
ペストによる打撃からの回復(単位:万人)
| 国名 | 1340年 | 1500年 |
| スペイン | 950 | 830 |
| フランス | 1900 | 1600 |
| イタリア | 930 | 550 |
| 神聖ローマ | 1100 | 700 |
| スカンディナビア | 60 | 50 |
| 大ブリテン | 530 | 400 |
欧州連合王国の成立(単位:万人)
| 国名 | 1600年 | 1700年 |
| スペイン・ポルトガル | 1100 | 1400 |
| フランス | 1800 | 3000 |
| イタリア | 1300 | 1600 |
| 神聖ローマ | 1600 | 1700 |
| スカンディナビア | 200 | 350 |
| 大ブリテン | 700 | 1400 |
| ネーデルラント | 150 | 200 |
上表において、イタリア・神聖ローマは国家形成の遅れと17世紀の戦乱のために統計の基盤に問題がある。
スペイン・ポルトガルについては、欧州各地からの人口流入と、海外への移住が同時並行して進み、国内の開発の
遅れもあって人口の伸びは少なかった。
フランス・大ブリテン(イングランド・ウェールズ・スコットランド合計)は急激に増大した。これは両国の膨張エネルギーの海外→国内への
流れの変化により、国内開発が進んだためであろう。
ネーデルラント地方は1500年に200万、1600年に150万、1700年200万であり、人口は停滞した。自由な貿易活動をなにかにつけて妨害し、
臨時税を要求する欧州帝国の政治の犠牲者といえよう。
人口増加の最大の要因は、スペイン-ハプスブルク連合王国の成立があげられる。
スペインの国教であるカトリックがスウェーデン・ロシアを除いて欧州全土に広まった結果、
、受胎制限は違法で、商業活動は蔑視される傾向がはびこった。強圧的な統治体制は、魔女だとの告発を恐れて隣家が互いに
監視し合う社会を生み出した。
宗教で一体感を共有して多数の国家が多元協調的に並存し、国力が拮抗し、切磋琢磨できる一個の文化圏であった欧州は、
一種東洋的な統一された巨大帝国になったことにより、競争原理が働かない閉鎖的な地域になってしまった。
特に信仰にかけては東洋的専制主義的な皇帝教皇主義体制下でプロテスタントの迫害が多発、政権と教権の癒着は各地に
破滅的な無能をはびこらせた。
欧州域内での戦争もevil war以降絶えてなく、あっても内乱鎮圧程度とあっては兵器の発達はひどく遅いものになった。
海外貿易はスペインの独占物となり、スペインの商業帝国の輸送網を守るべきスペイン海軍は活動的な日本水軍に連敗を喫していた。
17世紀以降、ほぼ例外なく敗北を続けた欧州勢力の、というかスペインの海外領土は縮小を続け、その商業帝国も縮小していった。
欧州の多くの地域では海外移民の道が失われたこともあって海洋への膨張のエネルギーが内側に向き、寸土まで国土開発が
進むという結果を生んだ。
17世紀半ばから急激に牛馬の数が減り、従来畜力を利用していた運輸・農耕作業も逐次人力に置きかえられ、18世紀後半には
人口圧から一人当たり食料消費の圧縮が進み、特にフランス・イタリアなどの地域では人間の給養数を限界まで高めるために
条件的に劣る限界地まで耕地に転換された。
これは、天候不順などの悪条件が襲った場合に深刻な飢饉に繋がる危険を内包
しており、人口給養力に余裕のある社会では難なく生き延びる事ができる災厄でも餓死が蔓延した。
そして、子供の予備をつくる必要性は乳幼児死亡率の上昇とともに増し、人口増加を招き寄せた。正に悪循環である。
当然肉食の習慣は次第に失われ、体格の矮小化がみられるようになった。
人口大国白色超帝国及び大フランス帝国の興亡(単位:万人)
| 国名 | 1800年 | 1850年 | 1900年 |
| スペイン・ポルトガル | 1350 | 1200 | ↓ |
| フランス | 4050 | 3900 | 16700 |
| イタリア | 2400 | 2450 | ↑ |
| 神聖ローマ | 2700 | 3500 | ↑ |
| スカンディナビア | 500 | 500 | 650 |
| 大ブリテン | 2500 | 2780 | 4040 |
| ネーデルラント | 200 | 230 | 係争中 |
| オーストリア-ハンガリー | 3250 | 3150 | フランス帝国に編入 |
1800-1900年の欧州は、白色超帝国や大フランス帝国の成立にともないおおきくわけて2度の大規模な戦乱がおき、
そのたびに膨大な人命が失われた。
スペイン-ハプスブルク欧州連合王国の崩壊とナポレオンによる再編成、そして白色超帝国の成立、この戦乱で50年は回復しない打撃を受けた
国家が多かった。しかし、海峡を隔てたイングランド王国は被害をうけず、平和裏に共和制に移行した。
1849年には、短命だった白色超帝国は滅亡、各副帝家は自身が正統なる泰帝家後継者であると主張して内乱が勃発、フランス副帝家が
有利に戦闘を進め、1859年大フランス帝国を建国した。
20世紀にはいっても、中断をはさんで第二次世界大戦にいたるまで戦乱にあけくれ、現在に至る大フランス帝国の領域が確定したのは20世紀半ば
になる。
1900年には大フランス帝国は人口増加いちじるしく、1億をはるかに越える人口を有するに至った。
しかし、一度飽和点に達した欧州の人口崩壊はなかなか終息せず、大フランス帝国の人口増加は支配領域の拡大のためである。
この人口崩壊をほとんど経験しなかったのは、2世紀以上にわたって国内開発におおきな努力と能力を示したイングランドであった。
イングランドは欧州帝国・白色超帝国のくびきから解放されると大ブリテン帝国を建国、欧州で唯一、早期に近代化にむけて邁進
してゆくことになる。
このような欧州の人口崩壊の有様は、あたかも漢民族の”人口圧と王朝の勃興循環”をみるようである。
イングランド王国の特異性
イングランド王国は19世紀中ごろから他の欧州諸国とは異なった人口動態を示しはじめた。
これは、1849年10月14日のイングランド共和国成立前後からはじまった変化であり、以後1900年には総人口4000万人を突破するまでに
増加する。
イングランドの近代人口成長は共和期・帝国期の工業化の開始と同時にはじまったのではなく、その原因は明らかにされていない。
しかし現象面では世帯規模の拡大、有配偶出生力の向上がみられ、人口増は出生数の増加によってまかなわれた。
19世紀の地域別出生率を調査した結果、のちの大ブリテン帝国の人口増加率は1867年から1908年まで全体的に増加傾向にあり、
先に人口増加がはじまったイングランド・ウェールズ地方の増加率は1908年を境に減少に転じた。
しかしスコットランド地方の人口増加率は1925年まで転換点に達せず、アイルランドに至っては1940年まで低下しださなかった。
多産多死の時代は1880年代におわり、以後の1930年ころまでの多産少死の時代の大ブリテン帝国の人口増は列強各国のには
脅威に感じられた。
有配偶出生率は「南高北低」の傾向を示し、それは農村の人口扶養能力によって大きな影響を受けた反面
、イングランド地方でまずはじまった産業化(非農業有業率)の上昇は人口増加率には負の方向に働いた。
特異性の原因
イングランド王国の17世紀の経済発展と人口増加は村落数の増加させ、同時に都市化を促進し、
その結果、産業発展とあいまって原材料や燃料となる森林資源が大量に消費された。
容易に耕地に転換できた初期の耕地開拓は50年ほどでおわり、焼畑のための高知・山地への再進出、放牧地の耕地転換が進んだ。
水資源確保のための大規模な投資により洪積台地の開拓が可能になり、排水技術の進歩により洪積低地の開拓も進行した。
ネーデルラントとの交易によりロンドンなどの大都市は繁栄し、運河網の開削・陸上交通網の整備
により遠方の農村にまで商品作物、穀物の需要が及ぶようになり、
勤勉な家族労働力を中心とした労働集約的農業が成立した。
もともとイングランドなどの北欧諸国は単位面積あたりの土地生産力が
ちいさく、高度な資本投下(農具などへの)が必要だったため、親子間の資産移動を確実にするために長子相続、晩婚化による
人口抑制が自然に行われていた。
しかし、国家による農業生産の増加政策、軍事費削減による国内社会への資本投下、新しい産業の発展、穀物・木材・石炭などの燃料
・食料の輸送網発達により市場経済は発達、人口扶養能力は拡大した。
これが17世紀人口増加の原因であり、18世紀に入って人口扶養力の天井が迫ってきたときに容易に人口を抑制できた。
よってイングランドの人口密度は破滅的高さに達することはなく、生活水準の極端な低下はおこらなくて済んだ。
このイングランド人家庭の余力が一般民衆にも教育に投資する可処分所得を与え、共和期以後の工業化への離陸の原動力となった。
さらに加えると、土地生産性の向上に必要だった勤勉性はのちの工業化社会において必要不可欠な要素であった。
この勤勉性は親から子へと相続されたが、これは高度な資本投下(つまり親の許可による子への財産の相続)
を必要とした北欧農村社会における親子の強力な従属関係を通じて伝わり、30歳近くまで結婚できず結婚相手も親に決定される
という親の強制力への忍耐の経験はイングランド人のエートスにも影響しただろう。
宗教の影響も見逃せない。
16世紀末に国教会を壊滅させられ、以後カトリックに改宗させられた経験をもつイングランドにおける宗教の求心力は弱かった。
キリスト教においてアダムとイブは、神の目を盗んで知恵の木の実を食べ、その罰として楽園を
追放され労働せねばならなくなった。よって人々はエデンの園へ帰りたいかのように、地道な開墾ではなく一攫千金を夢見る
ことになる。
これは極端な論であるが、新大陸を征服したスペイン人の行動様式を見るとそれも頷けるものがある。
このエデンの園回帰心が、宗教の求心力低下でイングランド人の間で希薄化したことも、彼らの勤勉化の一因ではなかろうか。