奇妙な符合

19971220

映画監督伊丹十三は仕事場のある東京麻布台のマンションから投身自殺

享年64

 

1222日発売予定の写真誌「フラッシュ」で

若いOL女性と伊丹がホテルに入る瞬間を撮った写真が掲載されていた。

伊丹は遺書の中で女性との関係を否定した上で

「死をもって潔白を証明する」とマスコミ向けにメッセージを残していた。

 

前述の「古畑任三郎」に登場した安斎は

まさに“スキャンダルの汚辱にまみれる”ことを避けるため

自ら死を選んだ伊丹の姿に重なる。

 

津川雅彦演じる安斎を通して

三谷は「友」である伊丹に語りかけたのだ。

古畑の熱を帯びた言葉は

三谷から伊丹に向けたストレートなメッセージだった。

 

このことは伊丹の遺作マルタイの女を見れば明白である。

 

92年、「ミンボーの女」公開後、暴力団に襲撃を受け重症を負った伊丹は

妻、宮本信子とともに警察の身辺保護対象(マルタイ)になった。

その時の体験をモチーフにこの作品をつくったと語っている。

 

主人公、宮本信子演じる女優は偶然カルト教団の殺人事件を目撃する。

彼女は検察側の証人になるとともにマルタイ指定される。

あらゆる手段を講じて宮本の口を封じようとする教団に対する

警察と宮本の奮闘を描いた活劇、といった内容なのだが、

 

映画の中にこんなシーンがある。

渦中の宮本は津川雅彦演じる妻子持ちの男と恋仲になる。

教団はそのスキャンダルの証拠をおさえ宮本を脅迫する。

やがて津川の元に教団の手先が迫った時、

津川は隠し持っていた拳銃を抜く、そして…

「人生とは中途半端な、そう道端のどぶのようなところで突然終わるものだよ…」

そうつぶやきながら次々に手先たちを射殺。

自らもこめかみを打ち抜き死ぬ。

 

前述したように三谷幸喜は企画としてこの映画に参加していた。

映画への進出を計画していた三谷は

自分の目指すところである日本向けの大衆娯楽映画

その第一人者たる伊丹の元で

映画の現場を勉強しているというような立場だっただろう。

 

しかし上の津川の自殺シーンだけは強烈に反発を感じたに違いない。

“汚れることを恐れて死ぬのは、ダンディズムでもなんでもない!”

そんなメッセージを伊丹につき返したかった。

これが古畑「古い友人に会う」の真意である。

当然、安斎の役は津川でなければならなかった。

 

しかし

このエピソードはもう一つの重要な示唆を含む。

もうお気づきだろう。

 

伊丹は遺作マルタイの女の中で

自分の死を予言するかのようなシーンを撮っているわけだ。

 

マルタイ→不倫スキャンダル→自殺

この奇妙な符合を

単なる偶然やシンクロニシティと受け止めていいのだろうか?

 

伊丹の自殺を聞いたとき誰もが釈然としない思いを抱いた。

自殺することがなぜ「潔白を証明する」ことになるのか?

むしろもっと大きな真相が伊丹の背後にあったのではないか?

 

しかし現に死の直前撮った映画が証拠のVTRのように

伊丹が死に向かった心理を簡潔に説明してくれている。

まさに「中途半端な道端のどぶのようなところ」で人生を終えたわけである。

 

少し話が出来すぎてはいないだろうか?

 

 

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