NO.223 悟る(3)

 

テキスト:マタイ24:15「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見た(eido)ならば、(読者はよく読み取るように。)」

「悟る(3)」として、もう少しこの「悟る」ということを見ていきましょう。

上記、有名な終末の警告のことばの中で、「見る(eido)」ということばに注目して見ましょう。

終末に関しての警告は、確かに聖書に書かれているのですが、問題は、その終末の時、
何が「荒らす憎むべきもの」なのかを私達が「見る」ことです。
もし、私達が、それを「見る」ことができず、「見過ごす」なら、私達の終末の日の運命は危ういものとなるでしょう。

「そんなはずはない」「俺に限って大丈夫」などと、変な自信は持たない方が良いでしょう。
何故なら、聖書の歴史を振り返ると、「書かれているのに見過ごした人」「前もって、警告されていたのに理解できなかった人」が非常に多いからです。

例えば、旧約の北イスラエルの滅亡、ユダの捕囚に関しても前もって何度も警告されているのです。
しかし、やっぱりその通りに警告の預言は実現してしまいました。同じことは、ノアの時、ロトの時にもいえます。警告を正しく理解し、それを逃れらる人は少ないのです。これが聖書の語る一つのパターンです。

上記テキストの「荒らす憎むべき者」が、聖なる所に立つのを「見る」(eido)ということばは、以下の箇所でも使われています。

”マタイ13:14「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない(eido)”

ここでは、たとえを悟らない民に関して使われている「決してわからない(eido)」ということばが、
この同じeidoなのです。

ですから、終末の「荒らす憎むべき者」に関しても私達が、「決してわからない」可能性があるのです。
実は、そのことを暗示する意味あいで、このことばが使われているような気がするのです。

この同じeidoは以下の三人の賢者(知恵あるもの)が、星を通して、初降誕の主イエスをさがした
場面にも使用されています。以下の通りです。

”マタイ2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので(eido)、拝みにまいりました。」
3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ(eido)、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
10 その星を見て(eido)、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見(eido)、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。”

彼らは星を見(eido),幼子(eido)を見ることができました。

この見る(eido)ということばは、「荒らす憎むべきものを見る(eido)」と同じことばなのです。

他の多くの人が見ることはできなかったのに、初降誕の主イエスを彼らが見ることができたことは、
幸いです。
歴史の本によるとその当時、「私こそメシヤだ」「私がその救世主だ」というように、名乗りをあげる人は多かったようです。
それらに惑わされず、この博士達は正しく、唯一の方、主イエスを見る(eido)ことができました。このことは、尊いのです。

そして、終末の日に難しいのは、多くの次々に現れてくる、色々な事件や、情報、ものごとの中で何が正しいのか、何が神からのものか、それとも惑わしの霊からのものかを見ることです。また悟ることなのです。

初降臨の時も、多くの自称メシヤがいたのです。
ですから、以下のナタナエルの様な慎重な態度は必要です。

”ヨハネ1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」”

何でもすぐ、ついていかないで、吟味することが大事でしょう。何故なら、100人の自称メシヤのうち、99人は、にせものかもしれないからです。じゃあメシヤと聞けば何でも偽物かというと、しかし、100人目は本物かもしれません。そして、それを「悟らない」時、
神の時を見過ごしてしまいます。その中で、ナタナエルは、正しく、そのメシヤを「悟る」ことができました。
 

”ヨハネ
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」”

ナタナエルは、多くの偽者のメシヤの中から、この方が本物だと「悟った」のです。
律法学者、パリサイ人、祭司等、多くの宗教の専門家が間違えたのにも関わらず、彼は奮然と
悟り、理解したのです。多くの聖書の専門家の教える教理と異なるパターンだったのにかかわらず、すなわち、イエスはダビデの子孫の王族としては、来られなかったにもかかわらず、彼は理解したのです。そして、これが「悟り」なのです。
「常識」が「否、メシヤではない」と判断し、また当時の宗教の教師も、「否」とし、また当時の聖書の専門家も、やはり「否」というこのナザレのイエス、この方こそ「神の子。イスラエルの王」であると正しく判断すること、これこそ、「悟り」なのです。

そして、この彼の「悟り」は、彼、ナタナエルを救い、滅んでいったエルサレムの多くの宗教の専門家達とは異なり、裁きから彼を守り、永遠の命を彼に獲得させたのです。まさに、この「知恵」「悟り」は、オフエルの金にまさるものなのです。

聖書が、終末の私達に対しても、実はこの「悟り」について述べていることを知らなければなりません。

終末の日にもこのイエスの時代と同じように一体何が真実、真理なのか、何が惑わしなのか、誰にきいても、はっきりしない、いえ多くの宗教(教会)や聖書の専門家が間違える時がきます。いいえ、今、私達の目の前にすでにその時は来ているのです。

ある人々は、あの大きなペンサコーラ、トロントのリバイバルは「獣のリバイバル」だといいます。
そんな途方もないことが本当なのでしょうか。教会のどまんなかでそんなことがありえるのでしょうか?
このことを理解するのに、私達は「悟り」が必要です。どちらが、正しい、正しく無いといっているのでなく、正しく判断するために「神からの悟り」が必要だといっているのです。

またキャサリンクールマンは魔女だとある人々はいいます。そんなとほうもないことがありえるでしょうか?しかし、もしかするとこれはあり得るかもしれません。どちらが、正しいのでしょう。そうです、それらを正しく理解するために私達は「悟り」が必要なのです。

また、ある説によれば、現在、ユタヤ人と呼ばれる人々の90%以上は、人種的にアブラハムの子孫(彼はセム、黄色人種)でも何でもなく、全然関係ない種族のカザール人種、すなわち、白人種の一族だということです。そんな途方もない、「間違え」がありえるでしょうか?
それが本当だったらみなひっくり返ってしまうのではないでしょうか。
しかし、ユタヤ人アーサーケストラーの「13氏族」という本を読むと、確かにこれは、歴史上の事実のようにも見えます。そういえば、キッシンジャーやら マルクスやら アインシュタインやら、よく知られているいわゆるユタヤ人は、誰も彼もどうみても「セム族」(黄色人種)というより、「白人」です。
一体これは本当の話なのでしょうか。それとも単なるデマなのでしょうか。
これを悟るために、「知恵、悟り」が必要になるのです。
 

やさしい小学1年生に出すような1+2=?などという質問に答えるのに、特別な理解力や優秀な頭脳は必要ありません。しかし、いざ難問が来た時、たとえば、東大の入学試験を解いたりする時、私達は、
明せきな理解力(悟り)を必要とします。

全ての人が東大の試験を受けるわけではないでしょうが、しかし、終末の難問は全ての人に等しくやってきます。だからこそ、「荒らすに憎むべき者」に関連して、「読者よ悟れ(理解しろ)」と語られているのです。

私達がこのことに気付くかどうかは別として、終末の日は確かに「難問の日」です。
そして、かつてのイエスの時代に、「ナザレのイエス」という難問を理解、「悟った」人々が、
命と祝福を得たように、終末の日もこの終末の難問を悟る、理解する人々に命が与えられるのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー