色即是空は禅者のヨタ話

2000.2.23作成


(Wさんへ) 究極の真理というヨタ話 投稿者:reverie  投稿日: 2月23日(金)03時18分18秒

>「真理はどうやっても言葉では表現できない。」では少し言葉のニュアンスが強
>すぎるように思います。確かに、一枚の紙に「真理」と一言書いて、それが真理
>と言えないのと同じように(半分冗談)、真理に際限なく近づけて表記してもそ
>れは究極の真理にはならないと思います。
>曖昧な態度に思われるかもしれませんが、私は論理的思考そのものを否定するわ
>けでも「⇒釈迦の説いた四諦、縁起は真理である。」ことを否定するつもりもあ
>りません。しかし、そのことは"究極の"真理ではない…。
>ここでの"究極の"というのは、究極の真理は言葉で表記される種類のものでな
>く、言葉からかけ離れた、日常の認識では解らないところにあることを言ってい
>ます。(それをreveieさんがヨタ話としているのかもしれませんが)

ええ、その大半はヨタ話だと思いますよ。神秘主義を重んじる人によくある、
根本的な誤解だと思いますね。私もそうでした(笑)。

言葉では表現できない言語道断の悟りだの、拈華微笑、不立文字、以心伝心と
いった類の「超越的認識」は真理じゃありません。仏教に無知な禅坊主のヨタ
話にすぎません。時代を経ているので誤魔化しのテクニックが極限まで磨かれ
ているのには、正直、感心しますが(笑)。

さて、はじめに真理の意味を確認します。広辞苑によると

---広辞苑 第三・四版
しん‐り【真理】
(1)ほんとうのこと。まことの道理。「不変の―」
(2)〔哲〕(truth イギリス・Wahrheit ドイツ)
  (イ)絶対的存在または実在的関係・事態を言い表している判断の客観的妥当
性。従って、単なる概念は真でも偽でもなく、それが判断により肯定または否
定された時にだけ真理・虚偽が云々される。この場合、真理とは実在の肯定で
あり、実在しないものの否定である。それは一般に判断と実在との一致にほか
ならない。この一致や実在概念については、諸々(もろもろ)の見地がある。
  (ロ)形式的意味においては、思考の法則にかなっているという意味での思考
(判断・推理)の正しさ。
---

とあります。これにより真理とは命題や判断の正しさを意味していることに同
意していただけると思います。

先のような超越的認識の場合、その命題や判断の内容そのものが何であるか、
これが表現不能なわけです。従ってそれについて正しさを云々すること自体が
無意味なのです。

たとえば、「αはβである」のαとβが何であるか表現不能な場合、この「α
はβである」はそれが真理かどうかを問題にする以前に、そもそも命題ですら
ありません。真理かどうかを問題にされるだけの資格を持たないのです。まし
て「究極」の真理などではありません。

>それと特に急ぎではありませんが、「(2)言葉で表現されなければ真理の資格はな
>い。」の根拠についてご説明いただければと思います。

上述で既に明らかだと思いますが、真理が命題や判断の正しさを意味するから
です。表現されえない命題や判断について、その正しさを云々することは無意
味だからです。

聞こえない音の音程、見えない絵画の色彩について云々するのと似ています。
そして、その無意味なことを、さも意味ありげに色即是空などと解った振りを
して説いているわけです。裸の王様の見えない衣装が言葉では言い表せないほ
ど美しいという賛美と全く同じです(笑)。

なお、超越的認識の実感や境地、それ自体は存在すると考えています、私は。
でもそれらはまだ真理ではない(真理としての資格に欠ける)と。

>仮に論理構造から外れたところに絶対的な価値をおくことを非仏教的というの
>であれば、私の立場は非仏教的と言える面があるとも言えます。

論理構造は関係ないです。論理構造がどうこうの以前に真理としての意味をな
していないというだけです。

>真理に辿る道を言葉で指し示す(四諦、縁起を含めて)ことはできても、実際
>にそれが真理(内なる実存との出会い、一法界の世界の顕現)となるのは個々
>人の主体的問題となるわけですから。

それが真理でなくとも実感ならば、主体的問題とはなるでしょう。

繰り返しますが「内なる実存との出会い、一法界の世界の顕現」は真理じゃあ
りませんし、仏教ですらありません。単なる実感にすぎません。そんな気がし
たという事です。そしてその実感にどれ程強い確信があろうと、うんざりする
程ありふれたことなのです。悟ったという禅坊主もその大半はこの実感レベル
だと思っています、私は。



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