No.320 モーセとエジプト

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ヨハネの黙示録 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”
 

本日は、エジプトとモーセという題で、メッセージしていきたいと思います。
黙示録には、裁かれるべき、都、教会について、「エジプトと呼ばれる大きな都」と述べています。
それで、私達は、聖書で書かれているエジプトとは、裁かれる対象であることが理解できます。
このエジプトとはどのようなことがらをさすのでしょう。
本日はそのことを見ていきたいと思うのです。

聖書の中で、アブラハムは多くの国民の父と呼ばれています。ですから、逆に考えると、ある意味、聖書のどの国民、国もその源、先祖はアブラハムといえるかもしれません。
イスラエル民族はもちろん、エドム、そして、バビロン、エジプト等の国民や、国もその先祖は、
アブラハムといえるかもしれません。
もちろん、私は歴史的な事実をいっているのではありません。
そうではなく、聖書でいう「定義」に関して語っているのです。

聖書は当然ながら、人の書ではなく、神が書かれた書です。そして、この書には、神ならではの、
記述方法、表現方法、定義というものがあります。
ですから、私達が、この書を書かれた方の意図にそって、聖書を読まないと、理解できないこと、
誤解してしまうことがたくさんあるのです。

聖書はこの書に出てくる、多くの国、国民と関連して、アブラハムを多くの国民の父と述べました。
裏返すと、聖書に出てくるどんな国も、国民もアブラハムと関係があるのです。
アブラハムはロマ書によれば、今の時代のクリスチャンの父でもあります。
ですから、クリスチャンと関係があるのです。

すなわち、聖書の中で記されているエジプト、バビロン等の異邦の国と思われる国も実は、クリスチャン、教会のある種類の民をさすことばなのです。

エジプトとは、どのようなクリスチャンを示すことばなのでしょうか?
それを見ていきたいと思います。エジプトということばの意味は、「攻囲された」という意味です。
何に「攻囲される」のでしょう?恐らく、この世ではないかと思います。
ですから、エジプトとは、この世に「攻囲され」てしまった、神の民をさすのではないかと
思います。
とりあえず、そのような理解で聖書を見ていきましょう。
もし違っているなら、主はそれをも教えて下さるでしょう。

「エジプト」ということばがあらわされている聖書箇所を見ていきます。

使徒の働き 7:22 モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。”

エジプトと関係ある人の一人は何といってもモーセです。
モーセとは「引き出す」という意味の名前です。「引き出す」とは、もちろん、エジプトから、
神の民を引き出すという意味あいがあるのです。モーセは偉大な人物であり、有名な人物ですが、
彼の働きの大きな部分は、その名の通り、神の民をエジプトから「引き出す」ことにあることが、
わかります。

このこと、「エジプトから引き出されること」が神の民、特に終末の神の民にとって、大きく意味のあることがわかります。エジプトから、引き出される、この世のあらゆる影響、罪から、「引き出される」、
このことが肝心なのです。

テレビ、映画、アニメ、漫画、週刊誌などに毒され、すっかりこの世に浸った神の民は、エジプト人
と呼ばれ、終末の日に神の裁きの対象になることを覚えましょう。

テレビ、映画のことまでいえば、「律法的なクリスチャンではいけない」「救いは行いによるのではない」などとわかったようなことを言い出す人がいることは知っています。
ただ、聞いても聞かなくても、「いうべきことを言うように」私はいわれているのです。

さて、「 モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ」ていました。この世のあらゆる学問を教え込まれた人物なのです。今でいえば、言語学、神学、法律、コンピュータ等あらゆる学びにひいでた
クリスチャンというところでしょうか。

さらに彼は、「ことばにもわざにも力が」あったのです。話せば、流暢、説得力ある語りのできる人物だし、また「わざ」、すなわち、奉仕にもひいでたクリスチャンなのです。今でいえば、個人伝道なんかも率先して、
できる人物ということでしょうか。

今の教会でもこんな人がいれば、すぐ有能な奉仕者ということで、どんどん用いられるように
なるところです。彼には人間の目から見ると、何も問題がないようですが、しかし、神の前にはあります。
それは、彼の学び、方法、経歴が「エジプト」のものだということです。
彼は、「エジプト人」のあらゆる学問を教え込まれていたのです。この世の学びをしていたのです。
そして、それを教会に持ち込もうとしていたのです。
その結果、彼の奉仕、働きはみじめな失敗に終わってしまいました。

”使徒7:23-28
四十歳になったころ、モーセはその兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました。
そして、同胞のひとりが虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち倒して、乱暴されているその人の仕返しをしました。
彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。
翌日彼は、兄弟たちが争っているところに現われ、和解させようとして、『あなたがたは、兄弟なのだ。それなのにどうしてお互いに傷つけ合っているのか。』と言いました。
すると、隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけてこう言いました。『だれがあなたを、私たちの支配者や裁判官にしたのか。
きのうエジプト人を殺したように、私も殺す気か。』”

「彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思って」いたのですが、彼らは理解しませんでした。

ここで書かれている「自分の手」ということばは暗示的です。この世の方法を教会に持ち込む人々は、
よく「自分の手」でと思うからです。

このように兄弟により、指摘された彼、モーセは荒野へ逃げていきました。これは、何でしょうか。
失敗であり、みじめな失敗です。全てのイスラエル人のリーダーどころか、ほんの
2、3人の仲裁もままならない、誰も認めてくれないみじめな失敗に終わったのです。

これはモーセだけの問題ではなく、この世の学問や方法を教会に持ち込む全ての人々への警告、教訓であることを知らなければなりません。

彼の動機、志に問題があるわけではありません。神の民は、確かに救いを必要としていたのです。
しかし、彼の方法、この世の学問や、方法を持ち出して、救おうとすることは、ただただ、実を結ばない徒労に終わったことをしっかりと覚えておいて下さい。

その後、エジプトを去ったモーセは荒野での40年を経て、全く別の人のようになりました。
かつて、「ことばにもわざにも力のあった」彼は全く変えられ、出4:10「私はことばの人ではありません」というようになったのです。そして、興味深いことは、その時、彼は用いられたのです。
以下のように書かれています。

使徒7:35『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。

ですから、全ての神の子は知らなければなりません。神は、エジプト、この世の学問や、能力には、
何の興味ももたれず、栄光を与えようともしておられないのです。
全ての、エジプト、この世の学問、方法、能力を教会に持ち込み、用いようとする人々は、等しく、
モーセのように恥を見ることを覚えて下さい。

しかし、モーセのように、私たちが自分の弁説、能力に頼らず、「私はことばの人ではありません」と
言うようになる時、神はそれらの「弱い人」を通して栄光をあらわされるでしょう。
「我進んで、我が弱きを誇らん。そは、我弱き時、強ければなり」とパウロがいった通りです。

主エジプト5:17 パロは言った。「おまえたちはなまけ者だ。なまけ者なのだ。だから『私たちの主にいけにえをささげに行かせてください。』と言っているのだ。
18 さあ、すぐに行って働け。わらは与えないが、おまえたちは割り当てどおりれんがを納めるのだ。」

この世の王、パロはエジプトを出ようとする神の民に対して、「おまえたちはなまけ者だ」「さあ、すぐに行って働け。」と語っています。
ですから、この世の方法の一つは、働き、人の手のわざでしょうか。
しかし、私達に必要なのは、安息、すなわち、神に働いていただくことです。

”ヘブル人への手紙 11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼(モーセ)は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

さて、ここで、モーセがエジプトの宝、すなわち、この世の宝よりも「キリストのゆえに受けるそしりを」富としたということが書かれています。

エジプトの富、この世の富とは、具体的にどのようなものなのでしょう?
以下のパウロのことばは、このことの理解を我々に与えます。

”ピリピ3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。”

上記は、エジプト、この世の富を具体的に語っている箇所に思えます。
すなわち、「人間的によりたのめるもの」のことです。
それは、たとえば、血筋、血統、出自です。(イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人)
また、奉仕、行い、人間的な熱心さです。

しかし、これらは皆、エジプト、この世のもの、人間的なものに過ぎず、永遠に至りません。
以下のようにパウロはいっています。

”ピリピ3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。”

ですから、エジプト、この世のことがらは、キリストの前に意味のあることがらとは異なることなのだと
いうことをとらえて下さい。
 

”ヘブル人への手紙 11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。”

私たちは、エジプト、この世についた教会から出ることを勧められています。

”使徒の働き 7:34 わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。』”

この世についた神の民には、楽しいことがあるようですが、実際は、
苦難、うめきがあります。
彼らは偽物をもっては神の道を歩めないことに気付き、苦しみます。
そして、主は、かつてエジプトで苦しむ神の民をモーセを通して、救ったように、終末の日にも、
このモーセ、神の民を「引き出す(モーセ)」働きがあることを覚えて下さい。
それが、黙示録に「モーセの歌」について記されているゆえんです。(黙示録15:3)
この日、イスラエルという名前で呼ばれる、神につく民、この世にはつかない民は引き出されるでしょう。
しかし、逆にエジプト人と呼ばれる、この世に全くついてしまった神の民には、多くのわざわいと
しるしがおきます。

以下のように記されているとおりです。


ヘブル人への手紙 11:29 信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。”

終末における主のみこころを行いましょう。

-以上-