禅は言語や概念を超越しているのか


2000.11.9


(Jさんへ)re:哲学と宗教 投稿者:reverie  投稿日:11月 9日(木)08時25分06秒

>  最近、仏教理解を改革する必要があると私は感じているのです。考え
>ても答えが出ないのは考え方が悪い…、とのように。
skip
>  とくに、仏教が哲学的だという風評の割には、後代に思想化していっ
>たことは惜しまれます。たとえば、哲学としての仏教は因果論であるが、
>自由意志が位置付けられている。現代的視点で見直すと、観察者を世界の
>中に位置付けた点が評価できると思う。ここから到達できる世界があった
>と思うが、そうでなかったことは、古い思考を学ぶことの限界を示してい
>る。

ちょっと趣旨からはそれるかもしれませんが、表題にそって…

いわゆる仏教哲学、つまり中観や唯識、禅における空の核となる部分は(論理
や合理性に基づいて真理を追究するという本来の意味での)哲学とは本来別物
(オーバーラップする部分がない---後述---)だし、また相容れないものである
とも思いますね。

仏教哲学の本質的部分(以後面倒なので大雑把に禅と言い換えます。大幅に歪
曲していますが(笑))が philosopy という意味での哲学と相容れないのは、
哲学的思考がその基盤とする論理や合理性そのものを、戯論(prapanca)に過ぎ
ないと切り捨てているからでしょう。

論理や合理性のベースには言語と概念化という知的な枠組みというか本質的制
約がありますが、この制約を乗り越えることが禅の大きな目的の一つとされて
きたと思います。

血で血を洗うことはできないように、論理や合理性、言語や概念をどれほど巧
妙、精密に操ろうと、それ自身のもつ本質的制約からは逃れ得ないゆえに、哲
学もそれ自身の本質的限界(というかカバー可能な領域)をもちます。

では、禅が目指した悟りはこのような本質的限界を超えているのか、と言うと
超えてはいないように思います、私は。つまり、禅でいう悟りは言語や概念の
本質的制約という険しい山や海を超え、さらなる高み(あるいは深み)に至っ
たのではないと。

悟ったところで一向に論理や合理性に秀でるわけがないのはそのせいだと思い
ます。独特の境地に基づく見解はありえても、それは論理や合理性をベースと
しているわけではない(その意味で実用にはならない)と。この意味で、禅と
哲学はオーバーラップしない(同じ領域をカバーしない)と思います。

では、言語や概念という領域ではないとすれば、禅はどのような領域をカバー
するのでしょうか。それは言語や概念のさらにベースとなるような領域、比喩
的な意味で意識に対する無意識のような領域(言語アラヤ識やさらにその下に
位置する意識のゼロポイント)であるというのが故・井筒俊彦の説でした。

禅の領域がより下層であり基盤であるから本質的、本源的だというべきなので
しょうか、あるいは未発達ゆえのナイーブさ、というべきなのでしょうか。ど
ちらも同じことのように思います、私は。

見事、禅の領域に降立ってすっきり晴れ晴れした気分になったとしても、そん
な気分になったという、単に「それだけ」の事で、賢くなるわけでも、人格が
優れるわけでも、何かが理解できるわけでもないでしょうし(笑)。

もっとも、「それだけ」(=禅でいう悟り)が全てだ、という立場もありえま
す。しかし、果たして「それだけ」で本当に本質が変わったのかはまた別の話
だと思います。

つまり、いわゆる悟りが、自覚的に意識の下部領域に至った程度のものであれ
ば(仮定)、明晰夢を見れる事や OEB
(*1) できる事とその本質は変わらないので
はないか、このように思います。言い換えれば、いまだ輪廻の輪の中のままで
目に映る光景が少しばかり変わっただけではないかと。

後記

*1: OBE(体外離脱体験) の誤記