ジョドレルバンク電波天文台の挑戦




1959年1月2日、ソ連はR-7ロケットに上段ロケットを追加したA-1ロケットにより人類初の月ロケットを打ち上げた。これはメチタ(後にルナ1号)と命名された。メチタは月を目指したものの月から6,000kmはなれた所を通過して世界初の人工惑星となった。
このメチタを皮きりにソ連とアメリカの月レースが始まった。米ソ両超大国がかつて熾烈な月レースを繰り広げていたことは有名な話である。
しかしこの月レースにイギリスのちょっと違った挑戦があったことは案外知られていない。

メチタ(ルナ1号)の打ち上げ後、同年9月14日にルナ2号が打ち上げられ月に見事に命中させた。
続いてルナ3号が同年10月4日に打ち上げられた。ルナ3号は世界で初めて月の裏側の写真撮影に成功した。イギリスの挑戦はこのときから始まった。このルナ3号の送信電波をイギリスのジョドレルバンク電波天文台(正式名称:マンチェスター大学付属ナッフィールド電波天文学研究所)が傍受を試みたのであった。しかしこのときは失敗に終わっている。
ジョドレルバンク電波天文台は1957年、直径76mの電波望遠鏡を完成させ当事の米ソの月ロケットを追跡している。ちなみに当時の所長のバーナード・ラベル氏は「聞き耳のラベル」といわれていた。

1963年4月1日、ルナ4号が打ち上げられた。ジョドレルバンク電波天文台は打ち上げ直後から追跡を開始してルナ4号の打ち上げニュースを打ち上げ後5時間後に発表した。ソ連が公式にルナ4号の打ち上げを発表したのは打ち上げ後丸1日たってからであった。
この後もジョドレルバンク電波天文台の追跡は続くこととなる。最初のころはソ連にとってジョドレルバンク電波天文台のこの行動は頭の上を飛ぶうるさいハエのようなものであった。しかしルナ9号の時それは単なるハエではなくなったのである。

左:ルナ9号から送られた月面写真。右:左の写真をジョドレルバンク電波天文台が発表したとされる縮尺比に変えたもの。
1966年1月31日、ソ連のバイコヌール宇宙基地からルナ9号が打ち上げられた。ジョドレルバンク電波天文台はルナ9号の飛行を追跡した。ルナ9号は2月3日、アメリカに先駆けて月面軟着陸に成功した。(厳密にはこの着陸は軟着陸ではない。ルナ9号は逆噴射で月面にゆっくり近づき月面寸前で球体カプセルを本体から切り離す仕組みになっていた。球体は月面に転がり、止まったところで上半分が花弁のように開き観測を行うようになっていた。)
ルナ9号はパノラマカメラで8枚の月面の写真を撮影して地球に向け送信した。この写真は人類がはじめてみる月面の風景であり2cm位の石まで見える鮮明なものであった。この電波をジョドレルバンク電波天文台は傍受に成功したのである。ジョドレルバンク電波天文台はすぐにこのデータをイギリスの新聞「デイリー・エキスプレス」社の協力を得てコンピュータ解析を行い、ソ連に先駆けて世界に向けて公表したのである。ソ連が正式にルナ9号からの写真を公表したのはそれから18時間後のことであった。タス通信はこのときジョドレルバンク電波天文台が発表した写真は縦横の比率が間違っていると発表した。ジョドレルバンク電波天文台の発表した写真は縦:横の比率が1:3となっているが正しくは1:4であるというのである。しかし見た目にはさほど違いはなくただの負け惜しみにしか聞こえなかった(ジョドレルバンク電波天文台は月面写真を発表したとき縦横の比率は分からないとコメントをつけていた)。まさにソ連はトンビに油揚げをさらわれてしまったのであった。ソ連のデータ解析力が西側に比べ劣っていたことが原因の1つであったのかもしれない。
(余談であるがフランスのル・モンド紙は「ラベル所長は、ルナ9号の写真をソ連より先に公表した件についてソ連に弁償金を払うべきである...。」という意見を掲載している)
ルナ9号から2ヶ月後の3月31日、ルナ10号が打ち上げられた。このときソ連は打ち上げからわずか1時間後に発表を行っている。ジョドレルバンク電波天文台を強く意識してのことであった。
それからもジョドレルバンク電波天文台はソ連の活動を追いつづけた。

1968年に入るとソ連の月探査はそれまでの純粋に探査が目的であるルナシリーズと有人月飛行テストのゾンドシリーズの2つが平行して行われるようになった。ジョドレルバンク電波天文台の追跡劇はここでも行われている。1968年9月15日、プロトンロケットで打ち上げられたゾンド5号はカメ、ハエ、ムラサキツユクサ、数種のバクテリア等を乗せて打ち上げれれ生物の月周辺軌道の放射線、磁場等の影響を測定して9月21日に帰還カプセルはインド洋に着水し月周回飛行の実験に成功した。これによって人間の月周回飛行の可能性を証明したのであった。このゾンド5号の打ち上げ、帰還をジョドレルバンク電波天文台はソ連に先行して発表している。

1969年に入るといよいよアメリカのアポロが月着陸間近となりソ連の敗北は確実となってきた。ソ連はアポロの前に悪あがきを考えていた。アポロが月に着陸して月の石を持って帰る一足先にルナによる無人での月の石を持ち帰りを計画したのであった。ソ連は1969年7月13日にルナ15号を打ち上げた。ちなみにアポロ11号はその3日後の7月16日に打ち上げられている。ソ連は打ち上げの事実のみを公表したにすぎなかったがジョドレルバンク電波天文台はこの飛行が月面軟着陸と月の石の持ち帰りを予測していた。ルナ15号はアポロ11号と共に世界中の科学者の注目を浴びていたがアポロ11号が着陸した7月20日の次の日に「危険の海」に衝突している。ソ連の最後の悪あがきは失敗に終わった。
この後ソ連の月探査はゾンド8号、ルナ24号をもって終了している。

ジョドレルバンク電波天文台の挑戦は月だけではなかった。ソ連の金星、火星探査にも追跡は行われていた。月と違って金星、火星のミッションは遠距離の為に探査機の追跡は難しくなってくる。ソ連は初期の惑星探査で数々の失敗を繰り返していた。原因はさまざまであったがそのうちのいくつかは自国の探査技術の能力不足にあったようである。ソ連は1967年6月12日に打ち上げられた金星4号の追跡をなんとジョドレルバンク電波天文台に依頼したのであった。ソ連としては悔しいが実績のあるジョドレルバンク電波天文台を選んだと言うわけであった。金星4号は探査機の一部を金星に着陸させることに成功して金星大気の組成のデータを地球に送り見事に成功させている。これ以降の惑星探査もソ連はジョドレルバンク電波天文台に追跡の依頼を行うようになった。ソ連の惑星探査は金星表面の写真等数々の実績を残したがその裏で、かつてのうるさいハエであったジョドレルバンク電波天文台が支えていたことはあまり知れれてはいない。

米ソの派手な宇宙活動に比べれば地味であったため、あまり人には知られることのないジョドレルバンク電波天文台のこの挑戦はある意味で巨人ソ連に挑んだドンキホーテであった。しかしそのドンキホーテは見事に勝利を収めたのであった。
(第1版 1999/4/14)


参考文献
「スペース・イラストレイテッド1982年11月号」(ワールドフォトプレス)
「アメリカの宇宙開拓史」(新潮社)
トップページに戻る