
◇◇「ベレンコ中尉22年目の証言」その1.墜落の恐怖・・・「函館だ」◇◇
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私は失敗を恐れない。人生は自分になにが起こるかを待っているのではなく
自分が何をするかだ。
−ビクトル・イワノビッチ・ベレンコ−
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空はどこまでも青く晴れ渡っていた。
眼下のタイガ(針葉樹林帯)は赤や金色の紅葉が始まっていた。
1978年9月6日午後零時50分。ベレンコ(29歳)は、ソ連空軍の誇る最新鋭
戦闘機ミグ25でウラジオストクの北東190キロ、チェグエフカにある513空軍
基地を離陸した。
5分後、高度7、200メートルに到達。訓練空域には、数機の友軍機がいた。
「今ならまだ引き返せる」との思いが頭をよぎったが、地上のレーダーに感づかれな
いようにゆっくりと高度を5、800メートルに下げ、次の瞬間操縦かんを思い切り
前に倒し、急降下した。
地表がぐんぐん迫る。高度30メートルの超低空飛行で2分後、日本海に出た。この
間「操縦不能」の緊急信号を40秒間出し続けた。次に無線のスイッチを切った。
「これで基地は墜落したと思って大騒ぎだ」
超低空のまま南東に向かう。目指すは千歳基地だ。
頭の中ですばやく燃料の残量を計算する。
多分到着出来るはずだ。多分...
高々度迎撃機のミグ25は、重量22トンの機体に15トンもの燃料を積む。
が、超低空飛行のため、巨大な2基のエンジンは猛烈な勢いで燃料を消費し続けた。
ついてないことに、北海道上空は灰色の雲が垂れ込めていた。燃料節約の為高度を上
げる。もう日本の領空だ。
「航空自衛隊のファントムがスクランブルをかけてくれば誘導してもらえる」
だが、北海道西部を横切って噴火湾に出てもファントムは現れない。燃料切れを知ら
せる警告が鳴った。「着陸地点が見つからなければ、墜落だ」
機体を旋回させ、高度を下げて雲の下に出た。整然と並んだ函館の街並みが見えた。
「函館だ!」ロシアの荒々しい自然とあまりにも対照的な美しさ。
滑走路を懸命に探す。「あった!」が、短い。
しかも民間機が離陸しようとしていた。迂回すると燃料が持たない。
墜落の恐怖が過ぎる。民間機をやり過ごし、滑走路に突っ込んだ。
「ミグよ、壊れないでくれ!これはアメリカ亡命への手土産なんだ!」
ブレーキが悲鳴をあげ、煙が上がる。すさまじい振動。
250メートルもオーバーランし、ようやく機体が止まった。
離陸してから1時間が過ぎていた。
◇◇「ベレンコ中尉22年目の証言」その2.体制の真実告げた一冊◇◇
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いくら刑期が終わっても、腐れ縁は切れないものだ。
そう思うと時には息苦しくなることもある。
ああ神様、自分の足で自由に歩けるようになりますか?
−ソルジェニーツィン「イワン・デニービッチの一日」−
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ミグの残量燃料が30秒分、紙一重で墜落を免れた。
時計の針は午後2時近くを指していた。
「不思議と感動は無かった。とにかく亡命の意志を伝えるのにアメリカ人を探そうと
思った」
ベレンコは酸素マスクを外し、地上に降りた。
近づいてきた日本人の男性がカメラを向けた。米国への手土産である最新鋭戦闘機の
重大機密が漏れる−とも思いが頭を過ぎる。
腰からピストルを抜き空似向けて1発撃った。
男性が自ら抜き取ったフィルムを受け取った。
続いて白旗を掲げた日本人数人がやってきた。年配の男性がロシア語でピストルをよ
こせというので、サバイバルナイフと一緒に手渡した。
連れて行かれた空港ターミナルで、ロシア語を流暢に話す日本人から「迷子になった
のか?」と聞かれた。
「いや、自分の意志で飛んできた。亡命したい。すぐに戦闘機を隠して欲しい」
米国亡命を求める英文のメモを託した。
その夜、函館のホテルで日本の外務省職員に、「パラシュートや自分の服を海に捨て
て墜落したように見せかけて欲しい」と話すと、彼は一瞬けげんな顔をした。
「すでに世界中があなたの亡命を知っている。ソ連は大変な圧力をかけてきた。でも
心配は無用です。あなたを返す事はわが国の民主主義に反しますから。」きっぱり
と言った。救われた思いだった。ソ連に帰ればシベリア送りだろう。自分はこれか
らどうなるのか?
「函館のホテルは素晴らしかった。シャワーを浴び、日本側が用意してくれた着物を
着たがほとんど眠れなかった」という。
ソ連の反応は素早かった。
在日ソ連大使館が直ちにベレンコと機体の即時引き渡しを求め、9月6日夜から7日
未明にかけて、ソ連機とみられる国籍不明機が相次いで日本上空に接近。7日午後に
は、タス通信を名乗るロシア人男性が函館空港を訪れるなど事態は一段と緊迫の度を
強めていった。
ベレンコは翌7日午後、日本側の徹底した隠密行動に守られ千歳から自衛隊の輸送機
で東京に移り、身の安全の為に、日本の拘置所に入る。
「鉄格子の中さ。コンクリートの床に寝ようと思ったらマットレスを入れてくれた、
皆、とても親切だった」
「ジム」と名乗る米国人が、ソルジェニーツインの「イワン・デニービッチの一日」
を差し入れてくれた。アメリカ中央情報局(CIA)だと思う。
ソ連の強制収容所での生活を描いて発禁処分になった本だ。
読み進むうちに、体が震えた。
「自分もイワンではなかったのか?社会主義体制こそが人間を抑圧し、自由を奪って
いたのだ。」
ベレンコは、長年持ち続けていた疑問が初めて解けたような気がした。
◇◇「ベレンコ中尉22年目の証言」その3.高まる緊張 今しかない◇◇
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夜の真っ只中にいて、彼は夜が見せている、あの呼びかけ、あの灯、あの不安
あれが人間の生活だと知るのだった
−サンテグジュペリ「夜間飛行」−
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文学青年だったベレンコは、夜、単独飛行をすることが好きだった。
コックピットから見上げる満点の星。下界には村々の小さな明かりが点在していた。
「空と地表の間にいるのは自分だけ。
飛んでいる時だけが唯一自由を感じる時間だった。」
シベリアのルプツォフスクで過ごした貧しい幼年期。父は2歳の時に離婚、ベレンコ
を引き取った。彼はまま母に苛められ6歳まで裸足で過ごした。その日の食べ物にも
困り、鳥や魚を採って飢えをしのいだ。こんな暮らしから這い上がろうと勉学を重ね
航空訓練校を経て、戦闘機のパイロットになった。
国家からアパートを支給され、収入も工場労働者の倍以上の300ルーブル(当時イ
モ1キロが1ルーブル)。模範社会主義者として将来を嘱望され、女性達の憧れの的
だった。1973年にマダガン出身の裕福な工場長の娘、看護婦のリュドミラを黒海
近くの都市アルマビルのパーティで見初め結婚。その年、長男ドミトリが生まれた。
だが、現実の生活は惨澹たるものだった。
旧ソ連防空司令部513戦闘機部隊の基地があるチュグエフカは、ウラジオストク北
東190キロの小さな村。古いアパートの床は崩れ、お湯は出ず、トイレと台所は別
の家族と共用。
ベレンコは日曜日以外は午前3時半に起きてバスで基地に向かい、6時間の飛行訓練
午後はその日の党への報告書を作成、午後7時半帰宅の毎日だった。
自由にモノが言えず、監視の目を感じる日々。「最新鋭機のパイロット」にも不満が
募りはじめた。
「党は偽善に満ちている。特権階級だけが得する体制。このままでは普通の人間とし
て生きてはいけない」
妻は、マダガンに帰りたがった。口喧嘩が絶えず、彼女は離婚を申し出た。
家庭も崩壊寸前だった。
「妻と子供は、中央と繋がりのある彼女の両親が何とかするだろう」
亡命を決意し、2ヶ月待った。
好天、日本海側での訓練、燃料満タンの3つが「その日」の条件だった。
9月6日朝、パイロットの監視役のKGB(ソ連国家保安委員会)中尉が、
「リュドミラは最近どうしてる?午後話を聞きたい。」と話し掛けてきた。
「感づかれたか?」背筋が寒くなった。
決行は今日しかない。
◇◇「ベレンコ中尉22年目の証言」その4.免罪保証し帰国迫る◇◇
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おい、聞いたかい?これからは政治局のお偉いさんだけが戦闘機にのるんだとよ。
やつらなら逃げ出す事はないからね
−ベレンコ中尉亡命直後、旧ソ連で流行ったアネクトード(小話)−
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函館空港に強行着陸して3日後の1976年9月9日夜、ベレンコは米中央情報局の
ガードを受け、羽田空港からロサンゼルス行きのノースウエスト航空に乗った。サン
グラスをかけていたが、乗客は誰も彼が米国亡命を決行したソ連空軍中尉とは気が付
かなかった。
ロサンゼルスからCIA長官の専用機でワシントンへ。
バージニア州のCIA本部近くのセーフハウス(隠れ家)に落ち着くと、CIA、米
海空軍、国務省、米国防情報庁(DIA)の事情聴取が始まった。旧ソ連の極東情勢
基地のモデルや訓練の様子、戦闘機の性能、配備計画、政治局の動向、対米戦略・・・・
当時のベイ空軍大佐は
「われわれは1日5時間、5ヶ月にわたってベレンコから話を聞いた。雰囲気は友好
的で彼は実に協力的だった」と打ち明けた。
秘密のベールに包まれたミグ25の性能も次第に明らかになった。西側が思っていた
ほど高性能では無く、レーダーは旧式の真空管を、機体はチタンでは無く、重い鉄を
使っていた。ただ、エンジンの推進力は素晴らしく、最高速度はマッハ3.0。
「まるでロケットのようだ」と米技術陣を驚かせた。しかし、「世界に誇る最新鋭戦
闘機の米国亡命」にソ連政府が黙っているはずが無い。2週間後にグロムイコ外相が
ニューヨーク入りし、キッシンジャー米国務長官との夕食会で、
「ブレジネフ書記長が個人的に心配されている。中尉が本人の意志に反し拘束されて
いる限り、米ソ関係は悪化するだろう」と警告した。
米国務省からの状況説明で、ベレンコはソ連政府関係者と接触しない限り自体は収ま
らないとみて、米国務省で在米ソ連大使館のウォロンツォフ公使と会う。
ウォロンツォフ「君が日本の官憲に薬づけにされた事は知っている。
家族が帰りを待っている。同志よ、君が祖国に戻れば、一切の罪に
問わない事を保証しよう。」
ベレンコ 「私は自分の自由意志で亡命した。米国では誰も私を強制していない
私は帰らない。もはや話すことはない。」
会議室を出ようとするとウォロンツォフは自信たっぷりにこう言い切った。
「君は必ず帰ってくるさ。我々は必ず君を取り返してみせる。」
ベレンコには悪夢のような言葉だった。
◇◇「ベレンコ中尉22年目の証言」その5.秘密裏に西側各国へ◇◇
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我々の使命は、正確で、具体的証拠に基づくタイムリーな対外情報を提供する
事で、大統領や国家の安全保障政策に関わる人達を補佐する事である
−CIAのインターネット・ホームページ−
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「ペレンコとミグ25を取り戻そうという、旧ソ連の攻勢はすさまじかった」と、彼
の友人の元米空軍大佐は振り返った。
大佐の自宅にまでロシアなまりの英語で不審な電話はかかってきた。米中央情報局は
ベレンコにボディガードを付け、車で外出する時は、尾行がいないかどうかを確かめ
た。セーフハウス(隠れ家)も5回変えたという。
タス通信は、米政府が国家的英雄の亡命をでっち上げ、米大統領選に利用していると
非難。事件から約3週間後の9月28日には家族がモスクワで記者会見し、妻リュド
ミラ(25)と実母ステパノワ(49)が、
「理不尽に亡命を強いられた夫、息子を1日も早く祖国に帰して..」と涙ながらに送
還を訴えた。
会見をセーフハウスのテレビで見ていたベレンコは、2歳の時に両親が離婚して以来
一度も会っていない、母親の登場に驚いた。
「パイを焼いて夫の帰りを待っている」という妻の訴えにもあきれたという。
妻はパイを焼くなど1度もなかった。
「みんなソ連国家保安委員会(KGB)の仕掛けさ」ベレンコはそう言った。
KGBの影に脅えながらもベレンコは亡命から2年たった1978年ごろ、米空軍の
依頼を受け、極秘裏に世界中の米軍基地を回る。CIAの厳重な警護を受けながら、
各地でソ連軍の戦略やミグ戦闘機の性能、ロシア人の考え方について講演した。
「実はこの時、欧州や東南アジアにも行き、沖縄と東京に3日間滞在した」と初めて
打ち明けた。もちろん当時は「ベレンコ」では無くフィンランド人になりすましてい
た。東京では、銀座を車で通過した。「思い出の地、北海道にも行きたい」と願い出
たが、「とんでもない」と却下された。
ソ連軍を核としたワルシャワ条約機構(WTO)軍と対峙する北大西洋条約機構(N
ATO)加盟国では、各国がソ連軍の士気や機動力を知りたがった。韓国やフィリピ
ンでは、ミグを使用する中国空軍の訓練内容に関係者の質問が集中した。当時、ソ連
は中国を第一仮想敵国と位置付け、ベレンコも中国軍の状況を熟知していたからだ。
米国でも「自由への決死の脱出をしたヒーロー」として、沿岸警備隊やロータリーク
ラブ、高校から講演依頼が殺到していた。
◇◇「ベレンコ中尉22年目の証言」その6.侵犯すれば民間機でも◇◇
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「もし自由世界が1983年夏、直面する相手が悪の帝国だという新たな証拠を必要
としてたとすれば、それはソ連軍用機は冷血にも大韓航空機を撃墜した時に得られた
といってよい」
−レーガン元大統領「わがアメリカン・ドリーム」−
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「大韓航空機007便がサハリン沖で撃墜された。ソ連のスホウイ戦闘機の交信を解
読してほしい。」日本時間で1983年9月1日に起きた撃墜事件。ベレンコの元に
米国防総省から緊急連絡が入った。
ロシア語の交信の核心部分はこうだ。
「了解。」
「(ミサイルを)ロックオンした。」
「目標に接近しつつある。目標までの距離は8キロ。」
「(ミサイルを)発射した。」
「目標は撃墜された。」
「帰投する。」
ベレンコは雑音に囲まれた交信記録を何度も聞き直した。
交信の正確な内容を割り出し、パイロットのトーンから次の様に分析した。
「領空を侵犯すれば、民間機であろうとなかろうと撃墜するのが、ソ連のやり方だ。
ソ連の迎撃機は、最初から目標を撃墜するつもりで発進している。地上の防空司令
センターは、目標が民間機かどうか分からないまま、侵入機を撃墜出来なかった責
任を問われるのを恐れ、パイロットにミサイルの発射を指示した。」
さらに、「米国のスパイ機だと思い撃墜した」とのソ連側の主張には、
「国際的な非難をかわす為に後からつけた理由だ」と報告している。
ベレンコは米空軍顧問として、米ソ関係が緊張する度に召喚された。特に、旧ソ連軍
の「考え方」は大いに参考になり、米国の対ソ戦略に少なからず影響した、と米軍関
係者は証言している。
後に米国のベストセラー作家となるトム・クランシーからも協力依頼が来た。クラン
シーはステルス機能を持つソ連の最新鋭原子力潜水艦が米国に亡命する「レッドオク
トーバーを追え」を執筆中だった。ベレンコは自らの思い、ソ連軍人の考え方、行動
様式などを語り、作品をより現実的にした。軍人としての誇りを持ちながら祖国を見
限った艦長の心理描写は、最新鋭戦闘機ミグ25に乗って亡命したベレンコの心理そ
のままだった。
作品は主人公のラミウス艦長にショーン・コネリーが扮して映画化され、日本でも公
開された。
「(亡命したら)私はモンタナにお住みたい。アメリカの女性と結婚して・・・」
映画の中でラミウスの腹心である副長が語るセリフは、ベレンコの言葉でもあった。
映画の中で副長は亡命直前、ソ連諜報員の銃弾に倒れるが、ベレンコは夢を実現する。
Source: 2ch.掲示板
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