「音楽と空間」一柳 慧


音楽への今日的アプローチ 特別講義

「音楽と空間」 一柳 慧

1999年6月22日 慶應義塾大学「音楽1」特別講義(伊東)

今日は音楽と空間についてお話したいとおもいます。今日、音楽を考える上で空間という問題設定はとても大事なもの、大問題だと思っています。そのまえに、まず現代という時代について少し考えてみましょう。

現代はものすごいスピードで動いています。皆さんがよく聴かれ、この教室でも話題になったというテクノとかインターネットとかも含めて、私たちは電子メディアに囲まれて生活しており、いまやそれがないと生活が成り立たないほどになっていますし、それが先端を行くものだとも思われています。

しかし、現代の特徴は 何が新しく何が古いかが判らないという状況でもある、ということができるでしょう。これは、新しいということを考える上で、古いものも考えて行かないと成り立たないと言っても良いでしょう。

例えば今の農業を考えてみます。昔と違って、最近は化学肥料なんかをつかって綺麗な野菜がつくられます。これは新しい傾向でもあるわけですが、これらの使用によって、土地が痩せてしまう、ということも何年かする内にわかってきて、今度は昔ながらの有機農法、無農薬でつくるもののほうが、これからの時代に適しているのではないか、と考えられるようになってきました。

医学なんかでも考えても、一面、最近はほとんど人間がサイボーグ化するくらいに進歩しているもいるようですが、西洋医学というのは病気の部分、悪いところだけみて、身体全体を見ないという傾向があります。分析的な形で身体や病気を見るわけです。悪いところだけはみるが、身体全体としては見ない、だから、癌なんかで見てみると、一度手術をして癌細胞を取っても、身体全体としてはぜんぜん変わっていないことになって、完治しないというようなことが起こります。これに対して 漢方なんかでは、身体全体を慰撫してゆくことで、直して行くという発想を取ります。全体を見ながら問題に対処してゆこうというわけです。

さて、芸術とか音楽というものも、まったく同じように考えることができます。いままでは先に進むために、いろいろなものを切り捨ててきたわけですが、昔のものをいかに受け継いで、いいものを見直しながら、しかも新しいものと結びつけて見直すことができるか、というのが、今の音楽の大事な問題になっていると思います。

さて、そろそろ本題の「音楽と空間」という話題に入りましょう。ヨーロッパ、特に近代の西欧では、音楽、絵画、建築といった芸術は大きくわけて二つに分類することが可能になります。それは時間芸術と空間芸術という二分法です。

時間芸術とは、音楽、舞踊、演劇といった、主にパフォーマンス系の芸術で、時間の経過が重要なものとして芸術の構造に関わってくるものを指すとされています。ここでは、時間的な筋書きがあって、一つの構造が出来上がってくるのが特徴といえるでしょう。

これに対して空間芸術とは、一瞬にして全体が見渡させる様な芸術、絵画、建築、庭園あるいは彫刻などを指していて、ここでは時間というものは介在していない、と考えられています。確かに見渡せば一瞬のうちに全体を見渡すことができるため 芸術作品の構成の上で時間性は希薄だということができるでしょう。

しかし、このような二元論、つまり、物事を二つに対比させる考え方は、現代にあっては限界に来ているのです。つまり、これまで空間芸術と考えられていたものも時間があるし、時間芸術も空間というものを考えねばならないところに立ち至っているわけです。

具体的に考えてみましょう。空間芸術の例として建築や彫刻を挙げましたたが、当然年月が立てば建築は変質し、あるいは老朽化して壊れたりします。これは、庭園などの場合はもっと顕著で、春とか新緑のころは庭園は緑に覆われていますが、秋になれば紅葉など変色して時間の推移がありますし、冬になれば雪が降って全部真っ白になってしまいます。空間芸術も時間の推移によって変化してくる訳です。

このような事例を見ると、いままでの「時間」「空間」という枠の中では考えづらいことが明白でしょう。むしろ両方ひっくるめた意味で考え直さなければならないと私には思われるのです。

さて、時間芸術とされる音楽にに空間性を明確に導入した作曲家がいます。第二次大戦後のドイツの作曲家、カールハインツ・シュトックハウゼン Karlheinz STOCKHAUSEN(1928ー)がその人です。彼は1950年代、音の位置とか運動性といったものを考慮することで、音にも空間性を考慮した最初の作曲家でした。

現代の音楽と空間の関係を考えるとき、電子音楽が果たした役割が非常に大きいといえます。1952年シュトックハウゼンは、先生のアイメルトと一緒に電子的な音響装置を使った音楽を作り始め、そこで空間の問題を考えたのです。音の位置とか運動性などの関わりで言うと、1950年代の電子音楽は密接な関わりがあります。

シュトックハウゼンの「空間性」とは、今日では当たり前のことになっているものばかりですが、例えば4chで、4個のスピーカーを部屋の四隅において、真ん中に座った人がその動きを聴く、あるいはマルチチャネルで壁面から天井いっぱいにスピーカーを張り巡らして 位置の変化や運動の方向性などを作る、というようなことです。立体的な音体験というものがエレクトロニクスの発展によってできるようになってきたわけです。

次ぎにシュトックハウゼンは、電子音楽のみならず、オーケストラや室内楽など、楽器で弾く音楽にもその考え方を応用しました。「グルッペンGruppen」という作品では3群のオケがお客さんを囲むように配置されます。さらにもう一つ4つのオーケストラと4つの合唱による「カレCarre」でもさらにその考え方を発展させました。

これは一つの例だに過ぎませんが、この時代以後、時間芸術に空間を応用した作曲家が出てきたりもしたのです。

さて、今のシュトックハウゼンの例では運動性などを電子音響によって、あるいはオーケストラや声によって実現しようとしたわけですが、このような空間の扱い方は空間を「物理的」あるいは「技術的」に扱っている、ということが出来るでしょう。つまり、すでに発せられた音に対して、それをどう空間的に扱うか、ということで、音楽そのものの内容とはまだ関わって居なかったわけです。

私は、シュトックハウゼンのように、すでに発音された音や音楽を空間的にどう処理するかも重要ですが、音楽の内容として、近代ヨーロッパが時間芸術として捉えてきた音楽を、内容的な意味でもどのように空間芸術として捉えられるか、を考えたいと思うのです。

皆さんは過去に、あるいは現在も、京都あたりの日本庭園に行ったことがあるでしょう。 日本庭園には回遊式の庭園というものがあります。これは、ベルサイユ宮殿の庭園のように全体を見渡せるのではないような庭で、最も有名なところでは桂離宮や西芳寺の庭園などがあります。

例えば桂離宮の回遊式庭園は入り口から入ると、小さな道があって、それを昇ったり下がったりしながら庭園を見て行くわけです。道の回りには木が茂っていったりして、庭園の全体を見渡せるところというのがありません。常に一部一部、違う場所を見ながら歩いて行くわけです。部分しか見えない、全体は回遊式の庭園では見れないのです。

実は、桂離宮では一箇所だけ道の途中に全庭園が見渡せる場所がつくってあると言われているのですが、私はそれがどこなのかは知りません。ともかく、歩いて小さな道を上がったり下がったりしながら見て行くということは、庭園そのものは入れものであり場所であり、空間そのものであるけれど、その空間の中を人間が回遊式の庭園を歩きながらめぐる、人間が歩くという行為を通じて時間というものが介在し、そのことによって時間と空間が一体化している、ということになるでしょう。

ベルサイユ宮殿の庭園では、庭園の入り口に立っても、丁度一枚の絵を見るように 全体が見えてしまうのです。しかし、日本の庭園はそれに時間をかけて歩いてみることによって見られるわけです。

このように、建築とか庭園というものが空間芸術として定義されるのではなくて、日本の場合は空間と時間とがお互いに浸透しあっている。この場合、どちらが時間でどちらが空間ということは分け隔てられていない。これが日本の伝統のユニークなところだと言えるでしょう。

庭園以外の例を考えてみても、例えば日本の屏風絵、屏風では、一方には太陽が出ているが裏には月がでている、あるいは一方には春の景色があるのに、他方には冬の季節がかかれているというのは、極めて当たり前のことです。一枚の絵の中に時間的な変化が織り込まれているのです。

もっとも典型的な日本の、時間を取り込んだ絵として絵巻物を挙げることができるでしょう。これは話の展開に添って絵が変化してゆくわけです。話の内容という形で、時間と空間の要素が双方とも入っていることになります。

これは、さっきのシュトックハウゼンのような、物理的あるいは技術的な水準で空間を捉えるというのではなく、絵の内容、音楽の内容、庭園の内容によって、時間および空間というものを意識して構造の中に取り込んでいることになります。この事に、私はとても興味があるのです。

そのような音楽の一つとして、私の作品から例を挙げてみましょう。まずピアノだけでデモンストレーションしてみたいと思います。

私の作品「シーンズ 2番(Scenes ◆。隠坑沓) 」では、丁度さっきの話で、庭園のような空間的な役割をピアノが果たしており、そこに導入される時間的な役割をヴァイオリンが果たしています。ちなみに、この作品必ずしも庭園をイメージして作ったわけではないのではありますが・・・

さて、ここではどうやって これまで時間的な芸術として考えられてきていた音楽で「時間性」を消して行くかが重要になってきます。

ポップスでもそうですが、調性の音楽には「ドレミファソラシド」という音階の中に、階級制度のようなものが存在しています。まず大事なのはドの音で次ぎに大事なのは5度上のソの音で、次ぎに大事なのはその下のファの音である、という具合に。ポップスに関しても これらの音の力関係が音楽の推進力になっていて、始めはドからはじまったものが、いろいろな展開を経て、ドで始まったものは最後はまたドで終わるというような推進力、あるいは時間の経過 ストーリーのようなものが発生してくるわけです。

これが、近代になって ワーグナーとかマーラーとか シェーンベルクなどの音楽になってくると、調性音楽的な意味での時間の要素が、どんどんなくなってゆきます。これが、1950年ごろにはゼロになるわけです。シュトックハウゼンの音楽はその一つといえるでしょう。

これは、昔の社会のあり方の一つの投影、例えば王様がいたり貴族がいたりする、つまり階級があって、そのことが音楽にも反映されていることと重なり合っているとおもいます。それが近年になって市民社会が興隆してくると、ヒエラルヒーが必要なくなり、そうなると、音楽に時間を発生させていたヒエラルヒーが消滅してくる、そうなると、また新たな時間を求めるようになるわけです。が、確かなことは、昔あったような「時間」というものがなくなって行き、そこに空間というものが関わってくる時間が発生してくるというわけです。

(ピアノ演奏 シーンズ2 ピアノパート)

ピアノがある種の場を作っている。 ピアノだけで聴くとこのように単純ですが、 これにヴァイオリンが入ってくることで空間としての音の場に時間が導入されることになります。

(CD シーンズ2 ヴァイオリンとピアノによる演奏)

さて、ここからの話は現代の話というか、現実的な話で、これにはそこに座っているこのクラスの伊東先生も関係された話題になります。

先ほどシュトックハウゼンなどの話もしましたが、例えばシュトックハウゼンも使ったような、聴衆を取り囲むような、あるいはマルチチャンネルで、多方向から音が聞こえてくるような音楽を聴くためには、今あるようなホールでは非常に使い勝手がわるいのです。

日本は雨後の筍のようにバブル期に計画された新しいホールが全国にたくさん建てられました。欧米の人が日本にくると、あまりに日本のホールが綺麗で、かつ豪華だというので驚くのですが、(殆どの人が来てお金をもらって演奏するのだからひどいということはあまり大声では言わないのですが)決まって「ホールが古い」と言って帰って行きます。これは、『現代に設計されているにも関わらずこのホールは古いタイプのホールだ』という意味です。例えばこういうホールでは3つのオーケストラを使って聴衆を真ん中に置くというようなことはできないわけです。

今の日本の有名なホールはほぼ100年前の欧米のホールをモデルにして作っています。もちろん、機能的には大いに改善されているが、形態としては100年ほど前のものをモデルにしていて、大きくわけて「シューボックス」型、及び「ワインヤード」型とよばれるの二つのタイプに大別出来ます。これらは、ウイーンのムジークフェライン、ニューヨークのカーネギーホール、あるいはパリのシャンゼリゼ劇場といったホールがお手本になっているわけです。

私は、これは冗談ではなく思うのですが、2,30年もすると、こんなホールは博物館、あるいは廃墟になってしまうこともあり得ると思うのです。

というのも、これらは100年まえには、音楽の内容と関わって出来てきたものでしたが、これからの音楽、あるいは今の音楽、これからの人にとって、本当に必要とされるホールかというと、どうだかわからないと思われるからです。

そんな中で、去年 、やっと二つ、現代のホールと呼べるものができました。一つは山口県秋吉台の国際文化村のホールで、設計者は建築家の磯崎 新さんです。ここで音楽祭がずっと行われてきて、このホールは去年、イタリアの、先年なくなった作曲家ルイジ・ノーノの「プロメテオ」を上演するための劇場として建てられたものです。「プロメテオ」はイタリアではレンゾ・ピアノという建築家が、日本では磯崎新がそのための空間を設計したわけです。この作品は、高さのレヴェルの違うステージが三つ張り出していて、聴衆はステージの合間に座って聴くような形になります。

この秋吉台に作られたホールと、もう一つ、新潟にできた、建築家の長谷川逸子さんが設計した新潟市民芸術文化会館が、伊東先生もかかわられた二番目のホールです。ここで去年の10月、なくなったアメリカの作曲家で、私の師でもあるジョン・ケージの遺作「オーシャン」の初演を、マース・カニングハム舞踊団が行いました。ここは秋吉台のホールとは全く異なったものですが、円形劇場の仕組みになっています。一番下のところでダンサーが踊るのですが、その回りを階段状に客席が取り囲んでいて、さらに上に回廊があり、そのときはそこに112人のオーケストラが配置され、さらにその後ろに電子音響を流すスピーカーが設置されました。つまり4重の円形構造になっているわけです。聴衆は目の前にある舞踊を見ながら、しかも音は上の方から360度取り囲むように降り注いでくる音を聴取することになります。詳しいことはまた、このときオーケストラの音楽監督をされた伊東先生から後日お話があるかと思いますので、ここでは省略します。が、大事なことは「お客と舞台が対置関係にない」こと、言い換えれば「中心、センターがない」ということです。

ここでは、オーケストラは、指揮者に代表されるような舞台全体を仕切る存在に支配されてその結果仕切られたものがお客の方にもくる、という道筋をとりません。 指揮者が100人からのオケを仕切ってどうこうするという19世紀的なあり方ではなく、音楽家一人一人が自由に演奏する、一点中心主義といったような考え方を なるべく排除されるような劇場、ということになるでしょう。そういうものが、やっと日本にも去年、。山口と新潟に、はからずしもできたということになります。

でも、これは考えてみると、近代以前の昔のヨーロッパの教会などでは、普通のことだったかもしれません。というのは、キリスト教の教会音楽でも、音楽は決して祭壇の方から聞こえてきたりしないのです。コーラスは後ろのほうから聞こえたりするし、教会は残響が長いので、いろいろな場所から音が響きます。これはまた、昔の日本の寺院でもそうで、お坊さんが声明を唱えたりするのは、決してお客さんと対立しない演奏のスタイルととても良く似ています。

では最後に、そのような空間と時間の問題に関係して作曲した、私の「交響曲第五番 TIME PERSPERCTIVEハ,猟鐺鶻攵呂ら聴いていただきましょう

(CD 「交響曲第5番 弟二楽章から)

質疑応答はありませんか?

小野原君

Q いま先生の交響曲を伺ったわけですが、交響曲というのはソナタ形式の主楽章をもつ4楽章からなるのが基本となると思います。 先生が新たな考え方から交響曲を創作されるとき、それをどうやって交響曲と定義できるのでしょうか。

→A 私は狭義の「交響曲」の形式ではなくもっと本質的な意味で、音の構築の全体として「交響」ということを考えたいのです。形式的に規範的なものではない、別の交響曲の形を提出したいと思うのです。

舟田君

Q 先生は先ほど、日本の絵画は西欧の絵画と異なるというお話をされたと思うのですが、西欧にも宗教絵画などで時間と空間が混ざったようなものが、特に神のようなものが介在するとき、存在すると思います。これについてはどうでしょうか。

→A これは良い質問だと思います。近代のヨーロッパの認識ができるまえ 中世やルネサンスのころの絵画では、日常的な時間というより、宗教画のもつ時間、別の時間と空間があり、これは先ほどの近代的な時間や空間とはやや違います。良い指摘だと思います。日本の場合はでの西欧のルネサンスなどを経ていないので、そのような変化が歴史上にないことになるのでしょう。

Q 音のヒエラルキーをなくしても聴く人のなかにはあるのではないでしょうか。

→A それはその通りで、これは記憶の問題とかかわります。私の作品にも記憶と関係するものがたくさんあります。記憶があってその中で新たな音の秩序化が生まれるのだとおもいます。

Q ヒエラルキーがなくなることですべての音を使って新たな秩序をつくらなければならないと思いますが、そこで生まれる新たなヒエラルキーにはどんなものがあるのでしょうか。

→A それについて、いままでも、今日も、多くのが努力しているわけです。過去のヒエラルキーが通用しなくなった現在に、どのようなヒエラルキーが合うのか、現在も模索されている問題です。

松本君

Q 僕は、音楽とは、直感的に楽しめるものだと思うのですが、というのは、音楽は「音を楽しむ」とかいて音楽だと思うのですが、どうでしょうか。

→A それはその通りで、音だけを聴いてどのようにそれを豊かな経験にしてゆけるかが大切なのだと思います。

伊東

先ほど「シーンズ2」のピアノパートには「時間がない」というお話がありましたが、実際には演奏しているのに「時間がない」というので、釈然としない人がいるのではないかとおもうのだけれど、そういう人挙手シテもらえますか?

(4割方、挙手)

これは、こういう風に考えて見ると僕は良いと思うのだけれど、時間にしても空間にしても、それを知覚する人間の身体があって、そこで感じ取られるわけですよね。ということで、時間を引き受ける身体、あるいは空間を引き受ける身体、という風にえるなら、ピアノの、単純なパターンを繰り返す音楽には、時間の進行感がない、つまり、進んで行く時間を身体に感じさせる要素がない、という意味で、むしろあるスタティックな、つまり静的な「場」の感覚に近いのではないか。逆に、ヴァイオリンのパートは時間の進行を感じさせる要素によって出来ている。そういう意味で「時間」あるいは「空間」という捉え方は「時間感を引き受ける身体」「空間感を引き受ける身体」と考えるべきで、同時に同一の身体に、そのような複数の感覚がemergent になる、「創発する」というわけですが、そんな風に考えると、「空間と時間が互いに浸潤しあう日本の特質」というものを、身体という共通の地盤から、新たに捉え直すことが出来るのではないだろうか。また、その様に考えれば、毎週の講義の話とも無理なく繋がるのではないか、と思いました。

本日は、一柳さん本当に貴重なお話をありがとうございました。

(拍手) 

(文責伊東、1999年6月24日)

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