をとうとうと述べたことがあった。その時、若かったわたしは生意気にも、「この人は本当に何もわかっちゃいない」と思い、おおよそ次のように反論した。「スプーン曲げや念力や超能力は決して低次元なことではない。なぜなら、スプーン曲げが実際に起こるということは、意識が、あるいは念が、物質にその形態を変えるほどに作用するということだ。つまり、意識が物質や身体に深く微妙な作用を及ぼすことがわかれば、祈りや呪いが現実に力を及ぼすものだという認識が生まれ、これまでの、祈りや呪いは気休めであり迷信であるという社会常識の革命的な転換を引き起こすだろう。そしてそれによって、これまで宗教が述べてきたことの物理的・社会的・倫理的リアリティが明確になるだろう。祈りや愛や慈悲がどれほど実際的で、実効的なものかが明らかになるのである。宗教は主として霊的なリアリティを問題にしてきたが、それが人間の意識が念によって物質次元に密接に媒介されることがはっきりとするのだ。このことは恐ろしいほどの認識の変化を促すものではないか」と。二十年近くも前の話である。
(略)残念ながら、あまり理解されなかったようだ。今でもスプーン曲げや念力や超能力をバカにする風潮がある。
(略)
 わたしの考えは二十年前も今も全く変わっていない。祈りも呪いも念力も存在する。そして、それは一定の実効性をもつ。それは恐ろしいまでの事実なのだ。
---} 23〜24ページ

 呪いが物理的効果をもたらしたり、超能力といった超常的現象がごく希に生じることはあるでしょう。ですが、それらの実質的な影響力は無視できます。 我々一般人にとって鎌田東二氏の言う「一定の実効性」とは限りなくゼロに近いレベルのものです。

 ごくごくまれに生じる例外的な(超能力などの)現象や、統計的手法を駆使した後でようやくその現象の存在があぶり出されるかどうかという程、影響力が極めて小さく、検知が難しい現象は、日常生活において実質的に無視できます。ですからそれらの作用を過大に評価することなく、無視する方がまだ健全といえます。

 我々が日常を生きているこの世界は目に見えるモノ(物質的要素)や目に見える行為が支配する世界です。鎌田東二氏が述べるような目に見えない霊的要素はごく微弱で限定的な影響力しかなく、実質的に無視できます。金銭が原因で自殺したり、殺される人の数と呪いの効果で死ぬ人の数は比較にもなりません。医療処置で助かる命と祈りで助かる命もまた比較が無意味なほどの乖離があります。

 「祈りや愛や慈悲」という不可思議な超常的遠隔作用よりも、人に優しく接することで周囲と良好な関係が保たれるという、ごく当たり前の日常的行為の方が圧倒的な効果があります。鎌田東二氏は(オカルト的な意味で)霊的な事柄を過剰に期待、評価しすぎのように思えます。ここでもまた霊的な事柄に過剰に囚われているように感じます。

 とはいえ、鎌田東二氏とは逆の立場(たとえば疑似科学批判派、オカルト否定派、「と学会」方面の方々)にも別の問題があります。彼らは超常現象を自信たっぷり、皮肉たっぷりに否定しています。彼らはどうでもいいのですが、彼らの言動を真に受け、信じてしまった一般人の一部に深刻な悪影響を及ぼすおそれがあります。

 普通の人の場合、超常現象に出くわすことが頻度は低いにせよある一定の確率で生じます。もちろん、単なる勘違いや思いこみの場合が大半ですが、中にはどうやっても説明のつかない正真正銘の超常現象に出くわすこともあります。(オカルト否定派のような堅い信念体系や唯物論的世界観に染め上げられている人には超常現象は生じません。彼らはある領域に関する資質が欠落しており、縁がないのです)

 この超常現象はイエスや高名な修行者のレベルはもちろん、子供のコックリさん遊びの中でも、カルト教団の怪しげな修行の中でも、破戒グルの説法の最中でも、凡人のつまらぬ日常においても、(頻度は異なれど)お構いなしに生じます。喩えがあまり適切でないかも知れませんが、超常現象はネコのようなものです。第一に、ネコを嫌い、邪険扱う人びと(超常現象否定派のドグマ宣教者)はネコの甘えを体験することはありません。第二に、ネコは気まぐれです。ネコに甘えてもらおうと、構い過ぎても逆効果でしかありません。第三に、ネコの甘えはとてもよい「気休め」となりますが、「社会常識の革命的な転換」とは無縁です。第四に、扱い方が酷いばあい化けネコになります。

 さて、オカルト否定派が自信たっぷりに主張する科学的合理主義というドグマを長く信じていた一般人が、あやしげなカルト団体や詐欺団体の中でたまたま、超常現象(それも否定できないほど明白なレベルのもの)を体験したとき、どうなるでしょうか? 彼/彼女はその超常現象に衝撃を受け「本来、あり得ない筈の奇跡が起こった」、「これこそが真実の教えである明白な証拠だ」と感激し、そのカルト団体、詐欺団体を深く信じてしまう恐れが多分にあります。

 超常現象は存在しないという「科学的合理主義のドグマ」が一般人に与える致命的な悪影響の一つといえます。

 この「科学的合理主義のドグマ」と全く逆方向で同様の悪影響を及ぼしているのが、がいわゆる精神世界のヨタ話(神の愛の類の空念仏)です。鎌田東二氏の言う「祈りや愛や慈悲の実効性」がそれと同一だとは思いませんが、全く無縁だとも言い切れないと思います。


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