時間は実在するか? 「可能世界」仮説との関連、釈迦の悟りにおける俯瞰、悟りと他者


1999.5.23


番組見ました 投稿者:  投稿日:05月23日(日)22時08分30秒

「特命リサーチ200X」見ました。オーパーツは子供の頃から南山宏先生の手がけた記事
(おおかた「少年マガジン」に載っていた)でよく読んでいました。「アショカ・ピラ
ー」が「オーパーツで最大の謎」というのは私からすると「嘘だ」としか言いようがな
くて、むしろ、一番科学的説明がつけられそうなものでお茶を濁したと推測します。次
にやったタイムマシンの話とつなげるならアメリカのユタ州で発見された〈三葉虫を踏
む潰した靴跡〉とかの方が、明らかに「場違い=out of parts」で興味深かったろうと
思うんですけど。
タイムマシンの話の方はロシアのタイムマシンの実験VTRで件のタイムマシンを見て、
装置のドアの開閉時の質感からショボい機械だと思いました。作動中、防御服のような
いでたちなのに、中から時計を取り出すのが素手だというのも「おいおいホントに科学
者か?」と苦笑しました。
それから池田さんへ、アルミ箔でくるんだだけでは電場は防げますが磁場は防げません。
とはいえ、旧ソ連は科学の伏魔殿のようなところがあって、超心理学やUFO研究は西
側より進んでいるのではとずっと噂になっていましたから、何があってもおかしくない
。雑誌の記事だから、どれほど信憑性があるのか解りませんが、崩壊直前のソ連大使館
広報誌「今日のソ連邦」には、人間の個体の情報場が実験で確証された(死後も残存す
るらしい……本当なら高岡理論にとっても補強材料になる)とか、宇宙の知的生命体と
コンタクトに成功などといった記事が載っていたそうです(私の情報源は「別冊歴史読
本 不老不死の超古代史」新人物往来社)。

とんでも科学では有名な「モントーク・プロジェクト」ストーリーでは過去や未来へ、
どんどん人物を派遣し積極的に歴史を改ざんすることを進めるグループが存在すること
が主張されています。ここで時空に穴を開けるのもテスラ・コイルを利用した強力な電
磁場なのでした。(ただ、穴をあけるためには超能力者が必要)。ニコラ・テスラとウ
ィルヘルム・ライヒが一緒にプロジェクトに参画したというのは、いかにも嘘くさいけ
れど、今世紀の電子機器の発達のミステリーは一慨に否定できない(この話を真実だと
する人物は、今世紀のエレクトロニクスの異常な発達は未来からの情報を利用したもの
だということを主張している。詳しくは学研ムーブックスの『モントーク・プロジェク
ト 謎のタイムワープ』参照)。

タイムトラベルが可能か不可能かというには「時間」が何かということを理解していな
ければならないはずだけれども、私が知る限りはっきりしていない。
「永遠の今」を説く覚者は皆「時間は存在しない」と言うんです。それは単にあるよう
に我々が知覚するだけだと。謎だ。

> どのような方法を高岡氏はSさんの目の前でとられてのでしょうか?

フルネームが判れば、それだけでいいということで、名前を告げたら目をつむって黙っ
ていました。
瞑想しているような様子です。ほんの少しすると、ふむふむという感じでその人のDS
の特徴を話し始めたのです。だから、もう全然、学術とは立場を異にする方法(?)な
のです。

> 審神(さにわ)とは、何でしょう。初めて目にしました。

神道での用語です。人間を受信機にして神に降臨してもらう(「帰神(きしん)」とい
います)とき、降りてきた神が、正しい神か否か、またその格や素姓を調べる役割の人
です。神懸かりについての目利きですね。

(Sさんへ) 時間は存在しない 投稿者:reverie  投稿日:05月23日(日)22時39分05秒

>「永遠の今」を説く覚者は皆「時間は存在しない」と言うんです。それは単にあるよう
>に我々が知覚するだけだと。謎だ。

ええ、皆そう言いますね。じゃあ、未来は、たとえば21世紀の世界は
「存在しない」のか、というとそうでもないようです。
その根拠(?)は次のとおり。
(1)具体的な細部にわたった予言、予知の実例が数多くある。ハズレ
   も多いけれども、あり得ない確率で当たった事例が存在すること
   が重要。
(2)21世紀から遡って20世紀に転生したという証言(EO 師)。

一体、あるのか無いのかどっちなんだ!、というわけですが私は、こ
んな妥協案、折衷案を考えています。

時間が「存在しない」というのは丁度、本源的な意味では我が「存在
しない」(=無我)と同じ意味のレベルで「存在しない」と言うのであ
って、いま、我々が「自分がいる」と<実感してるレベル>の意味で
は時間が「存在している」と。

時間の非在と可能世界説 投稿者:  投稿日:05月23日(日)23時08分35秒

ブルーさんの掲示板で言及した『神との対話』第3巻でも「時間は存在しない」の話が
出て来ます。モダンな神は世界はCD−ROMのようなものだと説明します。すべての
可能性がすでに実現されており、それは記録されている、と。ゲームをする人の操作で
エンディングが変わるだけだというのです。
こうした世界であれば未来を予測するのもタイムとラベルするのも何も不可能ではなく
て、ROM上の別のトラックへアクセスすればいいだけのこと。ただ、ゲームプレイヤ
ーとしては、裏技を使わなければ、そのシーンやステージとつながっていない場面へ飛
ぶことはできない。リバース・エンジニアリングを使えば、そのプログラムの秘密はす
べてバレる。真言密教の虚空蔵求聞持法は元々はそうしたリバース・エンジニアリング
なのではないかというのが私の推測です(あくまで推測)。

ゲームプレイヤーとして感情移入しないと、この可能世界説は私を非常に虚しくします
。例えば、目の前で自分の好きな人が死にかかっていて、私は必死で助けようとする。
そして、助かってホッとするが、平行世界では、私の努力も虚しく、その人が絶命した
ことが判る……。いや、判るか判らないかを別にして、この可能世界説に立てば、あり
うるストーリーはすでに全て「ある」のだから、何がどうなっても「総量」としてはハ
ッピーエンドは決まっていて、悲しい結末の量も決して減らない。
(三浦俊彦『可能世界の哲学――「存在」と「自己」を考える』NHKブックス参照)

……で、神秘家の言説を読んでいると、この可能世界説が正しいのでは、私は思ってい
ます。だから同時に虚しくなるのです。

時間の話 投稿者:  投稿日:05月24日(月)02時59分08秒

物理学に合致するように素朴に考えれば、時間の認識を成り立たせているものは池田さんの
お考え用のように「変化」です。もう少し物理イメージをつけやすく言い換えれば「運動」
です。それと「順序」の識別。物理における時間の定義だって、運動を用いないものはない
のですから。
ある人々は時間とは「約束事」であって、それ以上のものではないと言います。「お金」の
ようなもの。順序と変化の認識に対する物差しであって、時間それ自体はあるとはいわない
(「お金」それ自体に価値があるか?というと、皆が認めていなければただの紙ぺらだった
り金属小片でしかないようなもの)。
言葉を換えて言うと、変化は現実として感じられるが、変化と関係なく時間そのものなるも
のを現実に感じることは人間にはできない。「時間が止まっているようだ」というのは変化
が乏しいということ。

そして、順序と変化を認識させるものは過去との照合、つまり記憶なのです。ほんの少し前
でもいいから記憶がないと変化は認識できないはずです。少しでも間隔を持たせれば線分に
なるけれど、間隔がなければただの点です。
自分の文章を書いてから佐倉さんのナーガルジュナ解説を見に行ったのですが、似たような
展開で苦笑しました。

「特命リサーチ」で少し触れていたホーキングの「時間順序保護説」は読んでいませんが、
あの辺りの宇宙論は私個人は肌が合いません。ブラックホールだのワームホールだの、非常
に嘘くさい。
時間の順序が物理法則で守られているというのも何か違う。時間の順序が先に保護されてい
るのではなくて、順序の識別に従って我々は時間を認識しているのだとは私は思っています。
ややこしい。これから先は、物理現象の枠組みと人間の意識の枠組みのどちらが相手を規定
しているのかという問題になってしまって、泥仕合になってしまいそうです。多分、ここに
こそ(仏教の)「行」が入ってきて、形而上学の戯論を不要なものとするのでしょう。
どんな問題でも哲学として考えれば結局は「主体」の問題に帰着するのではないでしょうか。

(Sさんへ) Re: 時間の非在と可能世界説 投稿者:reverie  投稿日:05月24日(月)21時39分06秒

>(三浦俊彦『可能世界の哲学――「存在」と「自己」を考える』NHKブックス参照)
>
>……で、神秘家の言説を読んでいると、この可能世界説が正しいのでは、私は思ってい
>ます。だから同時に虚しくなるのです。

この可能世界論は

(1)カルマの概念が成立しなくなる。
(2)「それ自体」であることの重要性、独自性(=存在性の根拠)が茫漠
   たる広がりの中   で拡散し、見失われている。
(3)他の世界の「存在性」、それ自体が限りなく薄い。

という理由で好きではないですね、個人的には。また、(1),(2)につ
いては多くの神秘家の言説と相反しますね。

(2)では、何億という人間の中でなぜか「この人物」としての意識を
もっていること、この特殊性(というより、存在の意味根拠そのもの)
が、拡散しつつある気配があります。なぜそうなるのでしょうか。そ
れは複数の可能性世界をまとめて俯瞰している視点を想定しているか
らだと思います。

この複数の可能性世界をまとめて俯瞰する視点というのは可能性世界
の前提に反します。なぜなら、その存在を許せば、さらにそれらの視
点の一ランク上の世界(=視点)を認めねばならず、無限遡及してしま
うからでしょう。

(3)の根拠は原理的に、他の可能世界とこの世界の間に(分裂後は)相
互干渉がありえないことにあると思います。一切の干渉がありえない
という言うことはこの世界から見て、それらの他の可能世界が存在し
ないのと限りなく近いことになります。

reverieさんへ:可能世界について 投稿者:  投稿日:05月25日(火)19時18分52秒

>この可能世界論は
>
>(1)カルマの概念が成立しなくなる。
>(2)「それ自体」であることの重要性、独自性(=存在性の根拠)が茫漠>たる広がりの中
   で拡散し、見失われている。
> (3)他の世界の「存在性」、それ自体が限りなく薄い。

>という理由で好きではないですね、個人的には。また、(1),(2)につ
>いては多くの神秘家の言説と相反しますね。

私の感じ方からすると、別に何通りのストーリーがあってもカルマは、そのストーリーご
とに付いて回るものであって、可能世界論に立ったから「カルマの概念が成立しなくなる」
というのは考えにくいのですが、どうして「成立しなくなる」とreverieさんはお考えなの
ですか。

>この複数の可能性世界をまとめて俯瞰する視点というのは可能性世界
>の前提に反します。なぜなら、その存在を許せば、さらにそれらの視
>点の一ランク上の世界(=視点)を認めねばならず、無限遡及してしま
>うからでしょう。
>
>(3)の根拠は原理的に、他の可能世界とこの世界の間に(分裂後は)相
>互干渉がありえないことにあると思います。一切の干渉がありえない
>という言うことはこの世界から見て、それらの他の可能世界が存在し
>ないのと限りなく近いことになります。

確かに論理においては「この複数の可能性世界をまとめて俯瞰する視点というのは可能性
世界の前提に反し」ていますが、私の脳裡にチラつく、あんまり好ましくない感覚は、こ
れを感じるのです。釈迦が輪廻の総体を追体験のように認識するというのも、この娑婆の
機構からすれば「掟破り」のはずなのですが、なぜか起こり得てしまう。その際、釈迦は
釈迦でありながら、歴史上かつて生き、今生き、これから生まれるであろう各々の人物で
あったといえるのでは。選択した時点で分岐した世界は、影響を与えるという形での干渉
はありえないですが、それを知ることはできると私は思っています。

(Sさんへ) 可能世界とカルマ、因果 投稿者:reverie  投稿日:05月26日(水)02時13分40秒

>私の感じ方からすると、別に何通りのストーリーがあってもカルマは、そのストーリーご
>とに付いて回るものであって、可能世界論に立ったから「カルマの概念が成立しなくなる」
>というのは考えにくいのですが、どうして「成立しなくなる」とreverieさんはお考えなの
>ですか。

三浦氏の本を読んだのは随分前ですので私が、可能世界を誤解してい
るかもしれませんが...

可能世界ではカルマが成立しないという根拠は次のとおりです。
ある世界(W1)では A 氏は一貫して好運ばかりが連続して生じるとし
ます。またある世界(W2)では A 氏は一貫して不運ばかりが連続して
生じるとします。そして、W1 と W2 はもとの W0 からある時点で分
離したものとします。(このような世界があるのは可能世界の前提か
ら保証されている筈。)すると全く同じ過去から、好運の連続する世
界と不運の連続する世界が同じ重みで生じてしまうことになり、仏教
的な因果、およびカルマが破綻します。

では可能世界が分裂する際に「どんなに悪業を積んでもその報いが返
らない、というような世界は生じえない」というような、カルマや因
果が成立する制約条件を与えられれば、上記の問題は回避できるので
しょうか?  たぶん、その制約条件を厳密な意味で完全に満足させる
と可能世界は分離しえず、ただ一つの世界だけが続くことになると予
想します。

問題は W0 が 分離するときに W1 や W2 の世界がどういう制約、必
然性で生じるか、だと思います。全く何の制約もなく、ありとあらゆ
る世界があり得るのであればカルマは破綻します。かといって、制約
をつけると、可能世界のもつ豊饒さの基盤がかなり失われます。ここ
でカルマと可能世界を並立させうるある制約条件が思い付きます(後述)。

>確かに論理においては「この複数の可能性世界をまとめて俯瞰する視点というのは可能性
>世界の前提に反し」ていますが、私の脳裡にチラつく、あんまり好ましくない感覚は、こ
>れを感じるのです。

三浦氏の本には、この複数の可能性世界をまとめて俯瞰する視点=意
識、という(ちょっとニュアンスは違いますが)仮説がごくごく簡単に
述べられていましたね。

>                  釈迦が輪廻の総体を追体験のように認識するというのも、この娑婆の
>機構からすれば「掟破り」のはずなのですが、なぜか起こり得てしまう。その際、釈迦は
>釈迦でありながら、歴史上かつて生き、今生き、これから生まれるであろう各々の人物で
>あったといえるのでは。

その輪廻の総体を追体験というのが、この世界の中だけに閉じたもの
であれば、問題はないでしょう? 仏典などにも可能世界に明瞭な形
で言及した記述が見当たらないということもありますし。

とはいえ、具体的な予知には複数の異なった未来をリアルに見た(悲
惨な未来とそれを回避した未来というような)ケースがあるので、複
数の世界が同時に存在すると見るほうが現実的かも知れませんね。我
々の意志が、先の世界の分離における制約(あるいは誘発)因子だとす
ればある程度は辻褄は合うかも知れないと思います。

(Sさんへ) Re:可能世界について 投稿者:reverie  投稿日:05月27日(木)00時34分58秒

>>                  釈迦が輪廻の総体を追体験のように認識するというのも、この娑婆の
>>機構からすれば「掟破り」のはずなのですが、なぜか起こり得てしまう。その際、釈迦は
>>釈迦でありながら、歴史上かつて生き、今生き、これから生まれるであろう各々の人物で
>>あったといえるのでは。
>
>その輪廻の総体を追体験というのが、この世界の中だけに閉じたもの
>であれば、問題はないでしょう? 

これは私の誤読でした。可能世界を俯瞰することが、「掟破り」なの
と同様の意味で釈迦の想起は「掟破り」だと仰るわけですね。
さらに釈迦の想起が単なる俯瞰といったレベルではなく、俯瞰対象そ
のものと一体化する事(あるいはそれが本来の姿?)でもあったと。

この俯瞰という超然とした立場ではなく、一体化であるとしますと素
朴な意味で次のような疑問が生じます。それは釈迦とそれ以外の我々、
つまり世界の全てが本質において異ならないのであるのであれば、釈
迦が悟った時に同時にこの世界の全体が一挙に迷盲から脱してもよい
筈ですね。

ええ、これはあまりに極端で素朴な疑問です。しかし、「あなたが世
界なのだ」、「自と他の区別は本来はない」、「世界はマーヤだ」
という神秘家の発言が真に意味をもつとすれば、世界の中の誰か一人
が真に悟れば、それで全世界が The end となる筈ですね。しかし、
そうはなっていません。どうしてなのでしょう? 

なお、悟った目で見れば実は誰もが既に悟っていた、という類のオチ
はダメですね。なぜなら我々は現に悟っていないから。

reverieさんへ:ミラーグラスのように 投稿者:  投稿日:05月27日(木)11時04分29秒

> しかし、 そうはなっていません。どうしてなのでしょう? 
もちろん、私も悟っていませんから正解は知りませんが、reverieさんの指摘を読んで津田
真一さんの最初の単行本『反密教学』(リブロプロート)の一節を思い出しました。

以下引用------
 津田 いや、それでね、私が何年か前にこの〈女性単数のdharma〉という考えをはじめて
 出して、それをプラクリティだと云ったとき、或る友人が、サーンキャ派の中にはプラク
 リティは複数だ、という云い方をする人もいる、と教えてくれましてね。それは何故かと
 云うと、プラクリティが一つなら、一人の人間が悟ったら世界中が悟ってしまうからだ、
 という。―― なるほどね……。しかし、どことなく妙ですね。津田 私は、その時は愚
 劣な机上論だ、と思いました。しかし、考えてみればもっともなんですね。
 [中略]
 つまり、プラクリティは、一方からすれば、プルシャの数だけある。或いは、人間の数だ
 けある。人間という部分に視位を据えれば、世界はその個々の人間のそれぞれに一つず
 つ、その完全性に於て内属しているわけです。
------引用終わり(同書P29〜30)

この文を思い出しただけで、私自身は、reverieさんの疑問に応える材料がありません。す
みません。

ちゃちゃ(妄想的試論) 投稿者:  投稿日:05月27日(木)21時37分03秒

>ええ、これはあまりに極端で素朴な疑問です。しかし、「あなたが
>世界なのだ」、「自と他の区別は本来はない」、「世界はマーヤだ」
>という神秘家の発言が真に意味をもつとすれば、世界の中の誰か一
>人が真に悟れば、それで全世界が The end となる筈ですね。しかし、
>そうはなっていません。どうしてなのでしょう?

 この世界というものが、誰かの主観意識の産物として存在している
のではなくて、他ならぬ"この私"の主観意識の産物として存在してい
るのでは?いまだ真実をしらず"多生への転生"を渇愛し、輪廻する条
件性(業)の必然として。

(Jさんへ) Re: ちゃちゃ(妄想的試論) 投稿者:reverie  投稿日:05月27日(木)22時37分36秒

これが、続くようでしたら隔離部屋ですべき話題ですね(笑)

> この世界というものが、誰かの主観意識の産物として存在している
>のではなくて、他ならぬ"この私"の主観意識の産物として存在してい
>るのでは?いまだ真実をしらず"多生への転生"を渇愛し、輪廻する条
>件性(業)の必然として。

ええ、普通の筋書きではそれが定石だと思います。
ただ、今回の話題の流れからすると、微妙に違うような気がします。
Sさんの、

>                  釈迦が輪廻の総体を追体験のように認識するというのも、この娑婆の
>機構からすれば「掟破り」のはずなのですが、なぜか起こり得てしまう。その際、釈迦は
>釈迦でありながら、歴史上かつて生き、今生き、これから生まれるであろう各々の人物で
>あったといえるのでは。

という説明は、ブルーさんの掲示板でのイエスの磔の話題とも関連し
ているように私には読めました(誤読かも)。つまり、釈迦の悟りやイ
エスの磔はその当人である釈迦やイエスだけに閉じたものではないと
いう前提(あるいは当面の議論の上での仮定)があります。

それらの行為、事件は本質的な意味で全ての人間の本源を代表するも
の、もしくは全ての人間の根幹に決定的に浸透するもの、こういった
観点です。そしてこの観点のベースにあるのは、個個人の主観は独立
して存在する究極の実在(たとえば、サーンキヤでいう純粋精神のよ
うな)ではなく、それら(の主観)もまた作られたもの、展開された後
のもの、という見方かと思います。

その前提があるからこそ、釈迦の悟りにおいて個個人の主観の全体を
俯瞰するなり、それら全体をひっくるめて超越するような、より根源
的な(個人の主観を超えた)実在からの視点が成立するのかと。
よって、今回の話題では

>他ならぬ"この私"の主観意識の産物として存在しているのでは?

における「"この私"の主観意識」を超えてその更に奥を探っている
わけですから、個個人の主観意識に帰着させられないようにも、思い
ます。