ディスプレイの壊れた日 2001年 11月終〜12月始
ある朝、快調にプログラミングなぞしていると、突然、ディスプレイの表示が歪み、そして、表示が消えた。
通電状態を示すLEDも灯かず、それ以後、このディスプレイは沈黙している。
幸い、ノートPCは無事であった。もっとも、保証期限が切れたと同時期、たちまちのうちに電源入力部がイカれ、分解->ハンダの憂き目にあってはいたが。まぁ、IBMの分解マニュアルは良くできている。
そんなわけで、新たなディスプレイ調達と相成った。予算は6万円前後。せっかくなので、液晶ディスプレイを買おう、ということになる。
これからの4年(壊れたディスプレイの寿命なのだが)を見据えると、もちろん、DVIがなければ嫌だ。1024*768という解像度では、ノートPCと同じでなんだか負けた気になる。15インチというのも、なんだかなぁ。
こうして、選択肢がどんどん消失し、狭まっていく。
日本橋に出てみると、やはり、その条件に合うような液晶はほとんど存在しないか、存在しても、値段に問題があった。
ソフマップで、 1280*1024, 16", DVI/Analog, EIZO製の液晶 FlexScan L461が展示してあった。展示現品限り、ということであったが、価格も65000円と手頃であるし、EIZO(NANAO)というところにも心惹かれた。他の店も見てみたが、要求仕様を満たす液晶はほとんど売っていなかった。 よって、L461を購入である。
落ち、を書いておこう。 Aptivaは内蔵ビデオが古く、またビデオメモリも少ない。よって、1280*1024での表示は256色のみとなるのである。これでは、用途を限ったとしても、常用はかなり厳しい。そして、Win2000でATIの腐れドライバでは、16bit色での最大解像度は1024*768である。NT時代は1152*960程度の解像度なども表示できたはずなのだが。様々な事情により、今更NT4.0には戻れない
よって現在は1024*768,16bit色、アナログ接続での表示である。これだけを満たす液晶なら、実売4万円を切っていた。差額の3万円は将来への投資である。が、もし来るべきその「将来」、このクラスの液晶が、たとえば4万円で買えてしまったりするならば‥‥
去年の同時期に買ったノートPCだが、ほぼ同型のものが、今やかつての半額、8万円程度で売られるようになっていた。この値崩れには、もはやある種の感動すら覚える。
UIについてとか。
この世界は、可能性を縮小することで、ユーザ層を増やしてきた。古はBASICによって、現代はperl等によって語られるユーザスクリプティングは、息の長い反動勢力である。
無限の可能性の提示、それ自体は悪いことではない。しかし、その可能性の殆どが無効であるとコンピュータによって否定される、ということになると問題が生じてくるのではないか――
かつて、ユーザがプログラマだった時代、太古の昔。ユーザには無限ともいえる可能性が与えられてきた。1KBの情報ですら、とりうるのは、2の8192乗個の可能性。高級言語でも、約60の1024乗。むろん文法によって多くの可能性が弾かれるが、それでも莫大な可能性が存在した。
残りの可能性も少々のタイプミス、ロジックミスが、膨大なエラー、暴走、コアダンプへ直結した。
やがて時代が下り、ユーザとプログラマは分離する。
かつて、コマンドラインには無限の可能性があった。それ以前の時代からみれば、ずいぶん縮小された可能性ではあったが。プログラミングという作業を逃れることができたので、ユーザの数は増加した。
コマンドラインでは40種類以上の文字を、延々と続けてコマンドとすることができた。オプションは、いくつかの例外を除いて規格化されず、パイプやリダイレクトは、組み合わせによって可能性をさらに大きくひろげていた。
aburaka --ali| tabura --aladdin | sort | less
上のような記述は可能だった(意味はどうあれ)。あるいは途中にsed等を挟むことによって、逃れえた筈のプログラム環境にまた相まみえる事もできた。
殆どの可能性が、「そのようなファイルはみつかりません」や「オプションが不正です」というものだったにもかかわらず、すべての可能性は平等に取り扱われた。暴走するまではいかないものの、エラーメッセージが端末を煩わした。
このコマンドライン族の末裔たるDOSでは、パイプはシステムの制限で使い物にななかったので、可能性は低下した。UNIXと比べて貧しいコンピュータリソース(特に主記憶)の為かは知らないが、他のプログラムとはコミニュケーションを取らず、自分のなかで完結するプログラムが続出した。
GUIの出現によって、無限は有限へと変わり、同時に無効な可能性も排除された。メニューは、合計で100もない。その他のアイテムも、全体で1000を越えない。ボタンは押されるしか能がない。メニューは指し示されることしかできない。まさに劇的な変化だ。
そして、この語彙の制限が学習を容易にし、統一した動作を可能としたのは事実だ。もはや人は、プログラム毎に違うコマンドラインオプションを記憶する必要はなく、望む結果がえられるプログラムの並びを考える必要もなく、パイプの掃除にもフィルタの目詰まりにも気をやる必要はない(失った物は、例によって大きかったが)。ただイースターエッグだけがこの有限の世界のなかで、無限への可能性をかいま見せてくれる。しかし、実用性とは百万光年の彼方にある。
GUI世界のなかで、テキスト入力ボックスが、かつての無限の可能性を残している。ここに入力された文字は、未だに「無効な入力値です」という腹の立つメッセージボックスと併用されて現出する場合がある。ある種コマンドラインを彷彿とさせる、しかし自動復帰しない腹立たしいメッセージボックスは様々なプログラマの利益のために多用される。
そう、GUIでは長いこと、コンソールでは存在した「モードレスなエラー表示」を失ってしまった。モーダルなメッセージボックスが悲しくもエラー表示の王座にのぼったのだ。
PC普及率が人口の90%近くまで行ったとしても、これまでのUI制限化の歩みは止まらないだろう。そのPCユーザのうち、例えば10%もコマンドラインへ転向するとは思えないし、ましてや1%も、プログラミングの素養が身に付くとは思わない。
無限の可能性を提示されながらも、その殆どがコンパイラ等に弾かれてしまうような古代の生活に、GUIから入った人間が耐えられるとは思わない。
なぜなら彼らは生まれたときから、有限でその殆どが有効なUIに接してきたのだから。たとえ、そのUIの決定的断絶を越えたとしても、そんなことまでして得られる成果のコストパフォーマンスは微々たる物だから。
この手段を自己目的化するような限られた人間だけが、プログラマへの一歩を踏み出すようになるだろう。
え?有限で殆どが有効なUIからできるプログラミング言語が開発されたら?‥‥それはまさにプログラミングの革命とでも言うべきだろうね。とりあえず、マイクロソフトが買収することだけは確かなんじゃないかな。
果たしてGUIは最後の変革なのか。次にユーザから奪われるのは、どのような操作なのか。ま、それが分かってたら、苦労はしないわな。