書評:『呪殺・魔境論』 鎌田東二著 (その2)

2005.2.19 追加
2005.2.15 追加
2005.2.13 作成


 鎌田東二氏は本書で釈迦や仏教に関する言及をさかんにしていますが、その内容の一部にはやや疑問があります。中には誤りといえるものもさえあります。たとえば、次の箇所は明白な誤りです。

---{
 ゴータマ・ブッダは、死を前にして、「私の教説に惑わされるな」、これからは「自らを灯明とし、真理(法)を灯明とせよ」と諭したと言われる(「自灯明、法灯明」の教え)。それは、言い換えると「真のリアリティに到達せよ、そして、それだけを基準にせよ」というメッセージである。
---} 116ページ

 「死を前にして」ですから大パリニッバーナ経(大般涅槃経)を念頭に置いているのでしょうが、その教典には「私の教説に惑わされるな」などという趣旨の言葉はありません。釈迦は「私の教説に惑わされるな」とは全く逆の、私の教えを師とせよと、次のように述べています。

---{
 「アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えと私の制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。
---} 『ブッダ最後の旅 ―大パリニッバーナ経―』 中村元訳、岩波文庫155ページ
 
 そもそも「自灯明、法灯明」の「法」とは「わたしの説いた教え」であるのに「私の教説に惑わされるな」では矛盾です。

 まさか、些細な戒律を廃止しても良いという箇所、
---{
 アーナンダよ。修行僧の集いは、わたしが亡くなったのちには、もしも欲するならば、些細な、小さな戒律箇条は、これを廃止してもよい。
---} 『ブッダ最後の旅 ―大パリニッバーナ経―』 中村元訳、岩波文庫156ページ

を「私の教説に惑わされるな」と拡大解釈したとも思えないので、大パリニッバーナ経の「自灯明、法灯明」とスッタニパータの筏の喩えあたりを混同して「私の教説に惑わされるな」を導出したものと推測されます。

 「自灯明、法灯明」の意味は「他人をたよりとせず、法と島とし、法をよりどころとせよ」ですから、「私の教説(=法)に惑わされるな」では意味が正反対になってしまいます。

 ついでにいえば、筏の喩えもの意味も「私の教説に惑わされるな」ではありません。彼岸に渡り終えていない者は筏(教え)こそが頼りです。鎌田東二氏は初期教典における釈迦の教説が「人を惑わすもの」となりうるという認識を持っているようですが、むしろ大乗や密教の言説に惑わされているとしか私には思えません。

 さらに「真のリアリティに到達せよ」も安っぽい精神世界のフレーズめいていただけません。釈迦はそのような神秘的な意味の「リアリティ」には常に口を閉ざしています。釈迦が口にしたリアリティとは、誰もが日常いやでも体験するリアルなもの、つまり一切皆苦、諸行無常です。そしてこの苦とその原因(集)を見つめて道を歩むことでその苦を滅し現世のうちに「涅槃寂静」に至ることができる…これこそが釈迦の説いた「真のリアリティ」、つまり先の法灯明であり四諦なのですから。


 つぎに、
---{
 呪いに効果があるということは、祈りや祭りや供養にも効果があるということだからだ。
---} 117ページ
という意見もまた釈迦の教えとは反対になっていますが、このことについて言及はなされていません。

 釈迦はマントラや祈りの儀式を邪で卑しいものとして禁止しました。本当に良い効果があるのなら、釈迦が禁止する筈はないでしょう。有益ではないから禁止したのです。

 当然ながら釈迦は祈りや供養の儀式を行いませんでした。イエスの伝承にあるようなラザロ(死者)の復活とか、盲人や病人を超能力で癒すということもしていません。(アングリマーラが難産の女を助けたという教典の記録から)釈迦は「真実の言葉」がもつ神秘的な力は信じていたようですが、これは祈りや呪文とは意味が違います。

 釈迦は(死者への)供養の効果も明確に否定しています。死者の死後の境遇は本人のカルマのみで定まるのであって、供養などの方法で他人がそれに手助けすることなどできないのだと。この意味で葬式や読経は無益です。だからこそインドの僧は釈迦の遺言に従って葬式などという俗事には関わらなかったのです(釈迦本人が亡くなった時の葬式ですら葬儀はバラモンによってバラモン流に執り行われました)。

 現代の僧はみな釈迦を裏切ったアーナンダ(―釈迦に延命を請わなかった事を指す―)の末裔だから開き直って葬式に励め…こう若い僧侶に向けて著書で述べた有名な仏教学者もいます(本書にも登場しています)。これは初期教典で釈迦によって明確に禁止されていても、土着化(=大乗化、密教化)の圧力には逆らえないという諦めの発言のようにも聞こえます。

 祈りや供養、呪いの効果に期待するというのは土着化指向であり、釈迦の思想とは相容れません。

 
 次に本書では「解脱」という言葉が一貫して本来の意味からズレたままで使われているために、解脱に関連した話題の論旨や結論もズレているようです。鎌田東二氏は解脱について次のように書いています。

---{
 例えば、合気道の開祖・植芝盛平も光の柱に貫かれ、包まれた体験を述懐している。それによって彼は天耳通を得たという。宇宙に鳴り響く言霊を聞き取り、その言霊を応用して「武産合気」を創始したという。ここでは、光の体験が「合気」の言霊や身体所作として具体化されている。そのような意味で、「合気道」とは植芝盛平なりの「解脱」であり、人間開発と人間救済の身体技法であり、方法論であったといえるであろう。
---} 129ページ

---{
 その場合の(=解脱を保証し、認定する場合の:reverie注)の「解脱」の基準や条件とは何であったのか。「解脱」が孕むと考えられる、
(1)真実の自己への目覚め(例えば、無我・無自性など)、
(2)世界と自己との関係性(例えば、縁起・空など)
(3)他者性(他者との関係性、例えば、慈悲心など)
はどうであったのか。
---} 129ページ

---{
「真のリアリティを発見すること」とは伝統的な言い方では「解脱」することである。
---} 117ページ

 鎌田東二氏は解脱の「本質」と、「付随的要素(=どうでもよいこと)」とを混同しています。あるいは大乗的、密教的な側面をことさら重視した解釈での元でのみ成立する「狭義の解脱」観を不用意に一般化している、といえます。インドの伝統思想では解脱とは「輪廻から脱すること」を意味しています。ジャイナ教でもバラモン教でも釈迦の仏教でもそうです。
 
 「真のリアリティを発見」しようが、光の体験などの神秘体験をしようが、通力(=超能力)が使えようが、仏性に目覚めようが、自己の本性の目覚めがあろうが、菩薩の慈悲心に溢れようが、禅でいう悟りを得ようが、安心立命の境地を得ようが、深い禅定の境地に至ろうが、縁起や空を理解しようが、これらの全ては解脱でも解脱の認定条件でもありません。輪廻から脱しない限り(=三智、解脱知見がない限り)、どような体験、理解、境地も解脱ではありません。

 「真のリアリティ」、「真実の自己」、「仏性」といった言葉は美しく響きますが、たいていの場合、その内実は空(カラ)か、非仏教的なモノを指していると思います。


 またよくある誤解の一つが
---{
 その無明を「明」すなわち「智慧=悟り」に、そして渇愛を「慈悲」に変容していくためのさまざまな回路と方法論を仏教は用意する。
---} 138ページ

といったものです。仏教入門書などで、無明が明に転換するとか、変容するとか表現されることがあります。これは無明と明は異なったものではなく、ある共通するものの異なった顕れである…こういった誤解に基づいています。煩悩即菩提や迷悟一如の類も同様の誤解に基づいています。

 この誤解はたぶん、深い瞑想状態に特有の意識状態を反映したものだと思います。こういった意識状態では認識の枠組みがほどけてゆくために、日常的な意識では明瞭に区別される物事にも、区別が存在しなくなります。たとえば、日常意識では右と左という明瞭な方向の違いがありますが、深い瞑想状態では「方向」という認識の枠組みがほどけてしまう(あるいは、枠組みがほどけた意識世界に入る)ため、右と左という区別はそもそも存在しなくなってしまいます。 しかしだからと言って、そういった特殊な意識状態の特殊な見え方が、日常世界の奥の真実だとか真理だとかいうことはありません。特殊な意識状態ではそのように見える、というだけのことです。


 最後にオウム真理教の修行における性と幽体離脱(体外離脱)について

---{
 性と幽体離脱。それはある意味で、生の極相と死の極相を結びつける業であるといえるが、しかしなぜそこで「幽体離脱」が必要なのか、その体験の意味と位相は明確には位置づけられていない。
---} 139ページ
と述べています。オウム真理教に限らず、一般論で考えてもこの位置づけは推測できそうな気がします。無明は性欲という形で個人的存在の根元をなしています。また、明瞭な意識を伴う幽体離脱体験を繰り返すと単に体外離脱したという体験以外に、この世界全体の見え方・ありようが即物的な意味で劇的に変わる場合があります(それが真実かどうかは別問題として)。これが宗教的な確信・納得に繋がります。

 以上、批判的な引用ばかりしてしまいましたが、総合的に見て本書は良い本です。充分に読む価値がありました。 本書の特に優れていると思えるのは次のような箇所です。

(A)今は入手不能となったオウム真理教の性に関連した具体的な修行内容の引用は貴重です。
(B)実際に起きた事件の、魔や魔境に関する具体的記述は価値があります。
(C)鎌田東二氏御自身の神秘体験、気にまつわる体験の具体的な記述も興味深いものでした。
(D)比喩表現ではく、生の描写としての「魔」に関する具体的記述は類例が少ないだけに貴重です。

全体として、具体的な事件や体験の資料(ソース)としての価値が高いと思います。


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