No.150 獣となった神の民

テキスト:”エゼキエル28:1 あなたはイスラエルの君主たちのために哀歌を唱えて、
2 言え。あなたの母である雌獅子は何なのか。雄獅子の間に伏し、若い獅子の間で子獅子を養った。
3 雌獅子が子獅子のうちの一頭を育て上げると、それは若い獅子となり、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。
4 諸国の民はその獅子のうわさを聞いた。その獅子は彼らの落とし穴で捕えられた。彼らは鉤でこれをエジプトの地へ引きずって行った。
5 雌獅子は、待ちくたびれ、自分の望みが消えうせたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子とした。
6 これも、雄獅子の間を歩き回り、若い獅子となって、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。
7 この獅子は人のやもめたちを犯し、町々を廃墟とした。そのほえる声のために、地と、それに満ちているものはおののいた。
8 そこで、諸国の民は、回りの州から攻め上り、その獅子に彼らの網を打ちかけた。その獅子は彼らの落とし穴で捕えられた。
9 彼らはそれを鉤にかけておりに入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれをとりでに閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした。”

本日は”獣となった神の民”という題でメッセージしたいと思います。

黙示録には、獣化された新約の神の民が書かれています。

”ヨハネの黙示録 13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。”

小羊とはキリストのことであり、この2本の角は形としては、キリストについていますが、実質は獣です。これは神の前から捕え移され、獣化された2種類の新約の神の民の姿です。

さて、このような考え、神の民が獣になるとは見方によれば、大変失礼な表現ですが、しかし、
聖書全体の視点からは、そうともいえません。これと同じ考えが旧約の神の民、イスラエルの民について、語られているからです。冒頭のテキストがその個所です。

これを少しづつ見ていきたいと思います。

”1 あなたはイスラエルの君主たちのために哀歌を唱えて、
2 言え。あなたの母である雌獅子は何なのか。雄獅子の間に伏し、若い獅子の間で子獅子を養った。”

ここで、イスラエル、神の民の国について、書かれています。そして、彼らの母は獅子、すなわち、
獣であると述べているのです。神の目の前に彼らは人ではなく、獣です。

”3 雌獅子が子獅子のうちの一頭を育て上げると、それは若い獅子となり、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。

この話には、2種類の子獅子が出てきます。これは、2つの神の民の王国、北イスラエルとユダのことです。これは、新約の終りに小羊のような2本の角を持つ獣がいることと似ています。

そして、この子獅子は”人を食べた”ことが記されています。これは何をさすのでしょうか?獣と人とは全く異なります。最初の子獅子、北イスラエルの神の民は堕落と神への反逆の中で、獣になるのです。しかし、その国の中にも”人”、すなわち、”獣化”されていない神の民がいます。そのような”人”を、この子獅子は食べるのです。すなわち、獣化されない人々に害を加えるのです。

”4 諸国の民はその獅子のうわさを聞いた。その獅子は彼らの落とし穴で捕えられた。彼らは鉤でこれをエジプトの地へ引きずって行った。”

この最初の獣、北イスラエルの神の民は、捕えられ、エジプトへ引きずられていきます。エジプトはこの世をさすと思われます。だから、彼らはこの世と変わりないものとなっていくのです。私は北イスラエルは今のカソリックの予表ではないかと思っています。実際、今のカソリックの教えはこの世の教えと大して変わらないものになっています。

”5 雌獅子は、待ちくたびれ、自分の望みが消えうせたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子とした。”

2匹の子獅子はこの雌獅子の子供です。そして、ここに雌獅子の”望み”について書いてあります。
これはどのような望みなのでしょう。それは、ここに書かれているように、人を食べ、(人)のやもめを犯すこと、すなわち、人(獣でなく)に害を与えることです。この獣である雌獅子の望みはこのようなものと思われます。黙示録における獣の望みもこの雌獅子の望みと共通点があります。

”ヨハネの黙示録 13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。”

黙示録における獣の望みは、天に住む者達をののしり、害を加えることです。
テキストの続きを見ます。

6 これも、雄獅子の間を歩き回り、若い獅子となって、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。”

このもう一頭の子獅子は旧約のユダ、現在への予表としては、プロテスタントの教会をさすと思われます。ユダは神に愛されていた部族でした。しかし、最後には神の目には獣となり、そして人、すなわち、獣化されていない神の民に害を与えます。同じように終末の時、プロテスタントの教会は人、すなわち、獣化されていない神の民に害を与えます。

”7 この獅子は人のやもめたちを犯し、町々を廃墟とした。そのほえる声のために、地と、それに満ちているものはおののいた。”

”人のやもめを犯す”と書いてあります。やもめは夫がいない今も忠実に夫(キリスト)に使える神の民のたとえです。これらの神の民は獣化した教会により害を受けます。町町は教会のたとえです。
多くの教会がこの獣化したプロテスタント教会の中で廃虚、すなわち、堕落し、空しくなるでしょう。

”8 そこで、諸国の民は、回りの州から攻め上り、その獅子に彼らの網を打ちかけた。その獅子は彼らの落とし穴で捕えられた。
9 彼らはそれを鉤にかけておりに入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれをとりでに閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした。”

バビロンへ引かれていく子獅子はバビロン補囚されるユダをさします。また、黙示録には淫婦バビロンが現われます。これは、堕落した新約の神の民、特にプロテスタントをさすと思われます。

ですから、終末の日に神の民が獣化するという教えは決してとっぴな考えというわけではなく、聖書が何千年も前から前もって語っていることだということがわかります。そして、このことはよく観察するなら、今着実に起きつつあることです。

例えば、2、3年前にローマ法皇が進化論を肯定するという
話をきいたことがあります。進化論とは何か、それは、人も猿も同じ祖先から進化したと語る教え、
すなわち、人を獣化する教えではないでしょうか。そして、今、これが正々堂々と教会に入場したのです。聖書のいうように、教会が獣化されてきたのです。

また、プロテスタントのカリスマ的な教会では、
笑うリバイバルがもてはやされています。その中で、神の民が霊を受けて犬や馬や猿のような姿になっています。まさに教会が神の民が獣化される時代が到来しているのです。黙示録の時代は目の前に来ているのです。

しかし、私達にあっては、終末における神のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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