仏教は自殺を本当に禁じているのか?

2004.12.31追加
2004.9.19 誤記訂正
2004.6.28 作成


本記事の主題は次の3項目です。

(1)「仏教は自殺を禁じている」、「釈迦は自殺を禁じた」という説が不完全で誤りを含むことを示します。

(2)「延命処置の放棄」すらも、仏教では必ずしも批判・否定されるものではないことを示します。

(3)「自殺は不殺生戒に背く」という主張が成立しないことを示します。

言うまでもありませんが「自殺を禁じない」ということは「自殺を勧める」こととは全く異なった態度です。この区別ができない方は無用の誤解を生じるおそれがありますのでここから先は読まないことをお勧めいたします。

また上記(1),(2),(3)を明らかにすることと「自殺を勧める」ことも全く異なった事柄ですのでご留意願います。

さて、仏教では自殺を禁じているとか、釈迦は自殺を禁じたという説が半ば定説となっています。その自殺禁止の根拠として仏教の重要な戒律である不殺生戒が度々挙げられます。自殺もまた自分自身による殺生だと見なせば、自殺は釈迦の定めた戒律に背くから、ということが理由とされます。

しかし結論から言えば、仏教では自殺を「絶対禁止」、「無条件に禁止」とはしていませんし、釈迦も自殺を無条件に禁止してはいません。逆に釈迦は状況次第で自殺を黙認していますし、自殺が罪とはならないと述べた記録もあります。

以下で具体的に列挙しますように状況次第で自殺は黙認されておりました。釈迦が(そして仏教も)状況次第で自殺を黙認してきた事例を複数、信頼しうる資料から引用します。


事例1:ヴァッカリの自殺(サンユッタ・ニカーヤ(相応部22.87))
---{
長者ヴァッカリは、陶器づくりの者の家で、病にふし、困苦し、重病であった。
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(ヴァッカリの願いで釈迦が病床に訪れ、体の具合を尋ねる。ヴァッカリは釈迦に答える)…
「師よ、わたしにはしんぼうができません。元気もございません。強い痛みが増して、薄らぎはしません」
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(釈迦はヴァッカリに無常を説いた後、帰る。その夜、鬼神が釈迦を訪れ、ヴァッカリの涅槃(同時に自殺でもある)を予言する)…
釈尊はその夜が過ぎてのち、比丘たちによびかけられた。「比丘たちよ、あなたがたはヴァッカリ比丘のところへいきなさい。行ってヴァッカリ比丘に次のように伝えなさい。
『…ヴァッカリよ、おそれるな。おまえの死は罪に汚れてはいない。罪なくして臨終を終えるであろう』と」
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(比丘たちはヴァッカリに釈迦の伝言を伝える。ヴァッカリは教えに疑念を持っていないと釈迦に伝えてくれと比丘たちに頼む)…
「友よ、承知しました」と、この比丘たちは長者ヴァッカリに返事をして、帰って行った。そのとき長者ヴァッカリは、この比丘たちが出てゆくや否や刀を取り出した。
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(ヴァッカリは自殺した。後にそれを知って釈迦は次のように述べる)…比丘たちよ。善男子ヴァッカリは、その魂がどこかに止まることなく、完全な涅槃に入ったのである」
---}『バラモン教典・原始仏典』456ページ。中央公論社

この事例では釈迦はヴァッカリにその自殺を予期した上で「おそれるな。おまえの死は罪に汚れてはいない」と安心させています。

事例2:7度転落した比丘の自殺
これについては仏教学者の三枝充悳氏の記述がよく整理されていますので次に引用します。
---{
その話は、『サンユッタ・ニカーヤ』(相応部)の第四篇第三章第三節に説かれます。すなわち、イシギリ(仙人の住所)といういわば聖地に住むゴーディカは、熱心に修行に精励しまして、さとり(心解脱)が得られますけど、そのさとりは一時的なものであって、再び元に戻ってしまいます。
そこで更めて熱心に修行に精励しまして、さとりが得られますが、また戻ってしまう、そういうことを計6回繰り返します。その7度目にさとり(心解脱)に到達しましたときに、今回もまた従来と同じように、それが一時的であって元に戻ることを恐れまして、剣をとって自殺しようとします。
それを知った悪魔が釈尊のところに来まして、そのことを告げたそのときに、ゴーディカは自殺をとげました。
そこで釈尊はその悪魔に向かい、「ゴーディカは英雄のように渇愛を根絶してニルヴァーナに入った」という詩をとなえます。さらに、釈尊がその現場まで来ますと、そこには四方にも上下にも煙が立ち昇っており、釈尊は更めて「ゴーディカはニルヴァーナに入った」という詩をとなえます。
 これは『雑阿含経』1091(大正2巻286ページ上〜中)にもまったく同じ内容が説かれていまして、この漢訳でははっきりと「自殺」の語を用いています。
---}『阿含経を読む』下、664ページ。三枝 充悳著 青土社刊


実は『サンユッタ・ニカーヤ』の相当箇所には三枝充悳氏の記述には、あえて省かれている衝撃的なことが記載されいます。悪魔が弟子の自殺を止めるように釈迦に進言し、それに対して「釈迦が自殺の回避を否定」しているのです。

まず「悪魔が」ゴーティカの自殺を止めるように釈迦に次のように進言します。
---{
あなたの弟子はいま死を望み、死を思うています。それをとどめたまえ。光を放つ方よ。
尊師よ。教えを喜ぶあたなの弟子が、まだ心にさとりを得ないで、まだ修め学ぶべきであるのに、どうして死を遂げるということがあってよいでしょうか。
---} 『悪魔との対話 ――サンユッタ・ニカーヤU』 中村元訳、岩波文庫 50ページ

これに対し釈迦は
---{
思慮ある人々は、実にこのようにするのである。
生命を[延ばすことを]期待していない。
妄執を、根こそぎにえぐり出して、ゴーティカは安らぎに帰したのである
---} 『悪魔との対話 ――サンユッタ・ニカーヤU』 中村元訳、岩波文庫 51ページ

といって自殺をとどめることを否定しているのです。


事例3:サーリープッタの自殺 (増一阿含経18)
---{
(乞食中のモッガラーナはバラモンたちの暴力によって瀕死の重傷となった)モッガラーナ、神足をもって精舎に還り、サーリプッタに語りていわく、「かの杖とれるバラモンはわれを打ちてかくのごとくせり。われいま般涅槃を取らんと欲す。ゆえに来たりて汝にいとまごいをせん」
…skip
(モッガラーナが釈迦に最後の挨拶をする前に既にサーリープッタは入滅(自殺)して
いた)…
さきにモッガラーナ、杖とれるバラモンにうたれて辛くも精舎にかえり、サーリプッタに別れをつげたるに、サーリプッタ、彼に先んじて滅度をとれり。
---}『仏教聖典』353ページ。講談社学術文庫。

この記録によるとサーリープッタは重傷のモッガラーナを見て直ちに自殺したことになりますが、次の記録ではサーリープッタはモッガラーナの死後、数日かけてゆかりの地を巡って病気で死んだようでもあります。

---{
このとき尊者モッガラーナ、城内において外道のためにうたれ、彼まさに世を終わらんとし、サーリープッタに別れをつげんがためにかろうじて精舎にかえれり。このとき、サーリプッタ、世尊にもうしていえり。「われいま滅度を取らんと欲す、ただ願わくは許したまえ」と。かくもうすこと三度。世尊は黙然として答えたまわず。サーリープッタ、重ねていわく、「われいままさに般涅槃を取らんと欲す」このとき、世尊はサーリープッタにつげたまわく、「衆生の命、短きをもってのゆえに、如来の寿(いのち)もまた短し。われはすでに80になんなんとす。久しく世にあるべからず。いまわれもひさしからずしてまさに涅槃をとるべし」と。
「われいま世尊の般涅槃を取りたまうを見るに堪えず」かく思いてサーリープッタは三昧に入れり。そのとき諸比丘みなともに涙をながしていえり。「いまサーリープッタの滅度(いのちおわ)ることなんどかくもすみやかなるや」と。
…skip…
このとき、尊者サーリープッタ、精舎にいたり竹園を出でてゆかりの住処に向えり。諸処をへめぐりしだいに乞食してナーラ村にいたれども、彼の身疼きければきわめて苦しき痛みあり。ときにチュンダ沙弥ありて供養し、不浄を除きさり、清浄を供給す。尊者サーリープッタ、すなわちその夜をもって般涅槃をとれり。
---}(増一阿含経18)『仏教聖典』357ページ。講談社学術文庫。

これは外部的要因による通常の意味での病気ではなく、サーリープッタが自ら死ぬことを望み、生命力を放棄して、残った寿命を捨てさったために生じた病気としか解釈できませんから、本質的には自殺の一種というべきでしょう。少なくともこの教典を編纂・伝承した仏教徒はそう解釈した筈です。


事例4:入滅直前の釈迦に料理を給仕したチュンダの自殺
上記の1〜3の事例は全て出家修行者(比丘)の自殺でしたが、在家の信者の自殺のケースを次に挙げます。これは釈迦本人から自殺の許しを得た上で釈迦の目前で自殺がなされたという注目すべき事例です。

---{
チュンダは(仏)に礼拝をしおわって、一隅に座りました。そして仏に申しあげていいます。「私は入滅したいと思います、私は入滅したいと思います(完全なニルヴァーナを得たいと思います、完全なニルヴァーナを得たいと思いま)。」
仏はこのチュンダに告げていいます。「それにふさわしい・ちょうどよい時期を知るべきである(「いまがちょうどふさわしいチャンスであるかどうか、よく考えた上で、随意に行動しなさい」の意。」
そこですぐに、チュンダは仏の前でその場で入滅しました(完全なニルヴァーナを得ました)。
---}『阿含経を読む』下、670ページ。三枝 充悳著 青土社刊

三枝氏はこの事例を
---{
現在の用語で申しますと、チュンダが自殺を計り、釈尊はそれを認め、チュンダは自殺を果たした、ということ
---}『阿含経を読む』下、663ページ。三枝 充悳著 青土社刊
だと述べています。

事例5:釈迦自身の延命処置の放棄
出家修行者や在家信者のみならず、釈迦自身もまた一種の自殺を遂げていたという記録がパーリー涅槃経にありますので次に引用します。

---{
仏陀はアーナンダを呼んで次のように言う。 ヴェーサリーは楽しい。いろいろな霊樹の地は楽しい。修業を完成した人(如来)は、四つの大きな霊力を修したので、もし望むなら寿命のある限りこの世にとどまるであろうし、あるいはそれよりも長くとどまることもできるだろう。若い弟子アーナンダは、仏陀がこのようにほのめかしたのに、その意味を洞察することができず、仏陀に寿命のある限りこの世にとどまって欲しいと懇請しなかった。仏陀はおなじことを三度アーナンダに告げるが、アーナンダは三度とも、仏陀に寿命のある限りこの世にとどまって欲しいと懇請しなかった。
悪魔が仏陀に近づき囁きかける。尊師よ、今やニルヴァーナに入る時です。
あなたの弟子達、修業僧達は今や、よく身をととのえ、法をたもち、法に従って行い、正しく実践し、解脱し、説明し、知らしめ、異論が起こってもよく解き伏せ、教えを反駁できないものとしています。だから、今やニルヴァーナに入ってもよい時です。このとき、仏陀は、今から三ヶ月後にニルヴァーナに入ることを、悪魔に告げる。
仏陀は霊樹の下で念じて、寿命の素因(いのちのもと、仏陀はすでにニルヴァ−ナに達しているが、過去の業の余力があり、それがこの世での生命を保つ素因となっている)を捨て去る。
---}『ブッダ最後の旅 --大パリニッバーナ経』中村元訳、岩波文庫

この記述内容が歴史的事実ではなく神話的な虚構だとしても当時の仏教徒がそのような(釈迦自身が延命処置を放棄したという)認識をもっていたという事が重要です。このケースでは延命処置の放棄は批判されていません。
延命措置の放棄は「消極的な自殺」と見なすことが可能ですから釈迦自らが消極的な自殺をしたと後の仏教徒によって伝承されてきたわけです。

これについて先の三枝氏も慎重な表現ながら次のように述べています。
---{
そればかりか、もしもしいて誇張していいますならば、この「遊行経」全体の進行のなかで、釈尊みずからがなお充分に長い生命を保ち得る可能性を秘めながら、80歳に到達しまして、みずからの死をアーナンダに、悪魔に、そして大衆に予言しているということそれ自体が、なんらかの形での自殺宣言ではないかと見られないこともない、と解する仏教研究者もいます。
---}『阿含経を読む』下、665ページ。三枝充悳著 青土社刊

さて、以上で

(1)「仏教は自殺を禁じている」、「釈迦は自殺を禁じた」という説が不完全で誤りを含むことを示します。
(2)「延命処置の放棄」すらも、仏教では必ずしも批判・否定されるものではないことを示します。

の2項目は論証されました。次に(3)の「自殺は不殺生戒に背く」という主張が成立しないことの論証を行います。

まず、不殺生戒の根拠は釈迦の
---{
すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
skip
どの方向に心でさがし求めても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人にとっても、それぞれ自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない。
---}『ブッダ 神々との対話』170ページ、中村元訳、岩波文庫

という教えにあるとされています。つまりこの根拠とされた釈迦の教えは

(a)誰もが暴力におびえ、死をおそれる。ゆえに他人を殺してはならない。
(b)誰にとっても自己は愛おしい。ゆえに他人を害してはならない。

であり、要は「自分が嫌な事を他人にするな」という内容です。自殺は自分が望むことを自身で処するだけですから(a)、(b)の根拠にはあてはまりません。よって不殺生戒にも無関係となります。

また自殺が不殺生戒に無関係だからこそ、釈迦はチュンダやサーリープッタの自殺(そして伝承によれば自身の延命処置の放棄)を認めえたのです。

「自殺は殺生だ」と主張する人は(熱心な仏教徒が大半でしょうが)
---
釈迦は「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」という自らの教えに反した破戒僧である。
---
と主張していることにもなります。これは仏に対する重大な誹謗と言えますがその自覚・覚悟はおありなのでしょうか?

いや、まだ納得がいかないという反論が聞こえそうです。やはり「自殺は自分自身への暴力だ」とか「自殺は自分自身に対する殺生だ」というような反論です。しかしその反論は比喩的表現や修辞的表現に目が眩まされているから生じるものといえます。

当人の自由意志に基づく行為はそれが何であれ「自己への暴力」とはなり得ません。当人の意志に反するからこそ暴力なのですから。自分で自分に借金することができないように、自分自身への行為は善悪と無関係です。他者の意志に反して殺すから殺生という罪になるのであって、自分自身への行為は罪にも善行にもなりません。

(仏教徒にとって)善悪や罪業・功徳はあくまで他者との関係で生じる概念ですから、自分自身への行為にその概念を比喩的に当てはめることが既に誤りだと考えます。

最後に、こういった内容の記事を公開することに反対される方も少なからずいらっしゃると思います。そのような反対意見には「無知な民衆には真実を知らせないほうが彼ら自身の為だ」といった傲慢な姿勢が往々にして含まれていると考えます。民衆の無知云々の前に、自身の事実認識や判断が曖昧なまま社会通念を鸚鵡がえしで反応していることが多いように私には思われます。



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