No. 221  悟る

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マタイ24:15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)"
 

本日は「悟る」という題でメッセージします。

終末の日に私達、クリスチャンが知らなければならないこと、注意を払わなければならないことは、
いくつもありますが、その中で大事なことの一つは「悟る」ということです。

終末の日に悟るものは、永遠の命を獲得し、また、悟らない者は滅びに至るでしょう。
ダニエル書に終末に関連して、以下のように書かれているとおりです。

”ダニエル12:10 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者(罪を犯す者)どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。”

また、上記テキストのマタイ伝の「荒らす憎むべき者」に関連して悟ることが強調されています。
わざわざ「読者よ、悟れ」などと、読者に注意をうながしている箇所は、聖書の中でもそう多くはないのですが、この箇所では、このように、悟ることをうながしています。

この箇所の伝統的な解釈は、「聖なる所」とは、現在は存在しないが、しかし、これから建設される予定のイスラエルの首都エルサレムの神殿ということになっています。
もしそうなら、現在はまだ、神殿の影も見えない状況なので、「まだまだ反キリストの到来には間があるので、あわてる必要はない」ということになります。

さて、このような伝統的な解釈が神からの「悟り」によって与えられたものなら、よいのですが、
ただ、人間的な考えや研究から出てきた結論にすぎないなら、これは要注意です。

繰り返しますが、上記テキストは終末に関連して、「悟る」ことを強調しています。ですから、終末の日に「悟る」ことのできる人は終末の滅びのわなから免れることができ、そうでない人は、そこから逃れることはできないでしょう。この「悟る」ことについて聖書から見ていきましょう。

上記マタイ伝の「荒らす憎むべき者」について、ダニエル書にも記載があります。以下の通りです。

”ダニエル12:1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。
2 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
3 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。
4 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」
5 私、ダニエルが見ていると、見よ、ふたりの人が立っていて、ひとりは川のこちら岸に、ほかのひとりは川の向こう岸にいた。
6 それで私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った。「この不思議なことは、いつになって終わるのですか。」
7 すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」
8 私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」
9 彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。
10 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。
11 常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。”

この箇所を順に見ていきましょう。

”1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。”

「国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。」ということです。
これは、第一義的には、イスラエル民族をさすのでしょうが、それと共に、キリストの国である「キリスト教会」に関しても与えられている警告です。何故ならこの文の続き、すなわちこの章の11
節には、マタイ伝で記されている「荒らす憎むべき者」についての記述があるからです。
ですから、終末には、「(キリスト教会)が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る」のであって、偽りの2段階携挙説にだまされて「私達はその艱難にはあわないことになっているから」などと、備えを怠ってはいけません。

”2 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。

この日こそ最後の審判の時であり、永遠のほまれを受ける人と、永遠のそしりと忌みに入ります。
今、惑わされる人々はこのそしりに入っていくでしょう。

”4 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」”

終わりの時まで、このことば、すなわち終末のことばは封印されます。黙示録の巻き物が封じられているのも、同じことを表します。ですから、終末の日まで、黙示録を始めとする終末のことばは、
誰に対しても開かれないのです。何故なら、神が権威をもって、はっきりと封じたものは、人の知恵や、
方法では決して開くことも理解することもできないからです。

それなのに多くの解釈者は、「終末のみことばの解釈に関しても、伝統的な解釈に従わなければならない。」などとわけのわからないことをいいます。そして、100年も200年も前の人間の解釈を持ち出して、
これが「正統的な解釈だ」といいます。それに従わない者は異端だといいたいかのようです。
しかし、繰り返していいますが、神がその権威をもって封印されたことばは終末に至る迄は決して開かれることはないのです。そして逆に私達がいつの日か、これらの封印が開かれ、これらの謎めいたことばのどれもこれもが開かれてくるのを目の前で見るようになっったら、実はその時こそ、聖書が何千年も前から預言している「終末の日」なのです。

”5 私、ダニエルが見ていると、見よ、ふたりの人が立っていて、ひとりは川のこちら岸に、ほかのひとりは川の向こう岸にいた。
6 それで私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った。「この不思議なことは、いつになって終わるのですか。」
7 すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」”

「ひと時とふた時と半時」すなわち、黙示録に記されている3年半の。「聖なる民の勢力を打ち砕く」時があります。聖書がこのように前もってこの終末の特別な時について語っているのは、
その時の為に、我々が前もって備えをするように警告しているのです。この警告を真に受け止め、備えをなす人々は幸いです。

”8 私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」
9 彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。”

ここでも終わりの日まで、預言が秘められ、封じられることについて書かれています。
ですから、終末の日までは、終末の預言が開かれることは決してないと聖書が繰り返して語っていることを心に留めて下さい。ですから、主の定められた封印を開く時が来る前、100年も200年も前に終末について書かれた多くのことがらは、まだ封印が開かれる前になされた人の想像、思い付きにすぎません。

10 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。”

「多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。」とのことばは、艱難と関係します。
何故なら、黙示録は、白い衣をまとった人々に関して、以下のように記しているからです。

示録7:14”「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。”

ですから、終末の日、主につく人々は艱難の日を迎えると聖書が度々語っていることを心に留めて下さい。
この警告を無視し、「クリスチャンは艱難にあわない」という偽りの悪霊の教え、2段階携挙説を奉じる人々は終末のその日に自説のために、面目とそれから自分の永遠の命を失うことになるでしょう。

「悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。
と書かれています。「悪者」ということばは、罪人というニュアンスがあります。ですから、クリスチャンであっても、罪を犯し続ける人々は、決して悟ることがありません。

終末の日に大事なことは、繰り返しますが、「悟る」ことなのです。悟るとは、KJVでは"
understand"ということばに相当するようです。これは、「理解する」という意味です。
終末の日に、私達が罪を犯し続けているなら、正しく理解、判断できず、その結果、滅びや偽りに惑わされていく、そのことを聖書は度々警告しているのです。

終末の日の生死、永遠の命か、それとも永遠の恥かの分かれ目はまさに私達が「悟る」かどうかの違いに
あるのです。

たとえば、ミカヤの時は、「悟り」が必要な時でした。王に都合のよいこと、積極的なことをいう多数派400人の預言者のいう預言と、たった一人の預言者ミカヤのいう預言とは全く違う内容でした。
片方は王国と王の繁栄、輝かしい勝利について語りました。もう一方は、裁きと敗北について語ったのです。人数は片方が圧倒的に多く、また一つの口のように同じことを語りました。

この時、人数、多数決をいうなら、偽預言者達の方が多く、またどちらが、正統派か異端かというなら、
400人の預言者こそ、王に認められた正統派でした。ミカヤのいうことは、今でいえば、
小数派、カルトの主張のようなものです。

人間の判断や客観的な妥当性をいうなら、ミカヤの預言は、全くの小数派のようなものです。
さて、このような時、この時にこそ、「悟り」、神からの「悟り」が必要とされる時なのです。
このイスラエルの王は確かに二種類の預言者のことばを自分の耳で聞きました。彼には、
必要な情報、神からの彼への警告を含んだメッセージは届いたのです。
彼の問題、彼がラモテギルアデの戦いで命を落とした理由は何でしょう。

それは、彼がこれらの錯綜する情報のまっただ中で、何が神からの語りかけか、そして何が悪霊にそそのかされた預言者が語ったものかどうかを判断する「悟り」をもっていなかったからなのです。

彼には「悟り」がなく、そして、このことは、彼に決定的な結末、すなわち戦いの敗北と死をもたらしました。
彼には、ミカヤを通して、神からの警告が与えられていたのですが、それを理解する「悟り」が与えられていなかったのです。そして、彼もその悟りを神に祈りもとめはしなかったのです。
とりあえず多数派、正統派、まともそうな人のいうことを聞いていればいいと思ったのかもしれません。

同じことは、終末の日にも起きると思われます。
終末の日に確かに、神は正しい人々にもまた、そうでない人々にも警告を与えられます。
もちろん、偽預言者の数の方が多いでしょうが、しかし、神は、終末にもミカヤのように、
正しく神からの警告をもたらす預言者を起こします。その声、警告は全ての神の民の間に伝わるでしょう。

しかし、終末の民の問題は、このイスラエルの王と同じように、それを理解する「悟り」を持っているかどうかということです。

「今迄、神学に関しても教会選択に関しても、とりあえず、多数意見を採用してうまくやってきた」かもしれませんが、この終末の日にはそうはいきません。
何故なら、終末の日は、「わな」の日であり、また、「ことばなる方」をないがしろにしている
全ての神の民への「復讐の日」であり、主はこの日にすべての者をふるいにかけようと計画しておられるからです。

ミカヤの時のように、「神からの悟り」がなく、どれが神からの警告の声であるかを悟ることのできなかった人々はふるいにかけられるでしょう。
 

このミカヤの時、亜霊に惑わされた預言者の声に聞き従い、「悟り」もなく、滅んでいく王について
聖書は「イスラエルの王」と何度も記しています。このイスラエルの王の名前はわかっているのですが、
その個人名を記さず、あえて聖書は繰り返し繰り返し、「イスラエルの王」が悟りもなく、偽りの
預言者の声に従い、滅んでいくさまを描いています。このことには、隠された意味あいがあります。
ここで「悟り」がなく、悪霊に惑わされた預言者、今でいえば、悪霊の教えに惑わされた
教師の声に従う、イスラエルの王の問題は、この王個人のことがらではないのです。
そうではなく、「イスラエルの王」と書かれているように、実は、北イスラエル全体、
今でいうカソリック全体が惑わしの声に「悟り」もなく、聞き入っていくことの預言なのです。
そしてその結果は滅びであることをしっかりととらえて下さい。

「悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。」と書かれているように、
私達がこの「ことばは神である」といわれた方に罪を犯し続けているなら、決して悟ることはないでしょう。

そして、「しかし、思慮深い人々は悟る」と書かれています。思慮深いとは、ことばの意味あいは、
「知恵ある」という意味があるようです。ですから、この終末の日に神からの知恵、神からの悟りを得た人々は何が救いであるか、悟ることができます。そして、たとえ多くの人々が滅びを選んでも
正しく終末の真実、また終末に関する神からの警告を「悟る」ことになるのです。

”11 常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。”

さて、上記の「悟る」ことに関するいくつもの勧めの後で、この例のマタイ伝に書かれている
有名なことば「荒らす憎むべき者」について書かれています。

ですから、この終末の鍵と思われる「荒らす憎むべきもの」を正しく、理解するためには、
どうしても神からの「悟り」が必要だということを神は語っているのです。
そしてこれは、他でもない、私達、クリスチャンへの警告なのです。

主イエスがこの「荒らす憎むべき者」について語る時、わざわざ「ダニエルがいった荒らす憎むべき者」とダニエルに言及したことを心にとめて下さい。

何故わざわざダニエルについて語ったのでしょう?
それは、モーセが律法をもたらした者として有名であり、エリヤが預言者として有名であるように、
ダニエルは知恵、悟りの人として有名だからです。

ですから、神がいわんとしていることはこういうことです。終末の日に、私達がそれこそダニエルのように、神からのあわれみを求め、その知恵と悟りを得ない限り、終末の日を経過して救われることは難しいということです。

ダニエルが空しいこの世や人間の知恵に頼っていたバビロンの知者と異なり、ネブカデネザル王から、
「裁き」を宣告されなかったように、その日、神からの「悟り」を与えられた人々は、
この惑わしから、救われることでしょう。

終末における主の御心を行いましょう。

ー以上ー